OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

66.秘教の心理学

<OSHOの講話より>  第1章 内なる変革 

質問:人間の進化の道のりで、将来いつの日か、人類全体が悟りを得ることはあるのでしょうか?人間は現在、進化のどのような地点にいるのでしょうか? 

人間と共に、自然の自動的な進化のプロセスは終わる。人間は、無意識的な進化の最後の成果だ。人間と共に、意識的な進化が始まる。考慮すべき多くのことがある。 

第1に、無意識的な進化は機械的で自然なものだ。それはひとりでに起こる。このタイプの進化を通じて、意識が現れる。だが意識が存在するようになるや、無意識的な進化は止まる。その目的は果たされたからだ。無意識的な進化は、意識が存在するようになるところまでしか必要とされない。人間は意識するようになった。ある意味で彼は自然を超越した。もはや自然には何も出来ない。自然な進化によって、可能な最後の成果が生まれてしまった。今や人間は、進化するかしないか自由に決められるところまで来た。 

第2に、無意識的な進化は集合的だが、進化が自覚されるとそれは個的になる。いかなる集合的で自動的な進化も、人類より先へは進まない。ここからは、進化は個的なプロセスになる。意識は個を創る。意識が現れる以前には、個は存在しない。ただ種が存在するだけで、個はない。 

進化がまだ無意識的な時、それは自動的なプロセスだ。それについて不確実なものは何もない。物事は原因と結果の法則によって起こる。実在世界は機械的で確実だ。だが人間と共に、意識と共に、不確実性が実在の中に生じる。もはや何も確かではない。進化は起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。可能性は存在するが、選択は完全に各個人にかかることになる。 

だからこそ、不安は人間的現象なのだ。人間より低い存在にはどんな不安もない。選択の自由がないからだ。あらゆることが起こるべくして起こる。選択がないのだから選択者はいない。そして選択者がいない時、不安はあり得ない。一体誰が心配出来る?誰が緊張出来る?選択の可能性と共に、不安は影のようについてくる。今やあらゆることが選択されなくてはならない。あらゆることが意識的な努力になる。あなたひとりに責任がある。もし失敗するなら、失敗するのは「あなた」だ。もし成功するなら、成功するのは「あなた」だ、それもまた、あなたの責任だ。 

そしてあらゆる選択は、ある意味で最終的なものになる。あなたはそれを取り消すことは出来ない。忘れることは出来ない。帳消しには出来ない。あなたの選択があなたの運命となる。それはあなたと共に残り、あなたの一部となるだろう。あなたはそれを拒絶出来ない。選択は常にギャンブルだ。何ひとつ確実なものはないのだから、あらゆる選択は闇の中で行われる。それこそ人間が不安に苦しんでいる理由だ。彼は根っからの不安なのだ。そもそも彼を悩ましているのはこれだ。在るべきか在らざるべきか?これをするか、あれをするか・・ 

「無選択」は可能ではない。もし選ばないとしたら、あなたは選ばないことを選んでいるのだ。それも選択だ。だからあなたは選ぶことを強いられる。あなたには選択しない自由はない。選ばないことは、他のどんな選択とも同じだけ影響を及ぼす。人間の尊厳、美、栄光とは、この意識のことだ。だがそれは重荷でもある。栄光と重荷は、あなたが意識すると同時にやって来る。あらゆるステップが、その2つの間の動きだ。人間と共に選択の自由と意識的な個性が、実在の中に生じる。あなたは進化することが出来るが、その進化は個人的な努力となる。ブッダになるよう進化するかもしれない。その選択はあなたのものだ。 

だから、進化には2つのタイプがある。集合的進化と個人的・意識的進化だ。しかし進化(エボリューション)という言葉は、無意識的・集合的な進歩を暗に意味している。だから人間について語る時は、変革(レボリューション)という言葉を使う方がいいだろう。人間と共にレボリューションが可能となる。私がここでこの言葉を使う時、変革とは進化に向けての意識的・個人的努力を意味している。それは高みへ達する為の個人の責任を思い起こさせる。ただあなただけが、自らの進化に対して責任がある。 

人は通常、自分自身の進化に対する責任から、選択の自由に対する責任から逃れようとする。自由に対する大きな恐れがある。あなたが奴隷なら、自分の生に対する責任は決してあなたのものではない。誰か他の人に責任がある。だから見方によると、奴隷の身分はとても心地よいものだ。そこには重荷がない。この点で、奴隷の身分は自由だ。意識的な選択から自由だ。あなたが完全に自由になると、自分自身の選択をしなければならない。誰もあなたに何かを強いたりしない。あらゆる選択が開かれている。その時マインドとの苦闘が始まる。 

