OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

21.なぜ親は子供に対して残酷なのか

<OSHOの講話より> 

質問:親が子供達に対して、これほど残酷なのはなぜなのですか? 
親に責任を感じさせることに意味はあるでしょうか?そして、同じ過ちを繰り返さないで済むようにするには、どうすればいいのですか? 

親が子供達に対して残酷なのは、子供達に対してある種の投資をしているからだ。親には子供達を通して実現したがっている野心がある。だからこそ、彼らは残酷になる。・・・彼らは子供達を利用したがっている。誰かを利用したいと思った瞬間、あなたは必ず残酷になる。誰かを手段として利用するという考えそのものに、すでに残酷な要素が入り込んでいる。暴力が入り込んでいる。 

決して他の誰かを手段として扱ってはならない。・・誰ひとりをとっても、その人自身が目的だからだ。 

親が残酷なのは、彼らなりの考え方を持っているからだ。彼らは子供達にこうなって欲しい、ああなって欲しいと願う。親は子供達が裕福で、有名になり、尊敬を受けるようになって欲しい。親は子供達に自分達の満たされなかったエゴを満たしてもらいたいと願う。子供達は、親の追求の手段そのものになってしまう。 

親は裕福になりたかったが、思うようにならなかった。そして今や、死が近づきつつある。遅かれ早かれ、彼は生から切り離される。彼は欲求不満を感じる。まだ到達していないのに、まだ探し求め、追求している最中なのに・・もう死がやって来ようとしている。・・これはあまりにも不当なことに思われる。 

父親は、息子にその課題を引き継いで欲しいと願う。息子は父親である彼を体現するものだからだ。息子は父親の血であり、投影であり、父親の一部であって・・父親の不死を約束するものだからだ。魂のことなど誰に分かる?それについては誰も定義出来ない。人々は信仰は持つが、信仰とは恐れから生じるものだ。そして内側の深い部分には疑いが残っている。 

どんな信仰も、その中には疑いが含まれている。疑いなくしては、いかなる信仰もあり得ない。その疑いを抑圧する為に、私達は信仰を作り出す。・・だがその疑いは、りんごの中の虫のように絶えず心を蝕み続ける。それはあなたを内側から蝕み、あなたを内側から腐敗させる。神について誰が知っていよう?魂について誰が知っていよう?そんなものは存在しないかも知れない。人間が知っている唯一の不死は、子供を通じてのものだ。・・それなら確かだ。 

父親に分かっているのは「自分は息子の中に生き続ける、じきに自分は死んで葬られるが、息子は後に残る。だが、自分の願望は未だにかなえられていない」ということだ。父親は、その願望を息子に押し付け、満たされなかった願望を息子の意識に植え付ける。たとえば、こんな具合に。「お前は、かなえられなかった私の願望を満たさなければならない。お前がそれをかなえてくれれば、私は安らかになれる。かなえてくれれば、お前は父親に対する恩義を返したことになる。だが、それを満たさなければ、お前は私を裏切ったことになる」 

ここから残酷な要素が入り込む。こうなると、父親は自分の願望に合うように子供達を型にはめようとし始める。父親は、子供にはその子自身の魂があることを忘れている。その子自身の個性があり、自ずと開けてゆく彼自身の内側の成長があることを忘れている。父親は自分の考えを押し付ける。彼は子供を破壊し始める。 

父親は息子を愛していると思っている。だが彼が愛しているのは、自分の野心だ。彼が息子を愛するのは、ひとつには息子が道具になってくれるからだ。こうして息子は手段となる。これこそ残酷さの何たるかだ。 

あなたは私にこう尋ねている。親が子供達に対して、これほど残酷なのはどうしてなのかと。親達はそうならざるを得ない。なぜなら彼らには自分達の考えがあり、野心があり、願望があるからだ。それは満たされぬままになっている。親達はそれをかなえたいと願っている。自分の子供達を通して生き続けたいと願っている。当然の成り行きとして、彼らは子供達を刈り込み、切断し、型にはめ、特定のパターンを与えるようになる。こうして子供達は破壊される。 

