OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

35.関係の神秘

<OSHOの講話より> 

質問:妻とか夫、恋人といった私達の生活上のパートナーについて話して頂けませんか?

どういう時に私達はパートナーを辛抱し、どういう時に関係を絶望的と見て、いや破壊的ですらあるとみて放棄すべきなのでしょうか? 

また、私達が持つ人間関係は過去生からの影響があるのですか? 


関係とは神秘のひとつ・・・そしてまた、関係は2人の人間の間に存在することから、その双方に依存するものだ。 

2人の人間が出会うた 
びに、1つの新しい世界が創り出される。 
ただ2人が出会うことで、新しい現象が「実在」の中に現れる。 
それは今までなかったもの、今まで存在したことのなかったものだ。 

その新しい現象を通じて、2人の人間が変化し変容する。 
関わることがなかったら、あなたはただある1つの存在、 
関わることで、たちどころにあなたは別の存在になる。 
何か新しいことが起こるのだ。 

女性は恋人となる時には、もう同じ女性ではない。 
男性は父親となる時には、もう同じ男性ではない。 

子供が生まれる・・・ 
だが私達は1つの肝心なことを完全に見落としている。 

それは、子供が生まれる時には、その母親もまた誕生するということだ。 
それは今までなかった存在、女性は存在していたが、母親は? 
いやいなかった。 そして、この母親というのは全く新しい存在だ。 

関係は、あなた方によって創られる。 
が、その代わりまた、関係の方もあなた方を創る。 

2人の人間が出会う・・・ということは、 
2つの世界が出会う、ということだ。 
これは簡単なことではない。 
非常に複雑な、もっとも込み入ったこと。 

1人1人の人間が、自分自身に対して1つの世界を持っている。 
そして、それは長い過去と永遠なる未来を伴った、複雑な神秘なのだ。 

最初のうちはただ外面だけが出会う。 
しかし、関係が親密なものに成長していくと、 
もっと近づき、もっと深まるにつれ、 
少しずつ中心が出会い始める。 

中心が出会う時、それは愛と呼ばれる・・・ 
外面だけが出会っている時は、面識に過ぎない。 
あなたは相手に外側から、境界線あたりから触れるだけ。 

そうだったらそれは面識、ただの知り合いの間柄だ。 
何度となくあなた方は、面識の間柄を愛と呼び始める。 
そうなったら、あなた方は誤謬に陥ることになる。 
面識は、愛ではない。 

愛とは稀なもの。 
人にその中心のところで出会うということは、 
あなた自身、1つの革命を通過するということだ。 

なぜなら、もしあなたが他者にその中心のところで出会いたいと思ったら、 
あなた自身、相手が自分の中心に到ることを許さなければならないからだ。 

あなたは防御を解いて、壊れ易くならなければならない。 
完全に自分を開かなければならない。 

それには危険がある。 
他者をして、自分の中心にまで到らせるということは冒険だし、危険だ。 
その人があなたに何をするか、あなたには知りようがないからだ。 

それに、ひとたびあなたの秘密が知られたら、 
ひとたびあなたの隠れ家が隠れ家でなくなったら、 
ひとたびあなたが完全にむき出しになったら、 
相手が何をするか、あなたには全く分からない。 

その怖れがあって、私達は決して自分を開かない。 

ただの面識・・・ところが、私達は愛が起こったのだと思う。 
外面が出会う・・それを私達は出会いがあったのだと考える。 
が、あなたは、あなたの外面ではない。 

本当に、外面とは、あなたが終わりになる境界線のこと、 
あなたの周りを囲っているだけ。 それはあなたではない! 
外面とは、あなたが終わりになるところであり、 
そこから全体が始まるところ・・ 

