OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

2.外側の恋人は内側の恋人を目覚めさせる

<OSHOの講話より> 

質問:どうして私は女性に、私を受け容れるか拒絶するかを決める主導権を許してしまうのでしょう? 私は内心この古い型にうんざりしています。私は脱け出したいのです。 


 知っているかね——? 女性は妄想に駆られた男を愛するものだ。彼女たちは、いつも妄想に駆られた男を、誰か、狂っていて正気ではない相手を探し求めている。なぜなら狂気はとても魅力的だからだ。気のふれた者、妄想に取り憑かれた者にはある磁力がある。彼にはさまざまの可能性や夢が満ちあふれている。女性は夢想家を愛する。 

 そして男たち? 男たちは自分を地上に引き留めておくために、正気の女性を愛する——さもなければ、彼らはほんとうに狂ってしまう。女性は大地を体現している。男性には女性が必要だ。なぜなら、彼は自分自身の実存に根を持っていないからだ。彼には女性が、暖かな大地が、暗い土壌が必要だ。彼はそこに自らの根を持ち、地上に根ざしたままでいられる。彼は恐れている——、彼には翼はあるが、根がない。彼は恐れている——、もし地上にしがみついていなければ、逝ってしまうかもしれない、無限の空のなかへ消え、二度と戻ってこないかもしれない、と。その恐怖ゆえに人びとは女性の後を追いつづける。 

 そして女性には翼がない。彼女は根を、偉大な根を持っている。女性は純粋な大地だ。彼女は、独りでいたら、けっして未知なるもののなかへ飛び込むことはできないだろうと恐れている。女性は男性のような夢想家にはなれない。女性が偉大な詩や歌を創らなかったのはたんなる偶然ではない。彼女たちには翼がない。彼女たちは実に世間的だ。きわめて実利的で、きわめて現実的だ——。そして正気であることは言うまでもない。彼女たちはいたって正気だ。彼女たちが詩を書かないのはそのためだ。詩を書くためには、いくらかの狂気を持たねばならない。いくらかの錯誤や誇大妄想を持たねばならない。そうして初めて詩を書くことができる。 
 女性は詩ではなく、洗濯物のリストを創る——、買物のリスト。彼女の関心は身近なものにある。彼女は近所の人びとのことを話す。彼女はヴェトナムやイスラエルのことなど気にかけない。彼女はそういう人びと、男たちを笑うだけだ——。どうして彼らはそんなことに関心を持つのかしら? あんなに興奮して! イスラエルで何かが起こっていても、それはイスラエルの話でしょ……なぜあなたが心配するの? おとなりの奥さんがどこかの男と駆け落ちしたのよ、それが現実問題だわ、それこそとっても身近なことよ。 
 女性たちは福音書には関心がない。彼女たちの興味の的はゴシップだ。どちらの言葉も同じ語源から来ている。遠くのものについてであればゴスペルだ。身近なものについてであればゴシップだ。卑近なものについてであるならゴシップ。究極なるものについてであるならゴスペル。 

 男は女なしでは生きられない。そうなったら彼は根を失うからだ。彼はただの放浪者になる。そうなったら彼はどこにも属さない。女のいない男を見るがいい。彼はどこにも属していない。彼には家がない。彼は流木になる。波間に漂いどこへでも——、どこかで女にひっかからないかぎりはね。そのときは家庭が生まれる。 
 そう、女なしで生きた男たちもいた——仏陀、あるいはイエスのような人。が、彼らも女性なしで生きたのではないというのが真相だ——。彼らは、彼ら自身の存在のなかにより深い女性を見いだした。なぜなら男性は男と女の両方であり、女性も女と男の両方だからだ。そうでなければならない。あなたは2人の人物——父と母からやって来るからだ。あなたの父親はあなたのなかの男に寄与した。あなたの母親はあなたのなかの女に寄与した。誰もが50パーセントは男であり、50パーセントは女だ。 
 あなたが自分の内側に向きを変えて、そこにあなたの女性、あるいは男性を見いださないかぎり、あなたは外側を見ざるをえない。外側のものは代用品だ。あなたは私に尋ねている。 