こうした破壊は、必然的に起こる。・・地上に、愛そのものの為に愛する、新しい人類が生まれない限り・・新しい親の在り方が考え出されない限り、こうした破壊は、必然的に起る。 

あなたは子供を愛するにも、愛することの純粋な喜びの為に愛する。子供を神からの贈り物として愛する。あなたが子供を愛するのは、神が、それほどにも・・あなたに、大きな至福をもたらしてくれたからだ。あなたが子供を愛するのは、子供が生そのものであり、あなたの家、あなたの存在のもとに身を落ちつけた、未知なる世界からの客人だからだ。あなたを巣として選んでくれたからだ。あなたは感謝の気持ちを持って子供を愛する。 

本当に子供を愛していれば、あなたは子供に自分の考えを与えたりはしない。愛は、いかなる考えも、いかなるイデオロギーも与えない。愛は自由を与える。あなたは子供を型にはめようとしなくなる。子供がミュージシャンになりたがったとしても、子供の気持ちに水を差そうとしなくなる。しかも、あなたには十分過ぎるほどよく分かっている。ミュージシャンなど正業とは言えないし、将来、貧しい生活を送ることになる。決して大金持ちにはなるまい。決してヘンリー・フォードのような人物にもなるまい。あるいは、子供が詩人になりたがれば、あなたには我が子がいつまでも乞食のままだろうと想像がつく。だがそう分かっていても、子供に敬意を払っているがゆえに、あなたはそれを受け入れる。

愛はいつでも敬意に満ちている。愛とは尊敬することだ。 
敬意を払いなさい!子供の選択が、その子を通して成就されることを求めている神の願望であるなら、そうさせてやったらいい。あなたは干渉せず、立ちはだかって邪魔することもない。こんな説教をすることもない。「これは間違っている。私の方が人生をよく知っているし、経験も積んでいる。お前など人生を知りもしないし、人生経験もゼロだ。私はお金の有難みを知っているが、詩ではお金を稼ぐことなんか出来はしない。それより政治家になりなさい。少なくとも技術者か医者になるんだ」 

だが、子供はきこりになりたがる。あるいは、靴磨きになりたがり、さもなければ、ただの浮浪者になりたがる。いずれにせよ、子供は生を楽しみたがっている・・木陰で涼み、砂浜で寝そべり、世界を放浪したい。愛していれば、あなたは干渉しない。あなたはだたこう言う。 

「いいだろう、私の祝福を受けて自分の道を行くがいい。お前自身の真実を探し求めなさい。何であれ、お前の好きなものになるがいい。私はお前の行く手をさえぎったり、私自身の経験を持ち出して、お前を困らせたりはしない。私の経験は私自身のものであり、お前は私ではないのだから。お前は私を通してやって来た。だが、お前は私ではない。お前は私のコピーではないし、私のコピーであるべきでもない。お前は私の真似をすべきではない。私は私自身の人生を生きて来た。お前は自分自身の人生を生きればいい。私自身に出来なかった経験を、お前に肩代わりさせて苦しめるつもりはない。実現出来なかった私の願望を、お前に押し付けて苦しめるつもりはない。お前を身軽なままにしておいてあげよう。それだけでなく、お前の力添えをしてあげよう。何であれ自分がなりたいものになりなさい。私の祝福と援助を惜しみなく与えよう」 

子供達はあなたを通してやって来る。だが彼らは神に属している、全体に属している。子供達を所有してはならない。子供達が自分に属するなどという考えを抱かないことだ。どうして、あなたに属することなどあり得よう?子供は神に属するというヴィジョンが、ひとたびあなたの中に芽生えたら、もう残酷さの入り込む余地はない。 

・・あなたはこう尋ねている。「親が子供達に対して、これほど残酷なのはなぜなのか?親に責任を感じさせることに意味はあるのか?」と。 

それは無駄なことだ。私に言わせれば、親に責任を感じさせることには何の意味もない。なぜなら彼らもまた、自分の親の為に苦しみ、その親もまた・・と。代々そんなことが繰り返されて来たからだ。理解することが必要だ。罪を着せる相手を見つけたところで仕方がない。あなたはこう言って済ますことは出来ない。「私が駄目になったのは、親が私を駄目にしたからだ。私に何が出来るというんだ?」親達が破壊的なことは私にも分かっているが、油断なく醒めていることが出来れば、あなたは両親があなたの周りに作り出し、張り巡らしたパターンから抜け出すことが出来る。 

