OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

26.創造性とは何か?

<OSHOの講話より> 

創造性は何かの活動と特に関係はない。絵を描くこと、詩作、ダンス、歌といったような活動それ自体は、創造的でも非創造的でもない。あなたは非創造的なやり方で絵を描くことも出来る。非創造的なやり方で歌を歌うことも出来る。創造的なやり方で床を掃除することも出来る。創造的なやり方で料理を作ることも出来る。創造性とは、その行っている活動にあなたがもたらす質だ。それは態度であり内なるアプローチだ・・あなたがどのように物事を見るか、という。 

第一に覚えておく事は、創造性を特別な何かと限定しないことだ。もし誰かが創造的だったら、その人がすることは何であれ、たとえ歩くことでさえ、そこに創造性があるのが分かる。たとえ彼が静かに坐り、何もしていなくても、その何もしない事が創造的な行為だ。菩提樹の下で何もせずに坐っている仏陀は、これまでの世界の中でもっとも偉大な創造者だ。 

いったんあなたがそれを理解したら・・創造的か非創造的であるかどうかは、あなた自身、その人自身のことだと・・そうすれば問題は消える。誰もが絵描きではあり得ないし、そんな必要もない。もし皆が絵描きだったら、それはとても醜い世界だろう。生きるのが難しくなる。誰もがダンサーではあり得ない。そんな必要もない。だが、誰もが創造的であることは出来る。 

あなたのすることが何であれ、もしそれを喜びに満ちて、愛情を持って行ったなら、もしあなたの行為が単なるお金儲けでなかったら、それは創造的なものになる。もしそれを通じて内側に成長するものがあるのなら、もしあなたに成長をもたらすのなら、それはスピリチュアルで創造的で聖なるものだ。 

あなたが創造的になればなるほど、あなたはより神聖になる。世界のすべての宗教は、神は創造者だと言って来た。私は神が創造者かどうかは知らないが、ひとつだけ知っている。それはあなたが創造的になればなるほど、よりあなたは神に近くなる、ということだ。あなたの創造性が最高潮に達する時、あなたの全人生が創造的になる時、あなたは神性の中で生きる。 

あなたがしていることを愛しなさい。何を行っているかに関わりなく、行っている間は瞑想的でありなさい。もしあなたが愛を持って床を掃除するのなら、目に見えない絵を描くことだろう。あなたは途方もない喜びの瞬間を生きたので、それがあなたに内なる成長をもたらした。創造的な行為の後、あなたは決して同じではない。その価値は本質的なものだ。些細な事柄が、愛と喜びで触れられると偉大なものになる。 

もし自分のことを創造的でないと信じていたら、あなたは非創造的になるだろう。信じることは、ただ信じるというだけではない。それは扉を開きもするし、閉じもする。あなたがいつも「私は創造的でない」と言い続けている為に、その思い込みによってあなたのエネルギーは流れなくなる。 

これは誰にでも言われて来たことだ。創造的であると受け入れられる人は、ごくわずかしかいない。百万人に一人くらいのごく少数の絵描き、ごく少数の詩人、といったような。これは馬鹿げている。どの人間も生まれつき創造者だ。子供達を見てごらん。すると子供達が皆、創造的だと分かるだろう。私達は少しずつ子供の創造性を壊していき、間違った思い込みを押し付け混乱させる。私達は、子供をどんどん経済的で政治的で野心的にしていく。 

野心が入り込むと創造性は消える。野心的な人間は創造的にはなれない。どんな行為でも、その行為自体を愛することが出来ないからだ。野心家は絵を描いている最中でも、その先を見ている。彼は「私はノーベル賞をもらえるだろうか?」と考えている。彼はいつも未来にいる。しかし創造的な人は常に現在にいる。私達は創造性を壊している。誰も非創造的に生まれついてはいないが、私達は99%の人を非創造的にする。 

しかし、責任を社会に転嫁するのは役に立たない。要は自分の人生を自らの手に持つことだ。間違った条件づけや、子供時代に与えられた催眠術の自動暗示を落とすことだ。全ての条件づけを浄化しなさい。そうしたら突然、あなたは自分が創造的であることが分かるだろう。 

在ることと創造的であることは同じ事だ。在る、ということと、非創造的なことは繋がらない。だがその不可能なこと、その醜い現象が起こっている。なぜならあなたの全ての創造性の源泉に栓がされ、塞がれ、壊され、あなたの全エネルギーは、社会が儲かると考える活動に無理やり向かわされているからだ。 

私達の生への全ての態度は金志向、権力志向だ。そして権力は破壊的で、創造的ではない。お金を追いかける人は破壊的になる。なぜなら、そのお金は多くの人から取られたものだからだ。その時にだけあなたはお金を持てる。権力とは、すなわち多くの人々を無力にし、壊してしまうことだ。そうして初めて権力を持つことが出来る。 

これらは破壊的な行為だ。創造的な行為は世界に何かを与える。創造性は世界から決して何物も奪わない。創造的な人は世界の美しさをさらに増す・・ここかしこに歌や絵・・創造的な人は世界をより躍動的にし、より楽しくし、より愛で満たし、より瞑想的にする。彼がこの世を去る時には、より良い世界を残して死んでいく。世の人に知られようと知られまいと、それは関係ない。彼はとてつもなく満たされて去っていく。彼の人生は何か本質的な価値のあるものだったからだ。 