たとえ何年も一緒に暮らして来た夫と妻でさえ、 
ほんの面識の間柄でしかないかもしれない。 
互いのことを、知ってはいないかもしれないのだ。 

誰かと長く暮らせば暮らすほど、 
人は互いの中心は、まだ未知のままであることを忘れていく。 

従って理解すべき第1のことは、 
ただの知り合いの間柄を、愛と勘違いするなということ。 

あなたはその相手と、一緒に寝るかもしれない、 
その相手と性的に繋がっているかもしれない。 
が、セックスもまた外面のものだ。 

中心が出会わない限り、 
セックスは、2つの肉体の出会いに過ぎない。 

そして2つの肉体の出会いは、あなたが出会うこととは違う。 
セックスもまた面識の程度に留まる。 

物理的、肉体的・・・だが表面的に知ることに過ぎない。 
自分の中心に到るほどに、他者が内部に入ることを許せるのは、 
あなたが怖れていない時だ。 あなたが恐怖を覚えていない時だ。 

だから、私はあなた方に言う。 
生き方には2つのタイプがあると・・・ 
1つは恐怖指向のタイプ、もう1つは愛指向タイプ。 

恐怖指向の生き方は、あなたを決して深い関係に導いてはいかない。 
あなたは怖れ続け、相手があなたの核心にまで浸透することを許さない。 
ある程度までは許しはするが、その向こうには壁が現れて、全ては止まる。 

愛指向の人は宗教的な人だ。 
愛指向の人とは、未来を怖れない人、成り行きや結果を怖れることのない人、今、ここに生きる人・・・ 

これこそクリシュナがギータの中で、アルジュナに語っていることだ。 
結果の為に心乱されるな。 それは恐怖指向の捉え方だ。 

そこから何が起こって来るかなど、考えてはならない。 
ただ、ここに在って、トータル(十全)に行うがいい。 
計算してはならないよ。 

恐怖指向の人はいつも計算している。 
計画して、いろいろ取り決めて安全を計る・・・ 
生全体が、こうして失われて行く。 

ある年老いた禅僧の話を聞いたことがあるのだが・・・ 

最後の日がやって来て、彼は死の床に就いていた。 
彼はその夜、他界することを宣言した為に、彼の信奉者、弟子、友人達が集まって来た。
彼を愛する人達はたくさんいた・・・ 
そういう人達が皆集まって来たのだった。 
遠方から国中から、人々が彼の許にやって来た。 

が、ある古い弟子の1人は、師が死の床にあると聞いて市場に駆けつけた。 
「師匠は、ご自分の家で死のうとしていらっしゃるのに、なぜお前は市場になんぞ行くのかね?」 

ある者が尋ねると、その古い弟子は言った。 
「師には大好きなお菓子があるのを私は知っているんだ。だからそのお菓子を買いに行くのさ」 

その菓子を見つけるのは大変なことだった。この種の菓子は、もう流行っていなかったからだ。だが、夜までには何とか彼は間に合わせることが出来た。彼は菓子を持って馳せつけた・・・ 

その頃、人々はいささか心配になっていた。というのも、師に誰かを待っているような気配があるからだ。眼を開けて見回すと、また眼を閉じる・・・と、例の弟子が到着した。

師は言う。「そうか、お前が来たか。あの菓子はどこだ?」 

そこで弟子は菓子を差し出した。師が菓子のことを訊いたことで、彼は非常に喜んでいた。 

死にかかっていながら、師はその菓子を手に取った。しかし、その手は震えてはいなかった。非常な高齢にもかかわらず、その手は震えはしなかった。 

誰かが尋ねた。「あなたは大変年を取られているし、しかも今や死の縁に立たれている。すぐにも最後の息が引き取られようというのに、あなたの手は震えていませんね?」 

すると師は言った。「私は震えはしない。怖れがないからだ・・私の肉体は年老いたが、私はまだ若い。そして私は、たとえ肉体が消え去ろうと、若くあり続けるだろう」 

それから彼は、菓子を1つ口の中に入れると、もぐもぐ味わった。誰かが尋ねる。「師よ、遺言は?最後のメッセージは何ですか?もうすぐ私達を離れて行こうという今、私達に覚えていて欲しいことがありましょう?」と、 

師は微笑して言った・・・「ああ、この菓子は実にうまい!」 

これこそ、今ここに生きる人だ。「この菓子は実にうまい!」 
死でさえ、この時には場違いだ。次の瞬間というのは無意味なこと。この瞬間、この菓子はうまいのだ! 

