OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

41.あなたの女性的資質を喜びなさい

<OSHOの講話より> 

質問:どうして私には未だに、自分の女性的資質の価値を認めることがこんなに難しいのでしょうか?私の中にはまだ、そういう資質を弱いもの、生き延びることが出来ないような感じを持つものと決めつける何かがあります。これについて、何か言って頂けないでしょうか? 


それこそが、女性の血と骨の中にまで深く入り込んだ、女性的資質に対する古くからの非難だ。それは、自分が女性よりも優越していると証明しようとする男性の陰謀だ・・・実際は、そうではないのだが。 

男性は内面深くでは、女性には自分にない何かがあるという事実に気づいている。何よりもまず、女性は男性には魅力的だ、女性は美しく見える。男性は女性に恋する。男性はほとんど女性に溺れてしまう・・・そして、そこが問題の起こるところだ。 

あらゆる男性が感じる、女性に対するこの依存感は、男性に女性を自分の奴隷として・・・精神的に奴隷として・・・扱おうとするように反応させる。 

また女性が美しい為に、男性は怖れてもいる。なぜなら、女性は彼に対して美しいだけじゃなく、彼女を見る誰にとっても、彼女と接触する誰に対しても美しいからだ。 

エゴイストのマインド、男性至上主義のマインドの中に、大いなる嫉妬が起こる。男性は女性に対して、マキャベリが政治家に提案していることを実行した・・・結婚とは、政治でもある。 

マキャベリは、防御の為の最善の方法は攻撃だと提案する。そして男性は何世紀にも渡って・・・マキャベリが、これを全政治領域にわたる根本的事実として認識する何世紀も前から・・・このアイディアを用いて来た。 

この国には「マヌの法典」のような宗教的聖典がある。5000年も前のものだ。そしてそれらは、自分の家の中で平和を得たければ、時には女性をこっぴどく叩くことが絶対に必要だと述べている。女性はほとんど監禁状態にしておくべきだと。 

そしてまさに、そのように女性は生きて来た・・・違った文化の中、違った国々であっても、女性の幽閉はほとんど同じだった。 

そして男性が自分の優越性を証明したかったが為に・・・。 いいかね、人が何かを証明したいという時は常に、その人が、実はそうではないということだ。 

真の優越性には証明も、証拠も、証人も、議論もいらない。真の優越性は、わずかの知性さえある者なら、誰にでも直ちに認識される。真の優越性には、固有の磁力がある。 

男性が女性を非難した為に・・・彼らは支配する為に女性を非難せざるを得なかったのだが・・・男性は女性をほとんど人間以下におとしめてしまった。 

どのような恐怖が、男性にこのようなことをさせたのか?・・・何しろ、これでは全くの偏執狂だからだ・・・男性は絶えず比較して、女性が自分より優れていると思う。 

たとえば、女性と愛を交わしても、自分がたった一度のオーガズムしか持ち得ないのに、女性が立て続けに少なくとも半ダースものオーガズム・・・マルチプルオーガズム・・・を持つことが出来る為に、男性は劣等感を感じる。 

男性はただ、全くの無力を感じるしかない。彼は、女性にそれだけのオーガズムを与えることは出来ない。そしてこれが、この世で最大の不幸のひとつを生み出した。 

何回ものオーガズムを与えられない為に、男性は女性に1回目のオーガズムさえ与えないようにしたのだ。オーガズムの味は、彼にとって危険を生みかねないからだ。 

もし女性がオーガズムの何たるかを知ったら、自分がひとつのオーガズムでは満足出来ないということに必ず気づくに違いない。それどころか、女性はより渇きを覚えることになる。 

ところが、男性は消耗してしまっている。だから最も狡猾な方法は、この世にオーガズムというものがあることを、女性に知らせないことだ。 

愛を交わしている時に、ある種のオーガズミック状態がある、ということを私達が認めたのは、20世紀に入ってからに過ぎない。東洋や西洋で、性について書かれたどんな性の手引書や専門書でも、オーガズムという言葉にすら触れていない。 

