OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

76.ダイナミック・メディテーション

<OSHOの講話より>   ダイナミック瞑想・・・カタルシスと祝祭 

瞑想とはエネルギー現象だ。エネルギーの全ての形態について、ひとつ非常に基本的なことが理解されねばならない。「エネルギーは2極間を動く」・・これが、その理解を要する基本的な法則だ。これがエネルギーの唯一の動き方であり、これ以外の動き方はない。

それは2つの対極の間を動く。エネルギーが力動的になる為には、対極がいる。それはちょうど陰と陽の両極で動く、電気のようなものだ。陰極だけでは電気は起こらない。陽極だけでも電気は起こらない。両極が必要だ。その両極が出会えば電気が発生する。そうなれば、その電気が閃光を発する。 

これは、あらゆるタイプの現象について言うことが出来る。生は、男と女の間で、両極の間で展開されてゆく。女性は陰の生命エネルギーであり、男性は陽の極だ。それは電気的なものであり、男と女があれほど互いに引き合うのは、その為だ。男性だけでは生は消滅するし、女性だけでも生はあり得ず、ただ死しかない。男女の間にはバランスが存在する。男女の間・・この2極、この両極の堤(つつみ)・・にこそ「生」という河が流れる。 

どこを見回そうと、ひとつの同じエネルギーが両極の間を動き、自らのバランスを取っているのが分かる。この両極性は、瞑想にとって極めて意味深いものだ。なぜならマインドは論理的だが、生は弁証法的だからだ。マインドが論理的だと言う時、それは「マインドは直線的に進む」ということを意味する。生が弁証法的だと言う時、それは「生は直線的ではなく、正反対のものと共に動く」ということを意味する。それは陰から陽、陽から陰というようにジグザグに進む。その動きはジグザグであり、互いに相反するものを利用している。 

だがマインドは線状に、単純な直線上を進む。それは決して反対のものへ移行せず、反対のものを否定する。マインドは「一」を信じ、生は「二」を信じる。だから、何であれマインドによって創り出されるものは、必ず「一」を選ぶ。たとえばマインドが沈黙を選べば・・人生において創り出される、あらゆる騒音にうんざりし、沈黙を決意すれば・・その時、マインドはヒマラヤへ行く。マインドは沈黙したがっており、いかなるたぐいの騒音とも関わりを持ちたくなくなる。鳥のさえずりでさえ妨げになる。木々を吹き抜けるそよ風も妨げだ。マインドは沈黙したい。それは直線を選んでいる。そうなると、正反対のものは、全く否定されなければならない。 

だが、ヒマラヤで暮らすその男は・・沈黙や静寂を求め、他者や反対のものを避けているその男は、死んだように生気がなくなる。彼は明らかに鈍くなる。静かになろうとすればするほど、ますます鈍くなる。なぜなら生には正反対のものが、その挑戦が必要だからだ。 

2極間に存在する、異なったタイプの静寂がある。第1のものは、死んだように生気のない静寂、墓場の静寂だ。死人は静かだが、あなたはまさか死人にはなりたくないだろう。死人は完全に沈黙している。彼を妨害出来る者はいない。彼の集中は完璧だ。彼のマインドを惑わすことは出来ない。彼のマインドは完全に固定している。たとえ世界中が狂ったように騒ぎ立てても、彼は「集中」したままだ。だがそれでも、あなたは死人でありたくはない。それを静寂と呼ぼうが、集中と呼ぼうが、とにかくあなたは死んでいたくはない。いくら静寂であろうと、死んでいたのでは意味がないからだ。 

静寂は、自分が本当に生き生きとし、活力に溢れ、生命力に満ちている時に起こらなければならない。そういう静寂なら意義がある。だがその静寂には、全く次元の違う質がある。それは鈍くなく、生き生きとしている。2つの極の間の精妙なるバランスだ。生きたバランス、生きた静寂を探求する人は、ヒマラヤ山脈と世間の、両方に行こうとする。騒音を楽しむ為に市場へも行くし、静寂を楽しむ為にヒマラヤの山々へも行こうとする。彼は両極間にバランスを見い出し、そのバランスの中に留まり続ける。だが、そのバランスは直線的な努力では達成出来ない。 

