OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

61.グレート・チャレンジ

<OSHOの講話より> 「グレート・チャレンジ」第1章 

質問:ヨガ、ヨーギ、そして瞑想という言葉で、あなたが何を意味していらっしゃるのか、説明して頂けませんか? 

まずはじめに瞑想について覚えておくべきことは、なされ得る何かではないということだ。世界中の人々が、瞑想とは何かを「する」ことだと考えている。それは、何か「する」ようなことではない。行為でもない。それは何か、起こるようなことだ。あなたが向かって行くのではなく、それ自身があなたのもとへやって来て、あなたを貫くようなことだ。 

ある意味であなたを破壊し、別な意味で、あなたを再創造するようなことだ。それは何かとても活力に満ち、あまりにも果てしなきものなので、あなたが「する」ような事柄の一部にはなり得ない。では、どうすればいいのだろうか?それが起こる状況を創ることなら出来るだろう。あなたに出来ることの全ては、存在に対して全方向に無防備で、オープンでいることだけだ。 

通常、私達は牢獄の中にいるようなものだ。自分自身の中に閉じ込められていて、それが開くことはない。ある意味で私達は死んでいる。私達は、生が自分の中へと入り込まぬように防御するようになってしまっている。だから、生は私達のもとにはやって来れない。私達は生に対して、障害を、妨げを作ってしまった。なぜなら、そうしなければ生は危険なものに、制御出来ないものになりかねないからだ。 

生とは、私達の手中にはない何かだ。私達は確実で安全でいられる為に、心地よくいられるように、自分自身を閉ざされた存在にしてしまった。この閉ざされた存在は便利だ。だが同時に、それによって私達は鈍くなっていく。閉じれば閉じるほど、生き生きとしなくなる。だが、よりオープンになれば、私達はもっと生き生きとしてくる。 

瞑想とは、あらゆる次元に対してオープンでいることだ。あらゆる物事にオープンでいることだ。だが、全ての物事にオープンでいることは危険でもあり、全ての事柄に無条件にオープンでいれば、安全ではなくなってしまう。そうなればあらゆる事が起こり得るので、それは心地よくはなり得ない。安全で心地よく、確実さを求めるマインドは、瞑想的なマインドではあり得ない。 

生が差し出すものなら何でもオープンでいられるマインド、ひとつと全ての出来事を歓迎するマインド、たとえ死でさえ受け入れるマインドだけが、瞑想が起こる状況を生み出すことが出来る。だからあなたに出来る唯一のことは、瞑想に対して受容的であること、全面的に受容的であること・・何か特別なことに対してだけでなく、やって来る全てのものに受容的であることだ。 

瞑想とは、特別な次元ではない。それは、無次元の存在だ。ひとつと全ての次元に対して無条件にオープンでいることだ。何の欲望もなく、何の期待もないことだ。もし何かの期待があったら、そのオープンさは全面的ではなくなってしまう。もし何かの条件が、何かの欲望があれば、もしそこに、何かの「もしも」があったら、そのオープンさは全面的ではなくなってしまう。 

あなたは、全面的に開いていなくてはならない。もし全面的に開いていなければ、活力に満ち溢れてはいないし、時間と空間を超えた究極の出来事を迎え入れられないだろう。それはあなたの「客」にはなり得ないし、あなたも客を招く「主人」になることは出来ない。瞑想とはまさに、何かが起こり得るような受容的な状況を創造することだ。そしてあなたに出来る唯一のことは、待つことなのだ。 

待つマインドとは、知られざるものを待っている状態を指している。なぜなら、これから起こることは、前もって知ることは出来ないからだ。あなたにはそれを思い描くことすら出来ない。それについては何かを聞いたことがあるかもしれない。だがそれは、あなたの認識によって得られた成果ではない。それは知られないままだ。知られざるものを待っているマインドが、瞑想的なマインドなのだ。 

知られざるものを待っている時、知識は邪魔になる。なぜなら知識の中でより知っていればいるほど、自分自身を堅く閉ざしてしまうからだ。あなたは「知っている」という気分でいるべきではない。完全に無知でなくてはならない。その時にのみ、知られざるものはあなたへとやって来る。自分自身の無知に気づく瞬間、自分は知らないということを知る瞬間、これが知られざるものを待ち始める瞬間だ。 

