OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

123.身体とマインド

<OSHOの講話より> 

ほとんどの問題は心身相関的なものだ。というのも、身体とマインドはふたつの別個のものではないからだ。マインドは身体の内側の部分であり、身体はマインドの外側の部分だ。この為あらゆることは身体で始まり、マインドに入って来る。あるいはその逆・・・マインドで始まったものが、身体に入って来る。そこに区別はなく、水も漏らさぬような仕切りはない。 

だからほとんどの問題にはふたつの側面があり、マインドを通しても、身体を通しても取り組むことが出来る。そしてこれまでは、それが世の中の慣例だったのだが、あらゆる問題は身体に起因すると信じる人々がいる・・・生理学者、パブロフ派、行動主義者達だ・・。彼らは身体を扱い、なるほど50%のケースについては成功した。そして科学が発展すれば、もっと成功するだろうという望みを後世に託した。しかし彼らは50%以上は成功しないだろう。それは科学の進展とは関係ない。 

また、あらゆる問題はマインドに起因すると考える人々がいる・・・それもまた前者と同じように誤りだ。クリスチャン・サイエンスの信者、催眠術師、人を暗示にかける者達・・・彼らは皆、問題はマインドに起因すると考える・・・精神療法士も同様だ。彼らも50%のケースには成功するだろう。彼らはまた、そのうちもっと成功するだろうと考えている。それはナンセンスだ。50%以上は成功出来ない。それが限界だ。 

私個人の理解では、ひとつひとつの問題は両方の側面から同時に取り組むのがいい・・・両方の視点からの挟み討ちだ。すると人は100%回復する。科学が完全になれば、それはきっと両方に働くだろう。 

まず身体から始める。身体はマインドの入口・・・玄関であるからだ。また身体は粗(あら)いものなので簡単に操れる。まず積もり積もったあらゆる構造から身体を解放すること。そして同時に、マインドを引き下げていた全ての荷を降ろし、上昇していけるようマインドを勇気づけるのだ。 

それを常に心しておきなさい。「生理的プロセス」「精神的プロセス」などと言ってはいけない。それらはふたつのプロセスではない・・・ひとつである全体の、ふたつの部分に過ぎない。身体は同じエネルギーが固体の状態にあり、マインドは同じエネルギーが流体の状態にあると言える・・・同じエネルギーだ!だから例え生理的に行なう事柄でも、単純に生理的にとらえてはいけない。なぜそれがマインドの変容を促(うなが)すのだろうと、怪しんではいけない。 

酒を飲むとマインドはどうなるだろう?酒はマインドではなく身体に取り込まれるが、マインドでは何が起こるだろう?LSDを摂取すると、それはマインドではなく身体に入っていくが、マインドでは何が起こるだろう?あるいは断食をする場合、断食をするのは身体だが、マインドでは何が起こるだろう?あるいは逆に性的な想念を思い描くと、身体では何が起こるだろう?身体はすぐに影響される。マインドでセックスの対象を思い浮かべると、身体は用意をし始める。 

20世紀初頭のウィリアム・ジェームスの学説は、いかにも不合理なものに見えたがある意味で正しかった。彼ともう1人の科学者ランゲが解明した説は、ジェームス=ランゲ説として知られるようになった。普通、私達は怖がるから逃亡し、逃げるのだと言う。あるいは怒るから目が赤くなり、敵を殴るのだと言う。 

だがジェームスとランゲは、全く逆のことを唱えた。彼らは逃げるから恐怖を感じるのだと言った。また目が赤くなり敵を殴るから、怒りを感じるのだと言った。それは正反対なのだと彼らは唱えた。もしそうでないとしたら目が赤くなく、身体も影響されておらず、ただ単に怒っている時の怒りというものを、ほんの一瞬でも見たいものだ。身体に影響が及ばないように怒ってみてごらん・・・すると怒れないことが分かるだろう。 

日本では、子供に怒りをコントロールする簡単な手法を教える。怒りを感じたら怒りに対しては何もせず、深呼吸を始めなさいと教える。やってごらん・・・すると怒れないだろう。なぜか?深呼吸をするだけで、なぜ怒れなくなるのだろう?怒ることは不可能になる。 