禅の「無努力の努力」という方法が意味するのは、それだ。禅は矛盾した語彙を用いる。「無努力の努力」「門なき門」「道なき道」といった風に・・禅は常に、即座に、矛盾した語彙を用い、その過程が直線的ではなく、弁証法的だと暗示する。対極は、否定されずに吸収されるべきだ。対極を置き去りにしてはならない。それは使われなければならない。置き去りにすれば、それはあなたにとって、常に重荷になる。置き去りにすれば、それはつきまとう。それを使わなければ、あなたは多くのものを取り逃がすことになる。 

エネルギーは、変換して使うことが出来る。そうなれば、それを使うことによって、あなたはより活気に満ち、生き生きとして来る。対極は、吸収されなければならない。そうすれば、その過程は弁証法的なものとなる。無努力とは何もしないこと、アカルマ、すなわち無活動、無為を意味する。努力とは多くを為すこと、カルマ、すなわち活動を意味する。その両方がなければならない。多くのことをしながらも、その行為者であってはならない。そうすれば、あなたはその両方を達成する。 

世間の中へ入って行きなさい。だが、その一部であってはならない。世間の中に住みながらも、世間を自分の中に住まわせてはならない。そうなれば、対立や矛盾は吸収されている。それが私のしていることだ。ダイナミック瞑想は、ある意味では矛盾だ。ダイナミックとは、努力、多くの努力、絶対的な努力を意味する。そして瞑想とは、静寂、無努力、無為を意味する。だからダイナミック瞑想を、「弁証法的瞑想」と呼んでもよい。 


第1ステージ・・・10分間の深く混沌とした呼吸 
呼吸をハンマーとして使い、速く深く混沌とした呼吸をし、ふいごのようになる。息を吸い、息を吐く。これは奇跡を行なう。あなたが抑圧した感情を解き放す手助けをする。 

第2ステージ・・・10分間のカタルシス(発散浄化作用) 
あなたの狂気全てを表しなさい。恥ずかしがってはならない。我々はその為に集まったのではない。他人を怖れてはならない。自分はただひとり、ここにいると考えなさい。覚えておきなさい。あなたは内側に多くの狂気を持っている。あなたはそれを知っている。だから怖れるのだ。それを解き放しなさい。叫びたかったら叫びなさい。泣きたかったら泣きなさい。飛び跳ねたかったら飛び跳ねなさい。踊りたかったら踊りなさい。子供のようになりたかったら・・自分の体と遊ぶ、飛び跳ねる、踊る、叫ぶ・・そうしなさい。 

プレイフルにやりなさい。深刻になってはならない。深刻だとトータルに解き放てない。あなたが本当に自分の狂気を超えたかったら、これがその方法だ。 

第3ステージ・・・10分間、ジャンプし、マントラ「フー」あるいは「フウッ」を叫ぶ 
Hoo !Hoo! Hoo!と大声で強制的に叫ぶことに、命が懸かっているかのように、あなたのエネルギーをトータルに注ぐ・・Hoo!と叫ぶ時、息全てが吐き出される。大きく叫べば叫ぶほどよい。呼吸した全てが外に出るように、音と共に息を吐く。これはあなたの内側に空間を創り出す。この空間で、性エネルギーが上昇することが出来る。マントラ、Hoo!は、性エネルギーが上昇するのを助ける。この内なるエネルギーの流れは、あなたをすっかり変える。 

第4ステージ・・・ストップ! 15分間の完全な静止と沈黙 
動いてはならない。何もしてはいけない。私がストップと言うのが聞こえたら、手が上がっていたとしても、ジャンプしていたとしても、そのまま止まりなさい。私の声を聞いた瞬間、あなたがもういないかのように、石や彫刻になってしまったかのように感じなさい。動いてはならない。叫んではいけない。音も動きもない。突然、誰もが死んでしまったかのようになる・・この突然の停止で、あなたはセンターに投げ込まれる。 

