OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

75.西洋と東洋の区別の解体

<OSHOの講話より> 

質問:あなたはご自分のワークを説明するのに「ディプログラミング」(脱条件づけ)というキーワードを使って来ました。ここ数年提案してこられたテクニックは、混沌(カオス)的なアクティブ・メディテーション(動きのある瞑想)から、現代のセラピースクールにまでわたります。 

ヨーガ、スーフィズム、仏教などの何百というテクニックを含む伝統が既にあるにも関わらず、あなたが何故クンダリーニ瞑想やダイナミック瞑想のような新しい瞑想技法を創らなければならなかったのか、短く説明して頂きたいのですが。 

また西洋人が驚くのは、あなたのコミューンであなたがゲシュタルト、プライマル、エンカウンターのようなセラピーを使っていることです。これは本当に必要なのでしょうか?

その疑惑というのは、あなたの秘密の意図が人々のマインドの洗脳に他ならないとしたら、それは彼らが持っている最も貴重なものに抵触する以上、許されないことだと思うのですが。 


太古の瞑想技法は全て、東洋で開発された。彼らは一度も西洋人のことなど考えたことはなかった。西洋人は除外されていた。 

私が創っているテクニックは、東洋人だけの為のものではない。それはまさに万人・・・東洋人あるいは西洋人・・・の為のものだ。 

東洋の伝統と西洋の伝統の間には、違いがある・・・そしてその伝統こそが、マインドを創り出している。 

たとえば、東洋のマインドは非常に忍耐強い・・・何千年にもわたって、いかなる状況をも我慢するようにと教えて来ている。西洋のマインドは、非常に気が短い。その両者に同じ技法を採用することは出来ない。 

東洋人のマインドは、成功しても失敗しても、豊かでも貧しくても、病んでいても健康でも、生きていても死んでいても、一定の静けさを保つように条件づけされて来ている。 

西洋人のマインドには、そのような平静さという観念はない。それはあまりにもかき乱される。それは成功してはかき乱され、世界の頂点にあっても感じ始める・・・ある種の優越感を感じ始める。 

失敗すれば、それはもう一方の極端に進む。第7の地獄に堕ち込む。それは惨めで、深い不安の中におり、途方もない劣等感を感じる。西洋のマインドは引き裂かれている。 

ところが、生はその両方からなっている。美しい瞬間もあれば、醜い瞬間もある。愛している瞬間もあれば、怒りの中に、憎しみの中にいる瞬間もある。西洋人のマインドは、ただ状況と共に揺れ動くだけだ。それは常に混乱している。 

東洋のマインドは学んだ・・・それは条件づけであって革命ではない。トレーニング、訓練、練習であるに過ぎない。表面下では同じなのだが、厚い条件づけが、ある程度のバランスを保つ。 

東洋のマインドが非常に遅いのは、速いことに意味がないからだ。生は自ずから定められた道筋を辿り、全ては運命で決められているのだから、手に入るものは速くしたが故に、急いだが故に手に入るのではない。得られるものは、既に定められていたから得られたのだ。 

だから急いでも仕方がない。何であれ起こるべきことは、いずれにせよ起こる・・・一瞬速くもなく、一瞬遅くもなく。これが東洋に非常に遅い流れを創り出した。その川はほとんど流れていないように見える。それはあまりにも遅く、流れているとは気づかないほどだ。 

さらに東洋の条件づけは、人間が何百万回もの生を既に生きており、またこの先にも無数の生があり、人生は70年ではないということだ。 

人生のスパンは広大かつ膨大だ。急ぐことはない。いくらでも時間は手に入る。なぜ急ぐ必要がある?今生でそれが起きないとしても、いつか別の生で起こるかもしれない。 

西洋人のマインドが非常にスピーディで速いのは、その条件づけが1回の生・・・70年しかないのに、なすべきことがあまりにも多いからだ。人生の3分の1は睡眠に費やされ、3分の1は教育、訓練に費やされる。何が残る?その多くは生計を立てる為に費やされる。 

