OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

46.愛に誠実でありなさい

<OSHOの講話より> 

質問:関係には3段階あるとあなたがおっしゃるのを、私は聞いたことがあります。セックス、愛、そして祈り。けれども、もし相手を変え続けたら、どうして深みに進むことが出来るのですか?どうやって、最高の段階へ達することが出来るのですか? 

 
この質問は多くの人々に生じる。人々は、ひとりの人を愛している時にだけ、愛は深く進むと思っている。それは全くのナンセンスだ。愛の深みは、ひとりやふたりの人とは何の関係もない。 

愛の深みは確かに、あなたがいつも愛の中に留まっていなければならない、ということと何か関係がある。それが深みをもたらす。 

さて例えば、あなたがひとりの男性、あるいは女性を愛しているとする。2,3日は物事が本当にファンタスティックで、素晴らしく進んで行く。そしてそれから、当然のことだが、物事は退屈になり始める。それには何も間違ったところはない。それはまさに自然の成り行きだ。 

あなたはその女性、彼女のやり方に馴染んでしまい、彼女はあなた、あなたのやり方、あなたのライフスタイルに馴染んでしまう・・・そして、あらゆることが分かってしまうと、興味は薄れ始める。 

あらゆることが分かってしまい、もう何も驚かされることがない時、どうしてその関係がファンタスティックなままであり得るだろうか?驚きは消え始め、物事は落ち着き、平凡で、日常的な、ありふれたものになる。これが普通に起こることだ。 

さてあなたは、もし男性か女性を変えたら、愛は決して深くは進まないと考えて、その男性、あるいは女性と暮らし続けることも出来る。だが、愛は少しも深く進んで行かない。愛は日々浅くなるばかりだ。 

遅かれ早かれ、あなたは相手のことを、特に注意を払う必要もない人と思い始める。相手がいることにどんな喜びもなく、相手がいることによって、スリルを味わうこともない。

あなたはしがみ続けることも出来るのだ・・・。だが、あなたがあまりひどくしがみつくと、あなたと一緒にいようという人はいなくなる。というのも、誰も束縛は望まないからだ。あなたが足かせになることなど、誰も望まないからだ。 

あなたがしがみつけばつくほど、関係は醜くなる。最初に喜びが失せ、あらゆる魅力が失せ、あらゆる磁力が失せ、そして病気に、病的になり始める。 

私がある関係を病的と見なすのは、あなたがしがみつく為だけにしがみつき、他にしがみつくものが何もない時だ。あなたは失うのを怖がり、変化するのを怖がり、新しい関係に移って行くのを怖がって、しがみついているだけだ。 

というのも、新しいものは・・・それがどのように進展して行くのか、どこに連れて行ってくれるのか、誰が知っているだろう。 

新しいことは危険だ。というのも、新しいことにはまだ慣れていないからだ。古いことには慣れているし、それは安定している。そこにはある安全さが、快適さが、便利さがある。 

あなたが、しがみつく為にしがみつき始めると、それは病的で醜い。それはあなたの関係に、どんな深みももたらしはしない。あらゆる深みが消えてしまう。 

さて私は、もしあなたがある人・・・ひとりの男性、あるいは女性・・・といて、物事が依然として成長していても変えなさい、と言っているのではない。そんなことは言っていない。私を誤解してはいけない。 

相手の中に、毎日何か新しいものを見つけ続けることが出来るほど、非常に繊細な人々が少数だがいる。物事が終わっているとは決して感じないほど、非常に審美的な人々がいる。 

彼らの感受性、彼らの強烈さ、彼らの情熱は、新しい深みをもたらし続ける。そうだとしたら、それは全く素晴らしい。 

私の判断基準は、もし関係が深みに向かって成長しているのなら、それは全く素晴らしいということだ。 

だが、もしそれが成長していないのなら、もしそれが深まっていないのなら、親密さがもはや花開いていないのなら、全てが止まっていて、どう立ち去り、どうさようならを言えばいいのか分からない為に、ただ行き詰っているのだったら、あなたは自分の愛の能力を破壊していることになる。 

愛を破壊するよりも、動いてパートナーを変えた方がいい・・・というのも、パートナーではなく、愛がゴールだからだ。あなたが人を愛するのは、その人の為ではなく、愛の為にその人を愛するのだ。 

愛がゴールだ。だから、もしその人と起こっていないのなら、他の誰かと起こさせてみるがいい。とにかく、起こらせなさい! 

それが連続したものになるのを許すことだ。その連続、絶えず起こっている愛の、その流れが、あなたをその中にもっと深く連れて行き、深みをもたらし、新しい次元をもたらし、新しい現実化をもたらしてくれる。 

だから覚えておきなさい。もしひとりの人と上手くいっていたら・・・だが「上手く」で私は、「彼らはいいカップルだ」とか「とてもいい」と誰かが言う時に、普通に意味しているものを指している訳ではない。 

私は、そういう意味で言っているのではない。こうした言葉は、まさに事実を隠している。だが本当にいい関係は、ただいいだけではない。それはとびっきりだ!決してそれ以下で落ち着かないことだ。 

とびっきりの関係だけが、深みをもたらす。もしそれが起こっていないのなら、さようならを言うだけの勇気を持ちなさい・・・どんな不平も、どんな恨みも、どんな怒りもなく。あなたに何が出来る?もし、それが起こっていないのなら、それは起こっていないのだ。 

相手に後ろめたい思いをさせることなど出来ない。彼に何が出来る?彼は出来ることは全てやっているし、あなたも出来ることは全てやっている。それは丸い穴に、四角いプラグを押し込もうとしているようなものだ。試し続けても・・・それは起こらない。 

そして例え成功しても、そのプラグをあなたは完全に壊してしまったかもしれない、ということは大いにあり得る。それでは何の価値もない。 

だがマインドは、条件づけを通して機能する。何千年もの間、ひとりの人に誠実であるべきだと考えられて来た。 

私はあなた方に、全く違うことを教えている。私はあなた方に教えている・・・人にではなく、愛に誠実でありなさい。愛に誠実でありなさい。決して、愛に背いてはいけない。それだけだ。 

もし時々、人が変えられなければならないのだったら、変えられなければならない。だが、決して愛に背いてはいけない。 

古い伝統というのは、愛には背いても、決して人に背いてはいけない、ひとりの人にしがみつけということだ。そして物事が、何千年もそこに在り続けると、それはあなたの血や骨の一部、髄の一部になり、あなたは無意識に機能し始める。 

いつの時代もあなた方は、人に誠実であり続けるよう教えられて来たが、それにはあまり高い価値はない。より高い価値は、愛に誠実であり続けることだ。 

もしそれが、ひとりの人と起こっているのなら、全く素晴らしい。私は「変えなさい」とは言っていない・・・どこに変える意味がある?もしそれが、その人と起こっていないのなら、どこか他でそれを起こさせなさい。 

だが、それを起こさせなさい。というのは、もしあなたが愛を逃したら、生における美しいもの全てを逃すからだ。 

もしあなたが愛を逃したら、祈りの可能性をも逃す。というのも、愛だけが、それが深まる時、あなたを祈りに近づけるからだ。 

OSHO,I Say Unto You より抜粋