ほんの一瞬前、あなたは大竜巻のように、狂ったように動いていた。突然、私が「ストップ!」と言い、全てが停止する。あなたは観照者となる。だが、あなたは直ちに止まらなくてはならない。何かするのであれば、あなたはこの瞬間を失ってしまう・・ 
15分間あなたは、この石のような状態でい続ける。この15分間は、新しい体験となるだろう。あなたは内側の新しい空間に入る。それは何かあなたを超えるもの、今まで知らなかったものだ。その一瞥さえもが、あなたを至福で満たすだろう。この15分間、石のような死んだ状態で、あなたは初めて本当に生きる。あなたは立会人に、自分の体の観照者になる。 

この観照が瞑想だ。この観照で、あなたは光に満たされているのを感じる。至福があなたの中に入り、神聖な存在が至るところにある。内側、外側、周り中に。だがあなたはあらゆることの、光の至福の神聖な存在の観照者となる。ただ観照者だ。 

第5ステージ・・・15分間の祝祭のダンス 
歌いなさい、踊りなさい。そこにある至福やエクスタシーを全て表現しなさい。 

http://www.osho.com/Main.cfm?Area=Meditation&Language=Japanese 

※ダイナミック瞑想は、通常、朝食前の早朝に行います。また、服装は体を締め付けないゆったりとしたものを着用します。ちなみに目は、最初から最後まで閉じたままで行います。 

 

私のダイナミック瞑想というシステムは、呼吸から始まる。それは、呼吸が生命に深く根ざしたものであるからだ。おそらく気づいていないだろうが、もし呼吸が変えられれば多くのことが変えられる。 

自分の呼吸を注意深く観察してみれば、怒っている時には、怒っている時特有の呼吸のリズムがあることが分かるだろう。恋している時には、それとは全く違うリズムになるだろう。寛いでいれば、また違った呼吸となる。緊張していれば、また別な呼吸になる。寛いでいる時のような呼吸をしながら、同時に怒るということは出来ない。それは不可能だ。

性的に興奮した時も、呼吸は変わる。あえて呼吸が変わらないようにしたなら、性的興奮はひとりでに収まる。これは呼吸が、精神の状態に深く関連していることを意味する。呼吸を変えることによって、マインドの状態が変えられる。逆に、マインドの状態を変えれば、呼吸も変わる。 

だから、私は呼吸から始める。この瞑想の第1ステージは、10分間の混沌とした無秩序な呼吸だ。「混沌とした呼吸」とは、一定のリズムを作らない、深く、速く、力強い呼吸をするという意味だ。息を吸って、それを吐き出す。息を吸って、吐き出す・・・これを出来る限り力強く、深く、強烈にやる。息を吸い、それを吐き出すのだ。 

この無秩序な呼吸は、あなたの中の抑圧されたシステムに、混沌を生み出す為のものだ。誰もが、呼吸に一定のパターン(型)を持っている。子供には子供なりの呼吸がある。セックスを怖れている人間には、それなりの呼吸の仕方がある。 

あなたは深い呼吸が出来ない。それは、深い呼吸がセックスセンター(性中枢)を打つからだ。怖れがあれば、深い呼吸は出来ない。その恐れが、浅い呼吸を生み出す。 

この混沌とした、無秩序な呼吸は、過去のパターン全てを破壊する為のものだ。あなたが自分ででっち上げて来たものを、この混沌とした呼吸が破壊する。 

なぜ混沌とした呼吸によって、あなたの中に混沌を創り出すかと言えば、混沌が創り出されない限り、抑圧された感情を解放することは出来ないからだ。そういった感情が、既に身体の中に入り込んでしまっているからだ。 

あなたの身体と精神は、別々ではない。あなたは「身心」つまり身体とマインドの両方だ。従って、体になされることは何であれマインドに届くし、マインドになされることは、何であれ体に届く。体とマインドは、ひとつの同じ実体の両端だ。 

