OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

5.男と女のハーモニー

<OSHOの講話より> 

質問:すべての人は男と女、両方の部分を併せ持っています。それが私たちの自己表現や、愛し方にどんな影響を与えるのでしょうか? 

誰もが男と女の両性だ。なぜなら、誰もが両方の性から生まれているからだ。あなたの中のある部分は父親から、ある部分は母親から受け継いでいる。だから、完全に男だけだとか、女だけだとかいうことはあり得ない。実のところ、誰もが両性だ。違いはただ程度の差でしかない。 

男は女に比べるとより男性的で、女は男に比べるとより女性的なだけだ。ただそれだけだ。もしあなたが男なら、脳の意識的な部分は男で、無意識な部分は女ということだ。もしあなたが女なら、意識的な部分は女で、無意識の部分は男ということだ。しかし、それが反対である場合もよくある。 

たとえば、男が年を取るとより女性的になるし、女が年を取るとより男性的になる。女が年を取ると、ヒゲが生え始めたり、声が男っぽくなったりするし、争い好きで怒りっぽくなり、イライラしがちになる。男が年を取ると、より素直で従順で、女に従うようになる。男はだんだん素直になり、女はだんだん威圧的になる。 
  
日々起こる変化もある。女が激怒するとき、意識的な部分は失われ、無意識が非常に優勢になる。腹を立てた女は、腹を立てた男よりもずっと危険だ。激怒した女は、激怒した男よりもずっと危険だ。 

が、それは、女の無意識な部分が稀にしか使われないため、とても新鮮だからだ。それゆえ、それが使われると女は非常に危険になりうる。女が愛するとき、その愛は猛烈だ。女が憎むとき、その憎しみも猛烈だ。 
  
男が愛するとき、その愛はとても深い。女のそれよりも深い。なぜなら、彼の無意識な部分は使われていないからだ。 

女にしてみれば、愛することはごく当り前のことだ。それは、日常的なことだ。女は愛する。だが、男が恋に落ちるのは容易ではない。それは日常的なことではない。実際、稀にしか起こらない。しかし、ひとたびそれが起こると、その愛の深さは女の比ではない。 

これは私の観察だが、すべての女は愛するものだし、女が愛しても、その愛はごく当り前のものだ。それは女のマインドの一部だ。普通、男はそんなに愛さない。愛は普通、彼らがする行為のうちのひとつにすぎず、最も重要なものではないだろう。 

ビジネスの方がもっと重要な時もある。そういう時、彼らにとって愛はビジネスの間のレクレーションや、リラクゼーションだ。もしどちらかを選ばなければならないとしたら、きっとビジネスの方を選ぶだろう。 

愛よりも政治の方が大切な人々もいる。金、社会的地位、道徳・・・男には愛よりも大切なものがたくさんある。だが、女はひたすら愛する。たくさんある中のひとつではない。男が愛するのは、一日のうちでもせいぜい数分だ。女が愛するとき、その愛は二十四時間だ。それは自然だ。 

しかし、ときに男が愛する時、どんな女も彼にはかなわない。なぜならその時には、彼の内なる女性が爆発するからだ。男が本当の意味で愛に走る時、彼はもはや男ではない。そうなると、彼の内なる無意識が爆発し、彼自身を完全に乗っ取ってしまう。 

瞑想者がすべきこととは何だろう?瞑想者はその両方に気づくことだ。そして、そのどちらについても、自己同化をやめなくてはならない。真の探究者は自己同化を捨てなくてはならない。自分が男でも女でもなく、観察者であることを学ぶことだ。 

そうして、あなたは生体を超えていくことができる。そうしてはじめて、肉体を超えていくことができる。なぜなら、男と女は肉体に存在しているからだ。せいぜい、その影がマインドに存在しているにすぎない。しかし、魂は男でも女でもない。その両方を超えていきなさい。 
  
それゆえ、見守り、距離を置き、離れていること。目を覚ますことだ。女がそこにいて、機能しているのを見守る。男がそこにいて、機能しているのを見守る。だが、自分はそのどちらでもないことを忘れないように。 

真の覚醒が常にセックスの超越につながるのは、そういう理由からだ。そうすれば、禁欲は自然と起こる。セックスをするには、男か女のどちらかに自己同化する必要がある。真の禁欲者とは、そのどちらでもなく、超越をした者のことだ。 

抑圧の話をしているのではない。私はあなたがたに抑圧しろ、と言っているのではない。自分の中にある女や男を抑圧しろ、と言っているのでもない。私はあらゆる抑圧に反対だ。 