 「どうして私は女性に……主導権を許してしまうのでしょう?」 

 彼女たちがいなければ、あなたは狂ってしまうからだ。そして同じことが女性たちにもあてはまる——。男がいなかったら、彼女たちはまともすぎる。そして、行きすぎた正気もまた、別の種類の狂気だ。正気もすぎると、苦しくなる。あまりにまともだと、あなたは歌えない、あなたは踊れない。それゆえに、女性は自分の代わりに夢みることができる誰かを必要とし、男性は自分の代わりに家庭となりうる誰かを必要とする。 
 これは必要不可欠だ——、あなたが自分の内側にもうひとつの極性を見いださないかぎり、絶対に。男性が内側にもうひとつの極性を見いだしたら、彼は全一的なオーガズムになる。そうなったら外を見る必要はない。それでもあなたは女性たちを愛しつづけることができる。だが、執着はない。そしてあなたは、所有したり、所有されたりすることはない。自らの内なる統一に気づいても、それでもあなたは男性たちを愛しつづける。が、それは強迫観念ではない。それはまさに分かち合いだ。そうなったら愛は歓びだ。そうなったら愛はまったく違う質を帯びる。さもなければ、そのなかには熱のような何かがあることになる。その熱はそこにあらざるをえない、ある心理学的理由がある。 

 独りでいることができなければ、当然、あなたは女性あるいは男性の前で無力さを覚える。独りでいることができなかったら、そのときには、あなたの女性はあなたにとって必要なものだ。そのときには、あなたは彼女に依存している。そしてあなたは悩む——。あなたの自立は失われる。あなたが悩むのは、『彼女』があなたにひじょうに大きな力を及ぼしているからだ。あなたは彼女を許せない。そして彼女も『あなた』を許せない。なぜなら、あなたなしでは、彼女はたんなる大地にすぎないからだ。大空は消える、星は消える。あなたがいなければ、彼女はただの大地だ——暗く、誰かを待っている。誰かが来て、自分の存在に花を咲かせてくれるのを待っている。誰かが自分の芳香を解き放ってくれるのを待っている。 

 恋をしている女性と、そうでない女性を見たことがあるかね? 彼女たちは違う匂いがする——。実際、彼女たちは違う匂いがする。彼女たちの香りは違う。独りのとき、女性はまわり中に悲しみを漂わせている。憂うつで、淋しげで、わびしげで、絶望し、ただ不安だ。恋に落ちるやいなや、彼女は花咲きはじめる。何かが即座に開く。そうなると彼女には美しさがある。 
 恋をしていない女性は萎縮する。閉じてしまう。彼女は閉塞状態で暮らしはじめる。彼女は扉と窓を閉める。待つ人は誰もいない——、なぜ窓や扉を開けておく必要がある? 彼女は一種の墓場に住みはじめる。彼女はもはや生きていない。彼女は死にはじめる、彼女は自滅的になる。数学だけでは、算術だけでは、正気だけでは充分でない。バランスを保つためには何らかの詩が必要だ。 

 そして、独りぼっちの男は途方に暮れているようだ。彼は自分が誰なのかわからない。愛にあふれた女性のまなざしのなかに自分自身を見ないかぎり、彼はけっして自分が誰だかわからない。彼はアミダの『エンライトンメント・インテンシヴ』をやりつづけ、「私は誰か? 私は誰か?」と問いつづけることもできる。が、何の答もやって来はしない——、彼が愛の眼に見入らないかぎり。そのとき初めて彼は映しだされる。そのとき初めて、彼はその鏡のなかに自分が誰であるかを見る。 
 女性は彼に形、実質を与える。女性は彼が誰であるのか気づかせる。自分の愛によって、彼女は男を創る。あなたは母親の子宮のなかで創られるだけではない。恋に落ちるたびに、あなたはそれぞれの女性によって創られている。あなたが恋に落ちるたびに、女性はあなたに形、色、光沢を与えてくれる。彼女はあなたを人間にする。さもなければ、男は実に実に野蛮で、粗暴で、攻撃的で、無神経で、思いやりがない。 

 だが、問題は、2人が互いに依存し合い、共に傷つけられたと感じることだ——。誰も依存したくはない。依存の相手が誰であれ、あなたは絶対に彼、あるいは彼女を許せない。あなたは復讐する。 
 恋人たちが争いつづけるのはそのためだ。争いとは、「私はまだ独りでやってゆける——、何だと思ってるんだ?」と誇示することにほかならない。争いとはまさに「私はまだ独りでやってゆける。望むなら彼女と別れることもできる」と感じることだ。争いとはただ……、女性はこう考える。「私は彼にそんなに頼ってなんかいないわ。私は独りでも花を咲かせられるわ。あなたなんかいなくたって幸せでいられるわよ——、自分を何様だと思ってるの」 
 だからこそ彼らは争う、ちょっと自分の自立心を試すために。が、数時間も経たないうちに争いは去り、彼らは互いを抱きしめ合っている。というのも、互いに離れ離れになりはじめるやいなや、彼らは息苦しさを、飢えを、渇きを覚えはじめるからだ。彼らは持っていたものを何であれ失いはじめる。ぬくもりは失われ、男は寒々と感じはじめる。そして、もし女性を引き寄せる者が誰もいなければ、彼女は心底寂しく感じはじめる。 
 愛がなければ、私たちはみな独りだ。愛が可能でなければ、そのときは寂しさこそが真実であり、それを受け容れなければならない。愛だけが、寂しさが究極ではないことを垣間見させてくれる。 
 あなたは私に尋ねている。 