もしあなたが、この瞬間の内に在れたら、この現在の瞬間に、この現在性、この充実・・・この時に初めて、あなた方にも愛することが出来る。 

愛とは稀有な開花だ。愛はほんの時折にしか起こらない。何億という人々が、自分達は愛し合っているという偽りの姿勢の中で生きている。彼らは自分達の愛を信じている・・が、それは彼らの信じ込みに過ぎない。 

愛とは稀な開花・・時折、それは起こる。それが稀なのは、恐怖がなくなった時にしか起こらないからだ。それ以前には決して起こらない。というのは、愛は、きわめて深いスピリチュアルな宗教的な人にしか起こり得ないという意味だ。セックスは誰にも可能なこと。面識を持つことは誰にも可能なこと。が、愛は違う。 

あなたが怖れていない時、その時には何1つ隠すものはない、その時、あなたは自らを開くことが出来る。その時、あなたはあらゆる境界線を引き払って、あなたの中に、あなたの核にまで浸透するよう、他者を招くことが出来る。 

しかし憶えておきなさい。もしあなたが、自分の内部深くに浸透することを誰かに許したら、相手もまた、あなたが彼の内に、彼女の内に入って行くことを許すだろう。なぜなら、あなたが他者を自分の内側に入ることを許す時には、信頼が生まれるからだ。あなたが怖れていない時には、相手からもまた恐怖は消えていく。 

あなた方の愛の中には、必ず怖れがある。夫は妻を怖れ、妻は夫を怖れている。恋人達にはいつも怖れがある。それならそれは愛ではない。それならそれは、ただの取り決めに過ぎない。互いに依存し合い、闘い、搾取し合い、操作しコントロールし合い、支配し所有し合っている、怖れに満ちた2人の人間の間の取り決め・・それは愛ではない。 

もしあなたが、愛が起こるのを許せたら、祈りの必要は全くなくなる。瞑想の必要は全くなくなる。教会や寺院の必要は全くなくなる。もし愛することが出来たら、あなたは神のことなど全く忘れられる。なぜなら愛を通じて、あらゆることがあなたに起こるからだ。瞑想、祈り、神・・全てがあなたに起こるだろう。 

これこそイエスが、「愛は神なり」と言う時に意味したことだ。しかし、愛は難しい。怖れをまず落とさなければならない。ところが、これは何とも奇妙なこと・・つまり、あなた方はそんなに怖れてはいるものの、失うものは何もないのだ。 

カビールがどこかでこう言っている・・ 
私は人々を内側まで見る。彼らはひどく怖れているが、私には何故だか分からない。というのも、彼らには失うものは何もないないからだ。カビールは言う。彼らは、川に行って沐浴するのを怖れている裸の人のようだ。その人は、衣服をどこで乾かそうかと苦にしている・・ 

これは、あなた方の陥っている状況だね。裸で、何も身にまとっていないのに、いつもいつも衣服のことを気にしている・・失うような、一体何をあなた方は持っているというのだね?何もない!この肉体は、死によって取り上げられる。死がそれを持ち去る前に、それに愛を与えるがいい。あなたが持っているものは何であれ、取り上げられる。取り上げられる前に、分かち合ったらどうかね? 

それが所有する為の、唯一の方法だ。もし、あなたに分かち合い、与えることが出来たら、あなたは主人だ。あらゆるものは、いずれ取り上げられる。永遠に保持出来るものなど何もない。死は、全てを破壊する・・だから、もしあなた方が間違わず私の後について来たら、葛藤は、死と愛の間にあることを知るだろう。もし、あなたに与えることが出来たら、死はなくなる。あなたから取り上げられる前に、あなたはすでにそれを与えている。あなたはそれを、贈り物にしたのだ・・そこには死はない。

 

愛する者にとっては、死はない。愛のない者には、一瞬ごとが死だ。なぜなら、一瞬一瞬、何かが彼から奪い取られているからだ。肉体は消えつつある。一瞬ごとに失われつつある。そして、そうなったら死が現れ、あらゆるものが消滅してしまう。 