それで人は自由を恐れるようになる。共産主義ファシズムのようなイデオロギーの魅力の一端は、そういったものが個人の自由からの逃避や、個人の責任からの回避を提供することにある。責任の負担は個人から取り去られ、社会が責任を負うようになる。何かが上手くいかない時、いつでも国家や組織を指さすことが出来る。人は集団的構造の単なる一部になる。だが個人の自由を否定することで、ファシズム共産主義は人間の進化の可能性もまた否定している。それは変革が差し出す大いなる可能性、人間の全面的な変容からの後退だ。これが起こる時、あなたは究極に至る可能性を破壊しているのだ。あなたは後退する。あなたは再び動物のようになる。 

私にとってこれから先の進化は、個人的な責任によってのみ可能になる。責任を負えるのは、あなたひとりだ!この責任は、大いなる祝福が姿を変えたものだ。この個人的な責任と共に、最終的には無選択の気づき(アウェアネス)へと至る苦闘が生じる。無意識的な進化という古いパターンは、私達には終わってしまった。あなたはその中に後退することは出来るが、そこに留まることは出来ない。あなたの存在は反乱を起こすだろう。人間は意識するようになった。人は意識的であるしかない。他に道はない。 

オーロビンドのような哲学者達は、逃避家にとって大きな魅力になる。彼らは集合的進化が可能だと言う。神性なるものが降臨し、あらゆる人が光明を得ると・・だが私にとって、それは可能ではない。また、それが可能であるように見えたとしても、それは価値あることではない。もし自分自身の個人的な努力なしで光明を得るとしたら、その悟りには何の価値もない。それは、努力を讃える歓喜をもたらすことはない。それはただ当然のことのように思われるだろう。あなたの目のように、あなたの手のように、あなたの呼吸器のように・・これらは大いなる祝福だが、誰も本当はそれらを尊重していないし、大切にもしていない。 

オーロビンドがまさに請け合ったように、あなたもいつか光明を得た状態で生まれて来ることがあるかもしれない。それは価値のないものだ。多くを持っていても、それが努力なしで、苦労なしでやって来た為に、あなたには何の意味も持たない。その意義は失われる。意識的な努力が必要だ。達成自体は、努力そのものほど重要ではない。努力がそれに意味を与え、苦闘がそれに意義を与える。 

私の見るところ、集合的・無意識的に、神性からの贈り物として訪れるような悟りは、不可能であるだけでなく無意味だ。あなたは光明を得る為に苦闘しなければならない。苦闘を通して、あなたは至福の訪れを見い出し、それを感じ、保ち続ける能力を創造するのだ。 

無意識的な進化は人間と共に終わり、意識的な進化・・変革・・が始まる。だが意識的な進化は、必ずしも特別な人間において始まる訳ではない。それはただ、あなたが始めることを選ぶ時にのみ始まるのだ。だがそれを選ばなければ・・ほとんどの人達はそうだが・・あなたは非常に張り詰めた状況に陥ることになる。そしてこれが現代人だ。行くところもなく、成し遂げるべきものもない・・意識的な努力なしには、もはや何も達成出来ない。 

進化しようという意識的な選択は、大いなる冒険だ。人間の為に存在する唯一の冒険だ。その道は険しい。そうあるしかない・・過ちがあるに違いないし、失敗もあるに違いない。なぜなら何も確実ではないからだ。この状況は心に緊張を作り出す。あなたは自分がどこにいるのか分からない。どこへ向かっているのか分からない。あなたのアイデンティティ(自己証明)は失われている。 

状況は、あなたが自滅的になるような地点にまで達するかもしれない。自殺は人間的な現象だ。それは人間的な選択と共に生じる。動物は自殺をすることは出来ない。死を意識的に選ぶことは、彼らにとっては不可能だからだ。誕生は無意識的であり、死も無意識的なものだ。だが人間にとって・・無知な人間、進化していない人間にとって・・ひとつのことが可能になる。それは死を選べるということだ。 

誕生はあなたの選択ではない。誕生に関する限り、それは無意識的な進化の手の内にある。実際のところ、あなたの誕生は全く人間的な出来事ではない。それはあなたの選択ではないのだから、実際には動物的だ。選択の自由と共に、初めて人間性が始まる。だがあなたは自分の死・・決定的な行為・・を選ぶことが出来る。だから自殺は、はっきりとした人間的行為だと言える。そして意識的な進化を選ばなければ、自殺の方を選ぶかもしれないという可能性が充分にある。あなたは積極的に自殺する勇気は持っていないかもしれない。それでも、だらだらと過ごして死ぬのを待つという、緩慢で引き延ばされた自殺のプロセスを歩むことになる。 

