OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

28.瞑想の道なき地図

<OSHOの講話より> 

途上にある者、彼らは準備される必要がある。途中の落とし穴について知らされていなければならない。この道は単純ではない。 

たくさんの場所で、たくさんの道が枝分かれしている。行き止まりになる道を選ぶこともあり得る。だが、そこが行き止まりであることが分かるのは、何年も何年も経ってから、時にはいくつもの生涯を経てからだ。 

するとあらゆる努力、すべての旅が無駄になり、メインロードから迷ったその地点まで、もう一度戻らなければならないことになる。しかも、そこには里程標はない。手に入る決まった地図など何もなく、作ることも出来ない。 

神は変化し続けるからだ。神の存在とは絶えざる変化だ。変化すること以外、何もかも変化し続ける。 

だから決まった地図などあり得ない。与えることが出来るのはヒントだけだ。これはヒントだ。そのヒントが分かれば、あなたは正しい道に従うことが出来、誤る可能性がある時にはいつでも、その理解があなたを助けてくれる。 


※無力感を感じてはいけない 

まず、急いではいけない。そして絶望してはいけない。今日失敗しても、無力感を感じてはいけない。今日失敗したのなら、それが自然だ。何日か失敗し続けているなら、それが自然だ。 

そして当然だが、内なる世界に入って行く為には、何度も失敗しなければならないだろう。あなたは、まだ一度もそこに行ったことがないのだから。 

あなたが持っている技量と能力はすべて、外の世界での活動に関するもの、外向的なものだ。あなたは内側に入る方法は知らない。 

人々は「内に入る、内に向かう」という言葉を耳にするが、それはその人達にはあまり意味を持っていない。彼らが知っていることは全て外に出る方法、知っていることは全て他人に向かうことだ。 

人々は自分自身に行き着く道など知らない。失敗は起こらずにはいない。過去の習慣ゆえに、あなたは何度も失敗することになる。希望をなくしてはいけない。 

成熟はゆっくりとやって来る。成熟は確かに間違いなく来るが、それには時間がかかる。そしていいかね。その人その人で、それは違うペースでやって来る。 

だから比較してはいけない。「あの人はあんなに静かに、あんなに喜びに溢れて来ているのに、私はまだそうなっていない。私はどうなっているのか?」と考え込んではいけない。 

誰とも比較してはいけない。ひとりひとりが過去生において、別な道を生きて来ている。この生涯においてさえ、人々は違った生き方をして来ている。 

だからそれは、あなたの技量、あなたのマインド、あなたの条件づけ、あなたの教育、あなたが育てられて来た宗教、あなたが読んで来た本、あなたが一緒に住んで来た人々、あなたが自分の中に生み出して来た波動に依存することになる。 

それは数えられる限りの、千とひとつのことに依存することになる・・・だが、それが来ることは確かで、間違いない。必要なことはただ忍耐、黙って実行すること、辛抱強く実行することだ。 

すると集中が起こり、成熟がやって来る。それどころか成熟している人と集中している人とは、同じ現象のふたつの側面に過ぎない。 

子供達が集中出来ないのはその為だ。子供達は絶えず動いている。子供達はひとつの所にじっとしていることが出来ない。あらゆることが彼らを惹きつける・・・ 

車が通り過ぎた、小鳥の声がする、誰かが笑い出した、近所の人がラジオをつけた、蝶々が飛んでいる・・・あらゆることが、全世界が彼を惹きつける。 

子供達はただ、ひとつのことから別のことに飛び移るだけだ。子供は集中出来ない。子供は、他の全てが消えてしまう程に、存在しなくなってしまう程に、ひとつのことを完全に、全身全霊で生きることは出来ない。 

成熟と共に集中が起こる。成熟と集中は、ひとつのことのふたつの名前だ。 

だがまず覚えておくべきことは、それがゆっくりとやって来るということだ。比較しないこと、急がないことだ。 


※リラックスしなさい 

2番目は、いったん内に向かう道に従うと決断したら、いったんサニヤシンになると、瞑想者になると決意したら、いったん今や内なるものが自分を呼んでいる、「私は誰か?」の問いを探索し探究しようと決意したら、覚えておくべき第1のことは、緊張するような方法は選ばないということだ。 

