OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

15.愛とは何か?

<OSHOの講話より> 

質問:愛とは何ですか?なぜ、私は愛を恐れているのでしょう?なぜ、愛は耐えられない痛みのような感じがするのでしょう? 

あなたは「愛とは何ですか?」と尋ねている。それは、全体とひとつになることへの深い衝動だ。我と汝が、ひとつの統合の中に溶け去ることへの深い衝動だ。 

私たちが自分自身の源泉から分たれている為に、その分たれていることから、全体の中に還りたい、全体とひとつになりたいという欲望が湧き上がってくる。それが愛だ。 

もし木を土から引き抜いたら、もしそれを根こそぎにしたら、その木は土の中に還って根づきたいという、すさまじい欲望を感じるだろう。なぜなら、それが木の本当の生だったからだ。今や、それは死につつある。分たれていては、その木は存在出来ない。それは大地の中に、大地とともに、大地を通して存在しなければならない。それが、愛とは何かだ。 

あなたのエゴは、あなたとあなたの大地・・・全体との間の障壁になっている。人間は窒息している。呼吸出来ない。自分の根を失っている。人間は、もはや栄養をもらっていない。愛とは、栄養を求める欲望だ。愛とは、存在の中に根を張ることだ。 

そして、もしあなたが反対の極に陥れば、その現象はより易しい。だからこそ、男性は女性に惹きつけられ、女性は男性に惹きつけられる。男性は女性を通して自分の大地を見つけることが出来る。女性を通して再び大地に根づくことが出来る。そして女性は、男性を通して大地に根づくことが出来る。彼らはお互いに補い合っている。 

全体でありたいという、死に物狂いの要求の中で、男性だけでは半分だ。女性だけでは半分だ。これらふたつの半分が出会い、混じり合い、溶け合う時、初めて人は根づき、地についた感じがする。実存の中に大いなる歓びが湧き上がる。 

あなたが根づくのは、女性の中だけではない。女性を通して、あなたは神に根づく。女性はただの扉だ。男性はただの扉だ。男性と女性は神への扉だ。愛を求める欲望は、神を求める欲望だ。 

あなたはそれを理解しているかもしれないし、理解していないかもしれないが、愛を求める欲望は、神の存在を本当に立証する。他にはどんな証明もない。人間は愛するがゆえに、神は存在する。人間は愛なしでは生きられないがゆえに、神は存在する。 

愛したいという衝動は、単にひとりでは私たちは苦しみ、そして死ぬ、ということのあらわれだ。一緒であれば、私たちは成長する。栄養を与えられ、満たされ、満足する。 

あなたは尋ねている。「愛とは何ですか?なぜ、私は愛をとても恐れているのでしょう?」 

そしてだからこそ、人は愛を恐れもする・・・なぜなら、あなたが女性の中に入り込む瞬間、あなたは自分のエゴを失い、女性は男性の中に入り込む瞬間、彼女のエゴを失うからだ。 

さて、このことが理解されなければならない。あなたは、あなた自身を失う時にのみ全体に根づくことが出来る。他に方法はない。あなたは全体に惹きつけられている。なぜならあなたは、栄養をもらっていないと感じているからだ。 

そして、全体の中に消え去る瞬間が来ると、あなたはとても恐くなり始める。非常な恐怖が湧き上がる。なぜなら、あなたはあなた自身を失おうとしているからだ。あなたは尻込みする。 

これがディレンマだ。人間はそれぞれみな、それに直面し、それと出会い、それを通過し、それを理解し、そしてそれを超越しなければならない。あなたは、両方のものが、同じものから生じていることを理解しなければならない。 

あなたは、消え去ることは美しいだろうと感じる・・・心配もなく、不安もなく、責任もなく。あなたは樹々がそうであるように、星々がそうであるように、全体の部分となるだろう。そう考えるだけでも素敵だ! 

それはいくつかの扉を開ける。あなたの実存への神秘的な扉を。それは詩に誕生を与える。それはロマンティックだ。しかし、あなたが実際にその中に入ってゆく時、その時に恐れが湧き上がる。 

「私は消え去ろうとしている。が、次に何が起こるか、誰に分かるだろう?」 

それは、砂漠に到達しようとしている川のようだ。砂漠のささやきを聞きながら・・・ためらいがちに、川は砂漠を越えて行きたい。大海の探究に向かいたい。欲望がそこにあり「私の宿命は越えて行くことだ」という微妙な感覚と確信、そして信念がそこにあるのを彼は感じる。明白な理由は何ひとつ与えられない。だが、そこには内なる信念がある。 

「私はここで終わるべきではない。私は、何かもっと大きなものを求める探求に進まなければならない」奥深くで何かが言う。「やってみろ!そして、この砂漠を超越するんだ」

すると、砂漠が言う。「私の言うことを聴きなさい。唯一の方法は、風の中に蒸発することです。彼らがあなたを連れて行くでしょう。彼らがあなたを砂漠の向こうに連れて行くでしょう」川は、砂漠を越えて行きたい。だが、疑問が生じるのはとても自然なことだ。

「そうだとしても、私が再び川になることを風が許してくれるという証拠や保証は?ひとたび消え去ってしまえば、私にはどんなコントロールも出来なくなる。そうだとしたら、私が再び同じ姿の、同じ名前の、同じ身体の、同じ川になるだろうという保証は何か?誰に分かるのか?それに、ひとたび私が風に明け渡してしまった後で、彼らが再び私に別れることを許してくれるなんて、信頼のしようがあるだろうか?」これが愛の恐怖だ。 

あなたは分かっている。愛なしでは、そこに何の歓びもないことを。愛なしでは何の生もないことを。愛なしでは何か未知のものに飢え、満たされず、虚しいことを確信している。 

あなたは空虚だ。何も持っていない。あなたは、中味が何もない器にすぎない。あなたはその虚ろであること、空っぽであることを感じ、その惨めさを感じる。そして、そこに自分を満たすことの出来る道があることを確信している。 

しかし、愛に近づくと非常な恐怖が湧き上がる。疑いが湧き上がる。もしくつろいで、本当にその中へ入ったら、自分は再び帰って来ることが出来るだろうか?自分のアイディンティティ(存在証明)や人格を守ることが出来るだろうか?そんな危険を冒す価値があるだろうか? 

そしてマインドは、そんな危険は冒すまいと決める。なぜなら、少なくとも、あなたはいるからだ・・・栄養不足で、満たされず、飢えていて、惨めだ・・・だが、少なくとも、あなたはいる。 

ある愛の中に消え去れば、誰に分かる?あなたが消え去ることになるのだ。そうだとしたら、そこに喜びがあり、そこに至福があり、そこに神がいるという保証は何なのか? 

それは、種子が土の中へと死んで行くときに感じるのと同じ恐怖だ。それは死だ。そして種子には、死から生が生じるだろうとは想像もつかない。 

OSHO, 「生・愛・笑い」(めるくまーる社)より抜粋