 「どうして私は女性に……主導権を許してしまうのでしょう?」 

 それは個人的な問いではない。男は誰でもその力を許してしまう。そしてそれに抵抗する。どの夫も妻の尻に敷かれる——全員が、と私は言う。その例にもれる夫はいない。見かけはどうあれ、現に存在するのは恐妻家だけだ。 

 男と女は一種の相互依存のなかに存在する。自立したままでは、彼らは半分だ——もう一方に飢え、焦がれている。相互依存が真相だ——が、そうなったら自立は失われる。 
 世界中の僧侶が、いつの時代にも、女性から逃げてきたのは偶然ではない。女性はこの世を代表する。彼らは、実は、自分は依存しているという感覚から逃げだしている。彼らは自立していたい。 

 これは人間の現象だ、個人的なものではまったくない。 
 女性は男性なしでは幸福感を得られない。男性がいなければ、彼女は夢のなかを流れられない。妄想に取り憑かれた男は平凡な男よりも魅力的だ。女性が自分自身に偉大な幻想を持つ人びとに恋をするのはそのためだ。平凡な男とは幻想を持たない男のことだ。平凡な男に惹かれる女性はいない。妄想に取り憑かれた男は魔術的に見える。彼には魔力がある。彼の眼は未知の何かでゆらゆら燃えている。そしてそれこそ女性の願望だ。彼は可能性を信じる力を持っている——。その可能性を信じる力が、彼に魔術的な特質を与える。
 自然のなかで観察するがいい。いちばんきれいに舞い、いちばんじょうずに歌う鳥が最良の雌を獲得する。人類の場合も同様だ。観察したことがあるだろうか、ミュージシャンや歌手や俳優のまわりにいったい何人の美人がたむろしていることだろう? 何のために? 魔術的な何か、この世のものではない何か、彼方の何かが——。すると、たちまち彼女たちは心を奪われる。これは自然な誘引力だ。両者が互いに充足させ合う。そしてこれが続いてゆくことになる。 
 あなたは尋ねている。 

 「私は脱けだしたいのです」 

 あなたは入り込まねばならない。そう簡単には抜け出せない——。あらゆるものには代価がいる。入ってゆくがいい、可能なかぎり深く。そんなに急ぐ必要はない。もしあなたが脱けだすとしたら……、それに、あなたは脱けだせるほどには成熟していない、あなたはもう一度なかに入らねばならなくなる。その巡り合わせをすっかり通り抜けなさい。そのまさに果てまで行くがいい。それを完全に見きわめるのだ。 
 その間、瞑想を続け、その現象を見守りつづけなさい。それを個人的に受け取らないこと、それは個人的なものではない。それを個人的に受け取ったら、あなたはものごと全体を初めから取り違えてしまう。それは男と女のあいだにある何かであって、あなたとあなたの女性のあいだにあるものではない。それは男性エネルギーと女性エネルギーのあいだにある何かだ。それは男性的エネルギーと女性的エネルギーのあいだにある何かだ。 
 それをかけ離れた観察者としてただ見守るがいい。自分のいくつかの小さなエゴをそこに持ち込んではいけない——。それらはふさわしいものではない。それらは混乱をひき起こす。それらは少しも理解の助けにならない。あなたのエネルギーに何が起こっているかをただ見ること。すると徐々に徐々に、その瞑想自体が、あなたが内なる女性を見いだすのを助けてくれる——。彼女はそこにいる。 

 それが起こり、そしてあなたが内側を向きはじめるその日こそ、あなたは抜けだすことができる。内なる女性を見いだすことができるほどの深みにまで、自分のなかにはいってゆくことで……、それはそこにある。あなたが男であれば、あなたの意識は男性的であり、そして無意識は女性的だ。あなたが女であれば、あなたの意識は女性的であり、そして無意識は男性的だ。無意識のなかへ深く飛び込みなさい。 
 そして、それが瞑想の何たるかだ。愛しつづけるがいい、愛がもたらす喜びと惨めさを味わいつづけるがいい。あなたの機を熟させ、あなたを成熟させるためには、それらすべてが必要だ。そして一方で瞑想を続けなさい。もし、この両方のプロセス、愛と瞑想が同時に続けられたら、しだいにあなたは、何であれ外側で見いだすものを、はるかに良い方法で内側に見いだすことができることに気づくようになる。 

