OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

74.私はこの世を祝うことを教える

<OSHOの講話より> 

質問:私はよく、孤立した、明け渡しを受け容れる為の安全な場所が欲しくなることがあります。邪魔されることなく、ますます深まっていく1日に数時間の瞑想です。 

私の理解では、大部分のヨーガのマスター達は、いったんクンダリーニが上がり始めたら、最終的にサマーディに落ち着くまでしばらくの間、この世から引き籠ることが是非とも必要だと教えていると思います。そうなったら本当にこの世の中にあって、しかもこの世には属さないでいられる、と。 

あなたの教えはそれと違って、変容が起こっているその間も、この世に関わることを教えていらっしゃると思います。もしその通りでしたら、自分で明瞭に実在(リアリティ)を見るようになる前は、私はどうやってマーヤに散乱させられることを避ければいいのでしょうか? 


第一に、エゴは常に千とひとつの方法で孤立を求めるということだ。非常な金持ちになると、人は孤立する。政治的に非常な権力を持つと、人は孤立する。アドルフ・ヒトラーのような人間は孤独だ。ヒマラヤにいるヨーガ行者よりも孤独だ。 

彼には友人はいない。彼に匹敵する者は誰もいない。彼には関係というものはない。非常な金持ちは、ヒマラヤの頂上に達してそこで独りになる。このゆえに人は富を追い求め、このゆえに人は政治的権力を求める。 

エゴは常に孤立を追求している。独りになれば、残るのはエゴだけだからだ。エゴが全世界になる。そうなれば自分のエゴと闘う者はいない。自分に屈辱を味わわせる者はいない。自分と比較出来るような相手はいない。 

自分の目には自分が最高になる。自分のエゴを絶対に信じることが出来る。それをかき乱すようなものは何もなくなる。 

私は孤立には反対だ。実は、人はエゴを孤立させるのではなく、解体しなければならない。人は全体から独立した、分離した島になるべきなのではない。人は大陸の一部に、それとひとつにならなければならないのだ。 

孤立していて、どうして実在とひとつになることが出来るかね?実在は孤立することではなく、参加することを必要としている。最大のサマーディが孤立の中ではなく、愛の中で起こるのはその為だ。 

そしてヨーガの究極が愛であるのは、愛の中では、人は自分を解体しなければならず、愛の中では人は死ななければならず、愛の中では人は解体し、混ざり合わなければならないからだ。 

私は孤立ではなく、愛を教える。孤立は世間の道だ。宗教の道ではない。 

だがそれは起こる。あなたは富を、政治権力を、独占を求めて来ていた。そして失望する。それからヒマラヤに向かう・・・この世を捨てる。あなたはエゴを捨てるのではなく、この世を放棄する。 

私はあなたに、この世を放棄するのではなく、エゴを放棄することを教える。エゴとは極めて微妙なものだ。政治的権力を達成することが出来なければ、宗教的パワーを達成しようとする。 

あなた達はそれをクンダリーニと呼ぶが、それでもそれはパワーであり、やはり人を分離した、ユニークな、独立した島にするものだ。もしあなたの宗教が権力の追求でもあるなら、孤立が必要になる。 

だが宗教とは、権力の追求ではない。それは沈黙を求める探求だ。それは平安を求める探求だ。それは内なる貧困・・・イエスが「霊において貧しい」と呼んだものを求めての探究だ。 

それは「在る」ことの探究、存在することと存在しないことに何の違いもないような、そのような在り方での存在の探究だ。非在が自分の唯一の実存になる。 

これは独立を通して可能になるものではない。これは、人が相互依存を理解して初めて可能になるものだ。 

次の3つの言葉を覚えておかなくてはならない。すなわち依存、独立、そして相互依存だ。依存が、あなたの実状だ。独立は、あなたが追求するものだ。相互依存が、私の教えるものだ。 

あなたが依存しているのは、いたるところであなたは自分が依存しているのを感じ、いたるところから制限がやって来るからだ。誰かを愛していたら、あなたは彼、あるいは彼女に依存することになる。いたるところで、生は依存をもたらす。 

