OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

55.新しい千年紀の夜明け

<OSHOの講話より> 

新しい人間が、現れ始めている。新しい人間のイメージは、まだハッキリしていないが、地平線は赤く染まり始め、すぐにも、そこに太陽が昇るだろう。朝もやが立ちこめ、新しい人間のイメージは、ぼんやりしているが、それでも、この新しい人間について、非常にハッキリしていることが、いくつかある。 

そしてサルが人間になってから、人間は相変わらず同じままだったのだから、これは非常に大切なことだ。大いなる革命が進行している。それは、サルが地上を歩き始めて、人間になった時に起こった革命よりも、はるかに深いものになるだろう。 

あの変化は、マインドを生み出した。あの変化は、マインドの働きをもたらした。今度は、それよりもはるかに有意義な、魂(ソウル)をもたらす、もうひとつの変化が起ころうとしているから、人間は、マインドの働きを有する存在に留まらず、スピリチュアルな存在となるだろう。 

あなた方はかつてない程、もっとも活気に満ちた時代のひとつに、生きている。私から見れば、この新しい意識こそ、今日起こっている、もっとも重要なことだ。この新しい意識、その方向性、そしてその特徴について、私はあなた方に語りたい。 

というのも、それが子宮から出て来るのを、あなた方は、助けることになっているからだ・・・あなたが、その子宮にならなければならないからだ。 

新しい人間が、どこからともなくやって来ることなど、あり得ない。あなたを通じて、やって来るしかない。新しい人間は、あなたの子宮を通じてしか、生まれることが出来ないのだ。あなたは、子宮にならなければならない。 

※古いものにさよならを 

もし新しい人間が成功したら、古いものは、去らなければならなくなる。古いものが生きられるのは、新しい人間の到来が、妨げられた時だけだ。もはや、それを妨げることは出来ない。 

それは、新しい人間が存在するようになる、という問題だけでなく、地球全体の、意識そのものの、生命そのものの存在に、関わる問題だからだ。それは、生死の問題だ。 

古い人間は、極端な、破壊的資質を持つようになってしまった。古い人間は、行き詰まった。もはや人間の古い概念では、あるのは死のみで、生はあり得ない。古い人間は、地球的規模の自殺の準備をしている。 

古い人間は、集団自殺をする為に、原子爆弾水素爆弾を積み上げている。これは、非常に無意識な欲望だ。新しい人間の存在を許すのではなく、古い人間は、ものごと全てを破壊したいのだ。 

あなた方は、理解しなければならない。あなた方は、新しいものを守らなければならない。というのも、新しいものは、未来全体を携えているからだ。そして人間は、大いなる量子的跳躍が可能な段階に、やって来た。 

※世界を愛する 

古い人間は、あの世を求めていた。古い人間は、この世と対立していた。古い人間は、常に天国に目を向けていた。古い人間は、死の前の生よりも、死後の生に関心を抱いていた。 

新しい人間の関心は、死の前の生にある。新しい人間の関心は、この生にある。というのも、もしこの生に気を配ったら、もうひとつの生は、自ずとついて来ることになるからだ。それを心配することはない。そのことを考える必要はない。 

古い人間は、神に関心を抱き過ぎていた。その関心は、恐怖から来ていた。新しい人間は、神には関心を抱かないが、この世を生き、愛し、その愛から、神の存在を体験することになる。古い人間は、論理的だった。新しい人間は、実存に即している。 

古い人間は、ウパニシャッドの声明で、定義出来る・・・「ネティ・ネティ」、これではない、これではない。古い人間は、否定的だった・・・生に否定的で、生を拒絶していた。 