 そしてひとたびそれが起これば、あなたの無意識と意識が出会う。あなたはアルダナリシュワールに——、男と女の両方になる。そうなったら違いが、全面的な違いがある。あなたの質はもう同じではない。それでもあなたは依然女性を愛することができる。が、それはもう依存ではない。それは今や分かち合いだ。あなたは依然男性を愛することができる。が、それはただ純粋な喜びだ。それはただあふれだしているエネルギーだ。あなたはあまりにも多く持っているので、誰かに与えずにはいられない。だが、あなたは独りでいることもできる——。そして共にあるときと同じくらい幸せだ。 

 人が独りでいながら、誰かと共にあるときと同じくらい幸福でいられたら、他の誰かに捕えられることはけっしてない。彼は「誰かが私を支配している」と感じたりしない。そうなったら自分の女性や男性と争うことはない。もはや争うという問題がないからだ。そうなったら、あなた方は自らの自立性から分かち合う、自らの測り知れない自由から分かち合う、自立した2人の人だ。が、分かち合う必要性はない。それは他のいかなる動機をも持たない——。ただあなたがあふれだしているがゆえにそうなのだ。そうなったら、あなたは傷つけられたと感じはしない。奴隷になったと感じることはない。そのときには、あなたも主人のままだし、彼女も主人のままだ。そして、誰かを所有する人はひとりもいない。いっさいの所有欲が消える。 

 この所有欲はなぜマインドに何度も何度も入り込んでくるのだろう? なぜあなたはこうも嫉妬深く、所有欲が強いのか? その原因は、あなたが依存しているからだ。あなたが恐れているからだ。もし彼女が明日にも離れていったら、自分の大地を失ってしまうのではないかとあなたは恐れている。そして、寒々とした夜に独り寂しく何をするつもりだね? あなたは独りぼっちの自分など思い浮かべることもできない。それは身震いさせる。それゆえにあなたは恐れる。もし彼女が他の男と笑っていると、他の男に話しかけていると、あなたは疑いはじめる。あるいは、もし彼が他の女性と映画に出かけたりしようものなら、あなたは煮えくりかえる。あなたは熱に浮かされる。あなたは火山の上に坐っている。あなたは今にも爆発して醜くなる用意ができている 
 なぜだろう? これほどの所有欲や嫉妬はなぜなのか? 恐怖だ。誰にわかるね? 彼はあなたを愛している。彼は別の女性を愛することもできる。彼はあなたをひとりの女性として愛している。彼の女性に対する愛はまだ生きている——。彼が別の女性を見つけることはありうる。それに、おそらく新しい相手のほうが古い相手よりずっと魅力的だ——当然だ——未知のものは慣れ親しんだものより魅力がある。彼はあなたを知りつくした。今となっては一種の反復だ。あなたはそれを知っている。彼はまだあなたを愛してはいるが、それは一種の反復だ。それはあの魔力を失ってしまった。それはあの美しい始まりの日々を失ってしまった。あのハネムーンの日々はもうそこにない。ものごとは決まりきった出来事になりはててしまった。 
 今や、あなたは恐れている。彼は別の誰かとの恋に落ちるかもしれない。そして、あなたは独りで取り残される。 
 恐怖がわいてくる。死があなたのなかに生まれる。 
 だが、所有欲が強まれば強まるほど、関係はますます醜くなる。関係はますます厭わしくなる。所有欲が強まれば強まるほど、それはますますうんざりするものになる。そして男は、とにかく別の女性のことを夢見はじめる。女は別の男性のことを考えはじめる。内側深くで、彼らはもう共にはいない。ただ物理的に共にいるだけだ。 
 そして、それが起こりつつあることに気づけば気づくほど、あなたはますます狼狽し、さらに強く所有する。所有欲はすべての愛を殺す毒だ。だが、それはかならず起こるものと見える。ほとんど避けがたい。この依存状態のなかにあっては、それは起こらざるをえない。 

 もはや依存ではなく、誰をも必要とせず、ただあふれだしつづけてゆく別の種類の愛があなたの内に生まれると、あなたは所有欲や嫉妬など持ちようがない。誰かが共に分かち合うなら、けっこうだ。あなたは感謝する。共に分かち合う者が誰もいなくても、実にけっこうだ。あなたは独りであって、まったく幸福だ。 


Osho:Take It Easy 「一休道歌」(めるくまーる社)より抜粋