するとこの世では決して独立することは出来ない、という考えが起こって来る。この世から逃げ出すのだ、と。 

人は逃げ出すことは出来るが、決して独立することは出来ない。ただ自分で騙されることがあるだけだ。たとえヒマラヤに行っても、あなたは独立してはいない。 

太陽にはやっぱり依存しているのだから。太陽が昇らなかったら、人はたちまち死んでしまう。あなたは酸素と空気に依存していることだろう。酸素が消えたら、人は死ぬのだから。あなたは水にも依存しているだろう。千とひとつのことに依存しているだろう。 

依存とは、理解しなければならないことで、避けるべきことではない。もしあなたが依存を理解したら、たちまちその背後に、相互依存が隠れていることを理解することだろう。

依存とは、単なる誤解に過ぎない。あなたは間違った解釈をしているのだ。あなたは相互依存を、依存として解釈している。それは間違った観念であり、その間違った観念の為に、間違った欲望、どうやって依存するかという欲望が起こる。 

生は一体(ひとつ)だ。神とはこの一体性・・・相互依存を表す為のもうひとつの名前だ。愛はさらにもうひとつの名前、しかも神よりももっといい名前だ。神は、神学者達が破壊してしまったからだ。愛はまだ純粋で、処女だ。 

だからまず理解すべきことは、私は孤立を教えないということだ。私はエゴを教えないからだ。あなた達のいわゆるヨーガのマスターは、みんな大なり小なりエゴイストだ・・・

エゴは、強化される為の様々の方法を追求し続ける。ヨーガの名において、たくさんのエゴトリップが続いている。その一部になってはいけない。 

私が孤立を教えないのは、あなた達にエゴを離れて、世間を離れないで欲しいからだ。この世が問題なのではない。この世は途方もなく素晴らしい。それは純粋な喜びだ・・・それには何も悪いところはない。 

あなたの中の何かが間違っている、この世の何かではない。自分の中の間違っているものを捨てなさい。この世を放棄してはいけない。私はこの世を放棄することではなく、それを祝うことを教える。私は生を肯定する。しかも無条件に肯定する。 

そしてあなたに言おう、あなた達に放棄を説く者は害をなす者であり、最初の最初から、彼らは全く間違ったことを教えているのだと。 

彼らは、この世の何かが間違っていると言う。彼らはそれをマーヤと呼ぶ。私はあなたをマーヤと呼ぶ・・・この世ではない。だから、もし何かを離れたいなら、自分自身を離れなさい。何かを放棄したいのなら、自分を放棄しなさい。 

そしてその為の唯一の方法、自分自身を放棄する為の唯一の方法は、祝うことだ。なぜなら、あなたが幸せである時にはいつでも、あなたは存在しないからだ。 

いつであれ、あなたが塞いでいる時に、あなたはいる。あなたが喜んでいる時にはいつでも、あなたはいない。至福の中では、歓喜の中では、人は消える。 

踊りなさい!踊りが本当にあなたを捕らえた時、そこに本当に踊りがある時、そこにはもう踊り手はいない。踊り手は消えてしまう。彼は存在しない。 

あなたは「私はよく孤立した、明け渡しを受け容れる為の安全な場所が欲しくなることがあります」と言う。 

人が独りでいるとまがいものの「宗教性」が起こるのは、独りでいれば常に、自分の怒りをかき立てるような者も、自分の偽りの顔を自分に突きつけてくるような者もいないからだ。 

自分独りだ、怒りなど起こらない。怒りが消えたというのではない・・・ただ怒りを呼ぶような状況が、そこにないだけだ。あなたは怒りに満ちているが、誰もあなたを侮辱する者がいない、あなたを傷つける者がいない。ただその機会がないだけだ。 

世間に戻ってみれば・・・ヒマラヤに50年住んでいても・・・世間に戻ってみればたちまち、常に変わらぬ怒りがそこにあるのに気づくだろう。50年も蓄積した怒り、蓄積した毒の為に、今ではその怒りは以前にも増して強力になっているかもしれない。そうなると、人は世間に戻るのが恐ろしくなる。 

ヒマラヤに行ってごらん・・・たくさんの人があたりをぶらついているのを見かける筈だ。臆病で、彼らは世間に戻ることが出来ない。怖がるとは、また何という純粋性か?恐ろしがるとは、また何という禁欲だろう? 

