OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

32.愛に至る4つの段階

<OSHOの講話より> 

愛は出会いだ。死と生のオーガズミックな出会いだ。愛を知らない限り、あなたは取り逃がしている。あなたは生まれ、生き、そして死んだ・・だが、取り逃がした。あなたは途方もなく取り逃がした。すっかり取り逃がした。完全に取り逃がした・・あなたは中間にある合間を取り逃がしたのだ。その合間はもっとも高い頂点、至高体験だ。 

それを達成する為に覚えておくべき4つの段階がある。その第1の段階とは「今、ここ」に在ることだ・・なぜなら愛は唯一、今ここにおいてのみ可能だからだ。あなたは過去の中で愛することは出来ない。多くの人々が、ただ思い出の中で生きている・・彼らは過去において愛した。そして、未来の中で愛する人々もいる・・それもまた出来ないことだ。

これは愛を避けるやり方だ。過去と未来は、愛を避ける道だ。だからあなたは、過去の中で愛するか、あるいは未来の中で愛する・・が、愛は現在においてのみ可能だ。なぜなら、唯一この瞬間のみ、死と生は出会っているからだ・・あなたの内側にある暗い合間の中で。その暗い合間は常に現在、常に現在、常に現在だ。それは決して過去ではないし、決して未来ではない。 

もし考え過ぎたら・・そして、思考は常に過去、あるいは未来のものだ・・あなたのエネルギーは感覚からそらされてしまう。感覚は、今ここにある。もし、あなたのエネルギーが思考のパターンの中へと動いていたら、その時には感覚の中に入って行くだけの充分なエネルギーがあなたにはないだろう・・そして、愛は起こり得ないことになる。 

だから、第1の段階は「今ここ」に在ることだ。未来と過去は思考をもたらし、思考は感覚を破壊する。そして、あまりにも思考に取り憑かれた人は、やがて、自分にはハートもあるということを完全に忘れてしまう。あまりにも思考に入り込んでいる人は、やがて、感覚にはどんな発言権もないような状態へと移り始める。感覚に耳を貸さないと、やがて感覚はその人を見捨て始める。 

ハートが何を意味するのか知らない無数の人々が、この状態にある。ハート(心臓)はただのポンプだと彼らは考える。彼らの注意は完全に頭に集中している。頭はひとつの末端だ。それは必要とされる。良い道具だ。だが、それは奴隷として使われなければならない。それが主人であるべきではない。ひとたび頭が主人になって、ハートが置き去りにされたら、あなたは生きて死ぬだろうが、神とは何かを知ることはない。なぜなら、あなたは愛とは何かを知ることがないからだ。 

初めて触れると、愛のように見える暗い合間・・その同じ合間が、あなたがその中にすっかり失われると、神になる。愛は神の始まりだ・・あるいは、神が愛の究極の頂点だ。 

愛に至る第2の段階は、あなたの毒を蜜へと変容させることを学ぶことだ・・というのは、多くの人々が愛するが、彼らの愛は、いろいろな毒によって非常に汚染されているからだ・・憎しみ、嫉妬、怒り、所有欲によって。千とひとつの毒があなたの愛を取り巻いている。愛は繊細なものだ。怒り、憎しみ、所有欲、嫉妬をちょっと考えてごらん。どうして愛が生き残れる? 

まず、人々は頭に移動して、ハートを忘れる・・そういう人々が大多数を占める。そして少数派が、少しではあるが、まだハートの中で生きている。だが、今度は、その少数派が別の誤りを犯す。愛の小さな光は、嫉妬、憎しみ、怒り、千とひとつの毒に取り巻かれている。それで、旅全体が苦いものになってしまう。愛は天国と地獄の間の梯子だ。だが、梯子は常に両側通行だ。あなたは昇って行くことも出来るし、降りて行くことも出来る。

もしそこに毒があれば、梯子はあなたを下に運ぶ・・あなたは天国ではなく、地獄の中に入って行く。美しい調べに到達する代わりに、あなたの生は吐き気を催させる騒音・・調和のない雑踏の騒音、まさに気を狂わす騒音・・になる。どんな調和もない、多くの騒音が寄り集まったものになる。あなたは狂気の瀬戸際に留まる。 