全てを計算したら驚くだろう。70年の内、自分がしたいことに使えるのは7年しか残っていない。当然急ぐ、狂ったように突進する。あまり急いで、自分がどこに向かっているのかを忘れてしまう。憶えているのは精々、速く進んでいるかどうかだけだ。手段が目的になる。 

同様の意味で、方向は別だが・・・東洋のマインドは、西洋人のマインドとはまた違ったやり方で自らを教化した。 

これらの112の瞑想技法は東洋で開発され、西洋人のことなど勘定に入れていなかった。これらの技法は、西洋人の為に開発されたものではなかった。西洋人はまだいなかった。 

「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ」が書かれた・・・これらの112の技法が完成した・・・時代は、今を去ること五千年から一万年もの昔になる。 

当時は西洋人は存在せず、西洋社会、西洋文化というものはなかった。西洋はまだ野蛮人、原始人であり、考慮には値しなかった。東洋が全世界であり、その成長、豊かさ、文明の絶頂期にあった。 

私の瞑想技法は、絶対の必要性ゆえに開発されたものだ。私は西洋と東洋の区別を解体させたい。  

シヴァの「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ」以来、この五千年から一万年の間、誰ひとり、たったひとつの技法も開発しなかった。 

だが私は、東洋と西洋の違いを見守って来た。同じ技法を、直ちにこの両方に適用することは出来ない。まず東洋のマインドと西洋のマインドを、同じ状態に持って来なくてはならない。 

このダイナミック瞑想やクンダリーニ瞑想、その他の瞑想は、全てカタルシス(浄化)だ。それらの基本はカタルシスだ。 

あなた達は、マインドをいっぱいに占めているそのがらくたを、全て投げ出さなくてはならない。身軽にならない限り、静かに坐ることは出来ない。 

それはちょうど、子供に部屋の片隅で静かに坐っているようにと言うようなものだ。それは非常に難しい。子供はエネルギーに溢れている。あなた達は火山を抑圧している! 

一番いい方法は、まず子供達に「外へ行って家を10回廻って来なさい。それからそこの片隅で坐りなさい」と告げることだ。そうしたら今度は子供が自分から坐りたがり、休みたがるだろう。 

彼はくたびれており、消耗している。今度はそこに坐っていても、自分のエネルギーを抑圧していない。家の周りを10回も走ることで、彼はエネルギーを表現した。今度はもっと寛いでいる。 

カタルシスの技法とは、あなた達の忍耐のなさ、そのスピード、その焦り、その抑圧を全て投げ出すことに過ぎない。 

もうひとつ覚えておくべき要素は、西洋人にとってヴィパサナのような・・・何もせず静かに坐っていれば、草はひとりでに生えてくる・・・ことが出来るようになるには、どうしてもそれが必要だということだ。 

とにかく、黙って何もせずに坐っていなければならない・・・それが草がひとりでに生えてくる為の基本条件だ。何もせずに黙って坐っていられなければ、必ず草の邪魔をすることになる。 

私はいつも庭園を愛して来た。だから自分が住むところには、どこでも美しい庭園、芝生を創って来た。私はよく人々に芝生に坐るように言ったものだが、すると彼らがみんな草を引き抜いているのに気がついた・・・手持ち無沙汰なのだ。 

何もすることがないとなると、彼らはどうしても草を引き抜いてしまう。私は「そんなことを続けるのなら、部屋の中で坐って貰わなければならない。私の芝生を駄目にさせる訳にはいかない」と言わざるを得なかった。 

しばらくはそれを止めたが、私の話を聞き始めると、また無意識の内に彼らの手は草を引き抜き始めたものだ。だから何もせずにじっと坐っていることは、本当はただ黙って坐って何もせずにいることではない。 

それは草の為にはとても役に立っている。あなた達が何もせずにいない限り、草は育つことが出来ない。あなた達はそれを差し止め、それを引き抜き、その邪魔をしてしまう。 

だから、これらの技法は西洋のマインドにとっては、どうしても必要なものだ。だが新しい要素も入って来た。これらの技法は、東洋のマインドにも必要なものになってしまった。 