ごくリラックスした方法を選びなさい。必ず自分の内なる旅を快適なものにしなさい。今度は、これがこの上もなく重要なことだ。 

通常、誰にもこの最初の間違いが起こる。人々は、自分の内なる旅を不必要に複雑で不快なものにし始める。これが起こるには、ある理由がある。 

生活の中で、通常人々は他人に腹を立てている。通常の生活で、彼らは他人に対して暴力的だ。普通の外向的な旅の中で、彼らはサディストだ。 

他人を苦しめることを楽しみ、他人を負かすことを楽しみ、他人を凌駕すること、他人を征服することを楽しむ。彼らの喜びは、ひたすら他人に劣等感を持たせることにある。これが、あなた達の外向的な旅の何たるかだ。 

人が内側に向かう時、問題が起こる。この怒り、敵意、攻撃、暴力をどうするか?今度はひとりだ。 

つまり、彼は自分自身を苦しめ始め、自分自身に腹を立てることになる。それが、あなた達のいわゆるマハトマ達だ・・・ 

外の世界に向かう旅はサディズムの旅だった。内側に向かう旅はマゾヒズムの旅になる・・・自分自身を苦しめ始める。 

そしてそこには、ある密かな喜び、自分自身を苦しめることの倒錯した喜びがある。歴史を調べてみればあなたは驚くだろう。人間が自分に対して何をして来たかが信じられないだろう。 

あらゆる愚かしさが起こり得たのは、単純な間違いのせいだ。そしてその間違いとは、人生で、あなたは他人の生を難しくしようとするということだ。内側に向かい始めると、この古いマインドが自分の生を難しいものにしようとする可能性がある。 

いいかね、内なる探求者は快適でなければならない。それは快適な状況でしか、リラックスした状態でしか何事も起こり得ないからだ。緊張し、不快な状態にあればマインドは心配し、あなたは静かな空間の中にいない。 

お腹が空いていて、どうして静かなスペースになどいられるかね?ところが人々は断食することを教えて来た。そして彼らは、断食が瞑想の役に立つと言う。 

時には断食が、より健康になるのに役立つことはあるだろう・・・肉体から数ポンド、ぜい肉を取ってくれる・・・だが、断食は瞑想の助けにはなり得ない。 

真ん中にいることこそが、正しい道だ。黄金の中庸だ。 

飢えを感じないように食べたらいい。しかし、食べ過ぎて眠くなる程には食べてはいけない・・・それで瞑想は容易になる。 

中庸はあらゆる道、あらゆる状況で従われなければならない。居心地よくしなさい、寛ぎなさい。自分を苦しめる必要はない。無用な困難を作る必要などない。 

怒りの、暴力の、攻撃のマインドを捨てなさい。そうして初めて内側に入って行くことが出来る。寛いだ意識の中でこそ、人はもっともっと内側に漂って行き始めるからだ。 

全面的な寛ぎの中で、人は最奥の核に到達する。 


※即席の悟りを求めてはいけない 

3番目に、あまり多くを要求してはいけない。何故ならあまり多くを要求すれば、緊張して不安が起こって来るからだ。 

本当は、何ひとつ要求してはいけない。ただ待ちなさい。ただハートの中に種を蒔いて、実行を始めなさい。春を待ちなさい。 

ところが、人々はあまりにも多くを要求し始める。彼らはすぐに悟りを、サマーディを求める。彼らはすぐにニルヴァーナ(涅槃)を求める。時々それが起こる・・・ 

馬鹿な人々が私の所にやって来て「7日間瞑想したのに、まだ何も起こりません」と言う。7日間?7000万回もの生涯に渡って、瞑想と反対のあらゆることをして来ているというのに!それを7日間で・・・まるで神や私に貸しでもあるかのようだ。 

彼らは不平を持ってやって来る。「何ひとつ起こりません。7日間も経ちました。あと瞑想キャンプは3日間しか残っていません。それなのに私達はまだ光明を得ていません」 

あまり多くを求めてはいけない。あまり欲張らないことだ。もう少し理解しなさい。何事にも時間がかかる。結果を思い煩う必要はないということを、覚えておきなさい。 

それは必ずあなたの必要に応じている、そしてあなたに値することが起こっている。何であれ、あなたがそれに対して準備が出来ていることが起ころうとしている。 

それが起こっていないのだとすれば、それはただあなたにその準備が出来ていないということだ。その準備をしなさい。それを要求しても役には立たない。ただ、自分がまだそれに値しないのだということを覚えていなさい。 

