OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

79.内なるガイドを追う

<OSHOの講話より> 

質問:無意識的なマインドの指示と、内なるガイドの指示は、どう区別したらいいでしょう?どうしたら、内なるガイドが機能していると分かるでしょうか? 

第1点。フロイトのせいで「無意識」という言葉が、ひどく誤解されて来た。フロイトは、無意識を完全に誤解した。その解釈は全く誤っている。そして現在、マインドに関する知識の根底をなしているのがフロイトだ。彼の言う無意識とは、抑圧された意識に他ならない。意識の抑圧された部分だ。 

悪いもの、不道徳なもの全ては、抑圧されて来た。社会によって許されないものは、どうしても内側で抑圧される。その抑圧された部分が、フロイトによれば無意識だ。しかし、神秘家にとっては違う。フロイトは神秘家ではない。彼は、自分自身の無意識の中に入ったことがない。ただ患者の症例を観察しただけだ。その患者とは、病人、異常な人間、狂人だった。彼はそうした病的なマインドを研究していた。 

そういう病的なマインドの研究を通じ・・それも外部からの研究を通じ、結論に達した。その結論によると、意識のすぐ下には無意識的なマインドがある。そして、その無意識的なマインドの中には、幼時から抑圧されて来たもの全て、社会によって悪いとされて来たもの全てがある。そうしたものの存在を忘れようと、マインドはそれを押さえつけて来た。 

しかし、それは存在する。そして絶えず働いている。しかも、極めて強力だ。絶えず意識を変形させている。絶えず意識を罠にはめている。それを相手にしたら、意識は全く無力だ。相手が強力だからこそ抑圧する。社会にはどうすることも出来ない。だから、社会はそれを抑圧し続ける。他に方策を知らない。 

たとえばセックスだ。その強力さたるや、もし抑圧しなければ、一体どうなるか分からない。きっとあなたを危険な道へ誘うだろう。凄まじいエネルギーだから、もし放置しておいたら、社会全体は混乱状態になるだろう。もし完全な自由が許されたら、結婚は存在出来ないし、愛も存在出来ないし、一切は混乱状態になるだろう。みな動物のように振る舞うだろう。結婚や家族がなくなれば、社会は崩壊する。社会は家族という単位に基礎を置き、家族は結婚に基礎を置き、結婚は性の抑圧に基礎を置いている。 

自然で強力なもの全ては、抑圧されて来た・・タブー視されて来た。その強力な抑圧によって、あなたは罪悪感を植え付けられ、絶えずそれと闘っている。社会は、外側に警官を作っただけではない。内側にも警官を作った。つまり良心だ。あなたが道を踏み外さない為の、二重の安全弁だ。それであなたは自然になれない。不自然でいる他はない。 

そして今、心理学者によると、精神異常は文明の一部だという。狂気のない文明はない。精神異常の原因となるものは、秩序の強制による自然な本能の阻害だ。それで異常が現れる。おそらく、精神異常者は常人より強力なのだ。だから内なる本能が反抗し、良心やマインドといった全てを捨て去ったのだ。それで異常になった。 

人類社会が向上し、正しい理解と知識が広がれば、現在の精神異常者も有用な人材となるかもしれない。天才であるかもしれない。いわゆる狂人達はときに、極めて才能豊かな人間であったりする。実際その通りだ。彼らの内側には、あまりに大きな力があるゆえに、自分自身を抑圧出来ない。だから社会は、彼らに自由を許さない。彼らは常軌を逸している。フロイトの達した結論によれば、文明は無意識を必要とする。つまり、抑圧された部分を必要とする。 

しかし、タントラやヨーガにとっては、この無意識は真の無意識ではない。それは、無意識と意識の狭間(はざま)にある小さな中間層だ。潜在意識だ。意識はそれを押さえつけている。でも意識はそれについて知っている。それは真の意味で無意識ではない。あなたはそれを知っている。でもそれを認めたくない・・注意を払いたくない。もし注意を払って、それが表面に現れて来たら困るからだ。だから闇の中に押し込んでいる。でも意識はしている。フロイト派の無意識は、真の無意識ではない。潜在意識だ。それは闇夜ではない。明る過ぎるくらいだ。だから見ることが出来る。 