シヴァがそれを対象にして、これらの112の瞑想技法を書いたマインドはもはやない。今や東洋にすら存在しない。西洋の影響は途方もないものだった。事情は変化してしまった。 

シヴァの時代には西洋文化はなかった。東洋はその栄光の絶頂にあった。それは「黄金の鳥」と呼ばれた。そこにはあらゆる贅沢と快適さがあった。本当に溢れるように豊かだった。 

今や状況は逆転している。東洋は2000年間隷属の下にあり、世界中のほとんどあらゆる者に搾取され、十数カ国に侵略され、絶えず略奪され、陵辱され、焼き尽くされた。東洋は今では乞食だ。 

そしてインドにおける英国支配の300年は、インド固有の教育体系を破壊してしまった・・・それは全く別なものだった。彼らは東洋のマインドを西洋の標準に合わせて教育するように強制した。 

彼らは東洋の知識人を、ほとんど2流の西洋知識人にしてしまった。彼らはスピード、せわしさ、焦り、絶えざる不満、不安、といった自分達の病を東洋に与えた。

 

カジュラホの寺院やコナラクの寺院を見れば、東洋の本当の姿を見ることが出来る。 

カジュラホだけで100の寺院が存在した。30だけが生き延び、70はイスラム教徒によって破壊された。途方もない美しさの何千という寺院と彫刻が、イスラム教徒によって破壊された。 

この30が残ったのだが、それも単なる偶然で、それが森の一部になっていたからだ。もしかしたら侵略者が、そのことを忘れたのかもしれない。 

だがインド人へのイギリスの影響はあまりにも大きく、マハトマ・ガンディーのような人間でさえ、誰の目にも触れないように、その30の寺院を土の中に埋めようと望んだほどだ。 

ちょっと、これらの何百という寺院を創り出した人々のことを考えてみるがいい・・・ひとつひとつの寺院の建設に数世紀を要したに違いない。それらの彫刻はあまりにも繊細で、あまりにも均整がとれて美しく、地上にはあれに比肩するものは存在しない。 

そして寺院が、それだけで存在しないことは想像出来るだろう。100の寺院があったのなら、何千人という人々がいる都市があったに違いない。そうでなかったら、100の寺院に意味はなくなる。その人々はどこにいるのか?あの寺院と一緒に、その人々は殺戮されたのだ。 

そして私があの寺院を例として取り上げたのは、西洋人のマインドには、あの彫刻がポルノグラフィーに見えるからだ。マハトマ・ガンディーにも、それはポルノグラフィーに見えた。 

インドはラビンドラナート・タゴールに、実に多くのものを負っている。彼こそが、それらの寺院を覆って人々の目から隠そうとしていたマハトマ・ガンディーと他の政治家達を、遮った人間だった。 

ラビンドラナート・タゴールは「それは全く愚かしい。あれはポルノグラフィーではない。あれは完全な美だ」と言った。 

ポルノグラフィーと美の間には、非常に微妙な一線がある。裸の女性は、必ずしもポルノグラフィーではない。裸の男性は、必ずしもポルノグラフィーではない。美しい男性、美しい女性、その裸体は美の、健康の、均整の見本でもあり得る。彼らは自然のもっとも輝かしい作品だ。 

鹿が裸で、しかも美しくあり得るのだとしたら・・・そして誰ひとりその鹿をポルノグラフィーだと思わないのだとしたら・・・どうして裸の男性や女性が、ただ美しく見えてはいけないのか? 

ビクトリア時代のイギリスには、脚を裸のままにしておいてはいけないと言って、椅子の脚にカバーをかけた女性がいた・・・椅子の脚にだ!だがそれを脚と呼ぶ以上、それは非文明的、非文化的なもので、裸のままにしておいてはいけないと考えたのだ。 

ビクトリア時代には、散歩に連れて歩く犬に服を着せるという運動があった。犬も裸にしておいてはいけないと・・・まるで裸自体がポルノグラフィーだというようにだ。これがポルノグラフィックなマインドだ。 