無知な人々には2種類のタイプがある。最初のタイプは、自分自身が無知だということを知らないタイプ・・彼らは、自分が知っていると自動的に考える。これは「知る」ということへの無知だ。別のタイプの人々は、自分自身が無知であるということに気づいている人々だ。これは、無知の知だ。そしてあなたが自分の無知に気づくようになった時「知ること」の始まる地点に到達する。 

パンディット(学者)のような、自分は知っていると思っている人々は、決して宗教的にはなれない。自分は知っていると考える人達は、非宗教的にならざるを得ない。というのも、知識でいっぱいになった自我(エゴ)は、とても巧妙だからだ。しかし自分が無知であると知った瞬間、自我は消え失せる。そこには自我が存在出来る空間がないのだ。自我を打ち負かす為の最大の攻撃は、自分の無知に気づくことであり、自我を最も強固にする最適な方法は、知識を強く求めることだ。 

瞑想に関して私が言いたい第2のことは、あなたは全面的に自分の無知に気づいていなければならないということだ。蓄積して来た借り物の知識が本当の知識ではないと知られる時にのみ、自分の無知に気づくことが出来る。それらは知識ではない。単なる情報だ。うわべにはそう見えたとしても、情報は知識などではない。 

「知る者」は、自分の知っていることを押しつけたりしない。彼はそうすることにためらいを感じる。だが、自分は知っていると考える人々は独断的で、断定的だ。そういう人々は、自分が知っていることに全く疑いを持たない。 

知るに至っていないことは、知識にはなり得ないことに気づかなくてはならない。知識を借りることは出来ない。それが神学的な考え方と、宗教的な考え方との違いだ。神学は、この世で最も非宗教的な事柄であり、神学者というものは、最も非宗教的な人々だ。なぜなら彼らが主張するその知識は、借り物だからだ。 

本物の知識は、決して自己を主張しない。知識に内在するものは、人が知る瞬間、「私」がいなくなる瞬間の現象だからだ。それを知る瞬間、自我はもはやそこには存在しない。自我がなくなる時、知識はやって来る。だから自我は、知識を主張出来ないのだ。自我が出来ることと言えば、情報を集めるくらいだ。たくさんの事実を蓄積し、教典の言葉を引き合いに出すことなら出来る。 

瞑想の中に入って行くということは、蓄積された知識を超えて行くということだ。この借り物の知識が超えられる瞬間、学ぶことが始まる。それに、学ぶ人は何か全く違っているものだ。彼は自分が知っているということを、決して主張しない。彼はいつも、自分が無知だということに気づいている。それに気づけば気づくほど、新しいものに対してさらに受容的になる。 

あなたが何かを学んだ瞬間、それを脇に置きなさい。でなければ、あなたの知ることの一部、蓄積の一部となるあらゆる可能性があるからだ。もし、あなたの知識が過去から生じているなら、それもまた借り物だ。なぜなら、現在のあなたはもはや同じ人間ではないからだ。それに、あなたの知識が過去からの借り物であろうが、誰かからの借り物であろうが、それらに全く違いはない。 

昨日の私は遠くへ行ってしまっている。それは、もうすでに死んでいる・・私の記憶の中以外にはどこにも見つからない。昨日の私は、自分にとって今や他者になっている。まるで、あなたであるかのように。実際、それは昨日の私というより、むしろ他人だ。というのも、今あなたはやがて近づいて来るからだ。今この瞬間、もしあなたが沈黙出来るのなら、あなたは私だ。あなたは私の重要な一部だ。 

もし私が、昨日自分に起こったことをあなたに話したとしても、話をしているのは私ではない。それは死んでしまった人間、死んでしまった記録であるだろう。私はこの瞬間、まさにこの瞬間に生きてはいないだろうし、順応してもいないだろう。死んでしまった何かが、私を通して表明しているだけだろう。それに、何か死んでいるものに依存すること・・それは不可能だ。 

もし私が、未だに過去の記憶の中に生きているとしたら、今日を生きることは出来ない。もし私が、昨日の瞬間を昨日生きることが出来れば、今日この瞬間に物事が起こるように生きるに違いない。それに私の言うことは、この瞬間の私を通して出て来るはずだ。もし死んだ過去から出て来ているのなら、それは借り物だ。たとえ私の口から出たとしても、私の過去からのものであっても、それは重要ではないし「知ること」には、ほど遠い。 