そしてもっと自分のハートを綺麗にし、もっと集中し、もっと瞑想し、もっと静かになり、もっとくつろぎ、もっともっと内側に同調しなさい。 

そして待ちなさい。なぜなら、ハートとエネルギーが協力する時、結果は自ずから従うからだ。 

種を蒔いたら、毎日地面を掘り起こして種がどうなっているかを調べる必要はない。そんなことをすれば、種を駄目にしてしまう。何も起こらなくなる。 

あなたはただ待つだけだ。何ヶ月も何も起こらない。それでも、あなたは水をやらなければならない、肥料をやらなければならない、世話をし続けなければならない・・・何ヶ月もの間、何ひとつ起こらない。 

そしてある日突然、ある朝早く、奇跡が起こる・・・種が芽を出す。小さなふたつの葉が出て来る。奇跡が起こったのだ。 

目に見えなかったものが、目に見えるようになった・・・だがそれは常に、その時にならなければ起こらない。

 

※瞑想の為のスペースを創りなさい 

4番目は、バラ園を準備しているなら、土を全部替えなければならないということだ。石は取り除かなければならない。古い切り株は取り除かなければならない。雑草は取り除かなければならない。 

正しい条件と、守られた適切な空間を創らなければならない。周りにフェンスを巡らさなければならない。バラを育てるとなれば、こういう準備が全て必要になる。 

瞑想とはバラだ。もっとも大いなるバラ、人間意識のバラだ。正しい条件とは何か、そして正しい空間とは何だろうか? 

あなたは瞑想を深めるような場所を見つけるべきだ。たとえば、映画館の前に行って坐ったり、駅のプラットホームに行って坐ったりするよりは、樹の下に坐る方が役に立つ。 

タオが振動し、脈打ち、周り中に流れているような自然の中に、山に、樹々の中に、川に行くことだ。樹々は絶えざる瞑想の中にある。沈黙して無意識であるのが、その瞑想だ。

私は樹々になるようにとは言っていない。あなたはブッダ(覚者)にならなければならない!だがブッダには、樹々と共通していることがひとつある。 

彼は樹と同じように緑で、樹と同じように潤いに満ち、樹と同じように祝っているということだ。もちろん違いもある・・・彼は意識しており、樹は無意識だ。 

だがもしあなたが、樹の側でさえずる美しい小鳥たちに囲まれて、あるいは踊る孔雀、あるいはただ音高く流れる川の側に、あるいは滝の側に、その大いなる音楽に囲まれて坐ったら・・・ 

もし出来るなら、家の中に瞑想の為の特別な部屋を持ちなさい。ほんの片隅でも構わないが、瞑想の為の特別な場所だ。 

なぜ特別なのか? なぜなら、あらゆる行為は固有の波動を生み出すからだ。その場所でただ瞑想だけするなら、その場所は瞑想的になる。毎日瞑想すれば、そこはあなたが瞑想状態にある時の波動を吸収する。 

次の日、あなたが来ると、その波動があなたに戻って来始める。それが助けになる。それが返って来る。それが応答する。 

聖なる場所とは、瞑想の為の正しい条件に他ならない。ひどく腹が立っていれば、それは瞑想すべき時ではない。それでは流れに逆らうことになる。非常な貪欲を感じているなら、それは瞑想すべき時ではない。瞑想するのは易しくはないだろう。 

しかし、瞑想にたやすく手が届きそうな瞬間がある。太陽が昇り始め、あなたはその昇る太陽を見る。すると突然、あなたの中で全てが静かになる、まだあなたは市場の一部にはなっていない。これこそ瞑想すべき時だ。 

あなたは気分がよく、健やかな感じがしており、今日はまだ誰とも闘っていない・・・これこそが瞑想すべき時だ。友達が来て、あなたは愛に満たされる・・・これこそが瞑想すべき時だ。 

あなたは女性と一緒にいて、ふたりは途方もない幸せを感じている。一緒に坐り、そして瞑想する。そして愛する人と、自分の友達と一緒に瞑想することが出来れば、人生最大の喜びが起こっているのに気づくだろう。 

正しい状況を見つけなさい。そしてそれはいつでも手に入る。正しい状況を見つけることが出来ない者など、ただのひとりもいない。24時間の中には、ごく容易に瞑想に変容し得る瞬間がたくさんある。 

人はそういう瞬間には、自然に内側に向かっているからだ。夜、星がいっぱい出ている。地面に横たわって星を見上げ、同調するものを感じ、それから瞑想しなさい。 

瞑想する時には電話の受話器を外し、自分を世間から離しなさい。1時間、誰もノックしないようにしなさい。私は瞑想していると、ドアに張り紙しておきなさい。 

そして瞑想する部屋に入る時は、靴を脱ぎなさい。あなたは聖なる地を歩んでいるのだから。そして靴を脱ぐだけでなく、それまで心を占領していたもの全てを脱ぎなさい。靴と一緒にあらゆるものを意識して脱ぎなさい。何ものにも占領されずに中に入りなさい。 

