OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

53.マーケット・プレイスでの瞑想

<OSHOの講話より>  

質問:私は「マーケット・プレイスでの瞑想」というグループをリードしています。そのグループは「マインドが、どのようにその人の現実を創り出しているのか」を教える事を含んでいます。 

エクササイズのひとつは、欲望をかなえる方法を人々に見せることです。欲望をかなえる方法を人々に見せることは、彼らを瞑想の状態へと連れて行きますか? あるいは、彼らをますます瞑想から遠ざけてしまいますか? 

マーケット・プレイス(世間)での瞑想とは、私のメッセージそのものだ。だが、あなたは、そのメッセージを誤解している。 

まず瞑想とは、マインドの中にあるものではない。世界はマインドの中にある。瞑想はマインドを超えたところにある。 

マインドは世界を創造するが、瞑想を生み出すことは出来ない。マインドがもたらすのは、不満、充足、快楽、苦痛、不安、苦悩、もしくは動物のような満足、水牛のような満足だ。だが、水牛は瞑想の中にはいない。 
  
あなたの世界とは、あなたのマインドの投影だというのは正しい。だがあなたは人々が、彼ら自身の欲望に満足するようになることを助けている。 

あなたは重大な質問をした。あなた自身のしていることが人々を瞑想に導くか、それとも遠ざけるか、という質問だ。 

それは人々を瞑想から遠ざける。あなたは彼らの友ではない。あなたは人々が、彼ら自身の欲望に満足出来るようになるよう、彼らにいわば毒を与えているのだ。 

瞑想への大切な一歩となるのは、神聖なる不満であり、満足ではない。自分の金、自分の力、自分の評判に満足している人間が、どうして瞑想するだろう?あなたは人々に阿片を、麻薬を与えている。 
  
大昔から、全ての宗教が同じことをして来た。人々に阿片を与えること。人々を満足させること。人々に慰めを与えること。この世間に満足することには、宗教的な価値があると教えること。 

全ての宗教は、人々に慰めを与えて来た。だが、慰めは宗教ではない。宗教は革命だ。そして革命が、満足から生まれることはない。それは途方もない不満から生まれる・・・。

瞑想をマーケット・プレイスにもたらすがいい。だが瞑想とは、満足という意味ではない。いつかは満足がやって来る。だが、それは瞑想の出発点ではなく、瞑想の究極の開花においてもたらされる。 

瞑想が深まるにつれて、あなたはより静かになり、平和に満ちて来る。よりバランスが取れ、より中心が定まり、気づきが増し、意識的になる。それにつれて、満足はまるで影のように、あなたに付き従うようになる。だが、そうなるのはあなたの作為によってではない。 

私は人々に満足を教えない。だがこれまでも人々は騙され、ペテンにかけられて来た。あなたが世間に入って、自分の欲望に満足する方法や、自分の状態に満足する方法を人々に教えるなら、あなたは人々から愛され、尊敬されるだろう。 

だがそれによってあなたは、人々の精神に鋭さを与える訳でもなく、人々に英知をもたらす訳でもない。あなたは人々を鈍感にし、凡庸にする。馬鹿はいつでも満足している。 

あなたは人々が、自分自身の存在を変容させるのを助けてはいない。その場合には不満が必要だからだ。人は自分を変容させる為には、どんな代償、どんな危険もいとわなくなるほど、世間に対して絶望しなければならない。 

瞑想とは危険なものだ。危険というのは、あなたのエゴが犠牲になるからだ。あなたが残るか、それとも瞑想が起こるかのどちらかだ。 

普通、あなた方は「自分が瞑想する」と考える。あなた方には瞑想という現象が分かっていない。あなたが瞑想することは出来ない。 

あなたは障壁であり、邪魔者であるに過ぎない。瞑想に起こって欲しかったら、あなたは消えなければならない。自分が重要だという考えは、捨てなければならない。 

無のごとき人間にならなければならない。あなたが無のごとくなった時、沈黙があなたを訪れ、それに続いて満足がやって来る。それは、世間に対する満足ではない。存在に対する満足、星や、薔薇や、海や、岩や、山々に対する満足だ。 