タントラは、真の無意識について語る。その無意識とは、自分によって抑圧されたものではなく、自己の最深の存在だ。そして意識とは、単に光の中に現れたその一部に過ぎない。それは無意識の十分の一であり、光を見た部分、意識的になった部分だ。十分の九は、その下に隠れている。その無意識は、あなたの生エネルギーの源泉であり、あなたの存在だ。 
意識的なマインドは、マインド全体の十分の一だ。 

ところがこの意識的なマインドが、自分で中心を創っている。その中心こそがエゴだ。この中心は偽りだ。なぜなら、この中心はマインド全体のものではないからだ。マインド全体の中心ではない。単に、一断片である意識的な部分の中心だ。その断片が自ら中心を創り出し、その中心が、まるで存在全体の中心であるかのように装っている。 

マインドの全体には中心がある。その中心が、ガイドと呼ばれるものだ。その中心は無意識の中にあり、それが顕れるのは、断片の5つが、つまりマインドの半分が、光の中に現れた時だけだ。そうすれば、その中心が顕れる。それがガイドだ。それは無意識の中に隠れている。 

だから、無意識を恐れる必要はない。このフロイト的無意識は、恐るべきものだ。しかし、このフロイト的無意識は、浄化(カタルシス)の中で廃棄出来る。だからこそ私は、浄化を盛んに勧めるのだ。このフロイト的無意識は、浄化の中で廃棄出来る。 

必要なのは、今までしたくてもしないでいたことを、何でもすることだ・・ただし瞑想的にだ。他人に向かってしてはいけない。さもないと連鎖を生むし、自分のコントロールも出来なくなる。だから虚空の中で行なう。もし怒っていたら、それを虚空の中で行なう。もし性欲を感じていたら、それを空の中に投げ捨てる。自分の内側にあるものを、何であれ、外へと向かわせる。表現する。 

瞑想的浄化は、フロイト的無意識を除去してくれる。私の教えている技法に従えば、フロイト的無意識は簡単に消え去る。このフロイト的無意識が消え去って初めて、真の無意識の中に入って行ける。部屋の中にゴミを捨て続け、その部屋を閉じてしまったらどうなるだろう?部屋はゴミ捨て場になってゆく。フロイト的無意識は、ゴミ捨て場だ。ゴミを中に捨ててはいけない。捨てるなら外に捨てる。中に捨てたら病気になる。精神異常になる。外に捨てれば、爽やかに、若々しく、軽やかになる。 

現代人には浄化が不可欠だ。浄化なしには、誰も内なるガイドに到達出来ない。深い浄化を行えば、もはや怖れる必要はなくなる。すると真の無意識が、自らを顕し始める。その無意識は、意識の中を貫き、そうしてあなたは生まれて初めて、自分の広大な領域を知るようになる。あなたはそんな小さな断片ではない。あなたには、はるかに広大な存在がある。その広大な存在には中心がある。その中心こそが、内なるガイドだ。 

どうやって無意識と、内なるガイドを区別するのか?どうやってフロイト的無意識と、内なるガイドを区別するか?浄化を経ていない人間には、その区別は難しい。でもその違いは、だんだん分かるようになる。なぜならフロイト的無意識とは、抑圧されたものだからだ。もし何かが自分の中で暴力的に現れるようだったら、その暴力的な力の出現は、もともと自分がそれを抑圧していたからだ。 

でも何かが、暴力性を伴わずに現れるようだったら・・音もなく、静かに湧き上がって来るようだったら、それは真の無意識だ。そのガイドによって、何かがもたらされる。ただし、その違いを会得するには、まず自分自身の浄化が必要だ。そうすれば要領が分かって来る。 