私は別に、創造性が権力や名誉やお金をもたらすとは言っていない。創造性があなたに厄介事を引き起こすかも知れないし、貧しい人生を生きざるを得ないかも知れない。私があなたに約束出来るのはただひとつ、あなたは内側深くで可能な限り最高に豊かで喜びと祝祭に満ちている、ということだ。あなたの生は祝福の生になるだろう。 

外面的には、あなたは成功しないかも知れない。だが世間のいわゆる成功は、内なる世界の深くでは失敗ということだ。自分自身を失ってしまったら、全世界が自分の支配下にあっても、それで何をするというのだろう。全世界を所有したとしても、自分を持っていなかったら何をするというのだろう。 

創造的な人は、自分自身の存在を持っている。彼は主人だ。お金や権力、名誉を追いかける人は乞食だ。彼はいつも物乞いをしている。彼は何ひとつ世界に与えるものがない。与える人でありなさい。あなたが可能なものは何であれ、分かち合いなさい。私は些細なことと偉大なことの間に、何の区別もつけない。もしあなたが心から笑うことが出来たら、誰かの手を取りなさい。それはとても偉大な創造的な行為だ。あなたのハートに誰かを抱き寄せなさい。そうしたらあなたは創造的だ。ただの愛に満ちた一瞥が、その人の全世界を変えることが出来る。 

自分が非創造的だという信じ込みを捨てなさい。どんな風にこの信じ込みが作り出されたかは分かる。あなたは大学の金メダル受賞者ではないかもしれない。クラスで一番の成績ではなかったかもしれない。あなたの絵は評価されなかったかもしれない。あなたが笛を吹いたら、隣人が警察に通報したのかもしれない。だが、こういうことがあったからといって、自分が非創造的だと間違って信じてはいけない。おそらくあなたは、他人をマネしたからそうなったのだろう。 

「創造的であること」に対する考え方は、非常に限定されている・・ギターやフルートを演奏するとか、詩を書くというような。だから人々は詩という名目で、くだらないことを書き続ける。あなたは自分は何が出来て、何が出来ないのかを見つける必要がある。あなたが暗闇で手探りしなければいけない、というのは分かる。それはあまりはっきりとしてはいない。だが、生とはそういうものだ。それはいいことだ。そのまさに探究の中で何かが育つ。 

あなたがこの世界にやって来た時に、もし存在から生の海図が与えられるのなら、あなたの生は機械的なものになるだろう。予見され得るのは機械だけだ。人間ではない。人はいつもあらゆることに開いていて、潜在的な可能性がある。あなたは選ばなければならないし、感じ取らねばならない。もしあなたが人生を愛していたら、きっと見つけられるだろう。 

もしあなたが、何か他のものを愛したら問題が起こる。あなたがお金を愛して、かつ創造的であろうとしたら、それはあなたには出来ない。お金への野心が、あなたの創造性を破壊する。もし名声が欲しければ、創造性については忘れなさい。名声は簡単に手に入る。あなたが破壊的で暴力的で競争的だったら、もしあなたが人々を殺し、そして破壊したら・・ 

全歴史が殺人者の歴史だ。あなたが殺人者になったら、簡単に有名になるだろう。あなたは首相や大統領になれる・・だが、これは全部仮面だ。その仮面の背後には、きっと恐ろしい暴力的な人々が隠れて笑っていることだろう。そしてその笑いは政治的で外交的だ。

私は別に、創造的な人には名声は決してもたらされないと言ってはいない。だがそれは非常にまれだ。名声がもたらされるのは、ほとんど常に創造的な人が亡くなってからだ。それは常に死後のことだ。その人が偉大であればあるほど、人々が彼を理解するのに時間がかかる。偉大な人が生まれた時は、その人を判断する基準がないからだ。彼は自分自身の価値を創る必要がある。そして彼が価値を創るまでに彼は去ってしまう。創造的な人が認められるまでには何千年もかかり、またその時にもそれは確かではない。 

だからあなたが、創造性という名前で何か別のものを探していたら、その時は創造的であるという考えを落としなさい。少なくとも意識的にゆっくり、あなたがやりたいことは何であれやりなさい。決して仮面の後ろに隠れてはいけない。 

もしあなたが、本当に創造的でありたいのであれば、その時はお金や成功、名声、社会的な地位という問題はない。もしそうであれば、あなたは自分の行為を楽しみ、どの行為も本質的な価値を持つ。あなたは踊るのが好きだから踊る。もし誰かが評価したらそれはいい、あなたは感謝を感じるだろう。もし誰もあなたを評価しなくても、あなたが気にかける事はない。あなたは既に満たされている。 

だが、この非創造的だという信じ込みは危険だ・・それを落としなさい!誰も非創造的ではない。木々でさえ、岩でさえそうだ。木を愛している人は知っている・・どの木も、また岩も他の誰とも違う、それ自身のスペースを持っていることを。 

あなたは人間であり、まさにこの存在の最高点だ。そしてあなたは意識だ。どの人も、この世界に特定の使命を持ってやって来る。何か果たすべきこと、伝えるべきメッセージ、完成すべき仕事を持っている。あなたは偶然にここにいるのではない。全体があなたを通して何かをなそうと意図している。 

OSHO, A Sudden Clash of Thunder より抜粋