OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

31.愛を求めて(ヘルマン・ヘッセの物語)

<OSHOの講話より> 

質問:私はヘルマン・ヘッセの美しい物語を思い出しています。ある女性が妊娠し、ある老賢者がその女性に、その子の為にひとつの願いを叶えてあげようと言います。彼女は、その子がみんなから愛されるように、と願います。その願いは叶えられ、少年は悪い子だったにもかかわらず、誰からも愛されます。若者になる頃には、彼は望むものは全て手に入れます。けれども彼はとても不幸で、自殺したいと思います。しかし、老賢者は再び姿を見せ、願いをひとつ叶えてあげようと言います。若者はみんなから愛されるよりも、みんなを愛することが出来るように、と願います。 

若者の願いは叶えられます。すると美しい顔は年老いて醜くなり、町中が彼に敵対するようになります。彼は石を投げられ、食べる物も着る物も見つけられません。けれども彼は愛に溢れ、生のほんの小さな物事それぞれが愛おしくなります。彼は巡礼に出ることを決め、ある寒い夜、その同じ老賢者と出会い、老賢者は、彼をとてつもない愛と共に受け入れます。巡礼者は老賢者のうちに寛ぎ、再び無垢な子供となります。 

OSHO、コメントしてくださいますか? 


ヘルマン・ヘッセは、東洋的な物の見方にもっとも近づいた西洋のマインドのひとりだ。多分、彼ほどよく東洋を理解出来る質を持った人はいないだろう。この物語は、彼が愛についての東洋の知恵を理解していることを示している。 

母親が求めた最初の願いは、我が子が誰からも愛されるように、というものだった。言葉を見ているのでは、その背後に何が隠れているのか理解出来ないだろう。彼は若者になり、あらゆる物を持ち、しかも美しい。振る舞いはよくなくても、彼は甘やかされる。というのも、誰もが彼を無条件に愛するからだ。しかし、彼は満足しない。さらに成長するにつれ、自殺したいと思うほどになっていく。 

これは、愛されたいと望む全ての人達の歴史そのものだ。どうして彼は、それほど絶望しているのだろう。彼は幸せであるはずなのに。何をそれ以上求めることが出来よう。誰もがあなたを愛している、あなたがどんなであろうと。 

しかし、感受性のある目には、何かが見える。あらゆる人に愛される時、あなたは愛の対象物になる。あなたは自分の個性を失い、統合性を失い、主体性を失う。あなたは物になる。誰もがあなたを美しい美術品のように愛する・・・そして、誰も物にはなりたくない。 

それが、その母親の忘れていたことだ。それが、世界中の何百万という人達が忘れていることだ。その願いは完璧にいいもののように見えるが、その意味するところは、非常に危険だ。 

第一に、それはあなたを主体的意識の高みから、客観的な現実へとおとしめる。あらゆる人が、あなたにその価値があろうとなかろうと、構わずにあなたを愛する。そしてあなたはそれに値しない。あなたが愛されるのは、老賢者の祝福の故だ。 

彼らの愛が、あなたを甘やかして駄目にした。あなたには何の価値もない。あなたにはそれが分かる。自分には価値がないということが分かるが、人々はそれでもあなたを愛している。何かが間違っている、という大きな罪悪感が湧き起こる。 

愛はふさわしい者に与えられるべきものだ。過分な愛は、乞食のようなものだ・・・ふさわしくないのに、物乞いの器を差し出すような・・・。人は自分にふさわしいものを手に入れたい。それに値する者でありたいのだ。ただ乞食でいることは出来ない。それでは物におとしめられ、乞食におとしめられてしまう。 

そして、その少年は誰も愛していなかった。なぜなら、それは願いには含まれていなかったからだ。だから分かるだろう、彼は愛を理解することも出来ないのだ。 

火は、両側から同時に燃やされる必要がある。彼には火はない。彼は全く冷たい、氷のように冷たい。彼は誰も愛したことがなかった。そして、誰も愛したことのない人の惨めさが分かるだろう。 