あなたは自分の進化に対する責任を、誰か他の人に負わせることは出来ない。この状況を受け容れることは、あなたに強さをもたらす。あなたは成長への、進化への途上にある。私達は自分自身の生に、自分自身の進化に対し責任を負わなくてもいいように、神を創り出したり、グル(導師)を拠り所にしたりする。自分から離れたどこか別のところに責任を置こうとする。グルや神を受け容れられないとしたら、その時は酒やドラッグによって、私達を無意識にするものによって責任から逃れようとする。 

だが責任を拒むこうした努力は馬鹿げているし、未熟で幼稚なものだ。そういったものはただ、問題を後回しにするだけで、解決にはならない。死ぬまで後回しにすることも出来るが、問題はそのまま残っている。そしてあなたの新しい生は、同じように続いてゆくだろう。ひとたび自分ひとりに責任があると気づくようになれば、無意識を通じてのどんな逃避もなくなる。それでも逃げようとするなら、あなたは馬鹿者だ。なぜなら、責任とは進化の為の大いなる機会だからだ。生み出される苦闘によって、何か新たなものが進化するかもしれない。 

気づくようになるということは、あらゆることが自分次第なのだと知ることを意味する。神でさえ、あなた次第だ。神はあなたの想像力によって作り出されているからだ。あらゆることが究極的にはあなたの一部だ。そしてあなたは、それに対する責任がある。あなたの言い訳に耳を貸す人はどこにもいない。訴えを起こせる法廷は存在しない。責任の全ては、あなたにあるのだ。

 

そしてあなたは独り、完全に独りきりだ。これは極めて明確に理解されなくてはならない。人は意識するようになるや、独りになる。意識が大きいほど、自分が独りであるという気づきは大きくなる。だから社会、友人、会合、群衆によって、この事実から逃避してはならない。それから逃げてはいけない!それは大いなる現象だ。進化の過程全体は、それに向かって少しずつ進み続けている。意識は今や、自分は独りなのだということを知る地点にまでやって来た。そして「独りで在ること」(アロンネス)においてのみ、あなたは光明を得ることが出来る。 

私は「孤独」(ロンリネス)と言っているのではない。孤独の感覚は、人が独りで在ることから逃げようとしている時、それを受け容れる用意の出来ていない時に生じる感覚だ。独りで在るという事実を受け容れないなら、その時には寂しく感じる。あなたは自分自身を忘れる為の群衆や、あるいは何か酔っぱらえるものを見つけるだろう。孤独は、それ特有の忘却という魔術を生み出す。 

もしあなたが、ほんの一瞬でさえ独りでいられるなら、全面的に独りでいられるなら、自我(エゴ)は死ぬ。「私」は死ぬ。あなたは爆発し、もういない。自我は独りの状態で生き残ることは出来ない。それは他者との関係においてしか存在出来ない。いつでもあなたが独りの時は、奇跡が起こる。自我は弱くなる。それはもう長くは存在出来ない。だから独りでいられるほどの勇気があるなら、次第に自我がなくなってゆく。 

独りで在ることは、極めて意識的で思慮深い行為だ。自殺よりも思慮深い。自我はひとりの状態では存在出来ないが、自殺においては存在することが出来るからだ。エゴイスティックな人はより自殺しやすい。自殺はいつも他者との関係の中にある。それは決して独りで在ることの行為ではない。自殺においては自我は痛手を受けない。むしろそれは一層顕示される。それはより大きな力をもって新しい誕生へと入ってゆく。 

独りで在ることによって、自我は打ち砕かれる。関係するものを何も持たない為に、それは存在出来ない。だから、もし独りで在る用意が出来ているなら、揺らぐことなく独りで在るなら・・逃げることも後退することもなく、独りで在ることの事実をありのままにただ受け容れるなら・・それは大いなる機会になる。その時あなたは、内に多くの可能性を秘めた種子のようになる。だが覚えておきなさい。植物が成長する為には、種子は自らを破壊しなければならない。自我は種子、可能性だ。もしそれが打ち砕かれれば、神性が誕生する。その神性は「我」でも「汝」でもない。それはひとつだ。独りで在ることを通して、あなたはこの「ワンネス(全一性)」に達する。 

このワンネスの偽りの代用品を作ることも出来る。ヒンドゥ教徒はひとつになる。キリスト教徒はひとつになる。イスラム教徒はひとつになる。インドはひとつだ。中国はひとつだ。こういったものはワンネスの単なる代用品だ。ワンネスは全面的な独りで在ること(アロンネス)を通してのみ訪れる。 