だから、覚えておくべき2番目のことは、あなたの毒を蜜に変容することを学ぶということだ。どうやってそれらを変容させるのか?とても単純なプロセスがある。実のところ、それを変容と呼ぶのは正しくない。なぜなら、あなたは何もしないし、ただ忍耐が必要なだけだからだ。 

これは、私があなた方に話している、もっとも偉大な秘密のひとつだ。それを試してごらん。怒りがやって来ても、あなたは何もしない。ただ静かに坐って、それを見守りなさい。それに反対してはいけない、賛成してもいけない。それに協力してはいけない、それを抑えてはいけない。ただ、それを見守り、忍耐し、何が起こるか見なさい・・生じるにまかせなさい。 

1つのことを覚えておきなさい。毒が自分に取りついている時には、決して何もしてはならない。ただ待ちなさい。その毒が反対のものに変化し始めると・・これが、生の基本的な法則の1つだ。つまり、あらゆるものは、その反対のものへと絶えず変化する。まさに私があなた方に話して来たように、男性は女性に変わり、女性は男性に変わる。あなたの中には周期的な変化がある・・善人が悪人になり、悪人が善人になる。聖人には罪人の瞬間があり、罪人には聖人のような瞬間がある。人は、ただ待たなければならない。 

怒りが最高潮の時に行動してはならない。さもなければ、あなたは後悔するだろう。そして、あなたは反作用の連鎖を創り出し、カルマの中へと入り込む。それがカルマに入り込むという意味の全てだ。自分がネガティブな瞬間に何かをすれば、あなたは連鎖の中に入り込むことになる。そして、それには終わりがない。 

あなたがネガティブな時に何かをすれば、相手もネガティブになる。相手には何かをする用意がある・・否定性はさらに否定性を創り出す。否定性はさらなる否定性を引き起こし、怒りはさらなる怒りをもたらし、敵意はさらなる敵意をもたらす。そうやって物事は果てしなく続く・・そして人々は、幾生にもわたって互いにもつれ合って来ている。それでも、彼らは続ける! 

待ちなさい。怒っているのなら、それは瞑想する為の瞬間だ。この瞬間を無駄にしてはならない。怒りは、あなたの中にとても大きなエネルギーを創り出している・・それは破壊することが出来る。しかし、エネルギーは中立だ・・破壊することが出来るその同じエネルギーが、創造的にもなり得る。待ちなさい。粉々にすることが出来るその同じエネルギーが、生を振りまくことも出来る・・ただ待ちなさい。 

待ち、そして慌てず何もしないでいると、ある日、あなたは内なる変化を見て驚くだろう。あなたは怒りでいっぱいだった。そして怒りは高まり続け、頂点に達する・・が、その時、輪が回転する。あなたはその輪が回転しているのを、その怒りがゆるんで行くのを、エネルギーが解放されるのを見ることが出来る。そして、今やあなたはポジティブな気分の中に、創造的な気分の中にいる。今こそ、あなたは何かをすることが出来る。今こそ、やりなさい。常に肯定的なものを待ちなさい。 

そして、私が言っているのは抑圧ではない。私は、否定的なものを抑圧しなさいと言っているのではない。私は、否定的なものを見守りなさいと言っている。その違いを覚えておきなさい、そこには途方もない違いがある。私は、否定的なものの上に坐り込み、否定的なものを忘れ、それに対抗して何かしなさい、と言っているのではない・・いや、私はそうは言っていない。私は、怒っている時は微笑みなさい、と言っているのではない・・違う。その微笑みは見せかけで、醜く、偽物だ。 

怒っている時に微笑んではいけない。その時には、部屋を閉め切って自分の前に鏡を置き、自分で自分の怒っている顔を見なさい。他の誰にもそれを見せる必要はない。それはあなたの問題だ。それはあなたのエネルギーだ。それはあなたの生だ。そして、あなたは正しい瞬間を待たなければならない。鏡の中を見続けなさい。その紅潮した顔を見なさい。その血走った目を見なさい。人殺しがそこにいる。 

