OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

6.母親の誕生

<OSHOの講話より> 

質問:多くの女性が母親であることを、ひとつの義務と考えています。そのような態度では、子供は負担になってしまうでしょう。どうすれば母親であることに、より大きな喜びを見いだせるでしょうか?母親にとっても、そして子供にとっても。 

母親であることを義務と考えてはいけない。それを義務と思ったが最後、何かが死に、とてつもない価値を持つ何かが消えてしまう。その関係性が壊されてしまう。それを祝福と捉えなさい。 

子供は存在からの贈り物だ。子供に敬意を払いなさい。ただ愛情をかけるだけでなく、敬意を払うのだ。もし敬意を払わなければ、愛は所有になってしまう。敬意を払っていたら、どうして所有することなど出来よう? 
  
尊敬している相手を、所有することは出来ない。その考え自体が醜く、無礼だ。人を所有することは、人を物におとしめる行為だ。 

そして、ひとたび子供があなたの所有物になってしまうと、あなたは重荷を背負うはめになる。その時、それは果たさなければならない義務へと変わってしまう。母親達は、自分達がどれだけ大変なことをやってきたかと、生涯話し続ける。 

真の母親は、自分がしたことについては何一つ語らない。しかも語らないというだけではない。彼女は自分がそれをしたと感じることもない。彼女はそれを楽しみ、子供に対して感謝しているのだ。 

それは子供の誕生だけではなく、同時に母親の誕生でもある。一方では子供の誕生だが、もう一方であなたの母性が誕生を迎えているのだ。 

子供はあなたを劇的に変化させてしまった。子供はあなたに何かを与えてくれた。あなたはもはや同じ人間ではない。女であることと、母親であることには途方もない違いがある。 

だから愛しなさい。敬意を払いなさい。そして子供の妨げにならないよう、成長の手助けをしなさい。それは一番初めから気をつけなくてはならないことだ。 

そして、いいかい。自分の母親から学んだパターンを繰り返してはならない。そうなるのは自然なことだ。なぜなら、それがあなたの知っている母親像であり、自分の子供にも同じ行為を繰り返すだろうからだ。そして、そうなるのはよくない。 
  
全く新しく在りなさい。自分の母親から学んだことは全て忘れなさい。新しいやり方で子供に応えなさい。愛を与えなさい。だが決して枠組みを与えないこと。愛を与えなさい。だが決して人格を与えないこと。愛を与えなさい。だが自由は手付かずのままにしておくこと。 

愛することが、子供の自由を侵害することになってはいけない。こんなにも小さな子供の自由を考える人はどこにもいない。だが、それではいつになったら考えられるだろう?明日になっても子供は小さいままだ。そして、明後日になっても。 

実のところ、あなたは自分の子供が自由を獲得できるような、成長した人間であるとは絶対に考えない。絶対に。なぜなら、あなたと子供の年齢差は、常に同じままだからだ。その差が20歳あれば、それはずっと20歳のままだ。それならば事の始めから子供に敬意を払い、自由を与えなさい。 
  
ときに子供が泣いたとしても、心配し過ぎることはない。ほんの少しの間、一人で泣かせておきなさい。いつも慌てて、準備万端待ちかまえている必要などない。それは愛のように見えるが、実際あなたは子供の自由に干渉している。 
  
子供は時々泣くことを単純に楽しんでいる。それが自分自身を表現する唯一の方法だからだ。わめき、泣き叫ぶ、それが彼の言語だ。泣かせておきなさい・・・何も悪いことはない。 

その子は世界と関係しようとしているのだ。あやしたり、すぐに乳を与えたりしてはいけない。空腹でない時に乳を与えるのは、麻薬を与えるに等しい。 
  
母親達は乳を一つの麻薬として使う。乳を飲み始めるやいなや、子供は泣いていたことを忘れ、眠りに落ちる。それは心地よいものには違いないが、あなたが干渉をし始めたというしるしだ。 

子供が本当に乳を欲しがっているのでなければ、放っておきなさい。そうすればプライマル・セラピー(感情発散療法)など必要なくなるだろう。プライマル・セラピーで泣き叫んでいるのは、幼児期に干渉され、一度も泣き叫ぶことを許されなかった人達だ。 

子供にあらゆることを許し、自分自身であることを感じられるようにしてごらん。子供の行く道から少しずつ手を引いてごらん。手を貸してやるのはいい。だが育みながら、子供がひとりでに成長するよう、見守ってごらん。 

時々、子供が間違ったことをやろうとしていると感じた時でさえも、あなたは判断を下す立場にはない。あなたから見て子供が間違ったことをしていたとしても、それは単に「あなたから見て」というだけの話だ。 

それはあなたの意見であって、子供は間違っていないかもしれない。その子はあなたの意見に従う為に、この世に生を受けたのではない。 
  
子供は無力だから、あなたの意見を押し付けるのはいともたやすいことだ。子供の生死はあなたにかかっていて、彼はあなたの言うことを聞かなくてはならないからだ。 

あなたが「止めなさい」と言ったら、どんなにそうしたいと思っていても子供はそれを止めなくてはならない。あなたに逆らうのは危険だからだ。 
  
真の母親は、自分の子供に大きな自由を与える。たとえ母親の意に反することをしようとしたとしても、その子は自由を与えられる。 

子供にはっきり言っておきなさい。「それは正しくないというのが私の考えだけど、お前がそれをするのは自由だよ」と。子供に自分自身の経験を通して学ばせなさい。 
  
そうやって人は真の成熟を迎える。でなければ人々は幼稚なままだ。年の数は増えるかもしれないが、彼らの意識が成長することはない。肉体的な年齢は50歳かもしれないが、頭の中は7歳で止まったままだ。そうしたら彼らは成長するのを止め、ただ従うだけになる。 
  
あなたの愛を与え、経験を分かち合いなさい。だが、決して何も押し付けないこと。そうすれば、その子は素晴らしい人間に育つだろう。 

OSHO, Don’t Look Before You Leap より抜粋 

成長する為には保護することと、しないことの両方が必要だ。庭師が草木を育てるのを見てごらん。彼は手を貸し、そして草木を保護する。だが日の光に当たり、雨に、嵐に、さらされるという自由も与える。 

戸外に待ち受けるあらゆる危険から守る為に、草木を屋内に入れたりはしない。家の中に入れた草木は枯れてしまう。温室の中の植物は不自然だ。そして私たちは過保護な親達のおかげでみな温室育ちになる。 
  
子供を守ってはならない。守らず放っておきなさい。影のようについてゆきなさい。世話をしてやりなさい。そして危険過ぎる時には守ってやれるよう、バランスを取るよう心がけなさい。 

だが、それほど危険ではないと感じた時には、好きにさせておきなさい。子供が成長すればするほど、より大きな自由を与えなさい。 

OSHO, My Way:The Way of the White Clouds より抜粋