群衆は、自分達をひとつだと呼ぶことは出来る。だがその一体感は、いつも何か他のものとの対立の中にある。群衆はあなたと共にある為、あなたは安心する。今やあなたには責任がない。あなたはひとりではモスクを燃やしはしないだろう。ひとりでは寺院を破壊しはしないだろう。だが群衆の一部としてのあなたには、それが出来る。もうあなたには個人的な責任がないからだ。全ての人に責任があるのだから、特定の誰かに責任がある訳ではない。個人の意識はどこにもなく、ただ集団意識だけがある。あなたは群衆の中に後退し、動物のようになる。 

群衆はワンネスの感覚に対する偽りの代用品だ。その状況に気づいている人、人間としての責任に気づいている人、人間である為に生じる困難で骨の折れる仕事に気づいている人は、どんな偽りの代用品も選ぶことはない。彼は、ありのままの事実と共に生きる。どんな虚構も作り出したりしない。宗教や政治的イデオロギーは、ワンネスの幻想を作り出す虚構に過ぎない。 

ワンネスは、自我のない状態になる時にしか生まれない。そして自我は、全面的に独りで在る時、初めて死ぬことが出来る。完全に独りの時、あなたはいない。その瞬間こそ爆発の時だ。あなたは無限なるものへと爆発する。これが、そしてこれだけが進化だ。私がそれをレボルーション(変革)と呼ぶのは、それが無意識的ではないからだ。あなたは自我のない状態になるかもしれないし、ならないかもしれない。それはあなた次第だ。 

独りで在ることこそ、唯一の真の変革だ。それには大きな勇気が必要とされる。仏陀のような人だけが独りなのだ。イエスやマハヴィーラのような人だけが独りなのだ。それは、彼らが家族から、世間から離れて行ったということではない。そのように見えるが、そうではない。彼らは消極的に何かから離れようとしたのではない。その行為は積極的なものだった。それは独りへと向かう動きだった。彼らは離れて行こうとしたのではない。全面的に独りで在ることを探し求めていたのだ。 

探究の全ては、独りで在る時に起こる、爆発の瞬間へと向かうものだ。独りで在ることの内に至福がある。そしてその時、初めて光明が達成される。私達は独りではいられない。他の人々もまた独りでいられない。だから私達は集団を、家族を、社会を、国家を作る。全ての国家、全ての家族、全ての集団は群衆で成り立っている。独りで在れるほどの勇気のない人々で成り立っている。 

真の勇気とは、独りで在る勇気だ。それは自分は独りなのだという事実、その他には在りようがないという事実の、意識的な理解を意味する。あなたは自分自身を欺くことになるか、それとも、この事実と共に生きることが出来るかのどちらかだ。あなたは何生にもわたって自分自身を欺き続けることも出来る。だがそれは、悪循環に陥るだけだ。独りで在るというこの事実と共に生きることが出来さえすれば、その循環は断ち切られ、あなたは中心へと至る。その中心は神性の、全体の、聖なるものの中心だ。 

私には、あらゆる人間が生得の権利として、これを実現し得る時など想像出来ない。それは不可能だ。意識は個人的だ。無意識だけが集合的だ。人間は、自分達が個人となる意識の地点にまで到着した。人類というようなものは存在しない。ただ個としての人間だけが存在する。それぞれの人間が、自分自身の個人性と、それに対する責任を悟らなければならない。 

私達がしなければならない第一のことは、独りで在るということを根本的事実として受け容れ、それと共に生きることを学ぶということだ。どんな虚構も作り出してはならない。虚構を作り出せば、あなたは決して真理を知ることは出来ない。虚構とは、事実を知ることが出来ないように考案され、創作され、でっち上げられた真理のことだ。独りで在るという事実と共に生きなさい。もしこの事実と共に生きることが出来るなら、あなたとこの事実との間にどんな虚構も存在しないなら、真理はあなたに明かされる。あらゆる事実は、もしそれを深く究めるなら、真理を明らかにする。 

だから自分に責任があるという事実、自分は独りなのだという事実と共に生きなさい。この事実と共に生きることが出来れば、爆発が起こるだろう。それは骨が折れる。だが、それこそが唯一の道だ。困難を通して、この真理を受け容れることによって、あなたは爆発の起こる地点に達する。その時初めて至福がある。それが既製品として与えられるようなら、それは価値を失う。あなたはそれを働いて得た訳ではないからだ。あなたは至福を感じ取れる受容性を持っていない。この受容性は修練からのみ生じる。 