24時間の中から1時間を取り出すことは出来る。23時間を自分の仕事に、欲望に、思考に、野心に、計画にやったらいい。こういうもの全部から1時間を取り出しなさい。 

すると最後には、その1時間だけがあなたの人生の真の時間だったことが分かるだろう。他の23時間は、ただただ無駄だった。 

その1時間だけが取っておかれ、その他は全てどぶに流されてしまう。 


※正しい姿勢 

5番目に、正しい姿勢をあまり気にし過ぎてはいけない。そうでないと、ある特定の姿勢で坐らなければならないということが、ひとつの思い込みになってしまう。 

そう、坐れるならそれでいい。だが、それが無用な思い込みになるようなら、それは捨てなさい。 

たとえば、蓮華座(結跏趺坐)が出来なければ・・・ずっと椅子に坐って来ている人達には、それは難しい。それが難しいのは、その人達の筋肉がそういう風に発達しているからだ・・・ 

そうなれば、足の具合が悪くなる。足が痺れるか、あるいは何か問題を起こし始める。絶えずそればかりが気になり始める。だから無理に結跏趺坐する必要はない。 

結跏趺坐は、簡単に出来るならいいものだ。そうでなければ、どんな姿勢でも蓮華座だ。地面の上に坐れないなら、それが難しいなら、椅子に坐ったらいい。瞑想は椅子を怖がってなどいない。それはどこでも起こり得る。 

つい先日もレヌが質問した。「揺り木馬の上で光明を得ることは出来ますか?」と。  

それは起こり得る。光明は揺り木馬の上でさえ起こり得る。そんなことを心配する必要はない。ただ、ちょっと注意すればいいだけだ。それだけだ。 

だが、あまりそういうことを心配し過ぎてはいけない・・・背骨が真っ直ぐ立っているかどうか、頭が背骨の真上にあるかどうかなどと・・・そういう細かなことをあまり気にし過ぎてはいけない。 

そういうことは単なる目安に過ぎない。それを理解しなさい。それを呑み込んで、そして自分の道を行きなさい。自分自身のやり方を見つけなさい。 

覚えておくべき基本的な注意は、居心地よくリラックスしていなければならないということだ。 


※真ん中にいなさい 

6番目に、人はまさに真ん中にいなければならない。人々はあまりにも行動的になるか、あるいはあまりにも無為になるかのどちらかだ。 

あまりにも行動的になれば、不安が生まれる。一種の焦り、せわしなさ、速さ、落ち着きのなさが生まれる。あまりにも無為になれば、眠りが、一種の無感覚、怠惰が生まれる。

真ん中にいなさい。この真ん中にいるということが、常に用いられるべき判断基準だ。 

あまり多くを食べてはいけない。あまりに飢えてもいけない。寝過ぎてはいけない。必要より寝足りなくてもいけない。いつでも、真ん中にいることを覚えていなさい。 

極端はよくない。あらゆる類の極端は捨てなければならない。それは、真ん中にしかマインドのリラックスした状態はないからだ。 

もしこのようなバランス、努力と無努力の間に、目的と無目的の間に、存在と不在の間に、マインドとノーマインドの間に、行為と無為の間に、このようなバランスを達成出来たら・・・ 

その時あなたは、ものごとが流れるのと一緒に、自分が流れるのを許すことが出来る。あなたは自分を手放すことが出来る。 


※ユーモアの感覚 

いいかな、宗教的な人間にとって最大の問題は、深刻(シリアス)にならないということだ。宗教的な人間にとって最大の問題は、悲しくならないということだ。 

宗教的な人間にとって最大の問題は、ネガティブ(否定的)にならないということだ。なぜなら、普通はそれが起こるからだ。 

宗教的な人間は非常に悲しく、非常に深刻に、非常に生に否定的になる。彼らは春について全て忘れてしまい、枯れ木と燃え尽きた灰のことだけを考える。彼らはバランスを失っている。 

真に宗教的な人間とは、ユーモアの感覚を知っている人だ。 

真に宗教的な人間は誠実だが、決して深刻ではなく、自分の仕事に完全に献身的だが、それは決して「我は汝よりも神聖なり」という姿勢ではない。それによって何かの優越感を感じるということは決してなく、謙虚だ。 