フロイト的無意識から何かが現れると、何か落ち着かない感じがする。心が乱れて来る。一方、内なるガイドから何かが現れると、穏やかさが感じられる。その幸福、その安らぎは、想像もつかないほどだ。ただもう「これだ!」と感じるばかりだ。自分の存在全体が、それと調和する。何の抵抗もない。「これは正しい」とあなたは知っている・・「これは良い、これは真だ」と。それについては、誰も口を差し挟めない。 

一方、フロイト的無意識の場合、決して穏やかにはなれない。決して安らかにはなれない。心乱れるばかりだ。それは一種の病気だ。その病気が出現して来る。そして、それに対する戦いが起こる。だからまず、深い浄化が必要だ。そうすれば、このフロイト的無意識は徐々に静まる。 

それはちょうど、泡が川底から水面に上がって来るのに似ている。自分の存在の底から泡が上がって来る。そして意識的なマインドに到達する。すると深い平安が現れる・・「これ以上に正しいものはない」という感覚が現れる。でもそれが起こる前に必要なのは、フロイト的無意識から解放されることだ。すっかりゆだねた状態にならない限り、これは起こらない。最奥の存在は、全く非暴力的なものだから、自己主張はしない。こちらから招く他はない。 

ここが大事だ。最奥の存在は、自己主張しない。フロイト的無意識は、自己主張したがる・・絶えず自己主張を図っている。そしてあなたは、常にそれを押さえ込んでいる。それが違いだ。フロイト的無意識は、自己主張を求め、活路を求め、あなたをどこかに導き、操りたがる。あなたは抵抗し、それと闘う。しかし真の無意識、ガイドは強引ではない。こちらが受け入れれば、こちらが招けば、祈りに満ちていれば、ちょうど招待客のようにやって来る。 

だから、ゆだねの状態が必要だ。そうして初めてそれはやって来る。それがやって来るのは「もう用意が出来たようだ。もはや拒否されたり、拒まれることはあるまい。自分はきっと歓迎される」と思われる時だ。だからふたつのことをする必要がある。ひとつはフロイト的無意識の浄化であり、もうひとつは真のガイド、真の無意識に対するゆだねと明け渡しの訓練だ。このふたつが出来れば、違いが分かるようになるだろう。

 

違いは、実際のところ、教えられるものではない。それは自ずと分かる。それが起これば、自ずと分かる。たとえば体が痛む時と、体が健康である時、それをどう区別するか。頭が痛い時、それをどのように感じるか。その違いは何か。あなたは、ただそれを知るのみだ。定義は出来ない。ただ知るのみだ。頭痛について、健康について、あなたは知っている。真のガイドは、常に健康な感覚を与え、フロイト的無意識は、常に頭痛の感覚を与える。それはさわぎであり、内的葛藤であり、苦悩であり、抑圧された痛みだ。それがやって来ると、いつもあなたはそこらじゅうに苦痛を感じる。 

このフロイト的無意識のせいで、本来苦痛でないものが、しばしば苦痛となる。たとえばセックスだ。社会による抑圧のせいで、セックスは苦痛を伴うものとなっている。自然な生活の中で、この上なく至福に満ちたものがセックスだ。ところが、それが苦痛を伴うものとなっている。性行為を始めると、焦燥を感じ、罪悪感を持ち、最後には衰弱を感じる。それで、もう二度とセックスはするまいと決心する。 

でもその原因は、自然なセックスにあるのではなく、無意識のせいだ。セックスが、苦痛を伴うものとなっているせいだ。あまりに抑圧されているせいで、セックスが醜悪で苦痛を伴うものとなっている。本来ならば、セックスはこの上なく自然なエクスタシーだ。もし子供に「セックスは罪悪だ」と教えなければ、彼はそれを楽しむ。そしてセックスのたびごとに、深い健康が体中にみなぎるだろう。 

男性の方が、女性より健康な感覚を持っている。これもまた抑圧のせいだ。女性の抑圧の方が大きい。誰も男性が童貞であることを求めないが、女性については誰もが・・童貞でない男でさえ、自分の結婚する相手には処女を求める。プレイボーイでさえ、自分の結婚相手には処女を求める。 