私が言っているのは、自分の中にある女性を表現しなさい、自分の中にある男性を表現しなさい、だが、ずっと目を見張っていなさい、ということだ。 

抑圧したものは、遅かれ早かれ姿を現すだろう。意識だけが、二元性を超えたところへあなたを連れて行くことができる。 
  
あなたの中にある女性が、あなたの中にある男性と出会っていないとしたら、あなたは外側に女性を、または外側に男性を必要とするだろう。それは代用品にすぎない。ゆえに、決して完全に満足することはなく、常に何かが欠けている状態に置かれることになる。 

世界一の美女を見つけようが、世界一ハンサムな男を見つけようが、どうも何かがしっくり来ない。どうも何かが欠けているように感じられる。それは男が悪いわけではなく、女が悪いわけでもない。何かが欠けているという感じは、どこか他のところから来ているのだ。そして、それが一体どこからなのかが分からなかっただけの話だ。 
  
あなたが女性に恋をするとき、それは実際にはあなたの中に内なる女性がいて、外側にいる女性は、その内なる女性を反映している、ということだ。恋に落ちるとは、そういうことだ。 

どうしてあの娘が好きになったのか、と聞かれると、あなたは彼女の鼻がどうだの、髪がどうだの、歩き方がどうだのと、もっともらしい理由を探し出す。だが、どれもみな馬鹿げている。鼻の形や、髪の色や、歩き方が、愛と何の関係があるだろう。いいや、関係があるはずがない。 

そうではなく、彼女はあなたの内なる女性に、内なる月に適合したのだ。彼女はあなたの内なる月を反射させたのだ。 

彼女が百パーセントであることは、あり得ない。なぜなら、あなたの内なる女性は、あくまでも内なる女性であって、外側で見つけることは不可能だからだ。外側で見つけられるものは影でしかない。女や男に恋をするとき、あなたは鏡に恋をしているのだ。遅かれ早かれ、あなたは欲求不満に陥る。 
  
しかし、外側の女性が完全にあなたを満たせないのは良いことだ。でなければ、内なる探求に向かうことは決してないだろうから。外側の男があなたを完全に満たせないのは祝福だ。それは、ただ単に一瞬の満足、味わいを与えてくれるだけで、あなたはますます渇望を覚えるようになる。 

これはよいことだ。ひょっとすると、それこそが目的なのかもしれない。そうしてある日、あなたは自己に立ち返り、内側を見るようになる。 
  
たとえたくさんの人と関係していても、女性の心理に深く立ち入ることはできないだろう。あなたの内側の女性的な部分を知りなさい・・・必要なのはそれだけだ。そうすれば、関係することは鏡の役割を果たす。 

女はあなたを見て、自己の中にある男性的な部分を発見するようになり、男は女を見て、自己の中にある女性を発見するようになる。 
  
自分の中にある女性、つまり対極的な部分への気づきが増せば増すほど、あなたはより全体的に、統一的になれる。内なる男性と内なる女性が完全に混ざり合い、溶け合い、もはや分離することなく一つの完全統一体となるとき、あなたは個となる。 

内側にある解放された女性と、自分の中の内なる男性との出会いにまかせない。深い統一感と、有機的な本質を知るために。そうすれば、意識に関しては、あなたはもはや男と女に分断されてはいない。 

そのとき、あなたは一つであり、人間であり、また全体でもある。もはや葛藤はなく、あるのは協調だけだ。存在しうる最高の統合体に達している。それが起こるとき、人は全体になる。その人が男であろうが、女であろうが、それは関係ない。 

あらゆるエネルギーには極性がある。生における唯一の問題は、いかに二極間のバランスを取るか、ということだ。 
  
バランスは幸福へと導いてくれる。あなたのエネルギーが50対50であるとき・・・それらが出会い、溶け合い、交響楽となり調和を奏でるとき・・・たいへんな至福が可能だ。全存在があなたの中に流れ込んでくる。それは、あなたに準備が整い、受容的になっているからだ。 
  
世界中のあらゆる伝統が、様々な方法でそれに働きかけて来た。インドではそれを「シヴァ、シャクティ」と呼び、中国では「陰、陽」と呼ぶ。それを「肯定、否定」、「男、女」と呼ぶこともできよう。ともかく呼び方はどうでもよいが、ひとつだけ確かなことがある。 

それは、あらゆる物事が対極から成り立ち、対極を通して存在している、ということだ。バランスが失われるとき、地獄が生まれる。バランスを回復するとき、楽園もまた復活する。