マーヤを、幻影を恐れるとは、また何という実在なのか?闇を恐れるとは、また何という光なのか?闇に近づけば、闇が強すぎてその光りを滅ぼすとでもいうのか?かつて、闇が光を滅ぼしたことがあっただろうか? 

だが、彼らはぶらつき続ける。そこをぶらつけばぶらつくほど、彼らはますます世間に戻れなくなる・・・何しろヒマラヤのそこでなら、彼らは自分の素晴らしいイメージを持っていられる。誰もそれを壊す者はいない。 

世の中に出れば、それは難しい・・・どこかの誰かがあなたの感情を害し、どこかの誰かがあなたを傷つける。あなたは怒りを捨てなければならない。 

私の全努力は、あなたが変わる為のものだ。状況を変えようとしてはならない、どうか自分自身を変えて貰いたい。状況を変えることは、誰にも何の役にも立たない。それは決して誰の役に立ったこともない。 

また、あなたは「1日の数時間の瞑想」を考えている。たとえ1日24時間、瞑想したところで、瞑想があなたの生き方にならない限り、それは役には立たない・・・あなたのする瞑想ではない。 

あなたが1時間瞑想しようと、あるいは2時間、あるいは3時間、あるいは6時間、あるいは何時間瞑想しようと・・・24時間、瞑想しようと違わない。気違いにはなるだろうが、サマーディを達成することはない。 

サマーディは、あなたが瞑想とは何かをすっかり忘れた時に存在する。もう瞑想はしない。ただ瞑想的に生きるだけだ。あなたの動き方、あなたの歩き方、あなたの食べ方、それが瞑想的になる。 

瞑想は、あなたの生の質になる。それは量の問題ではない。量で考えてはいけない。もっと瞑想したら、自分にもっと瞑想が起こるだろうなどと考えないことだ・・・馬鹿げている。もっとが問題ではない・・・質だ、量ではない。 

瞑想とは、集め続け、積み上げることが出来るような金とは違う。瞑想とは、在り方だ。積み上げる訳にはいかない。貯め込む訳にはいかない。それは富ではない。それは自分の在り方だ。 

だから、あなたがここで何をしているにせよ、それは本当は瞑想ではない。それはあなた達が、それを通じて理解することを私が望んでいる状況に過ぎない。それは瞑想の為の準備に過ぎない。 

私達がそれを瞑想と呼ぶのは、それがあなた達を正しい瞑想に向けて準備するからだ。あなたはただ、床を綺麗にしているに過ぎない。ただの床掃除だ・・・あれは本当の瞑想ではない。 

なぜなら真の瞑想は、為され得ないからだ。真の愛が、為され得ないものであるように。それは起こる。あなた達はただ、自分の心身を綺麗にしているに過ぎない。 

自分が器になれるように、自分が捕らえられることが出来るように、自分を純化しているのだ。そうなったら何をしようと、あなたは瞑想的にする。 

強盗や泥棒だった人間で、道を達成した人達の話がある。彼らの秘密とは何だったのか?同じことだ。また私は、生涯をヒマラヤに隠れ住みながら、何ひとつ達成しなかった人達を知っている。 

それは量の問題ではない・・・どれだけやったか、ということではない。問題はどうやるかだ・・・どれだけかではない。どんな質を、あなたがそこにもたらすかだ。 

ただ歩くだけで、それが瞑想的だということはあり得る。ただ坐るだけで、それが瞑想的だということはあり得る。食べて、それが瞑想的になることはある。ただシャワーを浴びるだけでも、瞑想になり得る。それを理解をしようとしてごらん。 

瞑想は自分の周りの雰囲気に、自分がそこに住む環境になるべきだ。そうすればどこへ行こうと、その雰囲気を運ぶことになる。これが私の全努力だ。 

私があなた達を孤立に送り込まないのは、1日中瞑想出来るような山の中にあなた達を送り込まないのは、その為だ。それではあなた達に、それに関する誤った観念、量という観念を植え付けることになるからだ。 

