OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

33.男と女、瞑想と愛

<OSHOの講話より> 

質問:女性エネルギーに関しての質問が少なくありません。 
   ある女性達はあなたに出会って以来、肉体的な欲求は引き続いてあるにも関わらず、 
   普通の男性は彼女達にとって、もはや充分満足感を与えるものではないと言っています。 
   あるいは、あなたに会って以来、以前より愛情豊かに感じると言っている女性達もいます。 

   グルジェフは、女性は、男性を通してしか達成出来ないと言ったと伝えられます。
   女性エネルギーについて話して頂けますか? 


そうグルジェフは、女性は、男性を通してしか道を達成出来ないと言っている。 
そして彼は正しい・・・彼の言っていることは正しい。 
なぜなら女性エネルギーは、男性エネルギーとは違っているからだ。 

これはちょうど、誰かが子供を産めるのは女性だけだ、と言っているようなもの。 
男性は、子供を産むことは出来ない。 
男性が子供を誕生させることが出来るのは、女性を通してだけだ。 

女性の物理的構造には、子宮が含まれているが、 
男性の物理的構造には、子宮は入っていない。 
彼は女性を通じてしか、子供を誕生させることは出来ない。 

同じことが逆の形で、スピリチュアルな世界での誕生に関して起こる。 
女性は、男性を通じてしか光明を得ることは出来ない。 
ちょうどその肉体上の違いのように、 
彼女達のスピリチュアルエネルギーもまた、異なっている。 

なぜ? それはなぜそうなのだろう? 

憶えておいて欲しい。 
これは、平等とか不平等とかいうことの問題ではない。 
これは、単なる違いの問題だ。 

女性は、直接達成することが出来ないからと言って、 
男性より低い存在という訳ではない。 
男性は、直接子供を産めないからといって、 
女性より低い存在という訳ではない。 

男性と女性は違うのだ!  
そこには、平等とか不平等とかの問題はない。 
そこには、価値評価は入っていない。 
男性と女性とは、ただ違っているだけで、 
それは事実なのだ。 

では、なぜ女性にとって、 
直接光明に達することが困難なのだろうか? 
そしてまた、なぜ直接光明を得ることが、 
男性には可能なのだろうか? 

覚醒に到る道は2つ、2つだけ、基本的には2つだけだ。 
1つは瞑想、もう1つは愛の道だ。 

ギヤナヨーガとバクティヨーガ、 
つまり、智慧の道と献身の道と呼んでも構わない。 
基本的には、道は2つしかない。 

愛には他者が必要だ。 が、瞑想は独りでも出来る。 

男性は、瞑想を通じて到達することが出来る。 
だから、直接到ることが出来ると言われるのだ。 

男性は、独りになることが出来る。 
男性は、深いところでは孤独な存在だ。 
孤独は、男性には自然にやって来る。 

女性にとって、独りでいることは難しい。 
極めて難しい、ほとんど不可能なこと。 

彼女の存在全体が、愛への深い衝動にかられている。 
そして、愛する為には相手がいる。 
相手がいなかったら、どうやって愛せる? 

相手がいなくても、瞑想することは出来る・・・ 
そこには何も問題はない。 

女性、女性エネルギー・・・ 
これは愛を通して、瞑想的な状態に到達する。 

男性エネルギーは、瞑想を通して愛に到る。 
仏陀が偉大な愛の力となったのは、瞑想を通してだ。 

仏陀が自分の宮殿に戻った時、 
当然ながら彼の妻は、非常に腹を立てていた。 
12年もの間、彼は顔を見せなかったのだ。 

ある晩ふっと、彼女に一言も声をかけずに姿を消してしまった。 
彼女が眠っている間に、臆病者のように彼は逃げ出して行ったのだ・・・ 

仏陀の妻ヤショダラは、 
知っていたら、彼の出奔も認めていたことだろう。 

彼女は勇気ある女性だった。 
もし仏陀が頼んだら、彼女は許していたことだろう。 
それに関しては、問題は全くなかったはずだ。 

しかし、仏陀は頼みはしなかった。 
彼は、何か困るようなことが起こるのを怖れた。 
彼女は、泣いたりわめいたりし始めるかもしれない・・・ 

だが彼の恐れは、彼女に原因するものではなかった。 
彼自身の内部の、奥深いどこかに恐怖があった。 

彼は、泣いているヤショダラを置いて去ることが、 
自分にとって、難しいことになるのを怖れたのだった。 
恐怖というのは、常に自分自身の内にある。 

彼には、とても残酷にはなれなかった。 
それなら、妻が眠っている間にこっそり抜け出した方がいい。 
彼はこうして逃げた・・・ 

それ以来、12年経って彼は戻って来た。 
ヤショダラは、いろいろなことを訊いた。 
その中のひとつは、これだった。 

「言ってください。 
あなたが、彼の地で成就したものが何であれ、 
それは、ここでは達成出来なかったのですか? 私と一緒では? 
成就してしまった今なら、私にお話しくださってもいいでしょう?」  