その恐怖は何なのだろう?あなたは何を怖れているのだろう?たとえ、あなたに関することは何でも知られていて、あなたは1冊の開かれた本だとしても、それでも怖れるかね?何故?どうしてそのことが、あなたに害を及ぼせよう。それは間違ったとらえ方だ。社会によって与えられる教育、条件づけだ。 

隠さなければならない。自分を護らなければならない。常に闘志を燃やしていなければならない。あらゆる人が敵だ。あらゆる人が、あなたに反対している・・誰もあなたに反対している人などいない!誰かが反対していると感じたとしても、それはその人があなたに反対しているからではない。誰も皆、自分自身のことに関わっているからだ。あなたのことではない。 

怖れるものは、何もない。このことに気がつかなければ、真の関係は起こり得ない。怖れるものは何もないと・・このことに瞑想してごらん。それから、他者があなたの内に入るのを許すのだ。あなたの内部に入るよう、他者を招待するがいい。そして、どこにも障害を作らないこと。通路になりなさい。いつも開放していることだ。あなたの上には、鍵もなければ扉もない。閉ざされた扉は1つもない。そうなったら、愛は可能だ・・ 

2つの中心が出会う時、そこに愛がある。そして愛とは、錬金術的な現象だ。ちょうど、酸素と水素が出会うと、新しい物質、水が創られるのと同じ。あなたは酸素を持ち歩くことが出来る。水素を持ち歩くことも出来る・・が、もし喉が渇いて来たら、どちらも無用の長物だ。欲しいだけの酸素を持てるし、好きなだけ水素も持てる。しかし、渇きは消えはしない。2つの中心が出会う時、1つの新しいものが創り出される・・ 

その新しいものとは、愛のこと。それはまるで水のようなもの。何生にもわたってあった渇きが満たされるのだ。突如として、あなたは充足される。それこそ目に見える愛のしるし。あたかも何かを成就したかのように、あなたが満足しているというそのことだ。今や成就すべきものは何もない。あなたはゴール(終着点)に到達した。もうこれ以上ゴールはない。目的は充足された。種は花となった。全面的な開花に至ったのだ・・ 

深い充足感こそ、目に見える愛のしるしだ。人が恋に落ちている時には、彼らは深い充足感の内にある。愛自体は、目に見えない、が、その周りの充足感、その深い満足感、その呼吸の一息一息、動きのひとつひとつ、その存在そのものが満ち足りている・・ 

愛は人を無欲にすると私が言ったら、あなたは驚くかもしれない。欲望とは不満にともなってあるもの、あなた方は自分にないから欲する。あなた方は、もし自分にこれがあったらきっと満足するだろうと考えて欲する。欲望とは、不満から生まれるものだ。 

愛がある時には、2つの中心が出会い、溶け合い、没入し合う時には、ある新しい錬金術的な質が生まれる・・そして、そこには充足感がある。それはあたかも「実在」全体がストップして、動きが一切なくなったかのようだ。そうなったら、現在の瞬間が唯一の瞬間になる。そうなったら、あなたにも言える。「ああ、この菓子はうまい!」と・・ 

死さえ、愛の内にいる人にとっては何の意味も持たない。だから、私はあなた方に言う。愛は、あなたを無欲にすると・・ 

怖れることはない。怖れを落として、オープンでいてごらん。他者の中心が、あなたの中心に出会うのを許すがいい。あなたはそれによって、再び生まれ変わる。存在の新しい質が創り出されるのだ。存在の質は言う。「神」は在る・・と。「神」は論議ではなく、ある充足、充足を感じ取る感覚(フィーリング)のことだ。 

あなた方も観察したことがあるだろう。不満を感じている時には、決まって神を否定したくなる。満足していない時には、あなたの存在全体が「神などいない」と言いたがる。無神論というのは、論理から出て来るものではない。それは不満から出て来るものだ。あなたはそれに理屈をつけるかもしれない・・それはそれで別のこと。あなたは、自分は不満だから無神論者なのだとは言わないだろう。あなたは、神など存在しない、私にはその証拠があるんだ、と言うかもしれない。 

しかし、それは本当のことではない。もしあなたが満足していたら、突如として、あなたの存在全体が言い始める。「神」は在る!と。不意にあなたはそう感じるのだ。「実在」全体が神性を得る・・もし愛がそこに在ったら、あなたは生まれて初めて、「実在」は神性であり、あらゆるものは恵みである、という実感を持つことだろう。 