あなたは「心を乱すものもなく、ますます深まって行く・・・」と言う。あなたが散乱とは何かを理解しなければ、決してますます深まって行くことは出来ない。 

もし心を乱されるものを避けようとするなら、決して深く行くことは出来ない。なぜならどこに行こうと、その散乱があなたについて来るからだ・・・それは、あなたの中にあるものだからだ。 

 

あなたにひとつの話をしよう。 
ひとりの男が自分の妻に非常に心乱されていた。彼が瞑想するたびに妻は大声で話し、あるいは音を立てて歩き、皿も落ちかねないほどの大きな音を立てて戸を閉めた。彼は非常に心乱された。 

そこで彼は家を後にした。彼は森に入った。だがそうなると、動物やカラスが彼の心を乱し始めた。時には心を乱すものがないようなことも起こった・・・そうなると、それで心が乱された。 

一体どうしたのか?・・・心を乱すものは何もない。完全な静寂があるのに、彼は心を乱された。何が起こっているのか?動物達や鳥達はみんな消えてしまったのか?と。 

邪魔とは、客観的なものではない。自分の外側にあるものではない。それは自分の中にある。もし受け容れることが出来なかったら、あなたは邪魔される。あなたが受け容れたら、邪魔は消える。 

一度こんなことがあった。私はある宿泊所に泊まっていた。そしてある政治家もそこに同宿していた・・・非常に小さな村の小さな宿泊施設だった。 

その政治家は真夜中に私のところに来て「とても眠れたものじゃない。あなたはどうして眠ってなんかいられるんです?」と言った。彼は私を揺すって「どうやったら眠っていられるんです?こんなに邪魔されて」と言った。 

どういう訳か少なくとも20匹ほどの犬が・・・きっと彼らはその宿泊所を自分達の住居にしていたに違いない・・・村中の犬がいた。多分彼らは政治集会でもしていたのだろう・・・実にたくさんの犬がいて、それは大変な吠え声で喧嘩していた。 

彼は「それにしてもどうしてあなたは眠れるんだろう?こいつらが私を眠らそうとしないもんだから、私はへとへとだ」と言った。 

そこで私はその政治家に言った。「だが、彼らはあなたには気づいていない。彼らは新聞は読まないしラジオも聴かずテレビも見ない。彼らはあなたに気づいていない。私はあなたより前からここにいるが、あれが彼らの普通のやり方だ。何もあなたの為に、特別にああしている訳ではない。 

闘って、抵抗しているのはあなたの方だ。彼らが自分の邪魔をしているという観念が、あなたの邪魔をしている。彼らではない・・・彼らを受け容れてやりなさい」 

私は彼に、ある小さな瞑想をするように教えた。「ベッドの上に横になって、あの吠え声を楽しむといい。音楽としてあれを楽しむのだ。出来るだけ注意を注いであれに耳を傾けるといい」 

彼は言った。「そんなことをして何の役に立つというんだ?私にはそんなものはいらない。奴らがここにいるとか、その声に耳を傾けるようにあなたが私に教えている、なんてことは忘れたい。そんなことを覚えていたら、私はもっと乱されてしまう」 

私は彼に言った。「まあ、ちょっとやってみなさい。自分のやり方はもう試して駄目だったのだから、今度は私の方法を試してみるといい。それに、私にはそれが上手くいっていたのは、あなたも知っているのだから」 

彼はそれをするつもりもなかったし、信じてもいなかったが、他に方法もなかったのでそうしてみた。すると5分で彼はぐっすり眠りこけてイビキをかいていた。 

そこで私は彼のところに行って、揺すり起こしてこう言った。「どうして眠っていられるんだい?どうやってそんなことが出来るんだろうね?」 

もし受け容れたら、何ひとつあなたをかき乱すものはない。その散乱を生み出しているのは、あなたの中の拒否そのものだ。 

だから散乱せずに瞑想したいと思うなら、何ひとつ拒否してはいけない。通りの騒音も受け容れなければならない・・・それはこの世の一部だし、完全にオーケーだ。子供が泣き声をあげるのもこの世の一部、全くオーケーだ。 