どうやらこれは陰謀のようだ。歴史上初めて性エネルギーについて書き、性を科学的に探究した最初の人間、ヴァチャヤーナは、5000年前にセクソロジーに関する最初の専門書・・・「カーマスートラ」、性についての格言集・・・を書いた。 

彼はこの主題を、あらゆる方向から可能な限り深く探求した。彼は性愛の84のポーズを説明している。これ以上のものを作ることは出来ない。85番目のポーズを見つけることなど出来ない。彼は徹底的な仕事をした。 

だがそのヴァチャヤーナでさえ、オーガズムには言及していない。これは、ただただ信じられないことだ。これほど深く性を探求した人間が、オーガズムという事実に出会わなかったなどとは・・・ 

そうではない。私の感じでは、彼は事実を隠している・・・そして、どんな事実であれ、それを隠すことは犯罪だ。なぜならそれは、虚偽が真実であるかのように継続するのを許容することだからだ。 

しかもそれは、科学や地理に関するようなありふれた事実ではない。それは人間の生活の中で最も重要な何かだ。 

オーガズムの体験は、肉体が支え得る究極の快楽を与えるだけでなく、それは、これが全てではないという洞察をも与える。それは扉を開く。それは、人が無用に外を探し求めて来たのだと、真の宝は内側にあるのだと気づかせる。 

瞑想は、深いオーガズミックな体験を持った人々によって発見された。瞑想とは、オーガズミックな体験の副産物だ。瞑想を見つけるための他の方法などない。 

だが、オーガズムは自然に人を瞑想状態に引き入れる。時間は止まり、思考は消え、エゴは存在しなくなる。人は純粋なエネルギーになる。 

初めてあなたは理解する。自分は肉体ではない、自分はマインドではないと。あなたは、その両方を超越した何か・・・意識エネルギーだ。 

そして、ひとたび意識エネルギーの領域に入ったら、人は最も素晴らしい生の体験、最も明るい、最も彩り豊かな、最も詩的な、最も創造的な体験を持ち始める。 

それらは、一方ではあなたに充足と満足を与える・・・肉体とマインドと、この世に関する限りだ。もう一方では、それらは途方もない、神性な不満足を生み出す。 

なぜなら、確かにその体験したものは偉大だが、その体験そのものが、何という理由もなく、前方にはもっと大きな体験があるに違いないと、その人に確信させるからだ。オーガズムについて何ひとつ知らなかった時は、そんなことなど考えてもみなかったが、今では知っているのだ。 

このことが、探し求める為の動機になる。どんな幻覚剤が人に与え得るものより、もっと芳醇で至福に満ちた、もっと幻覚的な何かがあるのではないかと。 

この探求が人間を瞑想に導いた。それは、オーガズミックな体験に対する素朴な洞察だった。何が起こるのか?・・・時間が止まり、思考が消える。そこには私というフィーリングはもう存在しない。 

在るという感じ・・・純粋な実存的な感じ・・・はあるのだが、それにエゴは付着していない。私は、私を、私のもの・・・そういうものは全て遥か後方に置き去られる。 

これが人に、瞑想に対する糸口を与える。もし何とか時間を超越することが出来たら、マインドを超越することが出来たら、人は独りで・・・女性を必要とせずに、男性を必要とせずに・・・オーガズミックな空間に入って行くことになる。 
  
正確な真実を言うなら、瞑想とは、性的でないオーガズムのことだ。だが、人類の半分が何世紀にも渡ってオーガズムを知らなかった。 

そして、女性がオーガズムを知らなかったからと言って、男性がもっとましな位置にいたと考えてはいけない。女性にオーガズムを与えないことで、男性は自分もオーガズムを見逃した。 

ある重要なことが理解されなければならない。男性の性感は部分的なことであり、性器と脳の中の性中枢に限られている。 

だが、女性の場合は違っている。女性の性感帯は、全身に行き渡っている。女性は全身で感受する、全身が官能的なのだ。男性の性感は部分的で、小さい。女性の性感とは、非常に大きなものだ。 

男性は数秒で終わってしまう。女性はまだウォームアップしてすらいない。男性は非常に急いている・・・まるで金を受け取って、早く終わらせてしまいたい義務でも行っている時のように・・・それと同じように愛を交わす。 