真に宗教的な人間とは、風や雨と共に踊ることが出来、子供達と共に笑ったり微笑んだりすることが出来、生のあらゆる類の状況を楽な気持ちで受け止めることが出来る人だ。 

それは自由、エゴ(自我)からの自由だ。エゴは人を深刻にする。あまりに深刻になると、あなたは暗黒の世界、否定的な世界に沈み込んでしまう。 

いいかな、あなたは冷たくなるべきではない。いわゆる聖者達が非常に冷たいのに気がついただろう。彼らは要点をそっくり誤解している。 

クールになるのはいいが、決してコールドにはならないこと。このふたつの間には多くの違いがあり、そこには非常に深いパラドックスがある。 

私はそれを「クール」と呼ぶ。情熱の熱い状態と比べたらそれはクールだが、死の冷たさと比べたらそれは温かい。死の冷たさと比べたら温かだが、生を求める情熱的な渇望と比べたらクールだ。 

それは温かくもあり、またクールでもある。真に宗教的な人間は、渇望を持っていないがゆえにクールであり、また彼は悲しくなく、深刻ではないが故に温かい。 


※闘うな、精神を分析するな 

人は流れてゆく思考から離れているべきだ。それらはやって来て、いたるところからあなたを包む。それはまるで雲のようだ。ほんのわずかの青空も失われてしまう。 

そして思考があまりにも多くなった時、瞑想とは無思考の状態を意味するのだと本で読んでいるあなたは、自然の本能から、それと闘おうとする。 

が、人は闘いによっては決して無思考にはならない。闘ったら負けてしまう。そのまさに闘いが、あなたの敗北の原因になる。 

影と闘うことは出来ないし、それをやったらあなたの負けだ。試しに自分の影と闘ってみなさい。あなたは負けてしまう。 

それは影が非常に強力だからではなく、影が存在しないからだ。存在しないものと闘って、どうして勝つことが出来るだろう?思考は影なのだから、それらと闘ってはいけない。 

そして闘わない時、もうひとつの選択の可能性が開かれる・・・精神分析が選んだのがそれだ。その時は、それらと共に動き、それらをどこであれ行きたいところに行かせる。「思考の自由連想」と呼ばれているものだ。 

そうすると、ひとつの思考がもうひとつの思考と結びつき、それがもうひとつの思考と結びつき、それがさらにもうひとつの思考と結びつき、それが永遠に、吐き気がするほど延々と続いてゆく。 
これはある種のリラクゼーションのように感じられる。人々が精神分析を終えた後に、助けられた、救われたと感じるのはその為だ。彼らは救われていないし、助けられてはいない。闘争が消え失せただけだ。 

というのも、闘えば緊張するからだ。闘っていない時、緊張は消え失せる。そしてその緊張の消失が、あなたにまるで救われたかのような感覚を与える。 

それはいい感じがする。自分の思考と闘ってそれに勝てないとなると、あなたは闘いを落として、思考が動くのを許し、自分もそれと共に動き始めるが、それはよい感じがするものだ。それが精神分析の全てだ。 

精神分析は全く助けにはならない。闘いを落とすことを助けるので、それはあなたをよい感じにさせるが、ただそれだけのことに過ぎない。 

闘う必要はないし、思考を許して、その追従者になる必要もない。あなたは見守る人、目撃者に留まるがいい。 

主人が呼び戻されなければならない。あなたは召使いではなく、主人であるべきだ。では主人の資格とは何だろう?目撃者でいることが、主人でいることだ。 

それらの思考をただ見守りなさい。完全に穏やかに静かになって、見守りなさい。それが来るのもいいし、去るのもいいし、起こるのもいいし、消え去るのもいい。 

あなたはただ注意している・・・思考が起こって来て、思考がそこにあり、思考が行ってしまう・・・まもなく、あなたは段々と思考が起こらなくなる地点にやって来る。 

そしてある日、ギャップ(隙間)が・・・全ての思考が消え失せる。そのギャップの中で、最初の神性の体験が起こる。 


OSHO:The Secret of Secrets より抜粋 「黄金の華の秘密」(めるくまーる社刊)

 

※瞑想はマインドに対立しない 

人はマインドに感謝しなければならない。それが、敵としてではなく友人としてマインドを超えることの第一歩だ。 私がいつも絶え間なく「マインドを超えなさい」と言っているのを聞いて、あなた方が誤解してしまうこともあり得る。 