自分自身に対する責任と共に生きることが出来るなら、修練が自動的に訪れる。自分自身に全面的に責任を持つことで、あなたは修練されたものになるしかない。だがこの修練は、外側からあなたに押し付けられたものではない。それは内側からやって来る。あなたが自分に対して取る全面的な責任ゆえに、あなたの取る一歩一歩は修練となる。あなたはひとつの言葉さえ無責任に口にすることは出来ない。 

自分自身の「独りで在ること」に気づくなら、他人の苦しみにも気づくようになる。すると、ただひとつの無責任な行為もおかせない。なぜなら、あなたは自分自身に対してだけでなく、他人に対しても責任を感じるからだ。「独りで在る」という事実と共に生きることが出来れば、あなたはあらゆる人が孤独であることを知る。その時、息子は父親が孤独なのを知る。妻は夫が孤独なのを知る。夫は妻が孤独なのを知る。ひとたびこれを知れば、慈悲深くあるしかない。 

事実と共に生きることが、唯一のヨーガ、唯一の修練だ。ひとたび人間の状況に全面的に気づいたなら、あなたは宗教的になる。自分自身のマスター(主人)になる。だが、それがもたらす簡素さは、苦行者の簡素さではない。それは押し付けられたものではない。醜くはない。その簡素さは美的だ。あなたはそれが唯一可能なことであり、他にはやりようがないと感じる。こうしてものごとを放棄し、非所有となる。 

所有したいという衝動は、独りではいられないという衝動だ。人は独りではいられない。だから彼は仲間を求めるのだ。だが他人である仲間は頼りにならない。そこで彼は、その代りに物の仲間を求める。妻と一緒に生活することは大変だが、自動車と一緒に生活することは、それほど大変ではない。だから最終的に、所有は物へと向かうのだ。あなたは人を物に変えようとさえするかもしれない。彼らが人格や個性を失うやり方で、型にはめようとする。妻とは人ではなく物だ。夫とは人ではなく物だ。 

自分が「独りで在ること」に気づくようになれば、あなたは他の人達も「独りで在ること」に気づくようになる。そうすると、他者を所有しようとすることは、侵害することだということが分かる。あなたは決して積極的に放棄するのではない。放棄は、独りで在ることの副次的な影になる。あなたは非所有になる。その時には夫でも妻でもなく、愛する人になることが出来る。 

この非所有と共に、慈悲と簡素さが生じる。無垢があなたに訪れる。生の事実を否定する時、あなたは無垢ではあり得ない。あなたはずる賢くなる。自分自身と他の人々を欺く。だが、在りのままの事実と共に生きるほどの勇気があるなら、あなたは無垢になる。この無垢は作り上げられたものではない。あなたがそれだ。無垢そのものなのだ。 

私にとって無垢であることが、達成されるべき全てだ。無垢でありなさい。すると神性は、いつもあなたに向かって喜びに満ちて流れて来る。無垢とは迎え入れる受容性、神性の一部となる受容性だ。無垢でありなさい。するとそこにゲスト(客)が訪れる。ホスト(主人)になりなさい。この無垢は作り上げることは出来ない。なぜなら、作り上げることは常に工夫だからだ。それは計画されたものだ。無垢は決して計画されることなどあり得ない。それは不可能だ。 

無垢とは宗教性だ。無垢であることは、真の実現の頂点だ。だが真の無垢は、意識的な変革を通してのみ生まれる。それはいかなる集合的・無意識的な進化によっても可能ではない。人間は独りだ。彼には天国か地獄か、生か死か、悟りの歓喜か、いわゆる人生の惨めさか、いずれかを選ぶ自由がある。 

サルトルはどこかで「人間は自由という刑に処せられている」と言っている。あなたは天国か地獄のどちらかを選ぶことが出来る。自由とは、どちらかを選べる自由を意味する。天国だけを選べるとしたら、それは選択ではない。それは自由ではない。地獄の選択を伴わない天国は、それ自体が地獄だ。選択とは常に、あれかこれかを意味する。それはよいものだけを選ぶ自由があるという意味ではない。その時には自由はない。 

もし誤って選ぶなら、自由は呪わしいものとなる。だが正しく選ぶなら、それは至福になる。選択が自由を呪わしいものにするか、それとも至福にするかは、あなた次第だ。その選択は全面的にあなたの責任だ。 

あなたに用意が出来ているなら、あなたの深みから新しい次元が、変革の次元が始まる。進化(エボルーション)は終わってしまった。今や、超えたるものへとあなたを開く為には、変革(レボルーション)が必要だ。それは個人的なことだ。内なる変革だ。 

OSHO,「秘教の心理学」(めるくまーる社)より抜粋