あなたは、誰もが内側に人殺しを抱えている、と考えたことがあるだろうか?あなたもまた、内側に人殺しを抱えている。人殺しはどこか他のところにいる・・殺人を犯す人殺しは他の誰かだ、と思ってはならない。違う。誰もが殺人を犯す可能性を秘めている。あなたは自分の中に、自滅的な本能を抱えている。ちょっと鏡の中を見てごらん。これらがあなたの風土だ・・あなたは、それらを熟知しなければならない。これは自己知への成長の一部だ。 

あなたは、ソクラテスから今日に至るまで「汝自身を知れ」と、何度となく聞かされている。だが、これが汝自身を知る方法だ。「汝自身を知れ」とは、静かに坐って「私はブラフマだ。私は魂だ。私は神だ。私はこれだ」と繰り返すことを意味するのではない・・全て馬鹿げている。「汝自身を知れ」とは、汝のあらゆる風土を、あらゆる可能性を知りなさいという意味だ・・あなたの中の人殺し、罪人、犯罪者、聖人、聖なるもの、美徳、神、悪魔を。全ての風土を知りなさい。その全範囲を。そして、それを知ることによって、あなたは秘密を、鍵を見つけているだろう。 

あなたは、怒りが永久にそこにはあり得ないことを見るだろう・・それとも、あり得るかね?あなたはそれを試していない。試してごらん・・怒りは永久にそこに在ることは出来ない。もしあなたが何もしないとしたら、何が起こることになるのだろう?怒りは、いつまでもいつまでも、そこに引っかかっていられるだろうか?そこには何ひとつ永遠に引っかかりはしない。 

幸福は来て、そして去って行く。不幸は来て、そして去って行く。単純な法則を見ることが出来ないかね?何もかもが変化し、何ひとつ永続することはないということを。だとしたら、なぜ急ぐ?怒りがやって来た・・それは去って行こうとしている。あなたはただ待てばいい、少しの忍耐を持って。ただ鏡の中を見て、そして待ちなさい。怒りをそこにいさせなさい。自分の顔を醜く、凶暴にさせなさい・・だが、待ちなさい、見守りなさい。

抑圧してはいけないし、怒りに従って行動してはいけない。そうすれば、すぐにその表情がより柔らかく、目つきがより穏やかになって行くのを、そのエネルギーが変化して行くのを、あなたは見るだろう・・男性的なものが女性的なものに転換して行くのを・・そしてすぐに、あなたは輝きに満ちる。怒りだったその同じ赤味が、今やある種の輝きだ。あなたの顔に浮かぶ、あなたの目に宿る美しさだ。さあ、外に出かけなさい。行動する時が来たのだ。 

自分が肯定的な時に行動しなさい。肯定性を強いてはいけない。肯定性がひとりでにやって来るのを待つのだ。これがその秘密だ。「あなたの毒を蜜に変容することを学びなさい」と言う時、私が意味しているのはこのことだ。 

そして3番目のこと。分かち合いなさい。それが否定的な時はいつも、それを自分に留めておきなさい。肯定的な時はいつも、分かち合いなさい。普通、人々は自分の否定性を分かち合う。彼らは自分の肯定性は分かち合わない。人間は全く愚かだ。彼らは、幸福な時には分かち合わない。とてもケチだ。不幸な時には、この上もなく気前がいい・・その時なら、彼らは十二分に分かち合う用意がある。微笑む時、人々はこの上もなく経済的に微笑む・・ちょっとこれくらいなら、この程度なら、と。しかし怒るとなると、彼らは全面的に怒る。 

第3の段階は、肯定性を分かち合うことだ。それが、あなたのハートから生じ、川のように流れる愛をもたらす。あなたのハートのディレンマは、分かち合う時に消え始める。 

私は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの、とても奇妙な言葉を聞いたことがある。それを聴きなさい。「聖なるものを犬に与えよ。汝の真珠を豚の前に投げ与えよ。重要なのは、与えることゆえ」あなた方は、反対の言葉なら聞いたことがある。犬に投げ与えてはいけない。豚の前に真珠を投げてはいけない、なぜなら、彼らは理解しないからだ、と。 