全ての要求は常に過去の知識や記憶から来ているが、「知ること」は、常に自然発生的なものだ。あなたが過去の記憶から拝借しているのであれば、知るということの瞬間にはない。人は、誰からも借りるべきではない。たとえ自分自身の過去からですら、無断で借りるべきではない。瞬間から瞬間へと生きるべきだ。そのように生きれば、あなたを訪れる全てのものが、あなたの「知ること」の一部となる。 

私があなたに目を向けるとする。私が自分の記憶を介在させない時にのみ、私の一瞥は「知ること」となり得る。過去の記憶を通して見るのなら、その時の私はあなたを本当には見ていない。だがもし、どんな過去の記憶も負わずに私があなたを見れば、その見ることは瞑想になる。もし私が過去知っているような何かの体験を、何ひとつ介在させずにあなたに触れるなら、その触れることが瞑想的になる。無邪気で自発的な全ての行為は、瞑想的になる。

 

私が強調したい3番目は、瞑想的なマインドは、瞬間から瞬間に生きるということだ。それは積み重ならない。やって来るひとつひとつの瞬間を、ありのままに生きる。それは決して「今ここ」を超えては行かない。それは常に今だ。やって来るそれぞれの瞬間に受容的だ。死んでいるものは生き返らないし、過ぎ去ったものは、もはやここにはない。過去は過ぎ去っているし、未来はまだやって来ない。過去と未来の間の今この瞬間こそが、唯一存在している。 

過去は記憶の一部であり、未来は欲望の一部だ。両方ともメンタルなものだ。そのふたつは、それ自身だけでは存在しない。人間が作り上げたものだ。もし人類がこの地球上に存在しなかったなら、過去も未来もないだろう。ただ現在、今だけがある。時間の経過はなく、何ひとつやって来てはいないし、何ひとつ過ぎ去るものもない。瞑想的なマインドは今を生きる・・それが唯一の存在だ。 

ある禅僧が死を宣告された。国王は彼を呼びつけると言った。「お前にはわずか24時間しか残されていない・・そのわずかな時間、どう生きるつもりだ?」僧は声を立てて笑い、言った。 

「瞬間から瞬間へ・・私がいつもそうだったように生きます!私にはこの瞬間以上のものは、かつて何もありませんでした。ですから残された時間が24時間だろうと、24年間だろうと、それがどうだというのでしょう?それは関係ありません。私はいつも、一瞬一瞬を生きて来ました。私にとっては、一瞬さえあれば充分過ぎるほどです。24時間は多過ぎます。一瞬で充分です。」 

王はその言葉を理解出来なかった。僧は言った。「王よ、私に質問させてください。あなたはふたつの瞬間を同時に生きることが出来ますか?」 

誰ひとりとして出来ない。ただひとつ可能なことは、一度に一瞬を生きることだけだ。ふたつの瞬間は同時には与えられない。ただ一瞬だけが、常にあなたの手の内にある。そしてその瞬間は細かく震えているので、もし過去に気をとらわれているか、あるいは未来に惹きつけられていたら、それはとらえられないだろう。それはあなたの側を通り過ぎ、見失ってしまうだろう。ただ受容的なマインド、「今ここ」であるマインドだけが、瞑想が起こる状況を創り出せる。 

第4番目は深刻さだ。瞑想について考えたり話したりする人々は、瞑想を深刻なものとして受け取っている。彼らは、それを仕事のようなものとして受け止めており、遊びのようなものとしては受け止めていない。だが、もし瞑想を深刻なものとして受け止めるなら、瞑想が起こるような状況は創り出せない。深刻さとは緊張だ。そして緊張したマインドは、決して瞑想の中には存在出来ない。 

瞑想をゲームとして、子供がやるようなゲームとして受け止めなくてはならない。瞑想する人々は、遊び心に満ちているべきだ。すなわち存在との戯れ、生と戯れ・・無重力で、緊張のないマインド、何かをやっている気分ではなく、遊び心に満ちた瞬間にのみ、そのハプニングは可能だ。 

深刻な人は、宗教的にはなり得ない。全ての宗教家達は、あれほどまでに深刻だ!まるで病的で、憂鬱な顔をしている人々だけが、宗教的であるかのようだ。だが瞑想とは、しなければならないような重大な何かではない。それは、絶対的に無目的な何かだ。つまるところ、そもそもの最初から備わっているような何かだ。達成されるべき何かがある訳でも、何かを通らねばならないようなものでもない。それは意味づけ出来ないものだ。 