女性の無意識は、男性の無意識より抑圧されている。だからこそ、オーガズムに達する女性の数が少ないのだ・・それは西洋の話だが、東洋では、セックスに何らかの歓びを感ずる女性は、せいぜい5パーセントほどだ。95パーセントの女性は、それにうんざりしている。だからサドゥー(行者)や僧侶が「セックスは罪だ」と教えると、女性達はいつもそれに賛同する。女性達は僧侶の周りを幾重にも取り巻く・・こうした話は女性達にうける。「全くその通りだわ」と。女性達はあまりに抑圧されている為、セックスの至福を何も知らない。それほど抑圧されている。 

・・(略)・・自分が楽しくなければ、女性は必ず夫を敵視し、夫のことを悪者だと考えるようになる。毎日のようにインドの女性達が私の元にやって来て、もうセックスはうんざりだ、自分の夫は、いつもいつもセックスを強要すると訴える。彼女らはそれが好きではない。嫌悪している。でもなぜ夫達は、それほど嫌悪していないのか?なぜ女性達は嫌悪するのか?それは女性の無意識の方が、男性より性的に抑圧されているからだ。抑圧するとセックスは苦痛となる・・頭痛となる。セックスに限らず、何であっても頭痛となる。抑圧が元凶だ。抑圧すれば苦悩となる。何であっても至福となる。表現するのだ。抑圧してはいけない。 

人々が知っているのは、このフロイト的無意識だけだ。真の無意識、タントラ無意識については知らない。だからこそ人々は恐れるのだ。恐れていれば、ゆだねることが出来ない。恐れていれば、コントロールを失うことが出来ない。自分でも承知している・・もしコントロールを失えば、たちまち抑圧された本能に取って替わられる。たちまち今まで抑圧して来たものがマインドに現れ出る。 

だからあなたは恐れる。その恐怖を除去する為には、まず浄化が必要だ。そうすれば、ゆだねられるようになる。ゆだねることが出来たら、ごく静かな力が意識的なマインドに溢れ始める。そこに感じられるものは健康であり、安らぎだ。そしてあなたはきっと「全てはよい、自分は祝福されている」と感じるだろう。 

『どうしたら、内なるガイドが機能していると分かるでしょう?』 

最初の兆候(しるし)は、心地よさが現れること、自分に対する好感情が現れるということだ。あなたは常に、自分に対して悪感情を抱いている。私が今まで出会って来た人間の中で、自己に対して好感情を持っている人間は滅多にいない。誰もが自分を蔑視しており、自分のことを悪く思っている。もし自分のことを悪く思っていたら、一体どうして他人から愛されるだろう。そして誰からも愛されなければ、あなたはきっと欲求不満を感じる。 

自分でも、自分のことを愛していない。あなたは今まで一度も、愛を込めて自分の手を触れたことがない。今まで一度も、自分の体に愛を感じたことがない。今まで一度も、こんなに美しい体、こんなに素晴らしい仕組みを授かったことを、神に感謝したことがない。ただ嫌悪するばかりだ。そして諸宗教、いわゆる宗教は、体に対する蔑視を教える。いわく「体は罪悪の袋だ」と。それであなたは重荷を背負う。 

無意識が解き放たれると、突然「自分は受け容れられている、自分は悪くない」と感じられる。何も悪いものはない。生の全ては、奥深いところで祝福だ。そこに感じられるのは、自分への祝福だ。自分への祝福が感じられる時、周りの人々全ては祝福されている。みんなが祝福されている。それで自分も幸福だ。自分自身を罪悪視しているからこそ、自分を悪く思っているからこそ、他人のことも同じように思うのだ。 

自分自身の体を愛していなかったら、どうして他人の体を愛せるだろう。自分自身の体に敵対していたら、どうして他人の体を愛せるだろう。きっとあなたは、他人の体も罪悪視するだろう・・奥底で罪悪視するだろう。実際、諸宗教のして来たことは、人々を幽霊にすることだ。諸宗教の望みは、人間から肉体を取り去ること、人間を肉体のない魂とすることだ。全てがひどく罪悪視されて来た。そして人々は、それを鵜呑みにして来た。 

