OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

73.伝統的なヴィパサナの危険性

<OSHOの講話より> 

質問:過去5年間、私はS・N・ゴエンカの教えに従って、ダルマギリで、何週間も世間から隔離されて、ヴィパサナを行っていました。あれほどの苦痛と疑念に苛まれた経験は、一度もありませんでした。 

現在、私は非常に意気消沈して疲れ、自分のハートと繋がりたい、という深い願望を抱いています。瞑想に対する興味は、薄れてしまいました。 

愛する和尚、この種の瞑想の修行は、必要でしょうか?それは助けになりますか?また気づきと祝祭だけで、マインドの深みを透徹し、その最も暗い夜を消し去ることが出来ますか? 


ヴィパサナ瞑想は、ゴータマ・ブッダによって考案された。そして25世紀にわたって、仏教徒達は、自分自身を痛めつけている。 

この瞑想は、ゴータマ・ブッダのような人間にとっては、完璧だった。常に、憶えておきなさい。全ては、ある意味で相互に関連し、依存し合っている。ゴータマ・ブッダと同じ体験が得られる確証がなければ、私はあなたに、ヴィパサナをやりなさい、とは言わない。 

だが哀れなゴエンカには、それが理解出来ない。彼は、ただのビジネスマンだ。ヴィパサナがどのようにして考案されたかについて、彼は一体、何を理解しているだろうか? 

ゴータマ・ブッダは、美しい女性に囲まれ、立派な宮殿の中で、この上もない贅沢な暮しをしていた。祭りは、夜明けまで続けられた。昼間は休む為にあり、夜はダンスと酒宴の為にあった。 

このような日々に、ブッダは疲れてしまった・・・彼は、権力と富を手にした者が、当時、見ることの出来る全てのものを見たが、平安、充足、沈黙を見い出すことは、出来なかった。自らを発見することは、出来なかった。 

ある夜ブッダは、全くの欲求不満の内に、宮殿を後にした。なぜなら、人生は数日後、または数年後に、終わってしまうからだ。人生は、しがみつくに値するようなものではない。 

刻一刻と、死が近づいている。死があなたをつかむ前に、何か永遠なるもの、不滅なるものを、発見する必要がある。 

ゴータマ・ブッダの真理、自己、永遠なる生命の源泉への探究は、一切れのパンを求めている、飢えた貧しい人の探究とは違っていた。 

だが人々は、ゴータマ・ブッダのことを、完全に忘れてしまった。人々はゴータマ・ブッダの瞑想法だけを、取り出してしまった。 

ブッダにとって、世間で考慮するに値するもの、欲望を抱かせるもの、野望を抱かせるものは、もはや何も残っていなかったから、瞑想することが出来た。 

自分の家を後にした時、ある意味で、ゴータマ・ブッダにとって世間は終わっていた。彼は、二度と振り返ることがなかった。 

ゴータマ・ブッダは、外面に対する全ての興味を失っていたから、欲望も雑念もなく静かに坐って、内側に向かうことが出来た。 

ゴータマ・ブッダには、人生を体験してその無意味さを理解する、大いなる機会に恵まれていた。これによって、彼は内側を乱されることなく、深い沈黙の内に坐る機会を、得ることが出来た。ヴィパサナは、そのような瞬間に確立された。 

私が、ここでやっていることは、ヴィパサナのような瞑想法を、直接、あなたに与えることではない。ここは、苦行者の為の場所ではない・・・人々は、全てを楽しんでいる。 

私は、あなた方が全てを楽しみ、そして、その無意味さを感得してもらいたい。私は、あなた方が何度も光明を得ては、それを失うのを見ていたい。いつの日か、あなたは疲れ果てて「もうおしまいだ!」と言うのを、私は知っている。 

さもなければ、目を閉じて坐っていても、美しい女性があなたを追い回すだけだ。これこそが長年にわたって、瞑想者が体験して来たことだ。 

奇妙ではないか。瞑想を始めると、突然、どこからともなく、絶世の美女が姿を現わし始める。目を開いても、誰もいない。しかも、女性だけではない。 

金を知り尽くしていなければ、金についての想念・・・権力を知り尽くしていなければ、権力についての想念・・・有名人になることの意味を知り尽くしていなければ、有名になりたいという欲望・・・そしてマインドは、千とひとつの想念や欲望を紡ぎ続ける。 

