OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

81.内なるガイドの目覚め

<OSHOの講話より>   

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ 第108番目の技法: 
『この意識は、各々のガイドの魂だ。それになる』 
                   
第1点。 あなたの内側にはガイドがいる。でも、あなたはそのガイドを使わない。長い間、何生もの間、使っていない。だからもはや、自分の中にガイドがいることに気づきもしない。 

カスタネダの本の中で、師のドン・ファンが素晴らしい技法をひとつ与えている。その技法は最古の部類に属するものだ。暗夜、丘陵地帯の危険な小道、明かりもない・・・カスタネダの師は言う。「ただ内側のガイドを信じ、そして走るのだ」 

それは危険だ。丘陵地帯の未知の小道で、木もあり、茂みもあり、断崖もある。どこに落ちるか分からない。日中でさえ、歩くのには気を使う場所だ。ましてこの闇夜では、どこも真っ暗で何も見えない。 

でもマスターは言う。「歩くな、走れ!」カスタネダには信じられない。まさに自殺行為だ。それで尻込みしていると、師は走っている。向こうの方へ野獣のように走って行き、そしてまた走って戻って来る。 

どうしてそんなことが出来るのか、カスタネダには分からない。師は、単に闇の中で走り回るだけでなく、いつも自分の方へまっすぐ走って来る。まるで物が見えるかのようだ。

そこで彼は、徐々に勇気を奮い起した。もしこの老人に出来るなら、どうして自分に出来ないことがあるだろう。そこで試してみた。すると少しずつ内なる光が現れて来た。そこで彼は走り出した。 

しくじることもあったが、それはいつも思考が現れた時だ。思考をやめれば、内なる何かが現れる。考えることがなければ、全ては上手くいく。まるで内なるガイドが機能しているかのように。 

理性は、あなたを誤って導いて来た。その最たるものが、内なるガイドへの不信だ。まず理性を納得させる必要がある。たとえ内なるガイドが「進め」と言っても、理性を納得させないといけない。 

そうして機会を逃してしまう。機会は瞬間的なものだ。その瞬間的な機会は、使うか逃すかのどちらかだ。知性には時間がかかる。そしてあれこれ考えている内に、その瞬間を逃してしまう。 

生は待たない。生は、その場で直ちに生きるものだ。真に戦士として生きることだ・・・禅で言われているように。刀を手にして戦場で戦っている時には、考えることが出来ない。考えずに動く他ない。 

禅師達は、刀を瞑想の技法として使って来た。日本の話だが、禅師同士が、瞑想者同士が刀を持って戦うと、決着が着かないそうだ。どちらも負けないし、どちらも勝たない。どちらも考えていないからだ。 

その刀は彼らが握っているのではなく、内なるガイド、無思考のガイドが握っている。そのガイドは、相手が攻撃する前にそれを知り、防御する。考えている暇はない。相手はこちらの心臓に狙いを定めている・・・まさに一瞬の内に、刀は心臓を貫く。 

どうしたらいいか、考えている暇はない。「心臓を貫こう」という考えが相手に起こるやいなや、時をおかず、自分の方にも「防御しよう」という考えが起こる。そして初めて防御は可能となる。さもないとお仕舞いだ。 

それで瞑想法として、武道が教えられる。それによると「瞬間瞬間に、内なるガイドと共にあれ。考えるな。全てを内なる存在に任せよ。マインドで干渉するな」 

これは実に難しい。マインドに対する私達の訓練は、相当なものだ。学校、大学、文化や文明の全てが、頭の教育に向けられている。もはや内なるガイドとの接触は失われている。 

誰もがこの内なるガイドと共に生まれて来ているのに、そのガイドは活動を許されない。機能出来ない。ほとんど麻痺状態だ。でも、それを蘇生させることは出来る。 

このスートラは、その内なるガイドに関するものだ。 
『この意識は、各々のガイドの魂だ。それになる』 

頭を使って考えてはいけない。というより、全く考えてはいけない。ただ動くことだ。状況に応じて試してみるといい。これは難しい。どうしても古い癖で、思考が始まってしまう。だから考えないよう注意する。 

そして、マインドに現れることを内側で感じてみる。混乱することもあるだろう。というのも、それが内なるガイドに由来するのか、それともマインドの表層に由来するのか、よく分からないからだ。でもほどなく、その感覚が、その違いが分かるようになる。 

何かが内側から起こる時には、臍(へそ)から上昇して来る。臍から上昇するその流れが、その温かさが感じられる。 

一方、マインドが考える時には、それは表層上のもの、頭の中のものだ。そして、それが下降して来る。マインドが何かを決定したら、あなたはそれを下へと押し下げる。 

内なるガイドが何かを決定すれば、それは下から湧き上がって来る。自分の存在の深い核から、マインドへとやって来る。マインドはそれを受け取るが、それはマインドのものではない。それは「超えたところ」からやって来る。 