しかし、これが起こる為には、多くのことが為される必要がある。これが起こり得る為には、多くが壊されなければならない。あなたは、自分の内部で障害を生み出すような全てを壊していかなければならない。 

愛をサダナ(修行)にしなさい。取るに足らない、つまらないものに終わらせてはならない。頭の中の考えごとで終わらせてはならない。肉体的な満足感で終わらせてはならない。愛を内なる探求にするがいい。そして相手を助けとして、友人として捉えなさい。 

もしあなた方が、タントラについて何か聞いたことがあるとしたら、タントラではこう言っているのを知っていよう。男でも女でも、もしあなたにパートナーか友人が見つかったら・・あなたと共に内なる中心に向かって動く用意があり、あなたと共に関係の絶頂にまで動いて行く用意がある、そんな相手が見つかったら、その時には、その関係は瞑想的なものになる。その時にはその関係を通して、あなたは究極の関係を達成するだろう。相手は、その為の扉となるのだと・・ 

もう少し説明しようかね。 
もしあなたが人を愛したら、少しずつその人の外面の部分が消えて行く、その人の形が消えて行く。あなたは形のない内側のものに、もっともっと接するようになる。形は次第にぼんやりとなり、消えて行く。そして、あなたがもっと深く入って行ったら、その時には、この形のない個さえも消え始め、溶け始める。 

と、彼方なる世界が開かれる。そうなったら、相手のその個人は単なる開口部、扉だったことを知る。その愛する者を通じて、あなたは「神性」を見出すのだ。愛することが出来ない為に、私達はこれほどの多くの宗教儀式を必要とする。儀式は代用品、しかも非常に貧弱な代用品だ。 

ミーラ(インドの女性神秘家)には寺院はいらない。「実在」全体が、彼女の寺院だ。彼女は1本の樹の前で踊ることが出来る・・と、その樹がクリシュナになるのだ!彼女は小鳥の前で唄うことが出来る・・と、その小鳥がクリシュナだ!彼女は、自分のクリシュナを周り中に創り出す。彼女の愛は、彼女が見るところどこでも扉が開かれ、クリシュナが、愛する人が顕れるほどに深い・・ 

しかし最初のきらめきは、必ず個を通して来る。宇宙と触れ合うことは難しい。あまりにも大きく、あまりにも広大だ。始まりも終わりもなく、無辺だ。一体、どこから始めればいい?どこから入ったらいい?愛の相手その個が、その扉になる。恋に落ちるがいい・・だが、それを葛藤にしないこと。相手を深く認め許すこと、愛を招待状にすることだ。そして、相手が無条件にあなたの内部に浸透するのを許すがいい。 

すると突然、相手は消え去り、「神」がそこにいる・・もし、あなたの愛する人が神とならなかったら、その時には、この世の何ひとつ神性を得ることはない。だとしたら、あなた方の宗教的なお話は、ただのナンセンスだ。 

これは子供が相手でも起こり得る。動物が相手でも、飼っている犬が相手でも起こり得る。もしあなたが、自分が飼っている犬と深い関係に在ることが出来たら、これは起こり得る。その犬は神性を得る!従って、これは男と女だけのことではない。これは、あなたに自然にもたらされる「神性」の、もっとも深い源泉のひとつ・・ どこからでも起こり得る。 

基本となる鍵はこれだ。あなたは、自分のもっとも内奥の核にまで、あなたの実存の基盤そのものにまで、相手が浸透するのを許さなければならないということ・・ところが、私達は自分をだまし続ける。私達は、自分が愛していると思っている。もしあなたが、自分は愛していると思っているとしたら、愛が起こる可能性は全くない。なぜなら、もしそれが愛だと思っていたら、あらゆるものは閉ざされてしまうからだ。 

新たに努力をしてみるがいい。相手の内深くに隠されている、リアルな存在を見つけ出してみなさい。誰も、当然こうあるべきだなどと捉えないこと。どの個人も、それぞれがひとつの深い神秘だ。内部に入って行けば行くほど底知れない。だが私達は、互いに退屈してしまう。というのも、ただ外側の縁(ふち)のところに、いつもその外面に留まるからだ。 