10分間の無秩序で、混沌とした呼吸は素晴らしい。だがそれはいずれにせよ、無秩序なものでなければならない。これはヨーガの呼吸法、プラナヤーマ(調息)のようなものではない。単に呼吸を通して、混沌を創り出しているだけのことだ。そして混沌を生み出すことについては、多くの理由がある。 

深い、速い呼吸は、より多くの酸素を供給する。体内に多くの酸素が入ると、人は動物のように生き生きとなる。動物達は生き生きとしているが、人間は半分死にかけている。あなたは、再び動物にならなければならない。そうして初めて、あなたの中に高次のものが発達することが出来る。 

あなたが半分しか生きていなかったら、手のつけようがない。だからまず、この混沌とした無秩序な呼吸によって、あなたを動物のように生き生きと、躍動し、活力に溢れるようにする。 

血液内に多くの酸素を入れて、細胞に多くのエネルギーをもたらすことによって、あなたの体の細胞は生き生きとして来る。そして大量に酸素を取り入れることにより、体に電気が起こって来る。それは「生体エネルギー」と言ってもよい。 

そして体内に電気が起これば、自分自身を超えて内側へ深く入ってゆくことが出来る。その電気は、あなたの中で働いている。 

身体は、そのものの中に電気の発生源がある。激しい呼吸と多くの酸素によって、その発生源を叩けば、体内に電気が流れ始める。 

そして本当に生き生きとしてくれば、あなたはもはや体ではなくなる。生き生きとすればするほど、体内組織により多くのエネルギーが流れ、あまり自分を肉体的には感じなくなる。あなたは自分を物質というよりは、エネルギーのように感じる。 

より生き生きとした状態が起こる時、あなたは肉体指向ではない。性にそれほど強い魅力があるのはその為であり、これがその理由のひとつだ。もしあなたが真に行為の中にあり、動きそのものになり、完全に生き生きとしているなら、あなたはもはや肉体ではない。まさにエネルギーだ。 
彼方に向かおうとするなら、このエネルギーを感じ、このエネルギーと共に生き生きとしていることが、絶対的に必要になる。 

このダイナミック瞑想という方法論の第2ステージは、カタルシス(発散浄化作用)だ。私は「意識的に狂いなさい」と言う。何であれマインドにやって来るものが・・・何であれだ・・・自らを表現することを許しなさい。それに合わせなさい。抵抗することなく・・・ただ感情がほとばしるに任せる。 
悲鳴を上げたければ、悲鳴を上げなさい。それに合わせ、協力しなさい。深い叫び、あなたの全存在が巻き込まれるような絶叫は、極めて治癒力のあるもの、深くまで癒すものだ。多くのもの、多くの病が、ただ叫ぶだけで解放される。叫びが全面的なものであれば、あなたの全存在がそこに込められる。 

だからこの10分間では・・・この第2ステージもまた10分間だ・・・泣くこと、踊ること、叫ぶこと、むせび泣くこと、飛び跳ねること、笑うこと、などを通して自分自身を表出しなさい。いわゆる「ぶっ飛んでしまう」というやつだ。数日もしたら、あなたはそれを実感し始める。 

はじめの内、それは強いられた努力かもしれないし、ただの演技でしかないかもしれない。私達はあまりにも欺瞞的なっているから、本当のこと、本物のことは何ひとつ出来ないようになっている。私達は真に笑ったことがない、泣いたこともない。腹の底から叫んだこともない。何もかもが見せかけ、仮面だ。 

だからこの技法を始める時・・・最初の内だけが・・・それは強いられたものになるだろう。努力がいるかもしれない。ただの演技であるかもしれない。だが、それを気にしてはならない。続けなさい。 

まもなく、あなたはそういう多くの抑圧の根に触れる。その根源に触れる。ひとたびそれが解放されたら、あなたは重荷を降ろしたように感じる。新しい生が、あなたの元にやって来る。新しい誕生が起こる。 

この重荷からの解放は基本的なことであり、それなしでは、人が今のままでは、瞑想は起こり得ない。私はここでも例外というものを想定していない。例外というものはあり得ない。 

