OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

47.愛ほど大いなる挑戦はない

<OSHOの講話より> 

関係性は火だ。それは燃える。それは難しい。誰かと一緒に生きることは、ほとんど不可能だ。絶えることのない葛藤・・・多くの者達が逃げた。が、彼らは臆病者だ。大人ではない。彼らがやろうとしていることは、子供じみている。 

その通りだ。彼らはもっと都合のいい人生を送るだろう。それは本当だ。他者がいなければ、もちろん全て楽にいく。あなたは独りで生きる。誰に腹を立てるのかね?誰に嫉妬するのかね?誰と喧嘩するのかね? 

だがあなたの生は、全ての風味を失う。あなたは味気なくなる。塩気がまるで効かなくなる。 

生はあんまりだ。立ち向かうだけの力は自分にはないというだけで、多くの者達が生から逃げた。私はそれは勧めない。私は逃避者ではない。私はあなたに「生で自分の道を闘って進みなさい」と言う。それこそ、唯一の道だからだ。 

さらに気づいて、油断しないようになる道、誰にも壊せないほどのバランスを保つ道、相手の存在で気が散ることなど決してないほど、静謐になる道だ。 

相手が侮辱することはあっても、あなたは苛立ったりしない。普通だったら気が狂うような状況を、相手が作り出すことはあっても、あなたは狂わない。その状況を、より高い意識への踏み石として使うのだ。 

生は、もっと意識的になり、もっと結晶化し、もっと中心に定まって、根づく為の状況として使われなければならない。 

もし逃げたら、それは種が土から逃げ、土がなく石しかない洞窟に隠れるようなものだ。その種は安全だろう。土の中だと、種は死ななければならない、消えなければならない。種が消える時、木が芽生える。危険な状態が始まる。 

だから、ヒマラヤの洞窟に行くことは出来る。あなたは種になる。あなたは芽が出ない。この風は、あなたに対抗しているのではない。彼らは機会を与えている。挑戦を与えている。深く根づく為の機会を与えている。 

風はあなたに「自分の大地に立って、素晴らしい闘いをしたらどうだ」と言っているのだ。それが、あなたを強くする。 

挑戦は、成長の為の機会だ。そして生には、愛ほど大いなる挑戦はない。誰かを愛していれば、あなたは途轍もない動揺の最中にある。詩人達が言うように、愛は全てバラではない。 

詩人達はみな愚か者だ。愛を夢見たのかもしれないが、愛を知ったことなど一度もない。愛は全てバラではない。想像し得る以上に棘がある。バラの花は稀だ・・・ここ、そこに棘は無数にある。だが、無数の棘からバラの花が立ち現れると、それには独自の美しさがある。 

愛は、生における最大の危険だ。だからこそ私は、本当に成長したければ、その最大の危険を受け入れ、その中に入って行くがいい、と主張する。 

それを避ける多くの道を、人々は見つけようとして来た。ある者達は世間を捨てた。なぜ世間がそんなに怖いのかね?世間が怖いのは、本当は愛が怖いのだ。 

他者がそこにいたら、誰かと恋に落ちることもあり得るからだ。周りには、素晴らしい魂がたくさんいる。非常に多くの魅力が・・・どこかで捕まってしまうかもしれない。危険だ・・・逃げるがいい! 

何人かは僧院へと逃げた。何人かは逆の道に逃げた。何人かは、結婚に逃げた。それもまた逃避だ。僧院は逃避、そして結婚も逃避だ・・・愛を避ける為のもの。 

恋愛は、どういう結果になるのか、誰にも決して分からない。それは、常に破滅に瀕している。決して都合のいいものではない。決して居心地はよくない。 

恋愛は、喜びの時をもたらす。だが、地獄をももたらす。痛みを伴う成長だ。が、成長は全て痛みを伴う。痛みがなければ、人は決して成長しない。痛みは一部、欠かせない一部だ。その痛みを避けたら、成長をも避けることになる。 

多くの者達が、どこかで落ち着いてしまった。何人かは野心に落ち着いて、政治家になっている。彼らは愛など気にしない。彼らは「自分達には世間でやるべき偉大なことがある」と言う。彼らは、権力を気にしている。権力を逃避として使う。 

何人かは、僧院に埋もれている。何人かは、家庭に埋もれている・・・結婚、子供、あれやこれやに。 

だが愛の挑戦、あり得る限り最大の嵐に直面している人に、私は滅多に出会わない。だが、直面した人は成長する。いつの日か綺麗になって、純粋になって、成熟して、そこから出て来る。 

関わりを持ちながら人々と動いている時は、常に危険にさらされている。生は鋭くなる。そうなったら、あなたにはひとつの音色がある。そうなったら、あなたのエネルギーは錆ついていない。流れている。 

洞窟や僧院に、長く住み過ぎた人々を見てごらん。その顔に、ある種の錆が染みついているのが分かるだろう。活気に溢れては見えない。愚かなまでに鈍い。僧達が世間で、素晴らしいものを何ひとつ創造しなかったのは、その為だ。 

では、私は何を言っているのだろう?「決して独りになってはいけない」と言っているのかね?いや、全く違う。私は「決して孤独であってはいけない」と言っている。 

「独り在ること」は、関係性を通して学んだ豊かさから生じる。多くの次元、多くの資質を有する、多くの関係性から生じる。 

母親と共にあること、父親と共にあること、ひとりの友人と共にあること、兄弟、姉妹と共にあること、妻と共にあること、最愛の人、恋人と共にあること、敵と共にあること。「共にあること」が世間だ。そして人は、可能な限り多くの関係性を持たなければならない。 

そうすれば、あなたは拡大する。それぞれの関係性が、あなたの内なる豊かさに何かを寄与する。人々の中に広がれば広がるほど、あなたは拡大する。あなたはより大きな魂を、そしてより豊かな魂を持つ。さもなければ、貧しくなる。 

関係を持てば持つほど、あなたは「在る」ようになる。存在は、関係を持つことで発見される。それぞれの関係性が、ひとつの鏡だ。自分のひとつの断片を見せてくれる。自分自身に関する何かを映し出す。成長し切って、無限へと拡大したら、そうなったら、最後の関係性は神とのものだ。 

神と関係を持ち、神と溶け合った後で、「独り在ること」が生じる。「独り在ること」は、最後の成就だ・・・それを人は学ばなければならない。「独り在ること」は、あなたのあらゆる関係性の開花だ。 

あなたは、あらゆる関係性から香りを集めて来た。善きにつけ悪しきにつけ、美しいにつけ醜いにつけ、香りを集め続ける。そうして、あなたの中で炎が立ち昇る。この「独り在ること」が、ゴールでなければならない。 

体験からのみ、人は自由になる。真理は解き放つ。体験は真理を与える。決して体験のない生を求め、決めてはいけない。どんなに辛く困難でも、より多くの体験を求め、決めるがいい・・・ 
とにかく、体験の生を常に選ぶがいい。 

いつの日か、あなたは超越する。だが、それを知って、初めて人は超越する。 

OSHO,Yoga:The Alpha and the Omega,(Vol.10 #2) より抜粋