新しい人間は、生を肯定する・・・「イティ・イティ」、これ、そしてこれ。古い人間の関心は、「あれ」にあった。新しい人間の関心は、「これ」にある。 

というのも、「これ」から「あれ」は生まれるのだし、あまりにも「あれ」に関心を抱き過ぎたら、両方とも見逃すことになるからだ。 

この瞬間が丸ごと、生きられなければならない。どんな先入観もなく、この瞬間が、起こるがままに、生きられなければならない。 

古い人間は、すでに出来ている答えを抱いていた。哲学、宗教、そして、あらゆる種類の馬鹿げたことを、詰め込まれていたのだ。 

新しい人間は、生に関する既成の結論は、何ひとつ持たずに、生を生きようとしている。

※「主義」からの自由 

新しい人間は、ヒンドゥ教徒ではない、回教徒ではない、キリスト教徒ではない、共産主義者ではない。新しい人間は、こうした「主義」は、何も知らない。 

新しい人間は、ただリアリティ(現実)への開き口、窓だ。彼はリアリティを、ありのままに受け入れる。 

それに自分のマインドを、投影することはない。現実を、スクリーンとしては使わない。新しい人間の目は、開かれている。その目は、思い込みで一杯になってはいない。 

古い人間は、恐怖から生きていた・・・自分の神ですら、恐怖の産物以外の、何ものでもなかった。古い人間の寺院、モスク、グルドワラ、教会・・・それらは皆、恐怖ゆえだ。古い人間は、震えていた。怖れていた。 

新しい人間は、恐怖からではなく、愛から生きる。恐怖は死に仕え、愛は生に仕えるからだ。そして、もし恐怖から生きたら、あなたは生とは何かを、決して知ることはないだろう。繰り返し繰り返し、死しか知らないことになる。 

そしていいかね。恐怖から生きる人は、もっともっと怖くならざるを得ない、あらゆる種類の状況を生み出す。あなたの恐怖が、状況を生み出すのだ。まさにあなたの愛が、状況を生み出すように・・・ 

もしあなたが愛したら、あなたは、愛に溢れることの出来る、実に多くの機会を見い出すようになる。 

※愛は風味 

愛は、新しい意識の味になる。恐怖は、古い意識の味だったから、それは戦争を生み出した。3000年の間に、人間は、5000の戦争を行って来た・・・まるで私達は、他には何もしていないかのように・・・絶えずどこかで戦っていた。まさに狂気の沙汰だ。人類の過去は、正気ではない。 

新しい人間は、この正気を失った過去との繋がりを、断つ。戦争ではなく、愛を信じる。死ではなく、生を信じる。破壊的ではなく、創造的だ。新しい人間の科学、芸術・・・全てが、創造性に奉仕することになる。 

新しい人間は、爆弾は作らない。政治的にはならない。というのも政治は、憎しみから生まれるからだ。政治は、恐怖、憎しみ、破壊的資質に根ざしている。 

新しい人間は、政治的にはならない。新しい人間は、国家主義的にはならず、新しい人間は、グローバル(世界的)になる。どんな政治的野心も、持たない。政治的野心を持つことは、愚かだからだ。 

新しい人間は、非常に知性豊かになる。その知性の最初の兆しが、地平線上に昇ろうとしている。目のある人達・・・彼らは、それを見ることが出来る。 

子供達が、反逆しているのだ。新しい人間は、偏見からではなく、自発的な責任から、生きる。古い人間は、奴隷だった。新しい人間は、自由だ。新しい人間は、自分の存在の核そのものに、自由を持つことになる。 

※生を楽しむ 

古い人間は、非常に深刻だった。古い人間は、「ワーカホリック(仕事中毒)」だった。新しい人間は、遊び心に満ちている・・・「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」。生を楽しむことを、信じる。 

「義務」「犠牲」といった言葉は、落とす。どんなことにも、犠牲は払わない。どんな祭壇・・・国家や宗教の、聖職者や政治家達の祭壇への、生贄(いけにえ)にはならない。「国家が戦争をしているのだから、行って死んで来い」・・・自分の生を、誰かが搾取することなど、許さない。 

新しい人間の関わりは、生に向けられている。その関わりは、他の何ものにも向けられていない。新しい人間は、歓びの内に、生きたいのだ。神の贈り物を、全て喜びたい、祝いたいのだ。 