その理由はふたつある。あなたは深呼吸を始めるが、怒りには特定のリズムの呼吸が必要で、そのリズムがないと怒れない。怒りが存在するには、呼吸における特定のリズム、または混沌とした呼吸が必要だ。深呼吸を始めたら、怒りは顔を出せなくなる。意識的に深呼吸をしていたら、怒りは表に出られない。怒りには異なる呼吸のパターンが必要だ。あなたが行なう必要はない。怒りが自分でそうするだろう。深呼吸しながら怒ることは出来ない。 

そして第2に、マインドが変わる。怒りを感じている時に深呼吸を始めると、あなたのマインドは怒りから呼吸へと移動する。身体は怒りの状態になく、マインドはその集中力を別のものに移動させている。すると怒ることは難しい。だから日本人は世界で最も抑制のきいた人々なのだ。それはまさに子供時代からの訓練だ。 

このような現象を他の土地で見つけるのは難しい。だが日本では、今日においてすらそれが起こっている。日本はますます日本的でなくなっているから、そうしたことはどんどん減っては来ている。日本はますます西洋化され、伝統的な手法や作法は失われつつある。だがそれは起こっていたし、今日でもまだ起こっている。 

私の友人の1人が京都にいた。彼は私に手紙を書いて来た。「今日、素晴らしい光景を目にしたのでお伝えします。そして帰国したら、どうしてそんなことが可能なのかお教えください。1人の男が車に当てられました。しかし彼は倒れてから立ち上がると、運転手に礼を言って立ち去りました・・・運転手に礼を言ったんですよ!」 

日本では、それは難しいことではない。彼は何回か深呼吸をしたに違いない。だから、そうしたことが可能だったのだ。あなたの態度は別なものに変容され、あなたを殺そうとする人にさえ、あるいはあなたを殺そうとした人に対してさえも感謝出来る。 

生理的なプロセスと心理的なプロセスは、別物ではない。それらはひとつであり、どちらの極から始めても他方に影響を及ぼし、変化させることが出来る。 

より良い世界では、身体を治療する職業に従事する人は、それぞれ瞑想するだろう。身体が患っている時、その裏には何かがあるはずだ。なぜなら全ては交錯しているからだ。だから身体を治療するだけでは治らない・・・その人の全体を治療しないといけない。だがその全体を覗き込むには、自分の全体を覗き込む必要がある。 

医者はみな瞑想者であるべきだ。さもなければ真の医者になることはないだろう。学位を持ち、医者を開業する免許を持っているかもしれないが、私から見ればやぶ医者だ。なぜなら彼は全体としての人間を知らない為、症状しか治療しないからだ。ある人には偏頭痛や頭痛といった特定の症状がある・・・あなたはそれを治療出来る。だが、そもそもなぜその人が偏頭痛になるかについて、内側を深く見つめることはないだろう。 

ある女性は重荷を背負い過ぎ、心労が重なり、気落ちしているのかもしれない。彼女は内側であまりにも萎縮しているから、それが痛みをもたらすのかもしれない。ある男性は考え過ぎて、マインドを全くリラックスさせられないのだろう。そこで症状を治療し、毒や薬によって症状を退治することは可能だ。だが、それは別の場所に現れるだろう。なぜなら、根本的な原因は全く手付かずのままだからだ。 

治療すべきは症状ではなく、治療すべきは人間だ。そして、人間というものは有機的かつ全体的だ。疾患は足かもしれないが、根本的な原因は頭かもしれない。根本的な原因は頭にあるが、疾患は足にあるかもしれない。なぜなら、人間というものはひとつだからだ・・・完全につながっている! 

人間の内部では、何ひとつ分断されていない。また、身体はそれ自身の中でつながっているだけでなく、身体はマインドともつながっている。そして身体とマインド・・・ソーマとプシュケの両方は、超越した魂につながっている。 

OSHO:「こころでからだの声を聴く」(市民出版社)より