この第2ステージで、ものごとが投げ出された時、あなたは空っぽになる。まさにこれが「空」の意味だ。全ての抑圧を空っぽにすることが・・・。この「空」の中で初めて、何かが為され得る。変容が起こり得る。瞑想が起こり得る。 

第3ステージでは、私はHoo(フー)という音声を使う。過去にも多くの音声が使われて来た。それぞれの音には、何かしら特有の効果がある。 

たとえばヒンドゥ教徒達は「オーム」という音声を使っている。これは、あなたにとって親しみやすいかもしれない。だが私は「オーム」を勧めない。なぜなら「オーム」は、ハートのセンター(中枢)を打つが、人はもはやハートに中心を持っていないからだ。だから「オーム」は、無人の家の扉を叩いていることになる。 

スーフィー達は「フー」を使って来た。「フー」「フウッ」と大声で叫べば、それは深くセックスセンター(性中枢)にまで届く。従って、この音はまさに内側への一撃として使われる。あなたが空っぽで真空になった時、この音はあなたの内側に入ってゆくことが出来る。この音の浸透は、あなたが空っぽになって初めて可能になる。 

抑圧でいっぱいなら、何も起こらないだろう。それどころか、抑圧でいっぱいな時にマントラや音を使うのは、ややもすると危険ですらある。抑圧の諸層が音の通路を変え、最終的には夢にも思わなかったもの、思いも望みもしなかったような結果になるかもしれない。 

空っぽのマインドが必要だ。そうして初めてマントラを使うことが出来る。だから、マントラを最初から使うことは勧めない。まずはカタルシスが必要だ。 

この「フー」というマントラは、最初の2つのステージなしでは、絶対に行うべきではない。第3ステージで初めて、この「フー」が使われるべきだ。 

徹底的なエネルギーでもって、出来る限り大声でそれを打ちつける。この音声で、自分のエネルギーを強打するのだ。あなたが空っぽなら・・第2ステージのカタルシスによって空っぽになっていれば・・この「フー」は奥深くまで届き、セックスセンターを打つ。 

セックスセンターを打つには、2通りの方法がある。第1の方法は自然法則に従う。異性に惹かれた時には、セックスセンターは外側から打たれる。その一撃は微妙な波動でもある。男性は女性に惹かれ、女性は男性に惹かれる。 

なぜか?男性の中にある、女性の中にある、その要因となるものは何か?プラスもしくはマイナスの電気が、微妙な波動が、彼らを打つのだ。実際、それは音波だ。 

たとえばあなたも、小鳥達が互いに性的に呼び合うのに、音を使っているのを聴いたことがあるだろう。小鳥のさえずりは全て性的だ。彼らは、特定の音によって再三再四、互いを刺激し合っている。その音は、鳥の異性のセックスセンターを打つ。 

微妙な電気的な波動が、あなたを外側から打っている。そしてセックスセンターが外側から打たれると、エネルギーは外側に流れ始め、相手に向かう。するとそこには再生産、誕生がある。他の誰かが、あなたから生まれる。 

「フー」は、同じエネルギーセンターを内部から打つ。セックスセンターが内側から打たれると、エネルギーは内側を流れ始める。このエネルギーの内なる流れは、完全に人を変えてしまう。あなたは変容される。自分自身が誕生するのだ。 

エネルギーが全く反対の方向に流れ始めて、人は変容される。そうなると今は外に流れているエネルギーも、内側に流れ始める。そうなると今は下降しているエネルギーも、上に向かって流れる。このエネルギーの上昇が、クンダリーニとして知られているものだ。 

あなたは、それが実際に脊椎を流れるのを感じる。そしてそれが上昇するにつれて、あなたもそれと共に上昇する。このエネルギーがブラフマ・ランドラ(梵の座)に到達した時、あなたは至上の人間となる。ブラフマ・ランドラとは、頭頂部にある第7のセンター(中枢)であり、人間の最後のセンターだ。 