ハレルヤが、唯一のマントラ真言)になる。イエスは言う、「喜びなさい、喜びなさい、私はあなた方に言おう、喜びなさい」 

人間は、まだ喜んだことがない。人間は、深刻さという大きな重荷を負って、生きて来た。国の為に働け、家族の為に働け、妻の為に働け、子供達の為に働け、父母の為に働け。 

ただ働き、働き続け、その後は、いつの日か死んで、墓へと消えて行く。そうなったら、他の人達が働くことになる。そして、それがどこまでも続いて行く。誰にも、生を楽しむ時間はないようだ。 

が、私は、新しい人間は働かない、と言っているのではない。働くが、中毒にはならない。「ワーカホリック」には、ならないのだ。それは麻薬ではない。いくつかは、物が必要だから働くが、もっともっとと、絶えず働くことはしない。 

新しい人間は、貯め込まない。多額な預金残高を信じたりしないし、非常に高い地位につくことを、信じたりはしない。 

むしろ逆に、歌を唄いたい、笛を吹き、ギターを弾きたい、踊りたい。有名にはなりたくない。生きたい、真正に生きたいのだ。ひとりの、誰でもない人になる用意が、出来ている。

 

※正統派に反対 

新しい意識は、あらゆる正統派に、対抗するものとなる。どんな種類の正統派も、カトリック教徒であれ、共産主義者であれ、ヒンドゥ教徒であれ、ジャイナ教徒であれ・・・正統派は、その種類を問わず・・・マインドの麻痺の一種だ。 

それは麻痺する。あなたは、生きるのを止める。それはあなたを取り巻く、こわ張りになる。あなたは、狂信的になる。頑固になる。岩のようになってしまう。自由に流れ動く人間のようには行動せず、ラバのような行動を取り始める。 

生きている人は、流れていなければならない。変化する状況に、応じなければならない。そして状況は、絶えず変化している。生そのものが固定していないのに、何故、あなたが態度を、固定していられるかね? 

生は川なのに、何故、あなたが頑固でいられるかね?そして、もしあなたが、いつまでも頑固だったら、あなたは、生との接触を失ってしまう・・・あなたはすでに、墓に入っているのだ。 

新しい意識は、正統的ではなくなり、狂信的ではなくなり、流動的になる。反応せずに、応じる。 

このふたつの言葉の違いは、大きい。反応は、常にこわ張っている。あなたには固定観念があり、それを元に、あなたは反応する。問いが訊ねられる前に、答えが用意されているのだ。 

応じることは、全面的に違う。あなたは問いに耳を傾け、その問いを吸収し、状況を見、状況を感じ取り、その状況を生きる。そしてそこから、まさにあなたの、生きた応答が生じる。 

責任を取ることの出来る人は、頑固ではあり得ない。確実ではあり得ない。固くなることはあり得ない。瞬間から瞬間へと、生きなければならなくなる。前もって決めておくことは、出来ない。毎日、瞬間ごとに、決めなければならない。 

そして生と、その変化する挑戦と共に、絶えず動いていなければならないから、古い感覚に、固執してはいられない。責任を取ることの出来る人が、固執することはひとつしかない。つまり常に生と、調子を合わせていることだ。 

※反逆する 

新しい人間は、創造的だ。瞬間ごとに、自分の宗教を見い出す。瞬間ごとに、自分の哲学を見い出す。そして、全てが成長し続ける。過去に、忠実であったりはしない。そうは出来ない・・・ 

過去に忠実だということは、死に忠実だ、ということだ。何故なら、過去は死んでいるからだ。新しい人間は、現在に忠実になる。そして現在に忠実であることで、過去に反逆することになる。 

反逆心を持つことは、新しい人間の、もっとも顕著な特徴のひとつになる。そして反逆心を持っている為に、死んだ社会とは、合わなくなる。死んだ教会とは、合わなくなる。死んだ軍隊とは、合わなくなる。忠実さが、基本的に要求されるところでは、どこであろうと、合わなくなる。 

新しい人間は、必ず自分の周りに、新しい社会を生み出す。まず意識が新しくなり、それから社会が新しくなる。 

古いものが、新しいものに抵抗し、新しいものと戦い、新しいものを破壊しようとするのは、長い期間に渡るだろう。だが古いものは、成功し得ない・・・時、時のスピリット(精)が、その味方になることはないだろう。 

古いものは、死ぬしかない。ちょうど古い身体が死んで、誰か新しい子供に場所をゆずるように、古い社会、古い正統派も、死ななければならない。彼らはすでに、時間を超過して生きて来た。彼らは、長く生き過ぎたのだ! 