・・私達は、他者を決めてかかる。誰かがあなたの妻だとする・・と、そこで関係は終わりになる。誰かがあなたの夫だとする・・と、そこで関係は終わりになる。もはやそこには冒険がない。ん?相手はひとつの物に、日用品になったのだ。相手は、今では探し求めるべきひとつの神秘として在るのではない。相手はもう新鮮ではなくなっている。 

憶えておくがいい。どんなものも、年輪と共に死んで行くということを。外面は常に古く、中心は常に新しい。外面は新しいままではいられない。一瞬一瞬、古くなりカビ臭くなる。が、中心は、常に新鮮で若々しい。 

あなたの魂(ソウル)は、子供でも青年でも老人でもない。あなたの魂は、ただ単に永遠に新鮮なのだ。それには年齢というものがない。自分で実験してみたらどうかね。あなたは若いかもしれないし、年寄りかもしれない。ただ眼を閉じて、自分を知るがいい。自分の中心(センター)がどうであるのかを感じてみてごらん。老いているかね?若いかね?あなたの中心は、そのどちらでもないと感じることだろう。 

それは常に新しい。決して古くはならない!なぜだろうか?それは、中心は時間に属さないからだ。時間のプロセスの中では、全てが古くなる。人間が1人生まれる・・その肉体は、その時からすでに老い始める!この子は生まれて1週間ですよと言う時、私達はこの子の中に1週間分の老いが沁み込んだのだ、という意味で言っているのだ。この子はすでに7日間も死に向かって進んでいる。遅かれ早かれ彼は死ぬことになる・・ 

老いて行く。あなた方の肉体は老いている。あなた方の外面は老いる・・それを永久に恋することなど出来ない。しかし、あなた方の中心は常にフレッシュだ。それは永遠に若々しい。ひとたびあなたがそれと接触し始めたら、愛は一瞬ごとに発見されて来る。そうなったら、ハネムーンは決して終わらない。もし終わるとしたら、それはハネムーンではなかったのだ。それは単なる面識に過ぎなかったのだ・・

 

さて、憶えておいて欲しい最後のこと・・愛の関係にあっては、あなた方は何かがうまく行かないと、決まって相手のせいにする。もし何かが思ったような起こり方をしなかったら、責任は相手にあることになる。このことは、将来の成長の可能性を全て破壊する。 

憶えておきなさい。責任があるのは、常にあなた自身だ。自分を変えるがいい。ゴタゴタの元になる性質を落としていくことだ。愛を、自己変容とあらしめなさい。セールスマンを訓練する時、こんなことを言うそうだ。お客さんは必ず正しい!私もあなた方に言いたい。関係の世界、愛の世界においては、あなたが必ず間違っていて、相手が常に正しい!

恋人達は、いつもこのように感じている。もしそこに愛があるとしたら、彼らはいつもこう感じる。私がどこかおかしいんだ!もし何かが起こるべきように起こらなかったら、2人とも同じように感じる。そうなったら、ものごとは成長する。そうなったら中心が開き、2人の間の境界線が没入する・・ 

しかし、もしあなたが相手の方が悪いのだと考えるとしたら、あなたは自分自身と、そしてその相手両方を閉ざすことになる。相手の方も、あなたが悪いと考えている。思考というものには伝染性がある・・もしあなたが、相手が悪いと思っていたら・・たとえあなたがそれを口に出さなくても、たとえあなたが微笑して、相手が悪いなどとは思っていないことを示したとて、相手は読み取っている・・あなたの眼、仕草、顔つきを通して感じ取っている。 

たとえあなたが俳優であったとして、偉大な役者であったとして、顔つきを変えたり、仕草を改めたりしても、それでもなお、無意識の領域では絶えずシグナルが送られている。あなたが悪いと・・そして、相手が悪いとあなたが言えば、相手もまた、あなたの方が悪いと感じ始める。関係は、この岩の上で壊される・・そうなると人々は閉じこもる。あの人が悪いんだと言われたら、その人は自分を守護し始め、保護し始める。そして閉鎖が起こるのだ。 