私はマインドに、とてつもない敬意を感じている。私達はマインドに実に多くのことを負っていて、その感謝を返すすべはない。 

だからまず第一に、瞑想はマインドに対立するものではなく、マインドを超えるものだということだ。超越と対立は同義語ではない。 

この友情が深まれば、瞑想をしている時はいつでも、マインドは妨げにはならないだろう。というのも、瞑想はマインドに対立するものではないからだ。 

実のところ瞑想は、マインドの成就に、究極の開花になる。マインドを超えるということは、敵対的な姿勢を示すことではなく、友好的な進化になる。 

だから、これが全ての瞑想者の下地にならなければならない。闘う人になってはいけない。闘ったら、しばらくの間マインドを黙らせることは出来るが、それはあなたの勝利ではない。 

あなたはそれを必要としているから、マインドはまた戻って来る。それなしでは生きてゆけない。それなしで世界の中に存在することは出来ない。 

マインドとの友好的な関係を作り出すことが出来たら、愛情の橋を架けることが出来たら、それは瞑想の障害になるよりはむしろ、その助けになり始める。 

それはあなたの静寂を護るようになるが、それは静寂が、単にあなただけのものではなくマインドの宝物でもあるからだ。その土壌から瞑想のバラが花開き、土壌もまたバラと同じように幸せになる。 

自分の、もっとも外側の部分である肉体を愛するところから始めなさい。自分のマインドも愛するようになれば・・・ 

自分のマインドを愛すれば、肉体を飾り立てるのと同じように、あなたはそれを飾り立てる。それを綺麗に保ち、それを新鮮に保つ。 

他人から、あなたの肉体は悪臭がすると言われたい人はいないし、あなたも自分の肉体が他人から愛され、敬意を払われるものであって欲しいだろう。あなたがそこにいるということは、単に我慢されるべきことではなく、歓迎されるものであるべきだ。 

あなたは自分のマインドを、詩で、音楽で、芸術で、偉大な文学で飾り立てるべきだ。あなたにとっての問題は、あなたのマインドが、ただ些細な物事だけで占められているということだ。 

そういった、三流の物事があなたのマインドの中を廻っているのだから、それを愛することは出来ない。あなたは偉大な物事について何ひとつ考えない。自分のマインドを、偉大な詩人達ともっと調和させなさい。 

自分のマインドを、フョードル・ドストエフスキーレフ・トルストイアントン・チェーホフツルゲーネフラビンドラナート・タゴール、カリール・ジブラン、ミハイル・ナイミ、といった人々と調和させなさい。 

自分のマインドが、マインドの発達したもっとも偉大な高みで満たされるようにしなさい。そうなれば、あなたはマインドに対して非友好的にはならない。そうなれば、あなたはマインドの中で喜び祝う。 

静寂の中にマインドが入って来たとしても、それには自らの詩と音楽があるのだから、そういった洗練されたマインドを超えることは非常に易しい。それはより高い峰々への好ましい一歩になる。 
詩は神秘主義に変わり、偉大な文学は偉大な実在への洞察に変わり、音楽は沈黙に変わる。そしてこれらのものが、より高い峰々に変わり始め、マインドを超えるようになると、あなたは名前すら付けられていない新たな世界、新たな宇宙を発見するようになる。

それを至福、エクスタシー、光明、と言うことは出来るが、実際にはどんな言葉もそれを説明出来ない。 

それはただ、言葉の力の外側にあって、説明に、理論に、哲学におとしめることは出来ない。それはただ超えている・・・が、マインドはその超越の中で喜び祝っている。 

それが私の、あなた方へのユニークな貢献だ。絶対的な謙虚さを持って、私はあなた方に言いたい。私はゴータマブッダすらも超えて、その遥か先まで進んでいると。 

その単純な理由は、彼が未だにマインドと闘っているからだ。私は自分のマインドを愛し、その愛を通じて、それを超越した。 

私の瞑想へのアプローチは、絶対的に新しく、絶対的に新鮮だ。なぜなら、それは愛に依っているからだ・・・闘いにではなく、戦争にではなく。ただ愛だけが道だ。 

自分のマインドを、出来る限り美しくしなさい。それを花々で飾り立てなさい。 

私は人々が「ミルダッドの書」を知らず、一度も荘子の不可解な物語に目を通したことがなく、禅の絶対的に非合理な物語を一度も理解しようとしたことがないのを見て、本当に悲しくてたまらない。 