※借り物の道徳はだめ 

新しい意識は、道徳的なものにはならない。清教徒のように、厳格なものにはならない。どんな道徳も持たない、ということではなく、異なった種類の道徳・・・ 

生に対する、自分自身の感覚・・・自分の感受性、自分自身の体験から湧き起こる道徳・・・を持つことになる。他人から学んだ、借り物の道徳ではない。 

新しい人間は、古い意味での人格者ではない。というのも、人格は全て、束縛だからだ。それはあなたの周りに、鎧(よろい)を生み出す。新しい人間は、どんな鎧も身につけない、という意味で、無人格になる。 

自分の周りに独房を持たない、という意味で、新しい人間は、無人格なのだ。人格を持たない、ということではなく、人格に、新しい定義をもたらす。偽善者にはならない。 

古い清教徒的な厳格主義、古い道徳主義的な態度は、世界に偽善者を生み出した。人間を、分裂症にしてしまった。表にあることと、内側深くにあることは、また別だ・・・ほとんど正反対だ。古い人間は、二重生活をして来た。 

新しい人間は、二元性のない生き方をすることになる。ひとつの生を、生きる。彼の内側にあるものは、全て、彼の外側にもある。真正なのだ。 

「真正さ」という言葉を、覚えておくがいい・・・それが新しい人間の、宗教になる。それが新しい人間の真理、彼の寺院、彼の神になる・・・真正さだ。そして真正さがあれば、ノイローゼは消える。 
古い人間が、ノイローゼにかかっていたのは、絶えず葛藤していたからだ。あることをしたかったのに、いつも他のことをしていた。何故なら、他のことが要求されていたからだ。自分に背いて何かをするように、教え込まれたのだ。抑圧していたのだ。 

自分自身の真正さは抑圧され、その上に、偽物の人格を、押し付けられたのだ。私達は、あまりにも長い間、こうした偽者達を讃美して来た。もはや潮時だ・・・彼らは偽者だということが、暴かれるべきだ。私達は、こうしたマハトマや聖者達を、長い間、讃美して来た。 

今はもう、彼らのノイローゼに、目を向けなければならない。彼らは皆、精神が病んでいた。病理学的に見て、異常だった。 

健康な人とは、全体的な人だ。内側と外側は、同じだ。もし愛していたら、情熱的に愛する。怒っていたら、情熱的に怒る。まさにその愛には、真実があるのと同じくらい、その怒りにも真実がある。 

※地球への情熱 

新しい人間は、現世的だ。が、私は「現世的」で、物質主義だということを、意味している訳ではない。新しい人間は、リアリストだ。この地球を愛する。 

私達は、この地球を愛して来なかったし、私達のいわゆる宗教が、この地球を憎むように教えて来た為に、私達は、それを破壊してしまった。 

それは、美しい惑星だ。もっとも美しいもののひとつだ。何故なら、もっとも生命に満ちたものの、ひとつだからだ。この惑星は、愛されなければならない。この惑星は、喜ばれなければならない。それは贈り物だ。 

この身体には、あまりにも多くの神秘が含まれているから、ブッダですら、この身体がなければあり得ない。この身体は、もっとも大きな可能性・・・ブッダフッド、ニルヴァーナの寺院になる。 

この身体は、愛されなければならない。 この地球は、愛されなければならない。 

※自然の中にある宗教 

新しい人間は、自然の中に、自分の宗教を見い出す・・・死んだ石像の中にではなく、生きている、風に踊っている木々の中に、海でサーフィンをしながら、処女峰に登りながら、自分の宗教を見い出す。 

雪と共に、月と共に、星と共に、自分の祈りを見い出す。あるがままの存在と、言葉を交わす。 
新しい人間の関わりは、自然に向けられ、その関わりを通じて、超自然を知るようになる。 