実際、なぜ男性が愛を交わすなどということをするのか、私は不思議だ・・・ほんの2,3秒で男性は終わってしまう。女性が温まって来たところで男性は終わっている・・・彼がオーガズムに達したというのではない。射精はオーガズムではない。 

男性は寝返って眠ってしまう。ところが女性は・・・ひとりの女性ではなく無数の女性が、男達がセックスをした後では、中途半端な状態に取り残されて泣いている。女性をその気にさせておいて、彼女達が最後までいけない内に、男達はゲームを終わっている。 

だが、男性が素早く終わるというこの事実には、非常に意味深い背景がある。それが、私がみんなに伝えようとしていたものだ。  

女性に最初のオーガズムを許さないようにするうちに、男性は出来るだけ早く終えることを覚えなければならなかったのだ。 

かくて女性はある途方もなく美しいものを、地上におけるある聖なるものを失った・・・そして男性もそれを失った。 

女性が強力なのは、オーガズムにおいてだけではない。世界中あらゆる所で、女性は男性よりも5年寿命が長い。女性の平均寿命は男性より5年多い。 

ということは、女性にはより多くの抵抗力、より多くのスタミナがあるということだ。女性の方が男性より病気にかからない。女性はたとえ病気になった場合でも、男性よりすみやかに治る。これは科学的な事実だ。 

100人の女の子が生まれる間に、115人の男の子が生まれる。人は不思議に思う、何故115人なのか?だが自然の方がよく分かっている。結婚出来るような年齢までには、15人の男の子は消えることになる!残るのは100人の男の子と100人の女の子だ。女の子は簡単には死なない。 

女性は男性ほど自殺をしない。男性の自殺率は倍だ。女性の方が男性より自殺について話すことは多いが・・・普通、男性は決して話さない・・・女性は自殺について大げさに言うが、常に生きる方を選択する。 

女性は、自分を殺す為に激しい方法を使わないからだ。彼女達は最も快適な、そして最も科学的かつ現代的な方法・・・睡眠薬を選ぶ。そして不思議なことに、女性は誰も生き返ることが不可能になるほどの薬を飲まない。 

だから彼女の自殺は自殺ではなく、一種の抵抗、脅し、夫に、これは未来に対する警告だということを理解させる為の脅迫状だ。 

誰もが夫を非難する・・・医者、近所の人達、親戚、警察の人間が。彼は必要もないのに犯罪人になる。そして、みんなの同情はその女性に向けられる・・・自殺をしようとしたのは彼女の方だというのに。 

殺人ということになると、その違いは広大だ。男はほとんど20倍の殺人を犯す。女性は非常に稀だ。女性は、男性ほど気違いにならない。ここでもまた、その比率は同じだ。男性は女性の2倍の比率で気違いになる。 

これらの事実が、全て科学によって確立されているというのに、それでも男性の方が強いという迷信が続いている。男性の方が強いのはただひとつだけ、男性が逞しい肉体を持っているということだけだ。男性は、よい筋肉労働者だ。 

それ以外は、あらゆる点で男性は深い劣等感を感じている・・・また何世紀にも渡って感じて来た。この劣等感を回避する為の唯一の方法が、女性を劣等的な位置に押し込めることだ。 

そして男性の唯一の強みは、男性が女性を強制することが出来るということだ。男性はより残酷であり、男性はより暴力的だ。そして彼は、完全な虚偽であるひとつの観念を無理矢理女性に受け入れさせた。すなわち、女性は弱いと。 

そして、女性は弱いと証明する為に、男性はあらゆる女性的資質を非難しなければならない。男性は、女性的資質は全て弱いものであり、それが全部一緒になって女性を弱くしている、と言わなければならない。 

実際は、女性こそが自らの中に、あらゆる偉大な資質を持っている。だから男性が覚醒した時はいつでも、彼が達成するのは、自分が女性の中で非難して来たその同じ質だ。 

弱いと考えられている資質は全て、女性的な資質だ。そして、あらゆる偉大な資質がその範疇に入っていることは不思議な事実だ。残るのは、ただ残酷な資質、動物的な資質だけだ・・・ 