しかし、仏陀は沈黙したままだったという。 

だが、私が代わって答えよう。 
仏陀は、そこでは成就出来なかった。 

深い恋に落ちている男・・・ 
彼は、ヤショダラを深く愛していた。 
それは、極めて親密な関係だった。 

ヤショダラとの間に、どんな親密な関係もなかったら、 
彼女がごく普通のヒンドゥの妻で、愛による関係など全くなかったら、 
それだったら、彼女と一緒に生活しながらでも、 
仏陀は、道を達成することが出来ただろう。 

それだったら、そこに問題は全くなかったろう。 
相手はほんの外面にいる存在で、関わってはいない。 
関わっていないとしたら、相手はいないも同じ、 
ただその肉体が、境界線の上を動いているだけだ。 

しかし、仏陀は深く愛していた。 
男性にとって恋している時には、瞑想を成就することはとても難しい。 
これこそ問題だ・・・非常に難しい。 

というのも、恋している時には、 
静かに坐っていても、相手が頭の中に浮かんでいる。 
その存在全体が、相手の周りを廻り始める。 

それへの恐怖だった! 
だからこそ、仏陀は逃げ出したのだ。 

これまで、このことに言及した人はいないが、 
仏陀がその家から、妻から、子供から逃げ出したのは、 
彼が、彼らを本当に愛していたからだ! 

あなたが誰かを愛したとするね。 
何かに従事している時には、その人のことも忘れているかもしれないが、 
何も従事することがない時には、その相手の記憶がたちまちのうちに現れる。 

そうなったら、神性が入って来られる隙間は全くなくなる。 
あなたが何かに従事していたら・・・ 
店かどこかで働いていたり、 
仏陀の場合は、王として国事を司っていた訳だが、 
その仕事の間は大丈夫だった。 

彼は、ヤショダラのことを忘れることが出来た。 
しかし、何もすることがない時には、 
必ずそこにはヤショダラが入り込む・・・ 

隙間は、ヤショダラによって埋められた。 
そこには、神性の入り来る通路が全くなかった。 

男性は、愛を通して神性を得ることは出来ない。 
そのエネルギーは、女性エネルギーとは全面的に異なる。 

男性はまず第一に、瞑想を成就しなければならない。 
そうなって初めて、愛が起こって来る。 
そうなったら、もうそこに問題はない。 

まず彼は、神性に達しなければならないのだ。 
そうなって初めて、その愛する者も神性を得る。 

12年経って、仏陀は帰って来た。 
今やもう、問題は一切なかった。 
今や、ヤショダラの内に神がいた。 

以前は、ヤショダラは大き過ぎる存在だった。 
その中に神を見るのは、難しいことだった。 

が、今では神が、全面的にそこに在った。 
ヤショダラが入り込む空間は、残されていなかった・・・

 

女性には、これと正反対のことが起こる。 

女性は、その存在全体が、 
相手に向かう衝動にかられている為に、 
瞑想することが出来ない。 

彼女は、独りにはなれない。 
独りでいると、必ず惨めになる。 

だから、独りであることこそ至上の歓喜、 
独りであることこそエクスタシー、などと言っても、 
女性には、理解出来ない。 

ところが、この独りで在るということへの強調は、 
世界中、到る所でなされて来た。 

というのも、男性の探究者が多すぎるからだ。 
仏陀、マハヴィーラ、イエス、モハメッド・・・ 
彼らは、全て孤独の中に入って行った。 

そして、その孤独の内でのみ、彼らは到達出来たのだ。 
彼らが、その独りという雰囲気を創り出していった。 

女性は、独りになると必ず苦しむ。 

もし愛する人がいたら、 
たとえマインドの中だけのことであっても、彼女は幸福だ。 
もし誰かが愛し、誰かを愛せたら・・・ 

周りに愛があると、それは彼女を養う。 
愛は滋養分、それは微妙な食物だ。 

愛が、周りにないと感じる時には、 
女性は飢え死にしそうな、息が詰まりそうな感じになる。 
その存在全体が縮んでしまう。 

だから女性は、 
独り在ることが、喜びに満ちているなどとは、 
全く考えることなど出来ない。 

この女性エネルギーが、愛と献身の道を生んだ。 
たとえ、それが神という愛人であっても構わない。 
生身の恋人を見つける必要は、全然ない。 

ミーラ(インドの女性神秘家)にとっては、クリシュナで充分だった。 
問題は全くなかった。 
ミーラにとっての相手は、充分存在した。 

実際に、そこにいる訳ではない。 
クリシュナは、一神話に過ぎないかもしれない。 
しかし、ミーラにとっては彼はいる。 
相手は存在している! 