だが私が見るところ、瞑想に興味を持つ人々は、実は本当に興味を持っている訳ではなさそうだ。他の何かに興味があるのだ。瞑想は、他の何かの達成への手段として利用されている。彼らは科学に興味があるのかもしれない。緊張のないマインドの状態を得る科学・・ 
彼らは、瞑想以外のものなら何にでも興味があるのかもしれない。だが、単純に瞑想に興味がある訳ではないので、瞑想をしていてもオープンにはなれないのだ。 

瞑想は、始めから瞑想を目的として興味を持つ者にのみ訪れるものだ。静寂がやって来る、だがそれはまた別なことだ。平和がやって来るだろう。それもまた別な話だ。神聖なるものがやって来る。それもまた別な話だ。それらは結果としてそうなったのであり、副産物のようなものだ。それらを欲することは出来ない。なぜなら、まさに欲求そのものが緊張を作り出すからだ。神聖さはやって来るだろう。あるいは、全てのものが神聖になってしまうと言った方がいいだろう。全てが至福になる。それは間接的にそうなるのだ。欲してはいないのに、瞑想の影のようにやって来る。 

これが生のひとつの神秘だ。美しいもの全て、真実であるもの全て、素晴らしいことの全ては、いつも間接的にやって来る。瞑想は追い求められないし、じかに手を伸ばして触れようとしても出来ない。なぜなら、幸福や神聖さや他の何かを切望する態度で近づけば、あなたは見失うだろう。それはやって来ないし、あなたを圧倒することもないだろう。手段を講じてはならない。瞑想は手段ではあり得ない。深刻さは障害なのだ。 

瞑想とは、遊び心を回復することだ。子供時代は去ってしまった。だが今やあなたは、あの頃の遊びに満ちた気分を取り戻した。色の付いた石ころや、花で遊ぶことが出来る。あなたは何とでも遊べる。遊びに満ちた気分の中へと、ただリラックス出来る。だがそれは、全く遊ぶ為にではない。このリラックスした瞬間の中で状況は創られ、エクスタシーが湧き起こり、ハプニングが起こる。寺院は、誰でもが存在と子供のように戯れる、遊びの家となる。 

あなたは私に尋ねている。ヨガとは何か、ヨーギとは何かと。瞑想的な人がヨーギだ。瞑想的に生き、瞑想的に食事をし、瞑想的に風呂に入り、瞑想的に眠る。彼の全存在、彼の行為全てが瞑想的だ。彼は存在を重荷としてはとらえず、遊びと考える。ヨーギは過去とは関わりを持たない。彼は未来とも無縁だ。彼は、現在のこの瞬間だけに生きる。生は辿り着くべき目的地を持たない、終わりなき流れとなる。なぜなら、遊びの中にはどんな目的もないからだ。 

私達は遊ぶ時にすら、目的を作り出す。私達は遊び心をだいなしにし、遊びを仕事に変えてしまう。仕事は目的なしには存在出来ない。だが遊びは、目的があっては存在出来ない。私達はあまりに深刻になってしまったので、遊んでいる時ですら目的を作り出してしまう。勝つべき何か、到達すべきどこかの場所がある。私達は、ただそれをする為だけの目的で、何かをすることが出来ない・・芸術の為の芸術のように。芸術が、芸術そのものの為にある瞬間、それは瞑想的になる。歌が、歌うことそのものの為にある時、それは瞑想的になる。愛が愛するものの為だけにある時、それは瞑想的になる。 

目的と手段が同じである時、物事は瞑想的になる。だが手段が始まりで目的が終わりであるのなら、その間に継続が、方法が存在し、その時それは深刻になされるべき仕事になってしまう。そうなると緊張、衝突、重荷が作り出され、あなたの無邪気さは深刻さで打ち壊されてしまう。 

手段は結果だ。結果としてあるものが手段だ。何事であれ、このような姿勢でなされることは瞑想的になる。始まりが終わりだ。あなたの最初の一歩は、最後の一歩なのだ。誕生は死であり、出会いは別れだ。これらの一対は全体の中での両極であり、それらはひとつだ。もしあなたが、これらをひとつのものとして見るのなら、その時、あなたのマインドは瞑想的になる。その時、どんな重荷もなくなる。生はただのリーラ、戯れとなる。 

