OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

80.フィッシャー・ホフマンプロセスと内なるガイド

<OSHOの講話より> 

質問:フィッシャー・ホフマンプロセスで人は、自分自身の内なるガイドを見い出します。私の内なるガイドは率直で開放的で、くだらないことや曖昧なことは言いません。そのガイド(彼女)が私に、サニヤスを取らないように言います。私が質問したいのは次のことです。すなわち、サニヤスを取らなくてもよい人や、サニヤスを取る必要のない人がいるのですか?サニヤスを取らない人には、何か聖痕がついているのですか?私はあなたに反対している訳では全くないのですが、あなたの弟子になる必要はないし、なることも出来ないとも感じるのです。 


私の答えはこうだ。臆病であってはならない。マインドはとてもずる賢く、正当化するのがとても上手い。それは自分を守る方法を見い出す。それはとても防御的だ。サニヤスは、マインドにとっては死だ。マインドはあらゆる手を使って、あなたがジャンプするのを妨げようとするだろう。そしてマインドの協力を期待しているなら、永遠の時が過ぎてしまう。マインドは決して協力しない。 
フィッシャー・ホフマンプロセスは、ここではあまり役に立たない。そのプロセスはいい。ある程度までは助けになる。しかしここであなたは、そのプロセスによる障害を作り出している。だからまず、このプロセスがどのようなものかを正確に述べ、次にそれがどこまで役に立つかを述べよう。ある点を越えると、このプロセスは非常に破壊的で有害になる。 

フィッシャー・ホフマンプロセスは、意識的なマインドに限定されたままだ。マインドには3つの層がある。私達に知られているのは、意識的なマインドだ。その上と下には、私達に知られていない2つの層がある。意識的なマインドの下にあるのが無意識のマインドで、上にあるのが超意識のマインドだ。 

意識的なマインドは、全体のほんの小さな一部に過ぎないのに、それが意識的であるせいで、自分が主人であるフリをしている。 

意識的なマインドは、他の2つのマインドと同じく、2つの部分に分けられる。というのも、どんなものでも存在する為には、2つの部分が必要だからだ。すなわち男性と女性、陰と陽、昼と夜。仮にも存在する為には、どんなものにも逆説が、反対物がなければならない。しかし反対物は、実際には反対物ではなく、補完的なものに過ぎない。 

だからまず、3つのマインドがあることを覚えておきなさい。そしてそのそれぞれが、2つのマインドに分けられることを覚えておきなさい。従って、あなたは総計6つのマインドを持っている。 

意識的なマインドは、2つに分けられる。思考と感情だ。思考の部分は、感情の部分を大いに犠牲にした上で、大変な発展を遂げて来た。理性の部分が、直観の部分を大いに犠牲にした上で、大変な発展を遂げて来た。もしあなたが男性ならば、あなたの男性的な部分は大いに発展して来たが、あなたの女性的な部分は全く発展していない。そして女性的な部分なくしては、あなたは決して健全ではない。 

フィッシャー・ホフマンプロセスは、思考の部分から感情の部分へと、焦点を変えることだ。論理から夢へ、昼から夜へ移行することだ。とても単純だ。あなたは受動的になり、リラックスし、夢を求め始め、幻想を生き始め、シフトを変える。 

ガイドを求めれば、それは直感的な部分に見つかるだろう。あなたはガイドを見い出し、それを彼女と呼んでいる。当然のことだ。男性がガイドを求める時、それは女性の形で現れる・・・そして女性がガイドを求める時、それは男性の形で現れる。否定されていた部分が出現するのだ。だからガイドとは、あなたの女性的な部分に他ならない。 

2番目のより深いマインド、無意識のマインドもまた、2つの部分に分けられる・・・思考の部分と感情の部分だ。しかしフィッシャー・ホフマンプロセスは、決して無意識のマインドには到達しない。それは意識的マインドに漂っているだけだ。 

意識的マインドはとても固い。それは固体的だ。意識的マインドでは、思考の部分と感情の部分がクリアーに分けられている。無意識のマインドは、液体的だ。思考の部分と感情の部分は、ハッキリとは分けられていない。それは、液体のように混じり合っている。 

そして3番目の超意識のマインドは、気体的だ・・・混じり合っているのみならず、融合している。思考の部分と感情の部分は一体だ。区別はない。超意識においては、分割はない・・・思考と感情は、ひとつのものとして存在している。感じることと考えることは、同時で一体だ。二元性はない。 