本当に大切なことは、あなたが何を与えているかではない・・真珠や、神聖さや、愛・・そして、誰に与えているかではない。それは要点ではない。要点は、与えているということにある。持っている時は、それを与えなさい。 

グルジェフはよく言ったものだ。「私が貯えた全てのものは失われた。が、私が与えた全てのものは、私のものだ。私が与えた全てのものは、今でも私と共にある。が、私が貯えた全てのものは失われ、去って行った」 真実だ。あなたは、自分が分かち合ったものしか持っていない。愛は貯えるような財産ではない。それは、分かち合われるべき輝きであり、芳香だ。 

分かち合えば分かち合うほど、あなたはたくさん得るようになる。分かち合いが減れば減るほど、得るものも少なくなる。分かち合えば分かち合うほど、より多くのものが、あなたの最奥の核から湧き上がるようになる・・それは無限だ。より多くのものが湧き出して来る。 

井戸から水を汲み上げれば、より多くの水が新たに井戸の中に流れ込んで来る。水を汲み上げずに、井戸を閉じ、ケチになれば、泉の働きはもはや失われる。やがてその泉は涸れ、ふさがれる。そしてその井戸の水は死に、腐り始め、汚くなる。流れる水は生き生きとしている・・流れる愛は、生き生きとしている。 

だから、愛に至る第3の段階は、あなたの肯定的な面を分かち合うこと、あなたの生を分かち合うこと、あなたの持っている全てを分かち合うことだ。あなたと共にある美しいものは、それが何であれ貯めてはいけない。あなたの知恵を分かち合いなさい。あなたの祈りを分かち合いなさい。あなたの愛を、あなたの幸福を、あなたの歓びを分かち合いなさい。 

そうだ、もし誰も見つけられなければ、それを犬と分かち合いなさい・・それでも分かち合うのだ。それを岩と分かち合いなさい・・それでも分かち合いなさい。真珠を持っていたら、投げ与えなさい・・彼らが豚なのか聖人なのかを気にしてはいけない。ただ、それらを投げ与えなさい。「重要なのは、与えることゆえ」 

貯めることはハートを駄目にする。あらゆる貯蔵は有毒だ。もし分ち合えば、あなたのシステムは毒から解放される。そして与える時は、それに応えて貰えるかどうか気にしてはいけない。「ありがとう」を待ってさえいけない。何かを分かち合うことを許してくれた人に感謝しなさい。逆であってはならない・・自分は何かを彼と分かち合ったのだから、彼は感謝すべきだ、と心の底でつぶやきながら待ってはならない。 

違う・・あなたの言うことを聞く用意が彼にあったことを、あなたとあるエネルギーを分かち合う用意があったことを、自ら感謝しなさい。あなたの歌を聴く用意が彼にあったことを、あなたのダンスを見る用意が彼にあったことを、あなたが与えに行った時、拒絶することも出来たのに彼がそうしなかったことを、自ら感謝しなさい。分かち合うことは、もっともスピリチュアルな美徳のひとつだ。もっとも偉大な、スピリチュアルな美徳のひとつだ。 

第4番目。無でありなさい。ひとたび自分はひとかどの人間だと考え始めたら、あなたは止まってしまう。そうなると、愛は流れない。愛は、誰でもない人からしか流れない。愛は、無の中にしか住まない。あなたが空っぽの時、そこに愛がある。あなたがエゴでいっぱいの時、愛は消え去る。愛とエゴは、一緒には存在出来ない。 

愛は神と共に存在出来るが、エゴと共には存在出来ない。なぜなら、愛と神は同義語だからだ。愛とエゴが一緒に在ることは不可能だ。だから、無でありなさい。無は全ての源だ。無は無限の源だ・・無が神だ。無はニルヴァーナを意味する。無でありなさい・・そして、無であることで、あなたは全体なるものを達成していることになる。何かであることで、あなたは逃す。無であることで、あなたは我が家に到着する。 

OSHO、「生・愛・笑い」(めるくまーる社刊)より抜粋 
(The Divine Melody)