だからこそ、マインドはそれを恐れるのだ。理性にとって、それは信頼出来るものではない。なぜなら、それは「超えたところ」に由来するからだ。何の理由も、何の証拠もない。ただ湧き上がるのみだ。 

状況に応じて試してごらん。たとえば森の中で道に迷ったら、試してみる。考えてはいけない。目を閉じ、坐り、瞑想的になる。そして考えない。考えても仕方がない。どうして考えられるだろう。知りもしないのだから。 

ところが、思考は根深い習慣となっているので、考えてもどうにもならない時でさえ、依然として考えてしまう。思考が可能なのは、すでに知っているものについてだけだ。 

ところが森の中で迷って、地図はないし、尋ねる人もいない・・・一体何を考えるというのか?にも関わらず考えてしまう。その思考はただの心配であり、思考ではない。そして心配すればするほど、内なるガイドは働けなくなる。 

心配をやめ、木の下に坐る。やがて思考が止み、静まっていく。そしてただ待つのだ。考えてはいけない。騒ぎ立てずに、ただ待つ。そして無思考の瞬間が来たと感じたら、立ち上がって動き始める。 

どこへ向かって体が動いても、動くに任せる。自分はただ観照者となり、干渉しない。そうすれば、見失った道は容易に見つかるだろう。唯一の条件は、マインドで干渉しないということだ。 

これは、無意識のうちにもたびたび起こっている。高名な科学者によると、大発見は決してマインドによるものではなく、常に内なるガイドによるものだ。 

かつてキュリー夫人は、ある数学の問題を懸命になって解こうとしていた。出来る限り努力したが、いっこうに解けずイライラして来た。何日間、何週間がんばっても、どうにもならない。頭がおかしくなりそうだった。どんな工夫をしても解けない。 

そしてある晩、疲れ切って倒れるように眠った。ところがその夜、夢の中で解答が湧き起こった。待望久しい解答の出現で夢は破られ、目が醒めた。そして、すぐさまその解答を紙に書き付けた。 

夢の中に出て来たのは解答だけで、その途中式はなかった。彼女はそれを紙に書き付け、それから再び寝床へ戻った。そして朝になって戸惑った。解答は正しいが、どうやってそれに到達したのか分からない。何の途中式もなかった。 

そこで彼女は、その途中式を考え始めた。もう解答が手許にあるので、その作業は前より楽だった。解答から逆戻りするのは容易だった。彼女がノーベル賞を得たのも、この夢のお陰だった。でも彼女はいつも、なぜそうなったのか不思議でならなかった。 

マインドは、疲れ切って何も出来なくなると、もはや後退するのみだ。マインドが後退すると、内なるガイドが働いて糸口や鍵を与える。 

ある科学者は、人間細胞の内部構造の研究によってノーベル賞を得たが、彼もまたそれを夢の中で見た・・・人間細胞の全構造を夢で見た。そして朝になって、その絵を描いてみた。自分自身でも、それが実物どおりだとは思わなかった。でもその後、何年もの研究によって、その夢の正しいことが分かった。 

キュリー夫人の場合、この内なるガイドの働きを知ってから、再びそれを試している。ある時、どうしても解きたい問題があった。そこで考えた。「なぜ悩む必要があるだろう。なぜ頑張る必要があるだろう。ちょっと眠ればいいのだ」 

そしてよく眠った。でも解答は現れなかった。それで当惑した。何度も試してみた。問題があるとすぐに眠ってみる。でも解答は現れなかった。 

まず頭を使う必要がある・・・可能な限り。そうして初めて、解答も湧き上がる。まず頭をすっかり疲労困憊させる。さもないと頭は働き続ける。夢の中でもだ。 

だから今、科学者達は言う。「偉大な発見は、全て直感的なものだ。理知によるものではない」これこそが、内なるガイドだ。 

『この意識は、各々のガイドの魂だ。それになる』 
要は、頭を失い、この内なるガイドの中に落ちることだ。内なるガイドはそこにある。 

古い教典によれば、マスター、すなわち外側のマスターは、内なるマスターを見い出す為の補助でしかない。それだけだ。外側のマスターの助けによって、内なるマスターを見い出したら、もはや外側のマスターの役目はない。 

マスターを通じて到達出来るものは、真理ではなく、内なるマスターだけだ。その内なるマスターが真理へと導く。まさに代理人であり、代用品だ。 

マスターには自分自身のガイドがあるが、それと同時に、他人の内なるガイドのことも分かる。どちらの内なるガイドも同じ波長の上におり、同じ次元の中にいるからだ。 

もし私がすでに自分の内なるガイドを見つけていたなら、私はあなたを見通して、その内部のガイドを感じることが出来る。だから、もし私が真にあなたのガイドならば、私の指導の全ては、あなたを内部のガイドへと連れて行くことだ。 

