OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

4.バランスを取る秘訣

<OSHOの講和より> 

質問:バランスの取れた生活のコツについて話してください。私は極端な体験をすることが多く、少しの間も中道に留まることがないのです。 

生は極端の集まりで構成されている。生とは両極端の緊張だ。真ん中に永遠に留まるということは、死を意味する。中道とは理論的な可能性に過ぎない。時には真ん中にあることもあるが、それは単に通過点としてだ。中道にあることは静的な状態ではない。それは動的な現象だ。だから左から右、右から左へと動き続ければいい。それこそが真ん中に留まる唯一の方法だ。 

極端を避けないこと、そしてひとつの極端を選び取るのもやめることだ。両方の極に開いていなさい・・それがコツ、バランスを取る秘訣だ。ある時はすっかり幸福になって、またある時は徹底的に悲しみなさい・・どちらにも、それなりの美がある。無選択でいなさい。そして何が起ころうと、どこにいようと、右か左か、真ん中にいようがいまいが、その瞬間の全なるままを味わいなさい。 

幸せな間は踊り、歌い、楽器を奏で、幸福でありなさい!そして悲しみがやってくる時は・・悲しみは必ずやってくる。避けることはできない。もし避けようとするなら、幸福になる可能性そのものを破壊するしかない。昼は夜なくしては存在できないし、冬なくして夏はない。そして死なくして生はない。 

この両極性をあなたの存在に深く浸透させなさい・・それは避けようがないのだから。唯一の方法はどんどん死に近づいていくことだ。死人のみが恒久的な中心に留まれる。活き活きとした人は絶えず動いている・・・怒りから慈悲へ、慈悲から怒りへ。そういう人はその両方を受け入れるし、どちらにも同一化しない。超然としていて、しかも深く関係している。彼は水中の蓮の花のように在る・・水の中にいてもなお、水がそれに触れることはない。 

真ん中に留まろう、ずっとそこにいよう・・そうした努力それ自体が、あなたにとって不必要な心労を造り出している。永遠に中道に留まろうとする欲望こそ、最低の種類の極端だ。なぜならそれは不可能だからだ。 

古時計のことを考えてみなさい。もし振り子をちょうど真ん中で押さえたら、時計は止まってしまうだろう。時計が進むのは、振り子が左から右へ、右から左へと動き続けるからに他ならない。振り子が真ん中を通るたび、ほんの一瞬だが、中庸の瞬間がある。美しいじゃないか!あなたが幸せから悲しみへ移るとき、ピッタリ真ん中に、全き静寂の瞬間がある。それも味わいなさい。そのすべての局面において生を生きることだ。そうしてはじめて、生は豊かになる。 

そもそも、どうして真ん中に居たいなんて思うのだろう?私たちは生の暗黒面に怯えている。私たちは悲しみたくないし、苦悩したくない。しかしそれは不可能な話だ・・そうしたら歓喜の可能性もなくなってしまう。何世紀にも渡って、それが僧侶のやり方だった。ただ苦悩を避けるために、すべての薔薇を滅ぼす用意がある。しかしそれでは、その生は平坦だ。冗長で退屈だ。生気がなく澱んでいる。本当には生きていない。生きることを恐れている。 

生は両方だ。それはひどい苦痛と大きな喜びをもたらす。それは同じコインの二つの面だ。一方を手放すなら、もう一方も手放さなければならない。たとえば、苦痛を手放して喜びをたくわえることができる、負を避けて正だけを得ることができるなど、途方もない誤解だ。そんなことは物事の本性からして不可能だ。正と負は避けようもなく一緒、分かつことのできない一体だ。同じエネルギーの二つの様相なのだ。 

私を理解する人たちはその二つを両方受け入れなければならない。私はあなた方に、全く新しい洞察を与えている。すべてであれ!だからあなたが左側にいるとき、何ひとつ逸してはならない・・味わうがいい。左にいることにはそれ自体の美しさがある。右側にいるときには、それは見つからない。場面も違っている。そしてもちろん、真ん中に在ることにはそれ自体の静寂、平和があり、どんな極端の中にもそれは見つからない。だから、とにかくすべてを楽しみなさい。あなたの生をどんどん豊かにし、何ものにも執着しないことだ。 

可能な限り、すべてのやり方で生を生きなさい。対立する一方を選ばないこと。そして真ん中にいようと努力しないこと。私はあなたに中道を教えない。私は全道を教える。そうしたらバランスはひとりでにやってくる。そのときそのバランスには、途方もない美と優雅さがある・・あなたは無理にバランスを取ろうとはしなかったが、バランスはやってきた。優雅に左へ、右へ、真ん中へと動いていくことで、ゆっくりと、バランスは、あなたのもとへやってくる。同一化しないままでいるからだ。悲しみがやってくると、あなたはそれが過ぎ去ると知っている。そして幸せがやってくると、あなたはそれもまた過ぎ去ると知っている。留まるものはない。すべては過ぎゆく。 