常に憶えておくがいい。愛にあっては、間違っているのは必ずあなたの方だ。そうなって初めて可能性が開かれる。相手もまた同じように感じるだろう。互いに相手の内に、その感じを生じさせるのだ。恋人達が近づき合う時には、考えていることがたちまち互いに伝わって来る。どちらも何ひとつ言わないのに、2人とも沈黙しているのに、伝え合うことが出来る。言語は、愛することのない人々の為のもの、恋していない人達の為にあるものだ。恋人達にとっては、沈黙こそ充分な言語、ひと言も言うことなくして彼らは語り続ける。 

あなたが愛をサダナ(修行)と、つまり内面的な訓練紀律と見なすのなら、それなら相手が悪いなどと言わないことだ。ただあなたの内部のどこかで、何かが間違っているのを見つけ出しなさい。そして、その間違いを落とすがいい。それは簡単に出来ることではない、というのも、それはあなたの誇りを傷つけるからだ。それは簡単に出来ることではない、というのも、これは相手を支配することにも、所有することにもならないからだ・・相手を所有することで、あなたがより強力になることはない。これは、あなたの自我(エゴ)を破壊する。だからこそ、簡単に出来ることではない。 

自我が破壊されることこそ、肝心なこと。それこそがゴール・・内なる世界へどこからアプローチするにせよ、愛から、瞑想から、ヨーガから、祈りから・・どの道を選ぶにせよ、ゴールは同じだ。それは自我が破壊されること。自我を投げ捨てなさい。愛を通じてやったら、それはとても楽に出来る。愛とは自然な宗教だ!他のものは全て、ますます自然でなくなっている。もしあなたに、愛を通して働きかけることが出来ないとしたら、他のどの道もあなたにとっては難しいことになるだろう。 

それから、過去生のことはあまり考えないでいなさい。それにまた、未来のこともあまり考えないでいなさい。現在で充分ではないかね?関係が過去から来ると考えることはない。確かにそれは過去から来ている!しかし、それについて考えることはない。そんなことをしたら、ますます複雑になるばかりだ。ものごとは簡単であれば、その方がいい。 

確かにそれは続いている・・過去生からずっと、ものごとは連続性を持って続いている。私はその事実を否定しはしない。だが、そのことで重荷を背負うことはない。それは未来にもずっと続いて行くだろう。が、それについて考えてはならないよ。この現在がすでに、解決するには手に余るほどなのだから・・ 

菓子をむしゃむしゃ食べて言うがいい。この菓子は実にうまい!とね。過去のことも未来のことも考えないでいなさい。過去も未来も、それぞれ自分で自分の面倒を見るだろう。連続しないものなど何ひとつない。あなた方は過去、関係を持っていた。愛し、また憎悪した。友情を築きあげ、また敵も作った。それはずっと連続する・・あなたが気がついているもの、いないものを含めて、それは常にそこに在る・・ 

しかしもしあなたが、それについてアレコレ考え始めてしまったら、あなたは現在の瞬間を取り逃がすことになる。だから、過去というものなどないと思いなさい。未来というものなどないと思いなさい。この瞬間が、あなたに与えられている全てなのだ。この瞬間しかないかのように、考えを巡らすがいい。この瞬間が全てであるかのように振る舞って、如何にしたら自分のエネルギーを愛情豊かな現象に、この瞬間、変容出来るか考えを巡らすがいい。 

人々は、私の許に来てこんなことを訊く。自分の過去生について知りたいのですが・・ 
確かに過去生はあったが、それは今では的外れだ。なぜそんなことを訊く?過去について、一体何をしようというのかね?今では何も出来ることはない。過去は過去であって、取り消すことなど出来はしない。あなたにはもう、過去を変えることは出来ないし、戻ることも出来ない。 

だからこそ大自然は、賢くもあなた方に過去生を思い出すことを許さないのだ。さもなかったら、あなた方は狂ってしまう!あなたが1人の女性と恋に落ちるとするね。そして、もし突然あなたが、この女性は過去生であなたの母親だったことに気づく・・と、物事はすっかり込み入って来る。どうすればいい?過去生において、この女性があなたの母親だったとしたら、彼女とセックスすることは罪悪感を生じさせる。それにセックスをしないこともまた、罪悪感を生じさせる。なぜなら、あなたは彼女を愛しているからだ。 