愛、信頼、美、誠実、真実性、真摯・・・これらは全て女性的な資質であり、これらは男性が持っているどんな資質よりも遥かに偉大だ。だが、過去は全て男性とその資質によって支配されて来た。 

戦争では当然、愛など何の役にも立たない。真実は役に立たない、美は役に立たない、美的な感受性など何の役にも立たない。戦争では、必要なのは石よりももっと石のようなハートだ。戦争では、必要なのはただ憎悪、怒り、破壊の狂気だ。 

3000年間で、男性は5000回の戦争をして来た。確かに、これもまた強さではあるが、人間に値するものではない。これは、私達の動物の遺産から引き継がれた強さだ。それは過去に、すでに過ぎ去ったものに属している。 

そして、女性的な資質は未来に、これからやって来るものに属している。自分の女性的な資質の故に、自分を弱いと感じる必要はない。 

男性が稼ぎ取らなければならないものを、自分が自然の贈り物として与えられていることを、あなたは存在に感謝すべきだ。

 

女性解放運動は、基本的なことをひとつ学ばなければならない。それは、男性の真似をしないということだ。男性が女性的資質、女性の人格について言っていることに耳を傾けないということだ。女性的資質ははっきりしている。 

ニーチェは、男性は女性を抑圧しなければならない、という洞察を持っていた。そうでないと、ことが自然に運べば女性が主人になり、男性が召使いになる可能性の方が高い。 

なぜなら、男性の資質は召使いの資質・・・せいぜい兵士の資質だからだ。そして、女性的資質はほとんど神性の資質だ。それには高貴なものがある。 

男性が、あなたの頭の中に注ぎ込んでいる男の考えを全て捨てなさい。そして、女性解放運動の観念も捨てなさい。彼女達もまた、あなたのマインドの中にナンセンスを注ぎ入れている。 

そのナンセンスというのは、彼女達が男性と女性は等しいと証明しようとしていることだ。そうではない・・・そして男女両性は等しくないと言う時、私は一方が優越していたり、一方が劣等だと言っているのではない。 

私の言う意味は、男女両性はユニークだということだ。女性は女性であり、男性は男性だ。そこに比較というような問題はない。平等など問題にもならない。男女両性は不平等でもないし、平等でもあり得ない。それぞれにユニークなのだ。 

自分の女性的資質を喜びなさい。その女性的資質を詩にしなさい。それが自然から引き継いだ、あなたの偉大な遺産だ。それを投げ捨ててはいけない。何しろ男性にはそれがないのだから。 

等しくなろうとすれば、白痴的なことを始めるかもしれない・・・女性は男性を模倣しようとすべきではない。というのも、たとえそれが成功したところで・・・まず成功は難しいのだが・・・模倣は模倣だ、決して等しくなることはない。 

ただ議論の為に、あなたがまさに男性と同じになることが出来るとしてみたところで、あなたは自分が持っているものを全て失い、何ひとつ得るものはないだろう。 

なぜなら男性の目にさえ、あなたはもはや美しくはなく、あなた自身の目からすれば、あなたはメチャメチャになっているからだ。等しいよりは、等しくない方がよかった。何しろ今となっては、男性は何の興味も示さないのだから。 

女性は、自分の独自性を保つべきだ。女性的資質を全て保存して、そしてそれを純化すべきだ。そのようにして、自分の本性に従って、光明に向けて女性は進んで行く。 

もちろん、いったん光明を得たら、人は性別を超える。光明の彼方では、人はただ人間であるだけだ。だが、それ以前は・・・ 

男性もまた、女性を模倣しようとすべきではない。男性はそれをして来ているが・・・そして、そこには無意識の理由がある。男性は女性が美しいと感じているものだから、自分があご髭や口髭を取ったら、もっと美しく見えるのではないかと。彼は100%間違っている。 

確かに、女性が男性を許し続けているのは事実だ。何しろここは男性社会であり、男性がそのような考えを持っていて、それを多少なりとも自分に依存しているあらゆる人達に押し付けているのだから。 

