OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

52.踊るように消え失せなさい

<OSHOの講話より> 

質問:OSHO、しばしば心底くつろいでいる時、私の中には、死んでしまうという強い感覚が湧き起こって来ます。そうした瞬間、私は自分自身を全宇宙の一部と感じ、その中に消えてゆきたいと思います。一方では、それはそんなにも素晴らしい感覚で、そのことをとても感謝しています。 
その反面、私はそれを疑ってもいるのです。死にたいという欲求がそれほど強いのなら、私はおそらく自分自身、私の存在に対して「イエス」と言っていないのではないかと。それは自殺的な欲求でしょうか? 

それは自殺的な欲求ではない。自殺について基本的なことのひとつは、生にひどく執着している人々にだけそれが起こるということだ。 

執着することに失敗すると、マインドは正反対の極に移る。マインドの機能は二者択一のものだ。それは全部欲しがるか、全く欲しがらないかのいずれかだ。 

生への欲望が完全に満たされることはあり得ない、そのような生というのは束の間のものだからだ。それはある点で終わらざるを得ない、ある日ある点でそれが始まったように。あなたは始点しかない線を持つことは出来ない。どこかしらに、必ず終わりがあるものだ。 

したがって自殺する人々というのは、生に逆らっているのではない。そう見えるだけだ。彼らは生を丸ごと欲しがる、彼らはそれをすべて掌握したがる。 

そして失敗すると・・・しかも彼らは失敗せざるを得ないのだが・・・そうなると欲求不満から、失敗したということから、彼らは死のことを考え始める。その時には、自殺というのは代案でしかない。 

彼らは何であれ、生が与えるものには満足しないだろう。もっと、もっと、もっと、と求めるのだ。生は短い。そしてより多くを求める一連の欲求には限りがないから、その失敗は必然的なものだ。 

どこかしらで必ず、自分は生に欺かれたと彼らが感じる瞬間に至ることになる。誰も彼らを欺いてはいない・・・彼らが自分自身を欺いたのだ。彼らは多くを求め過ぎた。そして彼らは求めて来ただけで、何も与えては来なかった、感謝すらも。 

怒りの中、憤怒の中、報復の中で、マインドの振り子はもうひとつの端へと動く・・・それでもなお彼らは、自分達が誰に報復しているのか分からずにいる。 

彼らは自分自身を殺している。それは生を破滅させはしない、それは存在を破滅させはしないのだ。 

だからこの体験は、自殺的な性質のものではない。それは自殺に似たものではあるが、非常に異なるレベルのものであり、非常に異なる次元から生じるものだ。 

あなたがくつろいでいる時、あなたの中に何の緊張もない時、何の欲求もない時、全くさざ波のない湖のようにマインドが静まりかえっている時、この瞬間の中に消えてゆくことへの強い感覚が、あなたの中に生じて来る。 

生があなたに、それに優るものを与えたことなどなかったからだ。幸福の瞬間、喜びの瞬間というのはあった。だがこれは、幸福や喜びを遥かに超えたものだ。それは純粋な至福の状態だ。 

そこから引き返すことは本当に難しい。人はもっと奥へ行きたいと思うし、もっと奥へ行くことは消え失せることである、ということも見て取れる。 

彼の大部分は既にくつろぎの中、沈黙の中、欲求のない状態の中に消え失せている。彼の人格のほとんどは既に消え去ってしまい、未だにまとわりついているのはエゴの細い糸だけだ。 

そして彼は、そのエゴのサークルから飛び出したいと思う。エゴの中でくつろぐことですら、それほどの祝福をもたらすのであれば「私はいない、存在がある」と言えるほどに全てが消滅したら、一体どういうことになるか、想像もつかない。 

これは自殺的な本能ではない。これは基本的には、スピリチュアルな解放によって意味されるものだ。それはエゴから、欲求からの解放であり、生への渇望からさえも解放される。それは完全な解放、絶対的な自由だ。 

だがこの状況では、その問いはどんな人の中にも必ず生じる。その問いは、あなたの知性から生じているのではない。その問いは、あなたの臆病さから生じているのだ。 

実のところあなたは、消滅しないでいる為の、無限の中に消散しないでいる為の、何らかの言い訳を欲しがっている。 

マインドは直ちに「これこそ自殺というものだ」という考えをあなたに与える・・・「自殺してはいけない。自殺は過ちだ、自殺は罪だ。戻るんだ!」そしてあなたは戻り始める。 