あなたにはいつでも、自分の周りに仕掛けられたどんな罠からでも抜け出すだけの力がある。あなたの自由はこれまでずっと封じ込められたままだったかも知れない。だが、自由はあくまでも内在的なものであり、完全に破壊されてしまうことなどあり得ない。自由は、いつでもそこにあり、あなたは再びそれを見い出すことが出来る。おそらくそれは困難で、努力が必要で骨の折れる仕事かもしれないが、不可能なことではない。 

責任を投げ出してしまうだけでは、何もならない。そんなことをすれば、あなたはただ無責任になってしまうだけだ。これこそフロイト派の精神分析が人々にして来たことであり、彼らのなした害悪だった。精神分析家のところへ行くと、彼はあなたを、この上なくいい気分にさせてくれる。「あなたに何が出来るというのです?あなたの母親はこんな風でした、父親はこんな風でした、あなたの育てられ方は間違っていた。だからこそ、あなたはこういった問題で悩んでいる」あなたは気分がいい。あなたには何の責任もないからだ。 

キリスト教は2000年もの間、あなたに責任を感じさせて来た。あなたに罪悪感を感じさせ、自分は罪人だと思わせて来た。今度は精神分析が、その正反対の極に走る。精神分析は、ただただあなたは罪人ではない。罪悪感を感じる必要はない・・あなたは完全にオーケーなのだと言う。あなたは罪悪感も罪のことも、すっかり忘れてしまう。責任があるのは他の人なのだから!キリスト教は、罪悪感という考えを作り出すことによって、大いに害をなして来た。今度は精神分析が、無責任という考えを作り出して、その正反対の立場から害をなしている。 

あなたは次のことを覚えておかなければならない。親があれこれするのは、そうするように彼ら自身が教えられたからだ。彼らの両親がそう教えて来たからだ。その両親もまた、彼ら自身の両親に育てられた。その両親とて天から降って来た訳ではなかった。だとしたら、さかのぼって責任を投げ返したところで何になる?そんなことをしても何にもならない。何も問題を解決する役には立たない。そうしたところで、あなたが罪悪感から解放されることにしか役立たない。 

それはそれで結構なことだし、好ましい側面だ。精神分析の有益な側面は、それがあなたを罪悪感から解放してくれることにある。そして有害な側面とは、精神分析があなたを、そこに置き去りにしてしまうことだ。精神分析は、あなたに責任を感じさせない。 

罪悪感を感じることと、責任を感じることは、まったく別のことだ。私があなたに教えるのは、責任を引き受けることだ。私が責任という時、何を指しているかだが、あなたは、自分の両親に対しては責任がない。あなたは、いかなる神に対しても責任がない。いかなる聖職者に対しても責任がない。あなたに責任があるのは、自分の内なる実存に対してだ。 

責任とは自由のことだ。責任とは次のような考え方のことだ。「私は自分自身の人生を取り戻さなければならない。もうたくさんだ!確かに私の両親は害になることをして来た・・だが何であれ、彼らに出来るだけのことをして来たのだ。彼らがして来たことは、善悪こもごもだった。だが今や、私は一人前の人間になった。私はあらゆることを自分の手に引き受け、自分の中に自然に起こって来るやり方で生き始める。今から私は自分の人生に全精力を傾けなければならない」そう感じた瞬間、あなたは自分の中に非常に力強いものが湧き起こって来るのを感じる。 

罪悪感は、自分を弱々しい存在と感じさせるが、責任感は力強い自分を感じさせてくれる。責任を負うことによって、あなたは熱い心と自信と信頼を取り戻すことが出来る。 

それがサニヤスの意味だ。サニヤスは、あなたをキリスト教やヒンドゥ教、ジャイナ教イスラム教から自由にしようとする。サニヤスはまた、あなたをフロイト精神分析の類からも自由にしようとする。サニヤスとは、あなたが他のどの声に従うのでもなく、自分の内奥の声に従って、あなた自身の生を真摯に生きることを目指すものだ。 

聖書に従うのでも、コーランに従うのでもない。たとえコーランの中で、神が特定の話し方で語ったとしても、それは特にイスラム教徒に向けて語られたものであり、あなたに向けて語られたものではない。コーランは、神がモハメッドと交わした対話であり、神があなたと交わした対話ではない。あなたは自分自身の神と対話を見い出さなければならない。あなたは自分自身のコーランを見つけなければならない! 

