OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

13.生は真白なキャンバスだ

<OSHOの講話より> 

質問:OSHO、しかし結局のところ、生は悲惨ではないでしょうか? 

それはあなた次第だ。生そのものはひとつの真白なキャンバスだ。それは何であれ、あなたがそこに描くものになる。惨めさを描くことも出来るし、至福を描くことも出来る。この自由はあなたの栄光だ。 

あなたはこの自由を、自分の生全体が地獄となるようなやり方で、あるいは自分の生が美しいもの、祝福、至福、神々しい何かになるようなやり方で使うことが出来る。それは全てあなた次第だ。人は全て自由を持っている。 

それゆえに、これほどにも多くの苦悩がある。なぜなら人々は愚かで、キャンバスに何を描いたらいいのか分からないからだ。それはあなたに任されている。それは人間の栄光だ。 

それは神からあなたへの、もっとも偉大な贈り物のひとつだ。他のどの動物達にも、自由でいるという贈り物は与えられていない。どの動物にも、すでに出来上がったプログラムが与えられている。 

人間以外の全ての動物には、プログラムが組み込まれている。犬は犬でいるしかない。そして永遠に犬だ。他の可能性は何もない。そこに自由はない。彼にはプログラムが組み込まれている。 
全ては作りつけになっている。青写真がそこにあり、彼はその青写真に従うだけだ。彼は犬になるだろう。彼にとって選択というものは存在しない。選択の余地がない。彼は完全に固定された存在だ。 

人間を除いて、全てのものにプログラムが組み込まれている。薔薇は薔薇でなければならず、蓮は蓮でなければならない。鳥は翼を持ち、動物は四つ足で歩くことになる。 

人間は全く自由だ。それが人間の美しさであり、栄光だ。自由は神からの途方もない贈り物だ。あなたにはプログラムは組み込まれていない。あなたは青写真を持ち歩かない。 

あなたは自分自身を創り出さなければならない。自己創造的でなければならない。だから、全てはあなた次第だ。 

あなたはひとりの仏陀に、ひとりのバハウッディンになることが出来る・・・あるいは、ひとりのアドルフ・ヒットラーに、ひとりのムッソリーニになることも出来る。あなたは殺人者にも、瞑想者にもなることが出来る。 

あなたは、自分自身が意識の美しい開花になることを許すことも出来るし、あるいはまたロボットになることも出来る。だが、いいかね。責任はあなたにある・・・他の誰にでもなく、あなたにだけある。 

楽天家とは、朝、窓のところに行って「おはよう、ゴッド!(神様)」と言う人間のことだ。悲観論者とは、朝、窓のところに行って「マイゴッド!(何てこった)朝なのか?」という人間のことだ。 

それは全てあなた次第だ。それは同じ朝で、おそらく同じ窓だろう。悲観論者と楽天家は同じ部屋にいるかもしれない・・・だが、それはあなた次第だ。 

そして「おはよう、神様!」と言うのと、「何てこった、朝なのか?」と言うのとでは、何という違いだろう。 

私はスーフィーの古い話を聞いたことがある。ある偉大なマスターの弟子が2人、マスターの家の庭を歩いていた。彼らは毎日、朝夕、歩くことを許されていた。歩くことは一種の瞑想だった。歩く瞑想・・・ちょうど禅の人々が歩く瞑想をするように。 

人は24時間、坐っていることは出来ない・・・足にはちょっとした運動が必要だ、血液が少しは循環しなければならない・・・それで禅とスーフィズムではどちらも数時間坐って瞑想し、それから歩きながら瞑想をし始める。だが、瞑想は続く。歩いていても坐っていても、内なる流れは同じままだ。 

彼らは2人とも喫煙者だった。2人ともマスターに喫煙の許可を求めたかった。そこで2人は決めた。 

「明日だ。彼は駄目だとしか言わないだろうが、頼んでみよう。それに庭でタバコを吸ったところで、そんなに神聖を汚すとは思えない。彼の家の中で吸うわけではないからね」

翌日2人は庭で会った。1人は激しく腹を立てていた。なぜなら、もうひとりの方はタバコを吸っていたからだ。そこで、彼は言った。 

「いったいどうしたんだ?私だって尋ねた。だけど彼はきっぱりと断わり、駄目だと言った。それなのに君は吸っているのか?彼の言いつけに従わないのか?」 

もうひとりの男は言った。「でも、彼は私にはいいと言ったよ」 
これはとても不公平に思われた。そこで、最初の男の方が言った。「なぜ彼が私にはノーと言い、君にはイエスと言ったのか、彼のところに行ってさっそく尋ねてみる」 

もうひとりが言った。「ちょっと待てよ。君は何て尋ねたのか、教えてくれないか」 
彼は言った。「何て尋ねたかだって?簡単なことを尋ねただけさ。瞑想中にタバコを吸ってもいいですか?ってね。そうしたら彼は、駄目だ!と言って、とても怒ったんだ」 

もうひとりの男は笑い始めた。彼は言った。「やっとどういうことなのか分かった。私はタバコを吸っている間に瞑想してもいいですか?と尋ねたんだ。すると彼は、よろしいと言ったよ」 

全てはあなた次第だ。ほんのちょっとした違い、それで生は全く違ったものになる。さあ、そこには大きな違いがある。 

「瞑想中にタバコを吸ってもいいですか?」と尋ねるのは、ただ醜悪なだけだ。だが「タバコを吸っている間に瞑想してもいいですか?」と尋ねるのは完璧にオーケーだ。よろしい!少なくともあなたは瞑想することになる。 

生は悲惨でもなければ至福でもない。生はひとつの真白なキャンバスだ。そして、人は生に関してはとても芸術的でなければならない。 

ひとりの浮浪者が、「ジョージ・アンド・ドラゴン」という宿屋のドアをノックした。「あわれな男に食べるものを少し分けてくれませんか?」彼はノックに応えた女に尋ねた。 

「おことわり!」彼女は大声で言い、ドアをバタンと閉じた。数秒後、その浮浪者はまたノックした。同じ女がドアのところに出て来た。 

「食べるものを少し分けてもらえませんか?」浮浪者が言った。「出てってちょうだい。このろくでなし!」女は怒鳴り、「もう二度と来ないでよ!」と言った。 

数分後、浮浪者はまたドアをノックした。女がドアのところに出て来た。「すいませんね」と浮浪者は言った。「今度は、ジョージとふたことみこと、言葉を交わしてもかまいませんかね?」 

生は「ジョージ・アンド・ドラゴン」という宿屋のようなものだ。あなたは、ジョージともふたことみこと言葉を交わしてもいいか、尋ねることが出来る。 

OSHO:「生・愛・笑い」(めるくまーる社)より抜粋