まず、自分のマインドを飾り立てなさい。この香ばしいマインドの庭園を超えて、初めてあなたはいかなる闘いもなく、静寂の中を進むことが出来る。 

マインドは障害ではなく、助けになる。私はそれを障害だと思ったことがない。だから、私は絶対的な権威を持って言う・・・マインドは障害ではない。 

あなたはただ、その使い方を知らないに過ぎない。 


OSHO:The Great Pilgrimage:From Here to Here より抜粋 


※見守ることを自分の中で育てなさい 

スピリチュアルな成長は、技術的な現象ではないのだから、いかなる技法(テクニック)も障害になり得る。あなたは技法にしがみつき始めるかもしれない。 

それが何百万という人々に起こっていることだ。スピリチュアルな成長を探し求めているうちに、彼らは技法を与えてくれる教師に出くわす。 

技法は、彼らがもっと静まり、もっと穏やかに、もっと静かになり、大きな幸福(ウェル・ビーイング)を得るのを助けるが、そうなると技法は絶対的に欠くことが出来ないものになる。 

彼らは技法を捨て去ることが出来ない。技法を捨てたら、その全ての体験も消えてゆく。たとえ何年も実践していた技法だったとしても、3日もしないうちに全ての体験が消え失せている。 

技法は、本当はスピリチュアルな成長を与えるのではなく、スピリチュアルに見える幻覚を作り出すに過ぎない。というのも、あなたはスピリチュアルな成長が何であるのかを知らないからだ。 
そしていいかな、目撃することは技法ではなく、それはあなたの本性だ。技法は何らかのものを作り出す。見守ることは、ただあるがままのものを開示する。 

むしろ逆に、それは引っかかっていたいくつかの幻影を破壊するだろう。充分に見守っていなかったせいで、あなたは一度もそれらが幻影的な現象であることに気づかなかった。

幻影は容易に作り出せるので、マインドは常に技法を楽しむ。誰がその技法を使うのか?マインドが技法の主人になる。見守ることはマインドを超えている。マインドは見守ることが出来ない。 

それはこの実在の中にあってマインドが出来ない、唯一のことだ。マインドがそれを汚すことが出来ないのは、マインドがそれを邪道に導くことが出来ないのは、その為だ。 

幻覚の中で生き、見守ることの単純で自然なプロセスを、一度も知ることがなかった多くの人達、多くのいわゆる聖者、預言者、救世主達がいた。 

どのような技法にも巻き込まれない方がよい。見守ることは、それほど純粋だ。それを他のいかなるものによっても汚してはいけない。そしてそれは極めて全体的であり、極めて完全であり、他の一切の支持を必要としない。 

が、マインドはいつも何かの技法を欲しがる。なぜなら、マインドは技法なら操ることが出来るからだ。 

マインドはテクニシャンだ。テクノロジーがその得意分野だ。が、見守ることはコントロールを超えている。それを超え、その上にあり、そして実のところ、それはマインドにとっては死だ。 

見守ることがあなたの中で育ったら、マインドは死ぬ。そしてこれら全ての人々、超越瞑想を教えているマハリシ・マヘッシ・ヨギのような人々は、マインドが完璧な心地よさを感じるような技法を与えている。が、そこには一切成長というものがない。 

これら全ての人達は、技法を与えることによって人類を搾取している。それは進化を停止させるものであり、ゆえに最悪の搾取だ。 

私は全ての技法に反対する。私はあなた方がすでに持っている、時たまあなた方も使うような、単純で自然なプロセスに賛成する。 

腹を立てている時、あなたはどうやって自分は腹を立てていると気づくのだろうか?そこにはただ怒りしかなく、誰も見守っている者がいないとしたら、あなたはその怒りに気づくことが出来なかっただろう。怒りそのものが気づくことは出来ない。 

だから、あなたは自分が怒っている時も、怒っていない時も、気分がよい時も、気分がよくない時も、それに気づいているということだ。 

が、この見守ることを、マインドのあらゆる位相に、一貫して、科学的に、深く、トータルに使ったことはなかった。 

私にとって、この言葉には、瞑想のまさに本質が含まれる。 


OSHO:The Path of The Mystic より抜粋 「神秘家の道」(市民出版社刊) 


※光明はおのずと訪れる 

光明は時を得て起こるものだ。光明に命令することは出来ないし、それを起こすことも出来ない。にも関わらず、それを起こらせる為に出来ることが多くある。 

しかし何であれ、あなたが行うことは原因として機能する訳ではない。何であれ、あなたが行うことが光明を起こす訳ではなく、それは、あなたに受け容れる準備をさせるのだ。

光明は自ずと訪れる。何であれあなたが行うことは、それを受け容れ、見極め、認識する為の準備に過ぎない。 

光明を起こすことは出来ない。光明はあなたを超えている。あなたが光明を起こすことが出来るなら、それはあなたより下にあることになる。あなたが光明を起こすことが出来るなら、それはあなたのエゴの新たな装飾に他ならない。 