神はここ、この地球に、まさにこの身体に、隠されている。この身体そのものが、ブッダだ。この地球そのものが、楽園だ。 

新しい人間は、自然の経典を読む。これが彼のヴェーダ、彼のコーラン、彼のバイブルになる。「ここ」で、彼は、石の垂訓を見い出す。生の神秘を、解こうとする。 

生から神秘を、取り除こうとはしない。新しい人間は、これらの神秘を、愛そうとする。これらの神秘に、入ろうとする。彼は詩人であって、哲学者ではない。アーティストであって、神学者ではない。 

新しい人間の科学も、異なった色合いを持つことになる。その科学は、タオのそれであり、自然を征服しようとする努力ではない。そういった努力は、まさに馬鹿げているからだ。どうして自然を征服することが、出来るかね? 

あなたは、自然の一部なのだ。新しい人間の科学は、自然を理解するものであって、自然を征服するものではない。自然をレイプしたりしない。自然を愛し、その秘密を明かしてくれるように、自然を説得する。 

※政治はない 

新しい人間には、野心がない、政治的ではない。政治に、未来はない。政治が存在して来たのは、人類のノイローゼゆえだ。ノイローゼがいったん消えたら、政治は消える。 

野心とは、何かを逃しているから、将来いつかそれを手に入れるのだ、と自分を慰めている、という意味に過ぎない。野心とは、慰めだ。今日は全てが惨めだが、明日には喜びがあるだろう。 

明日に目を向けることで、あなたは今日と、その惨めさを、耐えることが出来るようになる。今日は常に地獄で、明日は天国だ。あなたは、天国の方を見続ける。希望を抱き続ける。だが、明日は絶対に来ないのだから、その希望は決して叶わない。 

野心とは、自分の今日を素晴らしいものに変容させる能力が、あなたにはない、という意味だ。あなたは、無能なのだ。無能な人達だけが、野心を抱く。彼らは金を求める、権力を求める。 

権力と金を求めるのは、無能な人達だけだ。有能な人達は、生きる。もし金がやって来たら、その金をも生きる。だが、それを求めはしない。追い求めはしない。それを、怖れてもいないのだ。 

古い人間は、金を追い求めているか、金を怖れているか、どちらかだ。権力を追い求めているか、権力を怖れているか、どちらかだ。だがどのやり方でも、彼の関心は全て、権力と金に絞られている。野心を抱いているのだ。 

古い人間は、哀れだ。生きることが出来なかったから、愛することが出来なかったから、野心を抱いたのだ。 

新しい人間は、生きることが出来るし、愛することが出来る。そして、彼の「今、ここ」は、あまりにも素晴らしくなるから、なぜ明日のことを、思い煩わなければいけないかね? 

彼の関心は、もっと手に入れることにあるのではない。 彼の関心は、もっと在ることにある。

 

※真正さは喜び 

新しい人間には、ごまかし、うわべだけの見せかけ、振りをすることは必要ない。彼は真実だ。というのも、真実を通じてしか、解放はないからだ。嘘は全て、束縛を生み出す。

ひとつ嘘をつくと、それを守る為に、数限りない嘘をつかなければならなくなる・・・吐き気がするほど、嘘をつかなければならなくなる。そうなったら、終わりはない。ひとつの嘘が、遅かれ早かれ、あなたの実存全体に広まっていく。それは癌のようなものだ。 

真実であるがいい。そうすれば、隠す必要はない。オープンでいられる。真実であれば、存在から、自分を守る必要はない。傷つきやすくいられる。その傷つきやすさの中で、存在があなたを貫く。神が、あなたのハートに届く。 

嘘をついたら、あなたは怖くなる。神までもが怖くなり、神と顔を合わすのが怖くなる。自分に直面するのも、怖くなる。あなたは絶えず自分から、他人から、神から逃げることになる。自分の振りの背後に、いつも隠れていることになる。 