だがもし、女性が自由に自分の感じを表現したとしたら、あご髭も口髭も鼻と同じように自然なもの、それを剃るのはお止めなさい、と言うだろう。自分の資質を誇りに思いなさい。それらを増大し、それを洗練しなさい。なぜなら、それこそが神性への道だからだ。

宗教体験に関する限り、男性は女性ほど恵まれた位置にはいない。だが、男性にはひとつの資質がある。それは戦士の資質だ。いったん挑戦を受けて立つと、彼はどんな資質でも成長させることが出来る。 

女性的な資質でさえ、彼はどんな女性よりもよりよく育てることが出来る。男性の闘いの精神がバランスを取る。 

女性は生まれながらにして、様々な資質を持っている。男性は、それを呼び起こす必要がある、課題を与える必要がある。それらの資質は、男性には元から与えられてはいない・・・男性は、それを稼ぎ取らなければならない。 

そして、もし男性と女性が共にそれらの資質を生きることが出来たら、私達がこの世を天国に変容出来る日は遠くない。 

またフリードリッヒ・ニーチェを思い出した。彼はイエス・キリストやゴータマ・ブッダ・・・こういう人達は真の男性ではない、なぜなら彼らの資質は女性的なものだからだ、と言った。 

他に誰もこんなことを言った者はいない。信奉者達の中にも、敵対者達の中にもいなかった。だがニーチェは、確かに全く新しい洞察を発見するコツを掴んでいる。 

彼はイエスに反対し、ゴータマ・ブッダに反対している。なぜなら人々が彼らに従うなら、誰もが女性的になるからだ、と。ニーチェは男性の資質を愛している・・・特に戦士の資質をだ。 

私は女性の資質を支持する。男性的資質を支持するニーチェの強調ゆえに、アドルフ・ヒトラーは生まれた。アドルフ・ヒトラーゲッベルス、そして彼を取り巻く犯罪者達の群れは全て、知性に関する限りフリードリッヒ・ニーチェと比べれば小人だ。 

彼らはニーチェを完全に誤解した。彼らはファシズムを、殺人を、無実の人々を侵略すること、罪のない人々を殺害することを支持している部分だけを取り出した。 

この点で、私はニーチェに反対する。私は男性を愛している。私は男性の洞察を愛する。だが、だからと言ってニーチェに賛成するということではない。私はニーチェには同意しない。 

私は、全世界が女性的資質でいっぱいになって欲しいと思う。そうなって初めて、戦争は消え去ることが出来る。そうなって初めて、結婚は消え去ることが出来る。 

そうなって初めて、国家は消え去ることが出来る。そうなって初めて、私達はひとつの世界を、愛に満ち、平和に満ち、静かな美しい世界を持つことが出来る。 

だから、男性があなたに与えた全ての条件づけを捨てなさい。あなた自身の資質を発見して、それを開発しなさい。 

あなた方は、男性を模倣する為にいるのではない。私が男性は女性的資質を育てなければならないと言う時、男性が女性を模倣しなければならないという意味ではない。 

あらゆる人は、男性であろうと女性であろうと、父親と母親から生まれる。彼の実存の半分は男性から与えられており、半分は女性から捧げられている。だから誰もが両方だ。 

もしあなたが男性なら、男性が最上部にあり、その下に隠れているのが全ての女性的資質、あなたの母親から受け継いだ資質だ。 

もしあなたが女性なら、あなたの女性的資質が最上部にあり、あなたの男性的資質はその下になっている。それが、あなたが父親から受け継いでいるものだ。 

そして、自分の中でどんな葛藤も起こす必要はない。なぜなら、あなたは同時に男性でもあり、女性でもあるからだ。 

私の仕事の全ては、葛藤を生み出すことではなく、あなたにその道を示すこと、どうすれば、あなたの資質全てのオーケストラを創れるかを指し示すことだ。 

それが人間としての、あなたの全一性になる。 

OSHO:Sermons in Stone 
(OSHOタイムス日本語版、42号、1992年8月1日発行より)