私は何百回となくカジュラホに行ったが、ひとつの彫刻もポルノグラフィーとして見たことはない。 
裸の写真や裸の彫刻は、それが自分の性的感情を喚起すればポルノグラフィーになる。それが唯一の判断基準だ。それが自分の性的感情を喚起する場合、それが自分の性本能をかき立てる場合だ。 

実際あの寺院は、全く逆の目的の為に創られた。あれは愛し合っている男性と女性について、瞑想する為に創られたものだ。 

そしてあの石は蘇った。あれを創った人々は、この地上に現れた最も偉大な芸術家だったに違いない。あれは瞑想する為に創られたもの、瞑想の対象だった。 

あれは寺院であり、瞑想者達はその周りに坐ってその彫刻をただ見る。そして自分の内側に性的欲望が起こっているかどうかを見守ったのだ。これこそが判断基準だ。 

そこにいかなる性欲も起こって来ないことが分かった時、それがその寺院の中に入る為の許可証だった。これらの彫刻は全て寺院の外側に、外側の壁の上にある。内側には裸体の像はひとつもない。 

だが、これは人々の瞑想の為にどうしても必要で、それで何の欲望もないことがハッキリした。逆にあの彫刻は、彼らの通常の性欲を静める為に創られたのだ。その後で、彼らは寺院の中に入ることが出来た。 

そうでなければ、寺院の中に入ってはいけなかった。それでは冒涜になってしまう・・・内側に、そのような欲望を持って寺院の中に入るなどとは。それは寺院を汚すこと・・・寺院を侮辱することになった。 

これらの寺院を創った人々は、途方もない大量の文献も生み出した。東洋は決して性を抑圧してはいなかった。 

仏陀とマハヴィーラ以前は、東洋は決して性に対して抑圧的ではなかった。仏陀とマハヴィーラと共に、初めて禁欲は精神的なことになった。 

さもなければ、仏陀とマハヴィーラ以前には「ヴェーダ」の「ウパニシャッド」の見者達は、みんな結婚していた。彼らは独身ではなく子供がいた。 

また彼らは世捨て人でもなかった。彼らのところには、あらゆる贅沢とあらゆる快適さがあった。彼らは森の中に住んでいたが、自分の学生や、王や、彼らの恋人達から贈られたあらゆるものを持っていた。 

だから彼らのアシュラム、彼らの学校、森の中の彼らのアカデミーは、非常に豊かだった。仏陀とマハヴィーラと共に東洋は禁欲、抑圧という病んだ伝統を始めたのだ。 

そしてキリスト教がインドに入って来て、抑圧という非常に強い潮流がやって来た。キリスト教のこの300年は、東洋のマインドをほとんど西洋のマインドと同じほどに抑圧的にしてしまった。 

だから今度は、私の技法はその両者に適用される。私はそれを予備的技法と呼ぶ。それは、あなた達が沈黙の瞑想に入る邪魔になる可能性のあるものを、全て破壊する為のものだ。 

いったんダイナミック瞑想やクンダリーニ瞑想が成功したら、あなた達は綺麗になる。あなた達は抑圧を消し去る。あなた達はスピードを、焦燥を、焦りを消し去った。今度は、寺院の中に入ることが出来る。 

これが、私が性を受け容れることについて語った理由だ。性を受け容れずに、抑圧から抜け出ることは出来ないからだ。そして私は、あなた達に完全に綺麗に、自然になって欲しい。 

あなた達に、あの112の技法を適用することが出来る状態になって貰いたい。これが、これらの技法を創案した私の理由だ・・・それは単に掃除の為の技法だ。 

私が西洋のセラピー技法も中に入れたのは、西洋のマインドが、そしてその影響の下で東洋のマインドも、つまり両方が病んでしまったからだ。今では、健康なマインドは滅多に見つけられない。 

誰もが一種の吐き気を、心理的な吐き気、うずく傷にも似たある虚しさを感じている。誰もが悪夢と化した人生を歩んでいる。誰もが心配し、あまりにも死を怖れている。死を怖れるばかりでなく、生をも怖れている。 