その時には、ミーラは幸福だ。 
彼女は踊り、唄うことが出来る。 
そして、それで養われるのだ・・・ 

その考え自体、その思い自体・・・ 
相手が存在して、そこに愛があるというその感覚自体、 
それだけで、女性は充足感を抱く。 

彼女は幸せだ、活き活きとして来る。 
女性は、この愛を通してのみ、 
愛する者と愛される者が、一体となる時点にまで行ける。 
その時に、初めて瞑想が起こる。 

女性エネルギーにとっては、 
愛のもっとも深い合一の内においてのみ、 
瞑想が起こる。 

そうなったら、彼女は独りになれる。 
そうなったら、問題はなくなる。 

なぜなら、もう二度と独りにはなり得ないからだ。 
愛する相手と、溶けてひとつになったのだ! 
相手は、今やおのれの内側にいる。 

ミーラ、ラーダ、あるいはテレサ・・・ 
彼女達は、全て愛する人を通して成就している。 
クリシュナやイエスを通して・・・ 

これは、私の感じていることだが、 
男性の求道者が私のところへ来る時には、 
彼は決まって、瞑想に関心を示す。 

そして、女性の求道者が来る時には、 
彼女は決まって、愛に関心を寄せる。 

もし私が、瞑想を通じて愛が起こると言えば、 
女性もまた、瞑想に興味を持つようになる。 

が、彼女の奥深い欲求は、愛なのだ。 
女性にとっては、愛が神なのだ・・・ 

この違いは、理解しておかなければならない。 
しっかり、深く理解して欲しい。 

なぜなら、全てがこのことに掛っているのだから・・・ 
グルジェフは、確かに正しいのだ。 

女性エネルギーは、愛す。 
そして、愛を通じて瞑想的な境地、サマディが花開く。 
悟りがやって来る・・・ 

が、その根の深くには愛があって、 
悟りは、そこから生まれ開く花。 

男性エネルギーにとっては、悟りは根の中にあるもの、 
サマディは、その根の中深くにある。 

瞑想は、その根の中にある。 
そして、そこから愛が花開く。 
愛はあくまで、ひとつの開花だ・・・ 

女性の求道者が私の許にやって来る時、 
当然ながら、起こって来ることは、 
彼女達が、もっと強く愛を感じるようになる、ということ。 

ところが、実際の生身のパートナーには、 
不満を感じるようになる。 

深い愛がある時にはいつでも、 
物理的なパートナーでは、満足しなくなるものだ。 

なぜなら物理的なパートナーは、外面しか満足させられないからだ。 
中心(センター)を充足させることは、出来ないからだ。 

だからこそインドのように古い国では、愛は絶対に許されず、 
取り決めによる結婚だけが、許されて来た。 

というのは、もし一旦、愛を認めてしまったら、 
遅かれ早かれ、生身の相手ではもの足りなく感じるようになり、 
そうなったら、欲求不満が起こって来るからだ。 

今では、西洋全体が乱されている。 
今日、満足感などというものは全くない。 

ひとたび愛を認めたら、その時には、 
普通の男には、その愛を満たすことは出来ない。 

彼は、セックスを満足させることは出来よう。 
表面的なものを満足させることは出来よう。 
しかし深部は、深層は満足させられはしない。 

ひとたび、あなたが深淵をかき乱してしまったら、 
それを充足出来るのは、神だけだ。 
他には誰も、充足出来る者はいない・・・ 

こういう訳で、女性の求道者が私の所に来る時には、 
彼女達の深層が、ショックを受ける。 

彼女達は、新しい衝動を感じ始める。 
新しい愛が、湧き起こって来るのを感じ出す。 

しかし今や、彼女達の夫やボーイフレンド、 
彼女達のパートナーは、それを満足させることは出来ない。 

今や、もっとずっと高度な質の存在しか、 
それを、満足させることは出来ない。 
これは、この通りになって然るべきだ。 

従って、あなたのボーイフレンド、 
あるいは夫は、もっともっと瞑想的になって、 
より高い存在の質を、生じさせなければならない。 

そうならない限り、満足させることは出来ない。 
さもなければ、関係は壊れることになる。 
橋は、もうもたなくなる・・・ 

あなたは、新しいボーイフレンドを見つけなければならないか、 
それとも、もし新しいボーイフレンドなど不可能だったら・・・ 
ミーラの場合もそうだったように・・・見つけるのが難しかったら、 
その時には、あなたは神性を愛する以外ない。 