祝福によって、あらゆる人が彼を愛しているが、彼の理解によれば、彼は誰にも愛されなかった。というのも、彼は愛の感覚というものを知らないからだ。彼は誰も愛しては来なかった・・・ 
どうして彼に分かるというのだろう。 

だから彼を取り巻く愛は、全く意味がない。彼に関する限り、誰も彼を愛してはいない。そして彼は、年老いた母親の願いにも、老賢者の祝福にも気づいてはいない。そして、たとえ気づいたところで何の違いもないだろう。 

愛を理解する為には、まず自分が愛する必要がある。そうして初めて、愛が理解出来る。何百万という人々が苦しんでいる。愛されたいと思うが、どうやって愛したらいいか分からない。そして愛は、独り言としては存在出来ない。それは対話、とても調和に満ちた対話なのだ。 

それほどたくさんの愛が注がれているというのに、彼は自殺を決意する・・・なぜなら、あなたを満足させるのは、人が何をあなたに与えるかではなく、あなたが何を人に与えるかなのだから。あなたが満たされるのは、乞食になることによってではない、皇帝になることによってなのだ。 

そして、あなたが与える時、愛はあなたを皇帝にする。そして、あなたは非常に多くを、尽きることなく与えることが出来るので、与えれば与えるほど、あなたの愛はより洗練され、より細やかになり、よりかぐわしくなっていく・・・そして、より満たされていく。

しかし、その可哀そうな少年は難しい状況にいた。誰もが彼を愛しているのに、彼は愛が何であるのかを知らないのだ。この愛にうんざりして、彼は自殺を決意する。老賢者が再び現れる、というのも、彼はそうなることを知っていたからだ。 

母親はあることを求めた・・・彼女にしてみれば素晴らしい願いだが、老賢者にしてみれば、そうではないことを。彼にはこの願いが、自殺に導くだろうということが分かっていた。 

彼は言う。「君の願いをひとつ叶えてあげよう」そして、その子が何を望んだか、すぐに分かるだろう。というのも、それが彼に欠けていたものだからだ。この物語は、とてつもない方法論を持っている。表面的には理解出来ないかもしれないが、裏では全てが非常にうまく結びついている。 

第二の願いは、私が語って来たことを裏付けている。彼は他の人に愛されることではなく、他の人を愛したいと望む。これによって、彼は第二の願いがなければ、第一の願いには意味がないことを示している。彼はあらゆる人を愛したいと思う。 

しかし物語のこの部分は、何か奇妙に見えるかもしれない。願いが叶えられると、美しい若者は、醜い老人に変わってしまう。それは、年老いて初めて、人は自分の人生に何が欠けていたかに気づく、ということを表している。 

彼らは全く愛さなかった。一生の間、他の人に愛されたいと思い、惨めだった。いつも、もっともっと愛が欲しいと思っていた。貪欲だったのだ。年老いて、醜くなって、人から忘れられるようになって来た時、とうとう彼らは今までの人生を振り返り、何が欠けていたのかを見直すようになる。 

そして、自分がいつも欲しがるばかりで、与えて来なかったという意外な事実が露わになる。普通は、もう手遅れだ。今となっては、彼らから愛を受け取ってくれる人を見つけることさえ出来ないだろう。 

そして、どの言語にも「老醜をさらす」という表現がある。あらゆる言語で、同じ表現だ。なぜなら年老いて、もはや若くも美しくもなく、すべてが醜くなり、棺桶に片足を突っ込んだ時、自分に欠けていたものに対する理解がやって来る。 

だからこそ、自分の一生は空っぽで無意味だった・・・誰も愛さなかったし、与えても来なかった。だからこそ今、彼は人を愛したいと思う。しかし、誰が醜い老人から愛を受け取りたいと思うかね。彼は、うんざりするほど醜い。彼の愛は、欲情のように見える。愛ではなく、死にかけた人の欲情のように・・・。 