いったんあなたが自分の内部のガイドに接触すれば、私はもはやいらない。もうあなたはひとりで進める。だからマスターに出来ることの全ては、あなたを押し上げて、頭から臍へ、推理力から直感力へ、論理好きなマインドから信頼できるガイドへと、到達させることだ。 

これは人間だけでなく、動物や、鳥や、木など、全てについて言える。全てのものには、内なるガイドがいる。そしていろいろな神秘的な現象が、今また新たに発見されている。

卵を産むと、すぐに母親が死んでしまう魚がいる。父親も卵を受精させると死ぬ。卵は父親も母親もなしに成長していく。そして孵化する。この稚魚は父親も母親も知らない。自分達がどこから来たのか知らない。 

この種の魚は、ある決まった海域に棲んでいる。稚魚は自分達の生まれた海岸から、かつて父親や母親の棲んでいたその海域へと移動する。源へと戻るわけだ。やがて成長して再び卵を産む時には、また同じ海岸へと移動し、卵を産み、そして死ぬ。 

親と子供の間にコミュニケーションはない。ところが子供は何らかの方法で、自分の向かうべきところを知る。決してしくじることはない。 

また人為的に進路を狂わすことも出来ない。そういう実験も行われたが、進路が狂うことはなかった。稚魚はちゃんと源に到達した。何らかの内なるガイドが働いているわけだ。

ソ連では、猫や鼠など、様々な小動物を使っていろいろな実験が行われて来た。たとえば、母猫を川岸に置き、そして子猫達を海の底へ連れて行く。海底だから子猫達に何が起こっても、それが伝わる可能性はなかった。母猫にはいろいろな化学装置が取り付けられ、その脳や心臓にどんな変化が現れるかが測定された。 

そして子猫が1匹、海底で殺された。たちまち母親はそれに気づいた。その血圧が上がった。母猫は動揺を示した。その心拍数は増加した・・・子供が殺されるとすぐにだ。測定装置は、母親が激しい痛みを感じていることを示した。 

しばらくすると、全ては平静に戻った。それからまた子供が1匹殺されると、同じことが起こった。そして3度目に子供が殺されると、また同じことが起こった。毎回、その反応時刻はピタリと一致していた。一体どういうことか? 

ソ連の科学者達によれば、母親には内なるガイド、内なる感覚中枢があって、それが子供と繋がっている。子供がどこにいようともだ。そしてたちまち、テレパシーによって情報を感受するのだという。 

人間の母親は、それほど強く感受しない。これは妙なことだ。その逆であってしかるべきだ。人間の母親は、もっと強く感じてしかるべきだ。人間の方が進化しているのだから・・・にも関わらず感じないのは、頭が全てをその手中に収め、内なる中枢が全て麻痺状態にあるからだ。 

『この意識は、各々のガイドの魂だ。それになる』 
何であれ困難な状況に直面したら・・・道が見つからず、どうやって外に出たらいいか分からなかったら、考えたりせず、深い無思考の中で、内なるガイドの導くに任せてみる。

最初のうちは恐かったり、不安を感じたりするだろう。でも正しい解決に到達するたびに・・・正しい扉に到達するたびに、勇気が湧き起こり、だんだん信頼出来るようになるだろう。 

この信頼が起こったら、その信頼を私は信心と呼ぶ。これこそ真の宗教的信心、内なるガイドへの信頼だ。頭を使うことは、エゴに属している。それは自分自身を頼むことだ。 

自分の内側深くへ入っていけば、あなたは宇宙のまさに魂に到達する。自己の内側のガイドとは、神的なガイドの一部だ。内なるガイドに従うのは、「神」に従うということだ。

一方、自分自身に従えば、物事を面倒にするばかりだし、自分が何をしているのかも分からない。にも関わらず、往々にしてあなたは、自分のことを賢いと思っていたりする。そんなことはない。 

知恵はハートからやって来る。理知に由来するものではない。知恵は、自己の存在の最深部からやって来るものであり、頭からやって来るものではない。 

要は、自分の頭を切り落とすことだ。頭なしになって、存在に従う・・・それがどこへ導こうとも。たとえ導く先が危険であったとしても、その中へと入って行く。 

なぜならそれがあなたの道であり、あなたの成長だからだ。その危険を通じて、あなたは成長し成熟する。 

たとえその導く先が死であったとしても、その中へと入る。それこそが、あなたの道だ。それに従い、それを信じ、それと共に歩むのだ。 

OSHO、Vigyan Bhairav Tantra, Vol.2 
邦訳:タントラ秘法の書、第10巻「空の哲学」(市民出版社)より抜粋