それは、一国の大統領や首相になることによる満足ではない。世界一の金持ちになることによる満足でもない。それは、あなた方の野心の世界とは全く関係がない。それは野心のない状態だ。完全に空っぽであり、あなた自身もいない。 

そのような空っぽさの中に、満足がある。花が咲くのはそんな時だけだ。だが、そのような満足は神に属するものであり、あなたが求めて達成したものではない。あなたは、それが起こるのを許しただけだ。 

あなたはその邪魔をしなかった。あなたは中空の竹のように、竹笛のようになった。そして歌が自分を通り抜けていくのを許したのだ。それは、あなたの歌ではない。その歌に、あなたの署名はない。それは存在そのものの歌だ。 

マーケット・プレイスに行きなさい。マーケット・プレイスに瞑想をもたらしなさい。だが、私の言うことを正確に理解しなさい。瞑想とは、人々を現状に満足させることではない。 

人々を現状に満足させるとは、彼らに麻薬を与えること、「あなた方はみんな正しい。人生とはこんなものなのだから。みなさんは、すでに身に余るほどのものを受け取っているではありませんか」といった言葉で、彼らを慰めることだ。人々は、そんな言葉に喜んで耳を傾ける。 

私は言いたい。変容の旅を始めるには、まず第一に神聖なる不満が必要だと・・・変容の旅を始めるには、まず自分の生きている世界や、自分の演じている人格に、完全にうんざりしなければならない。 

巡礼は、途方もない不満から始めなければならない。そのような不満がないなら、人は容易に怠慢になる・・・個人が、より大きな不満を抱くようにさせなさい。 

「この不満、この苦悩を超えていく道が、どこかに見つからないだろうか?」という疑問が、彼の中に生まれるまで。 

瞑想は不満から、苦悩から、抜け出す為の道だ。あなたはただ観る者、ただマインドを観る者にならなければならない。 

あなたは、マインドが世界を創造すると言った。それは真実だ。だが瞑想はマインドではなく、マインドは瞑想をもたらさない。 

瞑想とはマインドの外に出ることであり、マインドを観る者、つまり、欲望、創造、想念、夢想など、マインドの中で進行する、全てのことがらを観る者になることだ。 

あなたは、ただ観るだけの者となる。だんだんと、この観る者は力を増し、中心が定まり、深く根を降ろすようになる。そして突然、あなたはひとつのことを理解する・・・自分はこの観る者であり、マインドではないと。 

そして、もろもろの物象が自分の外にあるように、このマインドもまた自分の外にあるのだと。世間はあなたの外にある。マインドもあなたの外にある。肉体もあなたの外にある。あなたはもっとも深いところにあるものであり、全てはあなたの外にある。 

マーケット・プレイスに行きなさい。自分のマインドを観る者になる方法を人々に教えなさい。だが、自分の欲望に満足する方法を人々に教えてはいけない。 

本当の満足が到来するまで、人々により大きな不満を抱かせなくてはならない。あなたが彼らを満足させるなら、彼らに本当の満足は決して到来しない。偽物で満足してしまったら、そのこと自体が障壁となる。 

マインドは超越されなければならない。マインドは私達が演じるべきゲームでもなければ、私達の生きるべき世界でもない。私達の生きるべき世界は、マインドを超えたところにある。 

マーケット・プレイスでの瞑想とは美しいアイデアだが、瞑想とは何かをただ知的にではなく、自己の存在をもって正確に理解しなさい。人々と分かち合える何かを、直に体験しなさい。そのような体験がなければ、あなたは自分の知らないことをくり返すオウムに過ぎない。 

私は自分の知らないことをくり返すことを、私のサニヤシン達に禁止する。自分の知らないことについては「私は無知です。知りません」と言った方がいい。その無知はあなた自身のものであり、少なくともそれは真実を口にしたことになる。 

あなたの自尊心は、他人から借用した知識をくり返すことを自分に許してはならない。それはあなたのものではなく、それを分かち合うことは出来ない。そもそも、あなたはそれを持っていないのだから。 
  
あなたが知っている全てのことは、あなたのマインドの領域のものだ。だが瞑想はハートの体験だ。 

だから、まずあなたのハートを歌わせ、踊らせなさい。瞑想の中で喜び、それからマーケット・プレイスに行きなさい。 

Osho, The Rajneesh Upanishad, #33 より抜粋