偽善が、あなたのライフスタイルになり、そこにこそ、地獄はある。偽善は、地獄を生み出す。 

真正さは、唯一の喜びだ・・・私は言おう、唯一の喜びだ。そして、もし真正でなかったら、あなたは決して、喜ぶことなど出来ない。 

新しい意識には、二枚舌は我慢出来ない。新しい意識は、この手のことは情熱を持って憎む。偽物へのこの憎しみは、新しい人間の、もっとも深いしるしだ。 

新しい人間は、組織化され、柔軟性がなく、誤りの一切ないシステムに反対するだろう。何故なら、生は美しい流れだからだ。それは、組織化されていない。自由だ。監獄ではなく、寺院だ。 

新しい人間は、組織が流動的で、変化し、適合性を持ち、人間的であることを望む。 

私達の国家は、非人間的だ。私達の軍隊は、非人間的だ。私達の教会は、非人間的だ。それらは、人間性を奪い去ってしまう。それらは、人間の自由を尊重しないから、人間を物におとしめてしまう。 

新しい人間は、自らの自由を尊重し、他人の自由をも尊重する。 

古い人間は、絶えず干渉している。あらゆる人の問題に口出しし、操ろう、批評しよう、非難しよう、褒美を与えよう、罰を与えようとしている。古い人間は、絶えず他人に関心を抱いている・・・「あなたは何をしているのか?」と。 

新しい意識は、全ての人に、その人独自の生を任せる。誰か他人を傷つけない限り、その人が、邪魔されることがあってはならない。他人にとって危険なものにならない限り、その人が、邪魔されることがあってはならない。誰か他の人の自由に干渉しない限り、その人が、干渉されることがあってはならない。 

※流動的な構造 

古い世界には、これまで個人として存在すること(インディヴィジュアリティ)が、欠けていた。個人として存在することを、嫌って来た。 

好きなのは、羊、群衆だけだった・・・人々は、決まりきった同じやり方と、同じ構造に従いながら、みんなと同じように行動していたのだ。 

新しい人間は、あらゆる種類の可能性を許す。新しい人間は、流動的な構造を愛する。新しい人間は、人間的で、人間に敬意を表する。その敬意は、ほとんど宗教的なものになる。 

新しい人間は、共同体(コミュニティ)の、緊密さの、親しさの、分かち合われる目的の、新しい形を、見い出さなければならない。 

何故なら、古い社会は、すぐには消えようとしないからだ。ぐずぐずと居残り、新しい社会に対して、あらゆる種類の戦いを仕掛けて来るだろう・・・いつものように。 

それは、非常に多くの既得権益を持っている。やすやすと去っていく訳にはいかないのだ。もはや存在出来なくなって、初めて去って行く。 

それが去って行く前に、新しい人間は、新しい種類のコミューンを、新しい種類の家族を、緊密で、親しく、分かち合われる目的を持った、コミュニティを、創らなければならない。 

※結婚ではなく、愛 

新しい意識は、結婚のような制度とは、何の関わりもない。新しい人間は、制度としての結婚には、自然な不信を抱くだろう。 

新しい人間にとって、男女の関係は、互いに高め合い、成長し合い、流れる関係であって、初めて深い価値を持つようになる。 

儀式としての結婚や、およそ永遠ではないことを証明するような、永遠の誓いなど、少しも気にかけない。瞬間を愛し、それを完全に生き切る。 

結婚に、未来はない。愛には、未来がある。過去には、愛は現実ではなく、結婚が現実だった。未来では、愛が現実になり、結婚は、ますます現実味を失う。 

過去には人々は結婚し、その為に、少しずつ好きになり、愛するようになっていった。未来では、人々は互いに好きになり、愛し合い、そうなって初めて、一緒に暮らすようになる。 

過去では、まず一緒に暮らすことが先だった。当然、一緒に暮らすと好きという気持ちが生じ、依存が生まれる。それは、必要現象だったのだ。 

夫は妻を必要とし、妻は夫を必要とし、そして子供達が、一緒に暮らす親を必要とした。それは多かれ少なかれ、経済現象だった。とにかく、愛から出たものではなかった。 

未来は、純粋に愛に基づき、愛がある間だけ存続するという、違った種類の関係を、経験することになる。そして、それが永遠に続くことを、強く求めることはなくなる。生において永遠のものは、何ひとつないからだ。 

