OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

50.愛は宗教的な現象だ

<OSHOの講話より> 

質問:Osho、あなたの愛のメッセージを本当に理解している人はいるのでしょうか?私がそれを理解していないということが、このごろ痛みと共にはっきりして来ました。愛について少々違いはあっても、私達は、みな同じ古い歌を歌っているのではないのだろうか?と思うことがあります。なぜ単純に自然に生きることが、こうも難しいのでしょう?


何故なら、それはとても単純で自然だからだ。だから難しい。あなたは単純ではないし、自然でもない。そして愛は単純で自然だ。 
  
私の愛のメッセージは、全く単純だ。これより単純なものはない。しかしあなたのマインドはとても複雑で、とても扱いにくい。マインドは単純なものを複雑にしてしまう。これがマインドの仕事だ。 

何世紀もの間、マインドはただひとつのことを訓練されて来た・・・それはものごとを複雑にして、あなたが生きることを不可能にする、ということだ。マインドは、あなたを破壊することの熟練者だ。 

何故なら、生は単純なものごとからなっているからだ。存在全体が単純だ。ところが、人のマインドはあまりにも啓蒙され、条件づけられ、教育され、計画されてしまった。それで、もっとも単純なことでも歪んだものになってしまっている。 

マインドへと到達した瞬間、それはもはや単純なものではなくなってしまっている。マインドは解釈し始める・・・そこにないものを探し、そこにあるものを無視して。 

あなたは、私が語って来ていることは何でも聴いて来た、と思っているのかね?そんなことはない。私はひとつのことを語って来た。それなのに、あなたは他の何かを聴いて来ている。 

あなたが聴くことは、直接的ではないからだ。そこには仲介、たくさんのあなたのマインドがある。マインドは検閲のように、様々な方法で機能する。マインドは、たくさんのものがあなたの内側に入ることを許さない。 

どれだけマインドが妨げているかを知ると、あなたは驚くだろう・・・98パーセントだ。語られているたった2パーセントだけが、あなたの内側に入ることを許されている。しかもこの2パーセントも純粋に入って来る訳ではない。まずマインド自体の解釈によって、その2パーセントを汚染してしまうのだ。 

あなた自身が持つ過去の経験によって、条件づけによって、汚染してしまうのだ。そしてマインドが理解したことを感じるようになるまでに、すでに語られ聴かされたことはまったく反対のことになってしまっている。 

ゴータマ・ブッダは物語を語ったものだった・・・すべての偉大な師(マスター)が物語に頼っていたのは不思議なことだ。それには理由がある。物語の中の問題であれば、マインドがくつろげるからだ。それがただのジョークであれば、マインドがくつろげるからだ。張りつめたり深刻である必要がない。ただあなたに語られていることが、くつろぎとなり得る。 
  
ところが、愛や自由、沈黙のようなことについて話されていると、あなたは緊張する。だからマスターは、単純な物語を用いなければならない。多分、物語の終わりまでは上手くいくだろう。そうすれば、あなたがまだくつろいでいる間に、小さなメッセージがマインドの後の扉から入り込むだろう。 

ゴータマ・ブッダはこう言っていた・・・それは彼の夜の講話の後の習慣だった・・・彼は弟子たちに言った。「さあ、行ってあなたたちが眠る前に、最後のことをしなさい」その最後のこととは瞑想だった。 

ある日、聴衆者の中で売春婦と盗人が話を聴いていた時のことだった。「さあ、眠る前に最後のことをする時間だ」と仏陀が言った時、全てのサニヤシンは瞑想へと向かった。 

盗人はただ単に目を覚ました・・・「俺は一体ここで何をしてるんだ?」彼の仕事の時間だったのだ。売春婦はあたりを見渡した。そして、仏陀は本当にとても鋭い人だと感じた。それを言った時、仏陀が彼女を見ていたからだ。彼女は感謝して頭をたれた。「眠る前に仕事に行きなさい」ということを思い出したからだ。 
  
単純に言ったことだった。しかし3つのタイプの人が3種類の意味に取ってしまったのだ。実際には、もっと多くの意味があったのだろう。ある人にとっては瞑想が喜びだったのだろうし、他のある人にとっては、瞑想はやらねばならないことだったのだろう。そうなると意味が違って来る。全ての瞑想者にとって、仏陀のメッセージは同じだった。しかし彼らが聴いたことは、同じになり得なかった。  

この生涯でずっと、私は何か複雑なことを教えたことはない。人生はすでにあまりに複雑だからだ。私はあなた達に、これ以上の重荷を背負わせたくない。だが今世紀において、私は多分他の誰よりも誤解されて来ただろう。 

ただ単に、私が誰も言わない単純なことを話しているということから・・・。私はみんなが忘れてしまっている簡単なこと、当たり前と思われて来たことを話している。誰も話さないことについてだ・・・。  

私は、宗教を教えるある教授を知っていた。数日間彼の講議を聴いた後、私は立ち上がり彼に言った。「あなたは見当違いのことについて話していると思うのですが。神が問題でここにいるという学生はひとりもいないと思います。あなたにとっても神は問題ではないでしょう」 
私はちょうど彼の家の前に住んでいたことがあり、彼の妻君が彼にとっての問題だったからだ。 
  