エスの十字架は深刻だ。だが、クリシュナは遊びに満ちて生きた。クリシュナのダンスは、イエスが担いだ十字架とは質的に異なっている。十字架は重荷だったに違いない。それは運ばれねばならなかった。遊びではなく、深刻な出来事だったのだ。だからキリスト教徒は、イエスは決して笑わなかったと言うのだ。十字架を運ばなくてはならない彼が、どうやって笑うことが出来る?それに彼は、自分自身の為だけにそれを運んだのではなかった。 

全人類の為に・・つまり死んでしまった人々、そしてまだ生まれて来てはいない人々の為に、彼は十字架を運ばなくてはならなかった。だが私は、これがイエスの本当の姿だったとは思わない。これはキリスト教徒が考えている姿だ。一度も笑ったことがないイエスなど、私には思いもつかない。もし笑えなかったら、宗教的にはなり得ないからだ。 

もちろん、様々な種類の笑いがある。誰かを笑うことは、非宗教的なことだ。だが自分自身を笑えるようになるなら、それは宗教的になる。それに自分自身を笑える者は、深刻になどなれない。彼は遊びに満ちている。そうすれば、生は遊びに満ちていて、終わりも目的もない。何ひとつ達成されるべきものなどない。なぜなら可能なことは何であれ「今ここ」にあるからだ。 

達成しようとするマインドは、決して自らを未来から切り放すことは出来ない。達成しようとするマインドは、未来志向になる運命だ。そして未来志向のマインドは、過去に基準を置かざるを得ない。なぜなら未来は、過去の投影に過ぎないからだ。私達は過去の記憶を、未来の望みへと投影する。私達の未来の夢とは、より美的な望みを織り込み、より美しく彩られた過去の体験なのだ。 

瞑想的な人間は今に生きる。というのも、それ以外の生はないからだ。だが、生きることを先延ばしにしたいのなら、過去に生きることも出来るし、未来に生きることも出来る。ヨガは瞑想のテクニックではない。そうではなく、瞑想が起こる状況を創る為の道だ。そして本当に生き始めた人々・・この瞬間に生き、どんな生の目的にも関心を持たない人々がヨーギであり、放棄であり、サニヤシンだ。 

通常私達はサニヤシン、放棄した人を、生を棄てた人々だと考える。それは絶対的にナンセンスだ!唯一生き始めた人がサニヤシンだ。「サニヤス」は放棄ではなく、生への入門だ。それは死んだ過去の、まだ生まれてもいない未来への放棄なのだ。それは自滅的な流れの、生を延期することの放棄だ。ヨガは、神秘的な生への入門に過ぎない。それは瞑想が起こり得る状況を創り出す方法に過ぎない。 

インドだけが、ヨガを発達させた唯一の国なのではない。いつであれ、またどこであれ、人が本当に生きたところには、ヨガが生み出された。ブッダには彼自身のヨガがあった。マハヴィーラやイエスにも、彼ら自身のヨガがあった。何千という異なったヨガがあるだろう。誰もが、全ての個人が自分のやり方を持っている。自分自身の真実へ近づく為に通るドアがある。だから誰一人、他の誰かに従うことは出来ない。 

誰かに従った瞬間、あなたはヨーギになれなくなる・・誰かの後を追う者は、決してヨーギにはなれない。なぜなら、二度同じものについて行くことは、あなたが安全を望んでいるということだからだ。あなたは到達出来ると確信したい。だから、すでに到達した誰かの道に従う。だが、他の誰かが歩んだ道は、あなたの道にはならないかもしれないのだ。実際、あなたの道にはなり得ない。というのも、個人とは比類なき者だからだ。一人一人が自分の道を創らなければならない。 

道とは既製のものではない。人はどこかへ到達する為に、歩き続けなくてはならない。歩き続ける道を創ることが、あなた自身の生なのだ。あなたは自分の道を創り上げ、先へ進む。道をさらに創るなら、さらに先へ進むだろう。ひとりの人間によって創られた道は、他の誰も歩くことは出来ない。というのもヨガの道は、内面の世界のものだからだ。外側にはどんな印も、一里塚もない。外側にはどんな標識も全くない。ブッダはあるひとつの道に従った。だがその道は、ブッダの為に、ただひとつ存在した内なる道だった。誰ひとり、その上を歩くことは出来ないのだ・・(略) 

OSHO,「グレート・チャレンジ」(市民出版社)より抜粋