OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

56.共同体セラピー、etc.

<OSHOの講話より> 

人間は、私達がそう考えているような意味では個人ではない。彼は社会の中に生まれ、家族の中に生まれ、常に何かの構成員としてある。家族から切り離されて、独りだけになったら、彼は実態を失ってしまう。真実の存在ではなくなる。 

まるで私の片目を私の肉体から取り出して、それを個別に検査するようなものだ。それは死んだ目であって、私の目では決してない。何故なら、私はそれを通して見ることが出来ないし、それは見るという機能を果たさないからだ。見ることが出来ないものを目と呼べるだろうか?同じもののようにも思えるが、それは違う。目は、肉体とひとつのものとして存在している。 

個人に対してなされる心理療法(サイコセラピー)は、基本的には誤りだ。個人を、まるで独立した存在であるかのように扱っているからだ。グループセラピーが、そしてもっと先に進むと、共同体セラピーが生まれて来るだろう。癒されたい人がいたら、彼は共同体に入って、そこで暮らさなければならない・・500人から1000人の人々と共に。 

私がやろうとしているのはそれだ・・遠からず、ここでは次のステップとして、グループセラピーが、共同体セラピーが始められるだろう。あなたは500人ほどの人々と共に暮らす。ただそれだけで、奇跡が起こるのを目にすることが出来る。 

OSHO,Blessed are the Ignorant より抜粋 

コミューンでは、自分と同じような人達に出くわした時に、あなたは彼らを信頼し、彼らを愛し、サレンダー(無抵抗)の姿勢にならなければいけない・・闘う姿勢ではなくて、競うのではなくて、彼らに溶け込んでゆかなければならない。それは難しい。だが、あなたはその挑戦を受けて立たなければならない。その挑戦を受けて立たない限り、あなたは私の近くまで来ることは出来ない。 

他の人達は方便なのであり、このコミューンも方便だ。この人達も、あなたと同じようにもろく、脆弱で、怒りや嫉妬を抱えていて、すぐに気分を害するし、ちょっとしたことにも苛立つ。こういった人達を愛することは、難しいだろう。だが、これは試練だ。その彼らがいるからこそ、あなたは自分の愛を、強く育ててゆかなければならない。 

あなたの愛は、もっと強いものにならなければならないし、あなたの信頼は、もっと強いものにならなければいけない・・たとえ相手が、それに値しないとしても。それは問題ではない。問題なのは相手ではなくて、あなた自身だ。彼らのあらゆる妨害や妨げにも関わらず、愛を失わないようにしなさい。コミューンのあらゆる試練をくぐり抜けない限り、あなたは私を愛することは出来ない。これらは、私の寺院に至る為の石段だ。 

OSHO,From Bondage to Freedom より抜粋 

コミューンが、もっともっと深い内なる理解へと立ち至ったなら、セラピーというものはいらなくなる。コミューンが本当に花開いたなら、セラピーは一切必要なくなるだろう。そうなったら愛がセラピーになり、知性がセラピーになる。日常を生き、瞬間を生き、醒めて活き活きとしていることが、セラピーになる。1日の内で、あなたがする全てのこと、掃除や料理から洗濯まで、その全てがセラピーになる。 

様々なセラピーは、みな仮のものに過ぎない。いつの日か私が、あなた方の大部分がセラピーを超えたことを確認したなら、セラピーはなくなるだろう。そうなったら大多数の人達が、残った人達を、知性の光のもとに連れて行くことが出来るからだ。私達は、知性的な生き方を創り出そうとしている。 

OSHO,The Book of Wisdom より抜粋 

あなたは創り出す人だ。私達は、生活することを通して、自分の時間を創り出し、自分の空間を創り出し、自分の風土を創り出す。だから、あなたが人生でどのような立場にあろうとも、どのようなワークをしていようとも、外的な条件がどのようなものであろうとも、それを言い訳にしてはいけない。それでも瞑想をすることは出来るのだし、瞑想に時間はいらない。時間ではなくて、深い理解が必要なだけだ。 