たとえイエスが、あの美しい言葉を語ったとしても、それはイエスと全体性との対話から生まれたものだ。もうそれを復唱し続けることはない。イエスの言葉は、あなたには無意味だ。それは、あなたの中に生まれたものではなく、あなたの一部ではない!それは造花のようなものだ。プラスチックの薔薇の花をこしらえて、薔薇の茂みにつるしておく・・ちょうどそれと同じようなものだ・・それは、薔薇の茂みそのものから咲き出た薔薇の花と同じではない。 

あなたは人の目を欺くことも出来る。知らない人は騙されるかも知れない。人々にはたくさんの美しい花が、薔薇の茂みに咲いているように見えるのに、それがすべてプラスチックの花だということがあるかもしれない。だが、あなたにも薔薇の茂みは騙せない。自分自身を騙すことは出来ない。あなたはイエスの言葉を繰り返すことは出来る。だがその言葉は、神によってあなたの耳に発せられたものではない。その言葉は、あなたに向けて語られたものではない。あなたは他の人に宛てられた手紙を読んでいるようなものだ!それは不法行為だ、あなたはその封筒を開けるべきではない。あなたは自分自身の全体との関わりを探求し、見い出さなければならない。 

その関わりを私は応答(リスポンス)する能力(アビリティ)、すなわち責任(リスポンスィビリティ)と呼ぶ。応答とは、自発的にかかわる能力だ。応答とは、誰に従うのでもなく、自分のハートに従って、生の状況に応える能力だ。自分がそんな風に生きていると感じ始めた時、あなたはひとりの個人となる。その時、あなたは自分自身の足で立っている。 

そして、覚えておきなさい。あなたが自分の足で立った時、その時初めて、いつの日か足なしで歩き、翼なしで飛ぶことを望めるようになる。そうならなければ、そんな日は望みようがない。そして、あなたはこう尋ねている。同じ過ちを繰り返さないで済むようにするには、どうすればいいのかと。 

ただ、こういった過ちを理解しようとしなさい。なぜ、こういった過ちが犯されるのか?
その核心を見抜いたら、あなたはもう同じ過ちを犯さない。真実を見抜くことが変容につながる。真実には人を解放する力がある。なぜ、あなたの両親があなたを破壊して来たのか、その核心を理解するだけでいい。 

彼らの願望そのものは良いものだったが、彼らの意識は十分ではなかった。彼らは、意識的な人々ではなかったからだ。彼らは、あなたに幸せになって欲しかったのだ。だからこそ彼らは、あなたに裕福で人の尊敬を受ける人物になって欲しいと願った。だからこそ彼らは、あなたの願望を捻じ曲げ、切り詰め、あなたを型にはめ、組み替え、特定の人格を与え、あれこれ抑圧し、多くのことを強制したりもした。彼らは何であれ、出来る限りのことをした。彼らの願いは正しい。彼らは、あなたに幸せになって欲しかった。ただ、彼らは自分達が何をしているかに気づいていなかった。彼ら自身が幸せの何たるかを決して知らなかった。彼らは不幸な人々だった、そして無意識だった。 

彼らの願望は、もっともなものだった・・彼らに腹を立ててはいけない。彼らは何であれ、出来る限りのことをしたのだ。彼らを憐れみこそすれ、腹を立ててはいけない。怒りを感じてはいけない!彼らにも、どうしようもなかったのだから。 