一度、全てはオーケーだと言って、その全てがオーケーだという感じを見守り、それを受け容れなさい。あなたの中で何かが融ける。そうなれば何ひとつ邪魔にはならない。 

そしてこれが起こらない限り、あなたが望むどこへ行くことが出来ても、何がしかであなたはかき乱されることになる。 

それからあなたは「私の理解では、大部分のヨーガのマスター達は、この世から引き籠ることが是非とも必要だと教えていると思います」と言っている。そんなことは全く必要ない。それは必要ないだけではなく、害になる。 

というのも、誰が引き籠るというのかね?その引き籠ることの中でエゴは強化される。引き籠ってはいけない。むしろ融け込みなさい。私はちょうどその逆を教える・・・融けることをだ。 

「大部分のヨーガのマスター達は、いったんクンダリーニが上がり始めたら、最終的にサマーディに落ち着くまでしばらくの間、この世から引き籠ることが是非とも必要だと教えていると思います。そうなってからは、本当にこの世の中にあって、しかもこの世には属さないでいられる、と」 

そうではない・・・最初からその道にいないで、最後に突然そんなことが起こることはない。最初からそういう風にやっていれば、その時初めてそれが最後に花開くことになるのだ。 

もしあなたが世間から引き籠っていたら、世間に戻って世間の中にいて、しかもその一部ではなくなるような時は決して来ない。違う。そんなことは突然には起こり得ないからだ。 

それは徐々に起こるプロセスだ。少しずつ、その精神を吸収しなければならない。それはちょうど小さな種が芽を出し、背丈が伸び、そして樹になるようなものだ。 

あなたは突然だと言う・・・最初は世間から引き籠り、それから世間に戻ると言う。引き籠るそのことの中で、あなたは世間から切り離されることになる。世間に戻ることを恐れるようになる。 

カトリック修道院や、ヒンドゥ教の修道院に行って見てみるといい。人々は恐れるようになる。彼らは世間に戻らない。ヨーロッパには一度入ったら死なない限り、二度と出られないという修道院がある。 

何故そのような修道院が存在しているのか?その歴史で一度も、女性が入ったことがないという修道院がある・・・男性が一度も入ったことがないという尼僧の修道院がある・・・何世紀もの間だ。 

これはまた何という種類の結晶化だろう?恐怖の結晶以外の何ものでもない・・・引き籠りの結晶だ。 

そして彼らはみんな、人は世間の中にいてその一部であるべきではない、と言い続けている。だが、それは起こっていない。 

ジャイナ僧を見るがいい。彼らはあらゆるものを恐れる。ある男は50年間僧をやっていて、女性の手にも触れない。女性の目をしっかりと見ることも出来ない。これはまた何というサマーディだろう?自殺ではあるかもしれないが、サマーディではない。 

これはまた何という達成なのか?私はそれを達成とは呼べない。クンダリーニが昇ったのではない。クンダリーニは完全に眠ってしまった、完全に死んでしまった。火は消えてしまった。そこに火はない。 

自分が世間の中にいてしかもその一部ではない、という美しい空間に本当に入りたいと思うなら、最初からそのようにしなければならない。世間の中に留まり、それを解決しなければならない。 

それが難しいことは分かっている。だからこそ、人々は森へ逃避する。その方が簡単に見えるからだ。あなたは世間から森に逃げた人達を、勇敢だと思うかね?それなら、あなたは完全に間違った観念を持っている。彼らは臆病者だ。 

対抗出来ないから逃げたのだ。彼らが逃げたのは、成長出来なかったからだ。彼らが逃げたのは、世間が彼らにとっては荷が重すぎたからだ。だが彼らは、自分達の逃亡を美しく飾って来た。 

そして何世紀にもわたって、その臆病者達が聖典や注釈を書いて来た。他に何もすることがないからだ。だから彼らは、それをやり続ける。彼らの全エネルギーは言語化の中で浪費される。そして彼らは、他の臆病者達を説得し続けている。 