だから、老賢者の祝福を受け取った途端、美しい若者が突然、醜い老人に変わるという時、この物語は意味深いのだ。彼の愛の願いは叶えられた。この物語はまるごと、人類に関するものだ。 

今や彼は愛することが出来るが、誰もその愛を受け取らないだろう。今や彼は与えることが出来るが、誰もが彼から逃げ出すだろう。彼は人をうんざりさせるだろう。愛について語るなど、とんでもない。誰も彼のそばに座ろうとすらしない。 

彼は半ば死にかけていて、あなたを愛したいと思う。そして、当然のことながら、彼は若い人や、美しい人を愛したいと思うだろうが、明らかに拒絶されるだろう。 

彼は、振り子のひとつの端から、もうひとつの端へと振れたのだ。そのどちらもが、それ自身では半分でしかない。そして、どちらの極でも満たされない。人々が彼に愛を示したことによっても、人々を愛することによっても満たされない、という状況を見て取って・・・というのも、今や愛する人を見つけるのも難しかったから・・・彼は巡礼に出る。そしてとうとう、彼は老賢者に会う。 

老賢者には分かっていた。というのも、これは弁証法だからだ。母親がひとつの部分を選び、それは間違っていると分かった。彼はもうひとつの部分を選び、それが間違っていることも明らかになるだろう。両方一緒ならば、正しいと証明出来るが、別々ではだめだ。

しかし今や、両方とも失敗したことを見て取ることで、彼はある種の超越へと至り、全ての二元性は失敗に終わることを知る。そして彼が老人に会った時、老人は彼を抱き止め、彼は無垢な子供のようになる・・・母親が、老賢人の祝福を受ける為に連れて行ったのと全く同じ子供に。生がぐるっと円を描き、彼は再び幼い子供に返る。 

これもまた、とても意味深い。というのも、人生の失敗のひとつひとつが、あなたに小さな理解、小さな超越をもたらすからだ。あなたに死後の新しい生・・・再び無垢な子供となること、再び同じ古い罠に落ちない機会を与えてくれるのは、そうした小さな理解、小さな超越だからだ。 

しかし、人々は同じ古い罠に何度も何度も落ち続ける。それは習慣となる。無垢な子供時代は、それぞれの極端が失敗した後にやって来る。両方の極が失敗した後に。しかし、あなたはまた、最初からゲームを始めるかもしれない・・・。 

東洋では、生命の輪は、同じ失敗を重ね、同じわだちを刻みながら、同じ惨めさと共に、同じ溝を踏みながら繰り返すと言われているが、それももっともだ。そして、どうやら誰もそこから学ぼうとしないようだ。 

もし本当に学べば、二元性の超越は、もはや老賢者の祝福ではなく、あなたの理解そのものとなる。そうなれば、もう新しく生まれて来る必要はない。 

これこそ、光明を得るということだ。あらゆる極は失敗するという理解がそれなのだ。中央に、ちょうど中央に留まりなさい。振り子が止まり、時計が止まり、時間が止まるところ・・・動きはなく、欲望も、目標もない、どこに行く必要もなく、ただここにいる。 

そうなれば、この無邪気さは、あなたから現れる。この臨在は、あなたから現れる。もう一度生まれる必要はない。この世での教育は終わる。今やあなたは、より大きな存在に、全ての目覚めた者達に受け入れられる。 

この物語は確かに、非常に美しい。その意味に深く入って見るように。そしてこのような物語、人々がただの物語のように読んでいる物語は何千とある。それらはほとんどが子供向けの物だが、子供には理解出来ない。子供はただ、物語を読むだけだ。 

こうした物語は、瞑想をしている人達、もはや愚かでなく、一定の成長を遂げた人々に読まれるべきだ。そうすれば、物語の隠れた意味が明らかになるだろう。こうした物語を見つけたら、いつでも私のところに持って来なさい。それは長年の英知が込められている。

OSHO; Transmission of the Lamp,#14 より抜粋 (ウルグアイ