彼は、ある罠にとらわれていた。幸せの何たるかを知ったためしもなく、幸せな人とは金持ちのことだという観念を持っていた。彼らは生涯を通して金のために働いていた。全生涯を金を稼ぐことで空費した。だが依然として、金が幸福をもたらすという馬鹿げた考え方を捨てられずにいる。そして彼らは、あなたの存在までも毒そうとした。彼らには、あなたを毒すつもりなどなかった・・彼らにすれば、あなたに万能の秘薬を注いでいるつもりだったのだ。彼らの夢は良いものだったし、願望も良いものだったが、彼ら自身が不幸で、無意識な人々だった・・だからこそ、彼らはあなたを損なうことになった。 

そろそろ目を覚ましなさい!幸福を探し求めなさい!どうしたら幸せになれるか見つけ出しなさい!瞑想し、祈り、愛しなさい!情熱を傾けて、強烈に生きなさい!幸福の何たるかを知れば、あなたは誰に対しても残酷な態度は取らない。そんなことは不可能だ。生を少しでも味わったならば、決して誰に対しても破壊的な態度など取れない。だとしたら、どうして自分の子供達に対して、破壊的でなどあり得るかね?あなたは誰に対しても、決して破壊的ではあり得ない。

 

・・意識を持つようになれば、それだけで十分だ。「同じ過ちを繰り返さないで済むようにするには、どうすればいいか?」などと尋ねる必要はない。もしあなたが不幸で、意識していなければ、あなたは同じ過ちを繰り返さざるを得ない。必ず同じ過ちを犯すことになる!それは必然だ。あなたは同じ過ちを繰り返すよう運命づけられている。 

だから私には、どうすればそれを避けられるかという手がかりを与えることは出来ない・・私に出来るのは、あなたにある洞察を与えることだけだ。その洞察とはこういうものだ。あなたの両親は不幸だった・・どうか、あなたは幸せになりなさい!あなたの両親は無意識だった・・あなたは意識的になりなさい!そしてこのふたつ・・意識的であることと幸福は・・実は別のものではなく、同じコインの裏表だ。 

まず意識的になることから始めなさい。そうすれば、あなたは幸福になれる!そして、幸せな人間は暴力的にはならない。そして、いつでも覚えておきなさい。子供達は大人とは違う。子供達に大人と同じことを望むべきではない。彼らは子供なのだから!彼らには、まったく違ったものの見方と考え方がある。大人の態度を彼らに強制し始めるべきではない。子供は子供のままにしておいてやりなさい。二度と廻って来ることのない子供時代なのだから。誰でも失った後で、子供時代を懐かしく思い返す。誰でも子供時代は、楽園のような日々だったと感じる。彼らの邪魔をしてはならない。 

ときには子供達のものの見方が、あなたには受け入れがたいこともある。だがそれは、あなた自身が子供の見方を忘れてしまったからだ!子供は一生懸命木に登ろうとする。そんな時、あなたはどうするだろうか?あなたはすぐに心配になる・・子供が木から落ちるのではないか?足を折るのではないか?何かまずいことが起こるのでは?そして、あなたは心配になって駆け寄り、子供を制止する。木に登ることが、どんなに楽しいことか分かっていれば、あなたは子供が木登りを覚える手助けをしてやるだろう!木登りを教えてくれる学校に子供を通わせていることだろう。子供を制止することはなかっただろう。 

あなたの心配はもっともなことだ・・それは愛の表現だ。確かに子供は木から落ちるかもしれない。だが子供を木に登らせないことは、子供の成長を止めてしまうことだ。木に登ることには、とても重要な何かがある。木登りをしたことが一度もなければ、その子はある意味で貧しいままになってしまう。ある種の豊かさを逃すことになる。それは生涯の損失だ。あなたはその子からある美しい経験を奪ったことになる。そして実際に木に登る以外に、その経験の豊かさを知る方法はない!大きくなってしまうと、木に登るのはもっと難しくなる。そんなことは馬鹿げていて、くだらないと思うようになるからだ。 

子供を木に登らせておきなさい。もし心配なら、子供を手助けしなさい。ついていて教えてやりなさい。子供と一緒にあなたも木に登ったらいい!子供が落ちないように、彼が木登りを覚える手助けをしてやりなさい。それに時々木から落ちたところで、さほど悪いことではない。経験しないままに終わるより、まだましだ・・ 