OSHO,The Ultimate Alchemy より抜粋 

日常生活に留まることを、挑戦と受け止めなさい。ヴィパサナが生活のスタイルになってしまってはいけない。こういったものは覚えて、そのすぐ後に忘れ去られてしまうべきテクニックであって、ただその質だけが留められるべきだ。花ではなく芳香が、そのかぐわしい香りが、日常生活に持ち込まれなくてはならない。あなたは段々と、瞑想と日常生活の区別がつかなくなってゆき、それらはひとつのものになってゆく。 

普通の生活の中に入ってゆきなさい。食べて、飲み、眠りなさい。ただ普通にしながら、自分に訪れた静寂の感覚を留めておきなさい。何度もそれを思い出して、何度もそれを呼び覚ましなさい。何度もその感覚の中に入っていって、それが日常生活の中に留まるようにしなさい。世間の雑踏の中で、ふとその手がかりを捕まえて、しばらくの間、その味わいをそこで楽しみなさい。食べている時に、それを思い出しなさい。家を掃除している時に、それを思い出しなさい。それを思い出した途端に、あなたはいなくなって消え失せてしまう。 

深い自己想起の中では、自己が消え失せる。最も深い存在の瞬間とは、不在、非存在、アナッタの瞬間なのだ。だから、ただ思い出せばいい。急に、稲妻のようにそれが閃いて、エネルギーが駆け上がるが、あなたは同じワークを続けている・・が、同じ状態に留まるのではない。一瞬の内に、あらゆるものが変わってしまう。異なったエネルギー、異なったエネルギーの質が入って来る。そうしたら、また日常生活の中に入ってゆけばよい。 

OSHO,Nothing to Lose but Your Head より抜粋 

この挑戦に満ちた世界、外側の絶えざる混乱が、使われなくてはならない。あなたは、その目撃者にならなくてはいけない。それを見守りなさい。いかにして、それらから影響を受けないかを学びなさい。水面の蓮の葉のように、それらに触れられないでいることを、影響されないでいることを学びなさい。 

そうなれば、あなたは感謝するだろう。何故なら、あらゆる混乱に目覚めていることを通して初めて、ある日、あなたはふと「神々は谷の中にいる」と気づくからだ。あなたの目から世間は遥か遠くに消え失せて、あたかもこだまのようになる。これが、真の成長だ。

日々の振る舞いの中で、正しく瞑想的であることが出来たら、あなたにはあらゆることが起こるだろう。光は回転を始めて、あなたはただ、それを見ているだけでいい。世間の中に入ってゆき、しかも自分の中心の近くにあり、自らの自己を思い出しなさい。自分のしていることに、目覚めていなさい。 

OSHO,The Secret of Secrets より抜粋 

私のサニヤスとは、世間の中にあって、完全に世間の中にあって、しかも十全に目覚め、気づきながら生きること、世間の中でいかなる執着もなしに生きることだ。何かを放棄する必要はない。あらゆることを楽しみ、あらゆることを喜びながら、しかも超然としていることを覚えておきなさい。巻き込まれないようにして、あなたの実存の一部が常に目覚め、見守っていなければならない。 

行動してもいいが、それを「する人」になってはいけない。自分が大舞台の俳優であるかのように、全存在が芝居に他ならないかのように、生きなければいけない。だが、その芝居で演じている役割に同化してはいけない。同化したら、そこで問題が起こって来る。 

だから私のサニヤスは、簡単に定義することが出来る・・それが何であれ、自分が演じている役割に決して同化しないことだ。医者であろうとビジネスマンであろうと、技術者であろうと画家であろうと、いかなる役割を演じているにせよ、これは芝居なのだと覚えておきなさい。それに深刻になってしまってはいけない。 

芝居だとしたら、成功も失敗も同じことだ。成功しようと失敗しようと関係ない。大事なのは、常に目覚めているということだ。成功すれば、それを見守っているし、失敗すれば、それを見守っている。生きている時は、それを見守っているし、死が訪れたら、それを見守る。なすべきことはただひとつ、内側であれ外側であれ、自分の周辺で起こっている全てのことを、見守っているということだ。これが私のサニヤスの基盤となる。 

OSHO,Just the Tip of the Iceberg より抜粋