永遠なのは、造花だけだ。本物のバラは朝に生まれ、夕方にはなくなっている。が、それが彼らの美しさだ。生まれる時も美しく、その花びらがしおれていく時も美しい。 

その生は美しく、その誕生は美しく、その死は美しい。何故なら、生気があるからだ。造花は決して生まれず、決して生きず、決して死なない。 

結婚は、過去における造花だった。新しい意識には、結婚に敬意を払うことなど出来ない。新しい種類の親しさ・・・友情を、創造しなければならなくなる。 

愛、そしてあらゆるものごと、その永遠ではない現象と共に生きることを、学ばなければならなくなる。 

※危険と共に生きる 

生の非永遠性と共に生きるには、ガッツがいる。何故なら、いつも何かが変化し、そのたびにあなたは、自分を変えなければならないからだ。 

人は、一定のままでいたがる・・・その方が安全で、安心のように思えるのだ。古い人間は、そうやって生きて来た。古い人間は、冒険を好まなかった。その全ての関心は、安全性にあった。 

新しい人間は、冒険心を持つことになる。その関心は安全性にはなく、関心はエクスタシーにある。 

人は、「私は知らないが、知ることに関心がある。私にはどんな次元、どんな冒険にも、入って行く用意がある」と言えるだけの能力と、勇気を持つことになる。新しい人間には、危険を冒す用意がある。 

古い人間は、非常にビジネスライクで、危険を冒す用意は、全くなかった。危険とは呪いのことで、安全こそが、古い人間のゴールだったのだ。 

だが安全と共に、あなたは死に始める。生がより高く、より高く豊かさを増して成長していくのは、ヒマラヤの幾つもの頂きに届くのは、冒険、絶えることのない冒険の中でのみだ。 

※権威への不信 

新しい人間は、自然にあるがままの人で、予測はつかず、新しさを賭け、ワイルドなこと、型破りのことを言ったり、やったりする危険を、しばしば進んで冒す。 

全てが可能で、何でもやってみることが出来る、ということを信じている。すでに知られているものには執着せず、未知のものに、知ることの出来ないものにさえ、常に、自分を開いたままでいる。 

が、理想家ではないから、どんな未来の為にも、犠牲は払わない。どんな抽象概念、理想、イデオロギーの為にも、犠牲は払わない。自分自身の体験を信頼し、外にある全ての権威に対しては、深遠なる不信を抱く。 

新しい人間は、自分自身の体験しか信頼しない。自分で何かを知らない限り、それを信頼したりはしない。外にある権威が、新しい人間の役に立つことなど、あり得ない。 

「私がそう言うのだから、あなたは信じなければならない。私達はいつも信じて来たのだから、あなたも信じなければならない。私達の祖先が信じたのだから、あなたも信じなければならない。ヴェーダやバイブルに書かれているのだから、あなたは信じなければならない」などとは、誰も言えないのだ。 

新しい人間は、そうした馬鹿げたこととは、何の関わりもない。新しい人間は、自分が知って、初めて信じる。これが本当の信頼・・・自分自身の可能性への、自分自身の潜在能力への信頼だ。 
新しい人間は、自分に敬意を払う。外側にある権威を信じることは、自分自身の存在に、敬意を払わないことだ。 

これこそ、私から見れば、今日起こっている、もっとも重要な現象だ。新しい人間が、存在し始めている。最初の光線が、すでに地平線上に現れている。 

新しい人間を受け取る準備を、整えるがいい。用意しなさい。今にも、あなたの扉をノックしようとしている客を迎える、主人になるがいい。 

そして、それこそがサニヤスとは何かの、全てだ。準備・・・新しい人間を受け取る、準備を整えることだ。新しい人間を受け取ることは、大いなる冒険になる。それには危険も伴う。というのも、古いものがそれを嫌うからだ。 

OSHO:The Secret of the Secrets,Vol.1 より抜粋