たったひとつ、いつでも残るのはあなたの目撃だ。この「見ている事」がバランスをもたらす。その目撃こそがバランスだ。 

人間とはひとつのジレンマ、イエスとノーの両方だ。人間は半分大地で半分空。一部は物質、一部は意識。一部はごみで、一部は神聖。人間は緊張だ。フリードリッヒ・ニーチェは「二つの無限の間に張られた縄」だと言う。その過去は獣のもので、未来は神のそれだ。そしてその間に在るのが人間だ・・半分は獣で、半分は天使。「ノーはその過去からやってくる。「イエス」は未来への可能性だ。 

人間は二つであり、二重であり、分たれている。それは人間の悲惨だが、至福への可能性でもある。それは人間の苦痛だが、その苦痛の中から歓喜も生まれる。人間を除いてどんな動物も歓喜に満ちていることはない。羽ばたく鳥は自由に飛べるが、自由については何も知らない。人間だけが、たとえ牢獄にいようとも、自由とは何かを知っている。それゆえの不幸がある。束縛されながらも、自由のビジョンを持っているからだ。醜い現実と、光り輝く可能性があるからだ。人間の威厳と壮大さも、人間の不安もそのためだ。 

不安とは、ふたつの正反対の可能性がもたらす当然の結果だ。ある瞬間には突然、日に照らされた頂きとなり、またある瞬間には今までに見たことがないような暗い谷間となる。ある瞬間には愛や分かち合い。ある瞬間には怒りや、惨めさ。ある瞬間には全世界を包めるほど大きな心になるかと思えば、別の瞬間には自分でも信じられないくらい偏狭になる。人間は振り子のように、これら二つの無限の間を揺れ続ける。 

解決の可能性は二つある。 
ひとつは、後退してあなたの獣性に満足することだ。満足するということ、それが多くの人々の選択だ。飲んで、食べて、眠り、そして人生の大きな挑戦のことはすべて忘れてしまう。それが物質主義者のすることだ。彼は自己防衛のために、より高い自己を否定する。もし否定しなければ、あの「あれか、これか」がまた始まってしまうからだ。また問題の中へ逆戻りだ。どうにかしなければいけない。くつろぎはまたも失われる。また旅が始まる・・放浪が、不快と不便と旅路の危うさが・・ 

高みは存在しないと言った方がましだ。魂などない、内なるものなどない、人間には内面性などない、外から見えるそれだけが人間なのだ・・と。人間とは習性に過ぎない。 
機械の内側に誰もいないのと同じで、人間の内側にも誰もいない。これはパブロフからB・F・スキナーまで、いわゆる科学的な心理学者たち、行動主義者たちによって説かれていることだ。 

人間の内には、機械的でない何かが確かにある。そしてその非機械的な部分こそ、彼らの栄光だ。しかし、それは否定してしまった方がいい。その方が生きるのはたやすく、人生に不安は少ない。人生に問題を感じることは少なくなる。いわゆる楽しみからなる浅薄な日常を生き続けることもできる。食べて、飲んで、陽気にやろう。 

そう、下位の自己にくつろぐことはできる。しかし、それでは成長はない。歓喜はそこにない。どんなブッダもあなたの内に生まれないのだから。あなたは暗闇の中にとどまる・・もちろんくつろいではいるが、くつろいでいることに何の意味がある?創造的な不満の方が遥かに価値がある。未知のものへの不安の方が、はるかに価値がある。本当の家を探してさまよう宿無しの乞食の方が、遥かに価値がある。 

いいかい、私は低いものを否定しろと言っているのではない。なぜなら、もう一方の極端に走る馬鹿げた人たちがいるからだ。ある種の馬鹿は高みを否定して低いものへと落ち着く。別種の馬鹿は低いものを否定して、あるのは高みだけだと言う。 

どちらも馬鹿な真似をしている。同じことをしているに過ぎない。どちらも正反対のものを否定して、一切の内的緊張を避けている。だが覚えておきなさい。あなたに活力を与えるのは、この内的緊張なのだと。緊張が大きいほど、あなたは活力に溢れている。男は女に惹きつけられる。逆も然り。電極の陰極は陽極に向けて惹きつけられる。逆もまた然り。 

どうして反対のものに惹かれるのだろう。なぜならまさに惹かれることによって、命が生じるからだ。そんな緊張の中で、死んだようにしていることなどできるだろうか。その緊張の中でこそ、あなたは脈打ち始める。 
「イエス」が「ノー」に対立している必要はない。 
「ノー」が「イエス」に相対しなければいけない必要性もない。 
それらは補い合うことができる。お互いを育むことができる。緩んだ弦のシタールで、どうして音楽を奏でられよう。適度な緊張の中にあってこそ、最も美しい調べも生まれてくる。 

OSHO, The Book of Wisdom より抜粋