自らの体験を通して、快楽が快楽ではなく、単に無知のままに留め、繋ぎ止めておく為の玩具に過ぎない、ということに気づかない限り・・・一度、自分自身の体験を通して理解すれば・・・自分自身の体験でなければならないことが、最も根本的なことだ・・・ 

憶えておきなさい。その時、ヴィパサナは、もっとも簡単な瞑想になる。それを学ぶ為に、ビジネスマンのところに行く必要はない。ゴエンカのような人々は、幼稚園の教師だ・・・議論の余地もない。彼らは、瞑想の複雑さを理解していない。 

ヴィパサナは、最後に位置している。ヴィパサナから始めることは出来ない。ヴィパサナから始めれば、あなたが言っているように、魂の暗い夜を通過しなければならない。しかも、どこにも夜明けは見つからない。暗い夜は、さらに長く暗くなる。 

それは、単純な心理学だ。あなたはまだ、準備が出来ていない。宿題は終わっていない。にもかかわらずあなたは、膨大な体験が前提として必要な作業を、始めてしまった。 

過激な人生を歩んで来た者は、ヴィパサナを始める他はない・・・だが、それは人生の夕暮れにだ。彼は、昼を通過した。それは美しかったが、はかなかった。昼は過ぎ去った。そしてそこから、一度訪れたら二度と去ることのないものへの、探究が始まる・・・ 

さらにヴィパサナは、努力ではない。それは、単純な体験だ。人生の過激な昼間の後に、全ての無意味さを感得した時・・・あなたは、見る他はない。他人の目を通して、見ることは出来ない。その無意味さを、自らの目を通して、見ることが必要だ。 

そうすれば、何の問題がある?静かに坐れば、自分自身・・・自らの内なる中心に、落ち着いてゆくだろう。 

ここには、非常に多くの瞑想法が、用意されている。だが私は、ヴィパサナを一番最後に置いている。まず、他のあらゆる種類の体験を通過し、自らを浄化し、ヴィパサナに入る準備を整えるがいい。 

人はすぐに、楽園に飛び込もうとするものだ。自分がどこに立っているかも、そこから飛び込んだら複雑骨折をすることも、分かろうとはしない。 

人は、踏み台まで進まなければならない。しかも一歩一歩、意識的に注意深く進まなければならない。それは、巡礼の旅だ。 

だが、そのような体験は、非常に有益だった。あなたには、それが必要だった。今ならば、あなたはよりよく、私の瞑想法のあり方を、理解することが出来るだろう。 

あなたは、「瞑想に対する私の興味は、薄れてしまいました」と言っている。瞑想に対する興味ではなく、ダルマギリに対する興味が、薄れてゆくべきだ。 

だが、その記憶はまだ鮮烈だ・・・傷口は開いている。しばらく待っているだけで、あなたは数日後には、ここでヴィパサナを始めているだろう。 

だが、ここでのヴィパサナは、豊潤な体験だ。殺伐としたものではない。私には、仏教国で実践されているヴィパサナに対して、反論することがいくつかある。 

彼らはみな、ヴィパサナを、殺伐とした砂漠のようなものにしてしまった。何ひとつ、花開くものはない。いかなる緑も、存在しない。全ては、ビジネス化している。 

私はあなた方に、瞑想を遊びとして、遊び心をもってやって欲しい。あなたにとって瞑想と愛は、同義語であるべきだ。 

そして、それをあなたは訊ねている。あなたは、「私は自分のハートと繋がりたい、という深い願望を抱いています」と言っている。 

S・N・ゴエンカは、あなたをハートから、隔絶してしまった。なぜなら仏教徒の伝統に、ハートの占める場所はないからだ。彼らの実在にいたる道は、非常に殺伐としている。 

私は、砂漠を推奨したりはしない。私は、庭園を推奨する・・・ハートの園だ。その点において、私は深い敬意をもって、ブッダと道を分かつ。 

私は、彼を愛している。が、だからといって、彼が行ったこと全てに、同意しなければならない、という訳ではない。彼の瞑想には、ハートがない。そして、ハートのない瞑想には、全く価値がない。 

私は、笑い、踊ることの出来る瞑想を、望んでいる・・・私は、今まで瞑想の名のもとに説かれて来たもの全てと、完全に異なる瞑想を、ここで教えているのだ。 

OSHO:Hari Om Tat sat, #28 より抜粋