宗教とは勇気だ。それは臆病ではない。世間に立ち向かうことで、勇敢でありなさい。 

そして何であれ、最後にそう在りたいと思うものに、最初の最初からなりなさい。それしか道はない。第一歩からそれを担いなさい。なぜなら第一歩こそ、最後の一歩でもあるからだ。 

「あなたの教えはそれとは違って、変容が起こっているその間にも、この世に関わることを教えていらっしゃると思います。もしその通りでしたら、自分で明瞭にリアリティを見るようになる前は、私はどうやって、マーヤに散乱させられることを避ければいいのでしょうか?」 

何ひとつ避ける必要はない。避けようとするあらゆる努力は、恐怖から出て来るものだ。それを生きるのだ、避けてはいけない。そのマーヤを生きなさい。そうすれば実在を知ることになる。 

なぜならこのマーヤもまた、隠れた実在だからだ。見かけもまた実在のものだ。もう一度くり返させて欲しい。見かけもまた実在のものだ。それを避けるのはよしなさい。 

さもないと、その中で実在が避けられることになる。深くその中に入って行きなさい。それを生き、それを楽しみ、それを貫きなさい。 

ヒンドゥ教徒はマーヤをブラーマの覆い、神の衣と呼んで来た。それを避けてはいけない。もしあなたが私の服を避けて逃げたら、私からも逃げていることになる。 

あなたは私の衣服を受け容れなければならない。もっともっと近くに来なければならない。そうして初めて私を、その衣服の中に隠れている者を知ることが出来る。 

神は、神のマーヤの中に隠れている。マーヤとは、神の魔法の意味だ。神は、その魔法の中に隠れている。「魔法」という言葉はマーヤから来ている。 

神はこれらの花の中に、これらの樹の中に、これらの岩の中に、あなたの中に、私の中に隠れている。あらゆる目から神は覗いている。あらゆる花から香って来ているのは、神の香りだ。 

これこそが神の在り方なのだ。これが彼の姿なのだ。それを避けたら、神を避けることになる。その中に入りなさい。花の香りの中に入って行きなさい。そうすれば、隠れている神の香りが見つかるだろう。 

どんな人間の中にも、深い愛を、慈愛を、謙虚さをもって入って行きなさい。するとその肉体の背後に、そこに受肉している神を見い出すだろう。その目の背後で、あなたを見ている神に気づくだろう。 

誰かの目の中を覗き込みなさい。そして深く、もっと深く、もっと深く入って行きなさい。すると突然、神がそこにいる。その完全な美と純粋性において。 

私は、避けよとは言わない・・・私にとってその言葉は汚い。私は、神の寺院のマーヤに入って行きなさいと言う。その中に入って行きなさい。この世こそ神の寺院だ。肉体こそが神の寺院だ。その中に入って行きなさい。 

その中に入って行く為に、見つけられる限りのたくさんの道を見つけなさい。あらゆる所から、そしてあらゆるものを通じて神を見つけようとしなさい。そうすればあらゆる所、あらゆるものの中に神を見つけることになる。 

エスは言う。「あらゆる石の下に私は隠れている。岩を掘り起こせば、そこに私が見つかるだろう。薪を割れば、そこに私が見つかるだろう」と。 

あらゆる所に神はいる。神とは、まさに存在そのもの、まさに在ることそのものだ。 

避けようとしてはいけない。逃避、回避、放棄、孤立、それらは間違った言葉だ・・・そういう言葉を使ってはいけない。それをボキャブラリーの、自分の語彙の一部にしてはいけない。そういう言葉を捨てなさい。 

積極的な言い方を見つけなさい。積極的な言葉を見つけなさい。参加、関わり、享受、祝祭、喜び、歓喜というような・・・そうすれば正しい道にいることになる。 

実在と幻影は、反対のものではない。神と神の世界は、反対のものではない。神は世間の中に隠れている。そして実在は、外見の背後に隠れている・・・そして見せかけもまた美しい。 

見かけもまた美しい・・・魂が美しいだけでなく、肉体もまた美しい。そして、それはそうでなければならない。魂が、その背後に隠れているのだから。魂は、無数の方法で肉体から表現され続けている。 