戻るということは、あなたが再び緊張し、再び懸念で、欲求でいっぱいになるということだ。あなたの生の悲劇全体がまるごと再び・・・ 

それは、完全な消滅に対するあなたの恐れだ。だが、あなたはそれを恐れとして認めたくはないので、それに断罪的な名称・・・自殺・・・を与える。それは自殺とは何の関わりもない。実際にはそれは、より深く生の中へと入ってゆくことなのだ。 

生にはふたつの次元がある。ひとつは水平な次元・・・あなた方がみな生きており、常にもっと、もっと、もっと多くを、と求めている次元だ。 

量が問題なのではない。どんな量もあなたを満足させはしないだろう。水平の線というのは、量的な線だ。あなたはどんどん進み続けることが出来る。それは地平線のようなものだ・・・ 

あなたが進むにつれて、地平線は後ろに遠のいて行く。あなたと、より多くをというあなたの目的地、あなたの欲求の目的地との距離は、常にきっかり同じままであり続ける。 

それは、あなたが子供だった時にも同じだった。それは、あなたが若かった時にも同じだった。それは、あなたが年老いた時にも同じだ。それは、あなたが最後の息を引き取るまで、同じであり続けるだろう。 
  
地平線というのは、まさしく幻影だ。地平線は存在しない。存在するように見えるだけだ・・・そこ、おそらくは数マイル向こうで、空と大地とが出会っているように・・・それはどこでも出会わない。 

その地平から生じるのが水平の・・・終わりのない・・・線だ。目的地というのは、架空のものなのだから。あなたは、それを現実のものにはなし得ない。 

しかも、あなたの忍耐は限られている。あなたの一生は限られている。ある日あなたは、いっさいが無駄で、無意味なようだということを悟る。「私は不必要に自分自身を引きずりまわし、苦しめて、どこにも辿り着かずにいる」 

そうなると、それとは正反対のものがあなたの中に生じる・・・自分自身を破滅させてしまおう。それは生きるに値しない。生は約束はするが、決してその約束したものを届けはしないのだ。 

しかし、生にはもうひとつの線がある・・・垂直の線だ。垂直の線というのは、全く異なる次元で動く。そうした体験で、あなたは一瞬、その垂直線に顔を向けた。 

あなたは求めてはいない・・・だからこそ、あなたは与えられている。あなたは欲求してはいない・・・だからこそ、あなたにはそんなにも多くのものが入手可能になっている。あなたには如何なる目的地もない・・・だからこそ、あなたは極めてそれに近いところにいる。 

何の欲求も、目的地も、要求も、懇願もないが故に、あなたには如何なる緊張もない。あなたは完全にくつろいでいる。このくつろいだ状況の中に、存在との出会いがある。 

あなたの最後の部分が消散するに至るその瞬間、恐れが生じる。その時には、やり直しはきかなくなる。戻って来ることは出来なくなるのだ。 

私は何度も、ラビンドラナート・タゴールの美しい詩のことを語って来た。 

その詩人は、無数の生にわたって神を探し求めて来た。彼は神をときとして、遥か遠く、ある星の近くで見かけたことがあり、その道を進み始めたのだが、その星に辿り着くまでには、神はどこか他の場所に移ってしまっている。 

だが彼は探索に探索を重ね続ける・・・彼は神の家を見つけ出す決心をした・・・そして何とも驚くべきことに、ある日彼は、ドアの上に「神の家」と書かれた家に、本当に辿り着いたのだ。 

あなたには、彼の恍惚感が理解出来るだろう。彼の歓びが理解出来るだろう。彼は戸口の階段を駆け上がる。そしてまさにドアをノックしようというその時、彼の手は不意に凍りつく。 

彼の中にある考えが生じる・・・「もしも万が一、それが本当に神の家だとしたら、そうなれば私はなし終える、私の探索は終わる。私は自分の探求、自分の探索と自分とを同一視するようになった。私は他には何も知らない。 

もしもドアが開いて神と向き合ったら、私はなし終える・・・探索は終わりだ。その時にはどうなる?そうなれば永遠の倦怠がある・・・何の興奮も、何の発見も、新たな挑戦もない、神にまさる挑戦などありようがないのだから」 

彼は恐ろしさに震え始め、靴を脱ぎ、美しい大理石の階段を降りて戻った。彼は音をたてないようにと靴を脱いだ。というのも、彼の恐れはそれほどのものだったからだ。階段の上の音でさえ・・・ノックしなかったにもかかわらず、神はドアを開けるかもしれない。

それから彼は、いまだかつてないほどの速さで駆けた。自分は、神の後を出来る限り速く駆けているのだと彼は常々考えたものだったが、その日突然、彼はそれまでには決して手に入れることが出来なかったようなエネルギーを見い出した。彼は振り向くことなく、決してしたことのない走り方で走った。 
  