無意識においては二元性があるものの、境界がぼやけ、区別が曖昧になっている。意識的マインドにおいては、二元性はこの上なく明瞭だ。境界線が敷かれ、柵が立っている・・・思考の部分と感情の部分の間には、万里の長城がある。 

フィッシャー・ホフマンプロセスは、無意識のこの固い壁にまでしか到達しない。もっと深くに到達しようとするなら、何か他の道を取らなければならない・・・ヨーガ、太極拳、タントラ、空手、合気道等。それらはあなたを、フィッシャー・ホフマンプロセスより深いところへと、無意識へと導く。 

フィッシャー・ホフマンプロセスでは、大したものは何もいらない。あなたは一人でやることが出来る。それはとてもシンプルだ。椅子に坐ってリラックスして、シフトすることが出来る。 

2番目の無意識のマインドでは、あなたは一人ではやっていけない。あなたには、ヨーガのような完備された方法論が必要になる。何年もの修行が必要だ。あるいは太極拳、空手、合気道・・・それらの修行は何年もかかる。方法は必要だ。方法なしでは、2番目の無意識ではやっていけない。 

というのも、意識的マインドで思考から感情へと移るのは、同じ平面上のことだが、意識から無意識への移行は、深みで起こるからだ。それは困難な現象だ。それは深海に潜るようなものだ。そこには、あらゆる種類の可能性がある。あなたは発狂するかもしれない。身を守る為の、大いなる方法が必要となる。注意深さを保つ為の、大いなる方法が必要となる・・・。 

しかし、3番目のマインドに関する限り、ことはさらに難しくなる・・・なぜなら1番目のマインドでは、同じ平面上で動き、2番目では深みへと下り、そして3番目では、上へと昇るからだ。あなたは上方へと落ち始める。あなたに翼が生える。これが更に厄介なのは確実だ。今度の仕事は昇ることだからだ。あなたにはマスターが必要だ。旅路を導いてくれる生きた人物が必要だ。 

だからサニヤスだ。超意識へと至ることに興味がないなら、サニヤスの必要はない。無意識へ行くことに興味がないなら、どんな方法も必要ない・・・太極拳だろうが、ヨーガだろうが、タントラだろうが。思考の部分から感情の部分に行くことに興味がないなら、フィッシャー・ホフマンプロセスの必要さえない。要は、あなたが何を望んでいるかにかかっている。 

あなたは本当に、成長することに興味があるのか?初めの内は、自分一人でも出来ることが幾つかある。方法を用いなければ出来ないことも、幾つかある。最後の事柄は、到達した人、上空への道を知っている人への、深い愛によってのみ可能となる。あなたは、その人の手につかまって進む。信頼が必要となる。 

1番目に関しては、知識だけでよい。2番目は、方法論が必要だ。そして3番目は、マスターだ。しかしこれは、あなたが覚醒した人のそばにいない限り、非常に困難だ。あなたは、自分が覚醒したと夢見ることさえ出来る・・・それがこのプロセスの、最も困難なところだ。 

すでに覚醒している人が近くにいなければ、あなたは自分が覚醒したと夢見ることさえ出来る。あなたは自分が覚醒したか、それともまだ夢を見ているのか、自分で判定することは出来ない。あなたは、自分を欺くことが出来る。あなたのマインドを騙し続けているのは、あなた自身のマインドだ。 

あなたの小さなマインドが、あなたの大きなマインドを騙し続けている。あなたの小文字のマインドが、あなたの大文字のマインドを騙し続けている。他に誰もいない。だからもし怯えているのなら、サニヤスを取る必要はない。しかしその場合は、自分が怯えていることを明確にわきまえなさい。 

可哀想なホフマンプロセスに、責任を投げつけないように。あなたがガイドと呼ぶ、可哀想な内なる女性に責任を投げつけないように。 

サニヤシンになるということは、単にあなたが、次のことを理解するようになったということだ・・・あなた一人では、自分自身をずっと騙し続けることが可能だ、ということを。だから自分自身を騙すことが、もはや出来なくなるような人を見つけたら、あなたはマスターを見つけたのだ。 

それは辛く苦しい。私が約束出来るのは、それがとても危険に満ちたプロセスである、ということだけだ。私は、次のことを明確にさせておきたい。あなたが、それをする気があるならしなさい。する気がないのなら止めなさい。 

しかし、ガイド云々を持ち込むのはよしなさい。それは全部たわごとだ。逃げてはならない。そのような微妙なやり方で、責任を回避するのは止めなさい。私の答えを繰り返そう。臆病であってはならない。 

OSHO、Zen:The Path of the Paradox、Vol.1より抜粋