「あなたの奥さんが本当の問題でしょう。それならあなたは論議出来る。神は全く抽象的なものです。私は一度も、あなたが家で神について考えているところを見たことがありません。あなたが神について教えていることは全て、あなたの経験ではありません。あなたの探索でもありません。あなたは無垢な人のマインドに、役に立たない考えを詰め込んでいます。愛について話してください」 

彼はとても怒って言った。「私と一緒に校長のところに来なさい!」 
「私は神のところでさえ行けますよ。あなたには私を脅すことは出来ません」 
校長の部屋に行く途中、彼は尋ねた。「怖くないのかね?」 

「なぜ私が怖がらなければならないのですか? あなたが恐怖を感じるべきだ。私は全ての生徒を知っています。彼らの問題は愛です。あなたの問題もまた愛です。だから私は、校長に話すつもりです。もし校長が私を信じないなら、あなたの奥さんを呼ぶようにと。そうすれば校長は、私が意味する問題が何であるのか分かるでしょう」 
  
教授は言った。「君はことをあまりにもややこしくしている」私は答えた。「私はまったく単純に、ありのままにしているのです。私は、全生徒を校長の部屋に連れて行けます。彼らはみな、愛の問題を抱えています。誰かは女の子を追いかけても彼女を手に入れられない・・・これが彼の問題。誰かは彼女を手に入れた・・・これが彼の問題」 
  
教授は「君は戻った方がよろしい。もう行く必要はない」と言った。 
私は「どこへも戻りません。あなたが行かないなら、私がひとりで行きます」と答えた。
「私が必要ないと言っているのに・・・」 

「あなたには必要ないのでしょう。だが私には必要です。私は決心しなくてはなりません。何故なら私にとって、愛は宗教的な現象だからです。ところが、神はそうではありません。神はただの仮説です。神には何の意味もありません。何故なら、神に相応するものは存在しないからです。 

愛は宗教的な現象です。もし愛をトータルに理解出来なければ、本来は生を神聖にしてくれるものによって、人は惨めになってしまうでしょう。理解がないと、天国となり得るものが、地獄となってしまうのです。愛は間違いなくアートです。誰が神のことなんて気にかけるのです? だから意味のあることを話し始めてください。私たちは宗教を理解する為にやって来たのです。馬鹿気たことではなく」 
  
「しかし」と彼は言った。「全ての授業には、愛や自由、個性や沈黙についての記載はない・・・私たちは授業を終えなければならない」 
大学では、それらの授業を満たしているだけだ。真の人生、真の問題について思い悩むことから逃れて。 

私はただ単純なことを話しているので、多くの人々が、私の話は宗教の本来の姿ではないと感じている。彼らは宗教についての観念を持っている。複雑で抽象的な仮説を持っている。人はそれらについて考え続けられる。しかし、生には何の違いも創り出さない・・・人は同じままだ。 

ヒンドゥ教徒であろうが回教徒であろうが、キリスト教徒であろうが変わりはない。問題は同じだ。あなたたちの実在しない問題は異なり、様々だ。それらは何でもないことだ。マインドの重荷に過ぎない。 

もしもあなたが、マインドとその複雑なしくみを脇に置くことが出来れば、私を理解することは可能だ。マインドは必要ない。何故なら、私のワークはハートからハートへのものだからだ。私はハートから語っている。 
  
私は理論家ではない。マインドから語っているのでもない。私はハートをあなたへと注いでいる。だが、もしあなたがマインドで聴こうとすると、あなたは逃してしまうだろう。

もしも新しい扉が、あなたの存在へと開く用意があなたに出来ていれば、ハートから聴く用意が出来ていれば、私が語っていることは何であれとても単純になり、それを信じる必要はない。何故なら信じようがないからだ。それはあまりにも単純で、疑いの余地はない。 
  
私は信じることに反対している。それは、私の教えは全て、信じることを必要としないからだ。私は疑念を持つことに賛成だ。何故なら、私の単純な教えに、あなたは疑うことが出来ないからだ。 

世界中の全ての宗教が信じることを強いる。彼らの教えていることが疑われるからだ。彼らは疑うことに反対している。疑うことによって、彼らの全ての組織が破壊されてしまうからだ。 

私は単純で真実だ。私は形而上的ではない。だから、私を信じることは必要ない。もしあなたが私を聴いていれば、信頼が起こるはずだ。それは信じることではない。信頼より愛に近い。疑おうとしても出来ないものだ。 

あなたが疑うことが出来ない時、そこには真の信頼がある。疑う余地のない信頼だ。それは、あなたの内側に在って初めて変容する。 
  
人類の全ての歴史の中で、マハヴィーラ(ジャイナ教の教祖)だけが、記憶しておくべき区別をつけた・・・これは重要だ。彼は真実に到達するには、ふたつの方法があると言っていた。 

ひとつはシュラバカだ。シュラバカとは聴くこと、ハートから聴くことを意味する。ハートから聴く時、あなたは何もする必要はない。ただ聴いているだけで十分だ。あなたは変容するだろう。もうひとつは、修道士の道だ。それは真実に到達する為に、厳しさを選ばなければならない。 

私の努力は、修道士を創ることではない。だから語ることを選んだ。何故なら、ただ聴くことで、あなたは生まれ変われるからだ。あなたには他のことは必要ない。 

ただ、ハートの扉を喜んで開いていればいい。ただ、私をあなたの内側に入れてごらん。そうすれば、あなたはもう同じあなたではないだろう・・・。 

OSHO,Beyond Psychology より抜粋