そうなったら、生身のパートナーのことは忘れなさい。 
今や、それはあなたにとっては無いも同然だ。 

同じことが、違った形で男性求道者にも起こる。 
彼らが私の許に来ると、彼らはより瞑想的になる。 

彼らがより瞑想的になって行くと、 
古いパートナーとの間の橋は、壊される。 
ぐちゃぐちゃになる。 

今や、彼らのガールフレンド、あるいは妻が、 
成長しなければならないのだ。 

さもなければ、その関係は岩礁に乗り上げる。 
もう保って行くことが出来なくなる。 

このことを、憶えていなさい。 

私達の人間関係、いわゆる関係は調整だ。 
1人が変わると、その調整は崩れる。 
よくなるか悪くなるか、それは肝心なことではない。 

人々は、私の許へ来て言う。 
もし、瞑想がより高い質をもたらすのだとしたら、 
それならなぜ、関係が崩れるのですか? 

だが、それは要点ではないのだ! 
その関係自体、ひとつの調整、 
その時点での、2人の人間の間に創られた調整だ。 

今、1人に変化が起こった、 
ならばもう1人は、それに伴って成長しなければならない。 
さもなければトラブルが生じて、物事が虚飾に満ちて来る。 

男性がここに来る場合、必ず彼は、前より瞑想的になる。 
瞑想的になればなるほど、彼はますます独りになりたくなる。 

すると妻、あるいは愛する者達は、それに心乱される。 
もし彼女に理解がなかったら、 
その時には、彼女はトラブルを起こし始めるだろう。 

すると、この男性はますます独りになりたくなる。 
もし彼女に理解があったら、それなら問題はない。 

だがその理解は、 
彼女の愛が成長した時に、初めてやって来るもの。 

もし彼女が、より愛情豊かに感じたら、 
その時には彼女は、この友人、この男性が、 
孤独に、独りになるのを、認めることが出来る。 

それにまた彼女は、彼の孤独を護ることだろう。 
彼女は、それが乱されないよう見守ることだろう。 
今では、それが彼女の愛の形なのだ・・・ 

そして、もしこの男性が感じるとしたら・・・ 

仏陀の場合、もし彼が、 
ヤショダラが、彼の瞑想が乱されないようにと、 
彼の沈黙が守られるようにと、見守り、保護し、 
心を使っていることを感じたら、 
その時には、ヤショダラから逃げる必要はない。 

しかしこれは、 
ヤショダラの愛が、成長した時にしか起こらない。 

男性の瞑想が成長している時には、 
女性の愛もまた、成長しなければならない。 

そうなって初めて、2人の歩調が合わせられ、 
より高い調和が生じて来て、ますます高まって行く。 

すると、ある瞬間がやって来る・・・ 
男性が全面的(トータル)に瞑想の内にある時、 
女性もまた、全面的に愛の内にあるような瞬間・・・ 
その時にこそ、初めて完璧な出会いがある。 

その時にこそ初めて、 
真の、至高のオーガズムが、2人の間に在る! 

それは肉体的な、性的なオーガズムではなく、全面的なオーガズム・・・ 
2つの存在が出会い、互いの内に溶けて行く。 

と、その時には、恋人が扉となる、愛する者がドアとなる。 
そして2人共が、一体に到るのだ。 

だから、私の許に来る人は誰でも、 
私の近くにいることは危険だ、ということを、 
完全に自覚しておくべきだ。 

あなた方の古い取り決めは、かき乱される。 
私にはどうしようもない。 

それに私は、 
あなた方の調整の手伝いをする為に、ここにいる訳ではない。 
それは、あなた方が決めること。 

私は、あなた方の成長を助けることが出来る。 
瞑想の内に成長し、愛の内に成長することを・・・ 

私にとっては、この言葉は2つとも同じ意味を持つ。 

なぜなら2つとも、同じ終点に行き着くからだ。 


OSHO:「マイウェイ」(めるくまーる社刊)より抜粋