肉体とは、ちょうどガラスのようなものだ。その背後に炎がある。その炎が、ガラスの外側に光を広げ続ける。 

いつであれ、あなたが美しい人を見る時、それはただあるヒントを、その背後に何か美しいものが隠れているという徴を、あなたに与えているのだ。美しい肉体に魅力があるのはその為だ・・・それは自然なことだ。 

美しい花には魅力がある・・・それが自然なのは、それがその背後に何か美しいものが隠れている、ということの単純な徴、自然な示唆、招待だからだ。さあ、来て私を研究しなさい。さあ・・・ 

美しい肉体は、美しい魂のゆえに引き付けるのだ。美しい魂を達成したら、人は美しい肉体を手に入れる・・・それは単なる偶然ではない。偶然そうなるのではない。 

内側でより美しくなればなるほど、人は外側でもより美しくなる。非常に醜い肉体が、深く深く瞑想に入って行けば、突然その醜さが変化し、その醜さの背後にますます美しさが顕れて来るのに気がつく。 

いったん内奥の核が美しくなったら、外側の核はそれに従う・・・外側もまた、美しくなる。 

こんなことがあった。ある禅のマスターが死んで、彼の一番弟子が声をあげて泣き始めた。たくさんの人達が集まっていた・・・そのマスターは非常に有名で、その一番弟子はそのマスターよりも有名だった。 

そこで、その一番弟子のすぐ近くにいた者達がこう言った。「どうか泣くのはお止めください。ご評判に傷がつきます。人々はあなたが悟った方だと思っています。そして、あなたはご自分でも死は存在しないとおっしゃっています。 

それならどうして泣くことがあるでしょう?あなたご自身、これまでずっと、死ぬのは肉体だけで魂ではないと教えて来られました。それなのに、どうして泣いておられるのですか?」 

一番弟子は言った。「確かに、私はお前達に魂は決して死なない。肉体だけが死ぬと教えて来た。だが私が、その魂の為に泣いていると誰が言ったのか?私が泣いているのは、肉体の為だ。 

マスターのお体は、あまりにも美しく、何百年に一度起こるかどうかの稀なお姿だ。このような美しい花がマスターを囲んでいる。それはマスターの内面が、それほどにも美しいからだ。 

私が泣いているのは、このお体の為だ・・・私が魂の為に泣いているなどと誰が言ったのか?魂は決して死なない。その為に泣く必要はない。だがマスターのお体もまた途方もなく美しく、私はそれを惜しんでいるのだ」 

これが私が言う光明を得ることだ。私の光明は逆説的だ・・・それはそうでなければならない。論理的なものではないのだから。それは論理よりも大きい。 

瞑想と愛とを、共に私が教え続けるのはその為だ。愛はマーヤの一部だ、外見の一部だ。瞑想は実在の、神の一部だ。私は両方を教え続ける。 

私は、あなた達が肉体を深く貫くことが出来るように、「愛」を教える。それは、あなた達がその背後に隠れている魂に気づくようにと思ってのことだ。 

そして私が「瞑想」を教えるのは、あなた達が自分自身の最奥の魂を達成出来るようにと思ってのことだ。 

そして、そのふたつをひとつにしなさい。そのふたつの間に二分法を生み出してはいけない。そこにはいつも二分法があった。 

瞑想を説いて来た人々は、常に愛に反対し、また愛を説いて来た詩人や画家達は、常に瞑想に反対して来た。 

私はあなた方に、この世にあり得る最大の統合をもたらす・・・愛と瞑想の統合だ。そして私はあなた方に、両方の道で成長するようにと教える。両方の次元で進みなさい。 

瞑想を通して内側に進み、愛を通して外側に進みなさい。より深く自分自身の中に入り、もっともっと遠く彼岸に向かって進みなさい。そうすれば偏らないですむ。 

愛のない瞑想者は偏る。内なる実存は豊かになるが、外側の存在は非常に貧しくなる。 

瞑想者ではない愛に生きる者は、その外側の存在はより豊かになるが、内なる実存は極めて貧しくなる。 

私はあなた達に両方の道において、より豊かになって欲しい・・・愛し、そして瞑想しなさい。 

OSHO:Come Follow Me, Vol.3, #8 より抜粋