だからこそ私は、大自然は賢くもあなた方に過去の生を思い出させない、と言うのだ。思い出すことが許されるような時点にあなたが到った時、あなたが全く何ものにも乱されることのないほど瞑想的になった時、その時には門が開かれ、過去生は全てがあなたの前に現れる。これは自動的なメカニズムだ。時には、このメカニズムが働かないこともある。また偶然、過去生を思い出すことが出来る子供が生まれて来ることもある。 

しかし、そういった子供の人生はめちゃめちゃだ。数年前、1人の少女が私の所へ連れて来られた。彼女は自分の過去生2つを思い出していた。その時、彼女はまだ13歳だった、が、彼女の眼の中を見入れば、その眼が70歳ほどの老女の眼であることが分かる。というのも、彼女は2つの過去生、70年にわたる過去を思い出していたからだ。彼女の肉体は13歳のものだが、彼女のマインドは70歳のものだった。 

彼女は、他の子供達と遊ぶことが出来なかった。それはそうだろう。70歳の老女がどうしたら子供達と遊べよう?彼女は年寄りのように話し、振る舞う。彼女は重荷を背負っていた・・彼女のマインドには、その何十年かにわたる心配事が全部あった。彼女の記憶は非常に精確だったので、その2つの過去生で家族だった人達も追跡することが出来た。1つの家族はアッサムに、もう1つはマディヤ・プラデッシュに住んでいた。彼ら昔の家族と接触するようになると、彼女はその人達にあまりにも愛着を覚えるようになって、彼女はどこに住むべきかということが問題になっていた。 

私は両親に言った。この子を少なくとも3週間、私の許に置いてみなさい。彼女が忘れることが出来るよう努力してみよう・・なぜなら、この少女の生は倒錯したものになってしまうからだ。彼女は恋に落ちることさえ出来ない。彼女はもう老女なのだ! 

人が年老いるということは、記憶と関連している。もし記憶の拡がりが70年にわたっていたら、その時には、あなたは70歳の感じを持つ。 

この少女は、大変な苦しみの中にいるように見えた。彼女の顔つき、体つき、全てが苦しんでいた。彼女の中心が非常に病んでいて、落ち着かず不快に感じているようだった。全てがおかしくなっていた。しかし両親は、娘のことで大いに喜んでいた。大勢の人々が訪れたり、新聞が記事にしたりするからだ。両親はこのことを大いに愉しんでいた。彼らは私の言うことに耳を貸そうとしなかった。私は言った。この子は今に狂うよ・・ 

両親達は、二度と再びその少女を私のところに連れて来ることはなかった。が、7年後、彼らはまた来た。その少女は発狂していた・・彼らは、さあ何とかしてくださいと言ったが、私にはこうしか言えなかった。今ではもう何をするのも不可能だ。ただ死だけが彼女を助けるだろう、と。 

あなた方が思い出さないのは、思い出したら、切り抜けることが難しくなるからだ。この生でさえ、あなた方は大変なゴタゴタを創り出しているというのに、多くの生を思い出したら、あなた方はただもう狂うだけだ。そんなことは考えないでいなさい。それにまた、そんなことは的外れだ。的を射ていることというのは「今ここ」に在る!ということ。そして、自分の道を探し出すがいい。 

もし、あなたが関係を通して進んで行けるようだったら、それは大いにビューティフルだ。もし、関係を通しては進めないようなら、その時には、自分の孤独の中で何とかするがいい。道には2つある・・愛とは、関係に基づいた道を歩むという意味だ。そして瞑想、これは、自分の孤独の道を歩むということ。愛と瞑想・・これが2つの道だ。 

どちらが自分に合うか、感じ取るがいい。それから、あなたのエネルギーの全てをそれに注ぐことだ。そして、その道を歩んで行きなさい・・ 

OSHO,「マイウェイ」(流れ行く白雲の道)(めるくまーる社刊)より抜粋