子供は雨の中に飛び出して行きたがる。雨に打たれて街中を駆け回りたがる。すると、あなたは心配になる。子供が風邪を引くかもしれない。肺炎か何かになるかもしれない・・そして、あなたの心配はもっともだ!だが、それなら子供が風に対する抵抗力をつけるよう何か手を打ちなさい。子供を医者に連れて行きなさい。子供にどんなビタミンを与えれば、雨の中を走り回って踊るのを楽しんでも、子供が風邪を引いたり肺炎になったりする心配をせずにいられるか、医者に訊くといい。だが子供を止めてはいけない。雨が降っている時、通りに飛び出して踊るのはとても楽しいことだ。その喜びを逃すのは、何か貴重なものを逃すことだ。 

もし幸福を知っていて醒めていれば、子供の立場に立って、子供がどう感じているか感じることが出来る。子供が飛び跳ね、踊り、叫んだり、金切り声をあげたりしても、あなたは新聞を読んでいる。くだらない新聞に向かっている。しかもあなたは、そこに何が書いてあるか知っている・・それはいつも変わりばえしない。それでもなお、あなたは邪魔されたと感じる。新聞の中には何もありはしない。それでも、あなたは邪魔されたと感じる。あなたは子供を制止する。「大きな声で叫ぶんじゃない!お父さんの邪魔をするんじゃない!お父さんは大事なことをしている・・新聞を読んでいるのだから!」 

そしてあなたは、そのほとばしるエネルギーを止めてしまう。その流れを止めてしまう・・あなたは、その輝きを止めてしまう。生を止めてしまう。あなたは暴力的になっている。 

そして、私は子供がいつでもあなたの邪魔をすることを許されるべきだとは言っていない。だが、100回のうち90回までは、子供達は不必要に妨げられている。そして、その90回に関して子供のすることを妨げずにおけば、子供は理解してくれる。 

あなたが子供を理解すれば、子供もあなたを理解する・・子供は非常に敏感に応えてくれる。決して妨げられずにいられると知っていれば、あなたが「今はやっていることがある、お願いだから・・」とひとこと言うだけで、子供は分かってくれる。いつも目を光らせていて、自分を叱りつける親の言葉ではなく、何でもさせておいてくれる親の言葉だということが分かる。子供は、違った見方をするようになる。 

「さあみんな静かにして」先生が言った。「ピンの落ちる音が聞こえるくらい静かにして」 
教室は深い静寂に包まれた。約2分後、後ろの席から苦しそうな叫びが上がった。 
「お願いですから、ピンを落としてください」 

ある小さな少年が、初めて学校に行った日のことだった。付き添っていた母親が帰ってしまった途端に、少年は、わあわあ泣き出した。担任の先生と女の校長先生が、なだめたりすかしたりしたが、少年はずっと泣き続け、ついに昼ご飯の時間が近づいてくるに及んで、担任の先生は堪忍袋の尾を切らした。「いい加減にお黙りなさい!もうお昼の時間よ。それにお昼を食べて、2,3時間もしたら、家に帰ってまたお母さんに会えるでしょ」その途端、少年は泣きやんだ。「そうなの?僕、16歳になるまで、ずっとここにいなければならないのかと思った!」 

子供には、子供なりの見方や理解の仕方、流儀というものがある。それを理解しようとしてみなさい。理解ある人は必ず、自分と子供の間に深い調和が生まれることに気づく。自分の考え方に閉じ込められたまま、相手の考え方を受け入れることが出来ないのは、愚かで無意識な、理解力のない人々だ。 

子供達は、この世界に新鮮さをもたらす。 
子供達は、新たに生み出された意識だ。子供達は、神から生に通じている新しい入口だ。
敬意を払いなさい。理解しようとしなさい。 

そして、幸せで注意深くありさえすれば、どうしたら同じ過ちを繰り返さずに済むかなどと、思い煩う必要はない・・あなたはそんな間違いを犯すことはない。だが、あなたは自分の両親とは、まったく違った存在にならなければならない。意識がその違いをもたらす。 

OSHO,「ニューチャイルド」(和尚エンタープライズジャパン株)より抜粋 
(Walk Without Feet,Fly Without Wings And Think Without Mind )