第3ステージでは、エネルギーに上昇をもたらす媒体として「フー」を使う。最初の3ステージまではカタルシスだ。それは瞑想ではなく、その為の準備に過ぎない。それは飛躍そのものではなく、飛躍を遂げる為の用意だ。 

第4ステージが飛躍だ。第4ステージで、私は突然「ストップ!」と言う。私が「ストップ!」と言ったら、完全に止まりなさい。何もしてはいけない。というのも、何をすることも方向を逸らすことになり、あなたは要点を逃してしまうからだ。 

何であれ・・・ただの咳やくしゃみでも・・・それでマインドが散らされて、あなたは全てを逃してしまうかもしれない。そこであなたの注意がグラついて、上向きの流れは直ちに止まってしまうだろう。 

何もしてはならない。何もそれで死ぬ訳ではないのだから。くしゃみがしたいのを10分間我慢したところで、それで死ぬ訳ではない。咳をしたくなって、喉にいがらっぽさを感じながら我慢したとしても、それで死ぬ訳でもない。エネルギーが、ひとつの上向きの流れとなって動けるように、身体を死んだようにさせておきなさい。 

エネルギーが上昇すると、あなたはもっともっと静かになる。静寂は上昇するエネルギーの副産物であり、緊張は下降するエネルギーの副産物だ。今や全身は極めて静かであり、まるで消え失せてしまったかのようだ。それを感じることすら出来ない。あなたは体なしになる。 

そしてあなたが静かな時、全存在が静かだ。なぜなら、存在は鏡に他ならないからだ。それはあなたを映し出す。何千もの鏡の中に、あなたが映し出される。あなたが沈黙する時、全存在が静かになる。 

その沈黙の中で、ただ観照者、目撃者でありなさい、と私は言おう・・・それもたゆまぬ注意深さと共に。何もせず、ただ目撃者に留まり、ただ自分自身と共に留まる。何ひとつやってはならない・・・動くことも、欲望することも、何かになることも・・・ただその時、そこに留まり、起こっていることを静かに目撃している。 

この中心に留まること、自分自身に定まることは、最初の3段階があって初めて可能となる。その3つがなされない限り、あなたは自己に留まることが出来ない。それについて話をしたり、考えたり、夢を見たりすることは出来る。が、あなたに用意が出来ていないのだから、それは現実のものにはならない。 

この最初の3つの段階が、あなたをして瞬間に留まる用意を整えさせる。あなたを目覚めさせる。それが瞑想だ。その瞑想の中で、言葉を超えた何かが起こる。そしてひとたびそれが起これば、あなたは2度と同じものではあり得ない。それは不可能だ。それは成長であって、単なる体験ではない。それは成長だ。 


観照者のままでいなさい 

これは何をしている時も、絶えず注意深く、意識し、気づいているという瞑想だ。観照者、目撃者のままでいることだ。迷子になってはならない。行方不明になるのは簡単だ。呼吸をしている時にも、あなたは忘れてしまうかもしれない。呼吸と一体化するあまり、観照することを忘れてしまうかもしれない。が、そうしたらあなたは要点を取り逃がしてしまう。出来る限り速く、深く呼吸し、自分の全エネルギーを注ぎ込み、しかも観照者のままに留まりなさい。 

起こっていることを観照しなさい。あたかも自分がただの傍観者であるかのように、あたかも全ては他人に起きているかのように、あたかも全てはただ肉体だけに起こっていて、意識はまさに中心に定まり、ただそれを見ているだけであるかのように。 

この「観照」が、これら3つの段階全てに保たれなければならない。そして何もかもが止まる時、第4ステージにおいて、あなたが完全に無活動に、凍りついたようになる時、この注意深さ、覚醒は、その頂点を極める。 

OSHO:MEDITATION:The First and Last Freedom 
邦訳「新瞑想法入門」(めるくまーる社)より 

他にもダイナミック瞑想に関する講話が載っている邦訳は、 
「瞑想、祝祭の芸術」(めるくまーる社)「奇跡の探究1」(市民出版社) 
「グレート・チャレンジ」(市民出版社)など、また違った角度から説明しています。