その詩はこう締め括られている。 
「私はいまだに神を探し続けている。私は彼の家を知っているので、そこを避けて他の場所を探す。その興奮は素晴らしい。その挑戦は素晴らしい。そして探索の中、私は続ける、私は存在し続ける。 

神は危険だ・・・私は消滅させられるだろう。だがいまや、私は神すらも恐れてはいない、「彼」の家を知っているのだから。 

そこで「彼」の家には手をつけないまま、私は世界中を廻り、彼を探し続ける。だが奥深いところで私は、自分の探索が神の為のものではないことを知っている。私の探索は、エゴを養う為のものなのだ」 

私はラビンドラナート・タゴールを、私達の世紀のもっとも偉大な宗教的人間のひとりとして位置づけている。通常、彼が宗教と関係づけられることはないのだが。 

しかし、途方もない体験をした宗教的な人間にしか、この詩は書けない。それは、単なる普通の詩ではない。それほど偉大な真理を含んでいるのだ。 

そしてそれこそ、あなたの問いが生じるゆえんなのだ。くつろいで、自分が消えてゆこうとしていると感じる瞬間に至ると、あなたは考える。「おそらく、これは自殺的な本能なのだ」 

そうしてあなたは、馴染みのある悲惨な世界へと戻る。だが、その悲惨な世界にも何かがある。それはあなたのエゴを守る。それはあなたが在ることを許すのだ。 

これは奇妙な状況だ。至福の状態は“あなた”を許さない。あなたは消え失せなければならないのだ。あなたが世間で、喜びに満ちた人々を多くは見かけないのはその為だ。 

惨めさは、あなたのエゴを養う・・・だからこそあなたは、こんなにも多くの惨めな人々を世間で見かけるのだ。根本的な中心点はエゴだ。 

だから、あなたは自殺という地点に到達したのではない。あなたが到達したのは、ニルヴァーナの地点、休止の、消滅の、ろうそくを吹き消す地点だ。 

これは究極の体験だ。もしもあなたが、勇気をかき集めることが出来るなら、ただあともう一歩で・・・存在は、あなたから一歩離れているだけなのだ。 

あなたのマインドの残骸が「これは自殺だ」と言うのを聞いてはいけない。あなたは毒を飲んでいるのでもないし、木から首を吊っているのでもなく、自分を銃で撃ってもいない・・・どういう自殺だというのかね?  

あなたは単に、どんどんどんどん希薄になっていっているだけだ。そうして、もはや自分が在るとは言えないが、存在が在るとは言える、というくらいにまであなたが希薄になり、存在全体に広がる瞬間がやって来る。 
  
これを私達は「自殺」ではなく「エンライトンメント」と呼んで来た。これを私達は「究極の真理の領解」と呼んで来た。 

だが、あなたは代償を支払わなければならない。その代償というのは、エゴを落とすこと以外の何ものでもない。 

だから、そのような瞬間が訪れたら、躊躇してはいけない。踊るように、消え失せなさい・・・大笑いしながら、消え失せなさい。唇に歌をのせながら、消え失せるのだ。 

私は理論家ではない。これは私の哲学ではない。私は何度も同じ境界線に到達し、戻って来た。私もまた、神の家を幾度も見い出し、ノックすることが出来なかったのだ。 

エスにいくつかの言葉がある。そのひとつは「叩きなさい、そうすれば扉はあなたに開かれるだろう」というものだ。この言葉に何らかの意味があるとすれば、私が今、あなたに与えているのがそれだ。 

だから、その瞬間がやって来たら、喜んで溶けなさい。それは人間性というものだ・・・そして理解出来る・・・あなたが、何度も戻って来るだろうということは。 

だが、そういった何度もというのは数の内に入らない。一度でいい、ありったけの勇気をかき集め、ジャンプするのだ。 

あなたは在るだろう、が、あまりにも新たな在り方なので、それを以前のものと結びつけることは出来ないだろう。それは不連続であるだろう。 

以前のものは大層ちっぽけで、薄っぺらで、ケチ臭く、新たなものは極めて広大だ。小さな露のしずくから、あなたは大洋となった。 

だが、蓮の葉からしたたり落ちる露のしずくでさえ、一瞬の間、震え、もう少ししがみ付いていようとする。 

何故なら、彼には大洋が見えるからだ・・・ひとたびその蓮の葉から落ちてしまえば、彼は消える。そう、ある意味では彼はいなくなるだろう。露のしずくとしては、彼は消えるだろう。 

とはいえ、それは損失ではない。彼は大洋のようになるだろう。そして、他の大洋はみな限られている。存在の大洋は無限だ。 

OSHO,Byond Psychology より抜粋