教典を見てごらん。いろいろな教典の中に、体を罪悪視する記述がある。いわく「お前の体は他でもない。血と脂肪と粘液だ」と。一体こういう教典を書いた人間達は、何を望んでいたのだろう?金だったらいいのか?銀か?何だろう?ダイヤモンドか?なぜ血がいけないのだろう?なぜ血が非難されるのか?血こそ生命だ。でも彼らは血を悪いものとする。そして人々は、それを受け入れる。こうした人々は全く狂っている。 

・・(略)・・人間の体全体が、ノイローゼ的な人々によっておとしめられている。たとえそれが教典の著者だったとしても、ノイローゼには変わりない。あるいは権力者だったかもしれない。ノイローゼの人間は、大体いつも偉大な権力者だ。ノイローゼ的な人間は狂信的だから、すぐに追従者が集まる。狂信を崇拝する人々はどこにでもいる。断固たる調子でしゃべる人間がいると、人々はその足元に平伏し「彼こそ指導者だ」と言う。でも彼はただのノイローゼかもしれない。ただの狂人かもしれない。こうしたノイローゼ的な人間が人々を罪悪視し、人々はそれを受け入れる。人々は、そうした人間達によって条件づけられて来た。 

真の無意識が自分の中に流れ込むと、微妙な幸福感が現れる・・心地よさが感じられる。全てが良い。全てが神々しい。自分の体は「神」に由来している。自分の血も、自分の小便もだ。全てが神々しい。無意識が流れ込めば、全てが神々しい。全てが神聖になる。何も悪くない。何も罪悪視されない。このような感覚が現れたら、あなたは飛ぶ。歩いてなどいられない。そのくらい軽くなる。もはや頭上に重荷はない。そして、小さな物事を大きなやり方で楽しむことが出来る。些細なもの全てが、それぞれの美となる。その美は自分に由来するものだ。自分の触れるもの全てが金になる。なぜなら、奥深くで自分が至福に満ちているからだ。これがあなたに起こる、第1番目だ。つまり、自分自身への好感情だ。 

2番目・・無意識が、意識の中に流れ込むと起こる2番目のことは、外的世界への依存が減り、観念的な姿勢が減り、あなたはもっとトータル(全面的)になる。そうなると幸福な時は、単に口で「私は幸福だ」と言うのみならず、あなたは踊り出す。「私は幸福だ」と口で言うだけでは、力に欠ける。無意味だ。人々は口で「私は幸福だ」と言うが、その顔を見てごらん。また、人々は「あなたを愛しています」と言うが、その体は、何も表現していない。言葉は死んだものだ。ところが私達は、それを生の代用としている。 

無意識が自分の中に流れ込んで来たら、あなたは自分の存在全体で生きる。それが相違点だ。あなたは幸福を感じ、踊り出す。もはや「私は幸福だ」と口で言うだけではない。あなたは実際に幸福だ。そこが違うところだ。もはや「私は幸福だ」とは言わないだろう。そう言う必要がない。なぜなら実際に幸福だからだ。 

また誰かに「あなたを愛しています」と言う必要もない。あなたは愛だ。自分の全存在が、その感覚を現す。そして、あなたは愛と共に波打つ。側を通る人はみな、あなたが愛していることを感じる。あなたが手で触れると、相手の中に微妙なエネルギーが入って来る。それは、あなたの存在の温かさであり、幸福だ。 

これが2番目だ。1番目は、自分自身、および全てに対する好感情であり、そして2番目は、自分がトータル(全面的)になることだ。ガイドにゆだねれば、あなたはトータルになる。 

OSHO、Vigyan Bhairav Tantra, Vol.2 
邦訳:タントラ秘法の書、第10巻「空の哲学」(市民出版社)より抜粋