あなたには光明を起こすことは出来ない。光明が存在する為には、あなたは消えなければならない。 

だから世界中の経典を研究し教養に溢れ、知識の豊富な人間になることは出来ても、光明には到達しないままだろう。実際は、以前よりもさらに光明から遠ざかってしまう。なぜなら、知識を持てば持つほど、さらにエゴを持つようになるからだ。 

禁欲的なテクニックを実践すればするほど、エゴは強化される。 「あれもやったしこれもやった。何度も断食をしたし、数多くの誓いも立てた・・・これだけのことを行ったのだから・・・」 

やればやるほど、自分は光明を得ているにふさわしく、それを宣言出来ると思うようになる。 

光明は、探求によって見い出せるものではない。それはあらゆる探究が無意味だと気づいた時にやって来る。 

そして、覚えておきなさい。私は、探求するなと言っているのではない。探究しない限り、探究が無意味だと知ることはないからだ。 

私は、瞑想するなと言っているのではない。瞑想しなければ、行為としての瞑想ではなく、訪れて来る瞑想が存在するということを、決して理解することはない。 

瞑想は、単にあなたの目を浄化し、あなたをより明敏にするに過ぎない。ハートはより目覚めて、気づきと愛に溢れ、感性豊かになる。 

あなたの存在は、以前は見えていなかったものを見るようになる。存在の内なる新しいスペースの探究を始めるだろう。毎日、毎瞬、何か新しいことが起こる。 

瞑想は、沐浴のようなものだ。それは、あなたに新鮮さを与えてくれる。しかし、その新鮮さは光明ではない。単に道を整えているに過ぎない。あなたが光明に到達することはない。 

それは常にその逆だ。光明の方が、あなたに到達するのだ。 


OSHO:Enlightenment Comes When It Comes より抜粋 


※瞑想は遊びだ 

瞑想を求めることが出来ないのは、欲望がなくなって初めて起こるのが、瞑想であるからだ。解脱、ニルヴァーナを求めることが出来ないのは、それが無欲の状態の中でしか起こらないからだ。それを欲望の対象にすることは出来ない。 

だから私にとっては、そして知っている全ての人達にとっては、欲望はまさに世間だ。世間的な物事を欲望するからではない。欲望すること、欲望という現象そのものが、世間だ。 

あなたは遊ぶことが出来るし、そして遊びを通じて瞑想が遊びになった時に、あらゆることが可能になる。 

なぜならあなたはイライラしていないし、せっかちではないし、全く急いでいないし、どこかに行くわけではないし、どこに到達しようともしていないからだ。あなたは今、ここ、にいる。 

瞑想が起こるなら、それでいい。起こらなくても、それでいい。欲望はなく、期待もなく、未来もないのだから、何ひとつまずいということはない。 

そしていいかな、瞑想と非瞑想が同じになった時、あなたに瞑想が起こっている。あなたは到達している。今や目的地がやって来て、究極なるものがあなたに降り下った。 

これは、奇妙に思えるかもしれない。が、私は言う・・・瞑想を練習にしてはいけない、むしろそれを遊びに、楽しみにしなさい。それをやっている時には、いかなる結果の為でもなく、ただそれを楽しみなさい。 

しかし、私達のマインドは深刻だ、死ぬほど深刻だ。たとえ遊ぶ時でも、遊びを深刻なものにしてしまう。私達はそれを仕事に、義務にしてしまう。 

幼い子供のように遊びなさい。瞑想テクニックと共に遊ぶなら、それらを通じてさらに多くのことが可能になる。深刻になるのではなく、それを遊びとして受け止めなさい。 

が、私達はあらゆるものを深刻にしてしまう。遊んでいる時ですら、それを深刻にしてしまう。 

そして宗教に対して、私達は常にきわめて深刻だった。宗教が楽しいものだったことは一度もなく、その為に地球は非宗教的な状態に留まって来た。 

宗教は楽しみとお祝い、祝祭にならなければいけない。瞬間の祝祭、何であれやっていることを楽しむものに。 

それほどまでに、それほど深く楽しむ時に、マインドは死滅する。 


OSHO:Vigyan Bhairav Tantra より抜粋 「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ」(市民出版社刊) 
(OSHOタイムス日本語版、41号、1992年7月1日発行)