人々は半身で生き、ぬるま湯に浸かったような生き方をしている。ギリシャゾルバのように強烈にではなく、溌剌とした香りではなく、病んだマインドを持って生きている。 

人は生きなければならないから、彼らは生きている。人は愛さなければならないから、彼らは愛している。人はこれをしなければならず、このようでなければならないから、彼らはそれに従っているのだ。 

さもなければ、彼ら自身の存在から起こって来る動機は何もない。彼らはエネルギーに溢れていない。彼らは全身全霊で生きる為に、何も賭けていない。彼らは冒険していない・・・ 

そして冒険することがなければ、人は健康ではいない。冒険こそが判断基準、 未知なるものへの探究こそが、判断基準だ。人々は若くない、子供時代から彼らはただ歳を取るだけだ。青春は決して起こらない。 

西洋のセラピー技法が、あなた達の霊的成長に役立つことはあり得ないが、その地盤を準備することは出来る。それらは花の種を蒔くことは出来ないが、土壌を用意することは出来る・・・ 

それはどうしても必要なことだ。これが、私がセラピーを取り入れたひとつの理由だった。他の理由もある。 

私は東洋と西洋の出会いを望んでいる。東洋は瞑想の技法を開発した。西洋は瞑想の技法は開発しなかった。西洋が開発したのは精神療法だ。 

西洋人のマインドが瞑想技法に関心を持つことを私達が求めるというなら、そこには何かギブアンドテイクがなければならない。それはただ東洋的であるだけではいけない。西洋の進化からも何かが中に入れられるべきだ。 

そして私は、あのセラピーがこの上もなく役に立つと思う。それはあまり遠くまでは進まないが、それが進む範囲ではいいものだ。それが止まるところで、瞑想が後を引き継げばいい。 

とにかく西洋人のマインドが、自分達の発展の何かがその出会いの中に、その融合の中に入ったと感じるべきだ。それは片側だけのものであってはいけない。 

それに精神療法には意味がある。それが害になることはあり得ず、役に立つだけだ。そして過去15年間、非常な成功をもって私はそれらを使って来た。それらは、人々が自らの存在を掃除する上で役に立ち、彼らを瞑想の寺院に入れるように準備して来た。 

私の努力は、東と西の間にある分離を解体することだ。地球はひとつであるべきだ。政治の上だけでなく、精神的にもだ。 

ところがあなたは、人々はこれを洗脳の巧妙な方法だと考えていると言う。これはそれ以上のものだ。これはマインド・ウォッシング(洗心)だ、ブレイン・ウォッシング(洗脳)ではない。 

洗脳は非常に表面的だ。脳はマインドが使うメカニズムだ。脳を洗うことは、ごく簡単に出来る・・・どんなメカニズムも洗って、清潔にして、油を差せるようなものだ。 

だが、その脳の背後にいるマインドが汚染され、汚くなり、抑圧された欲望で充満し、醜さでいっぱいになったら、脳はすぐさま、そのあらゆる醜悪なものでいっぱいになってしまう。 

それに私は、そこに何も間違ったものがあるとは思わない。洗濯は常にいいことだ。私はドライクリーニングを信じている。私は古い洗濯方法は使わない。 

そして確かに人々は、自分のマインドが取り去られ、それこそが自分達が持っていた唯一貴重なものだったと、騙されたように感じるだろう。それはほんの最初だけのことだろう。 

いったんマインドが取り去られたら、そのマインドの背後にこそ自分の本当の宝があったことに、彼らは驚くだろう。 

そしてマインドとは鏡に過ぎない。それは宝を映し出してはいても、自分の中に宝を持ってはいなかった。宝はそのマインドの背後にある・・・それがあなたの存在だ。 

だが鏡は、あなたを騙すことが出来る。その中に映し出されているものが本物だと、あなた達に思わせることが出来る。だからマインドが取り去られない限り・・・ 

そして、それこそが瞑想の何たるかだ。それがノーマインド(無心)の状態だ。 

それはマインドを取り去り、あなたに、あなたという存在の宝の反映ではなく、その宝そのものを見るチャンスを与える。 

OSHO:Light On The Path, #16 より抜粋