OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

83.離婚を知らない、ただひとつのロマンス

<OSHOの講話より> 

質問:ここ数ヶ月に渡って、私は驚くべきプロセスを通り抜けていました。それは自分の執着を解き放ち、私のハートがあなた、すなわち神聖なるものに向かって広がってゆく為の道を、浄化していくプロセスです。ありがとう!OSHO。私にこんなにも多くの愛を降り注いでくれて。私は、そんなにも多くの愛に値するのでしょうか? 

プレム・ニーラ、全ての人が、さらに多くのものに値する。自分が受け取っているより、さらに多くのものに値する。だがより多くを受け取らない、その責任はあなたにある。 

人々は閉じた生を送っている。彼らは自分達のハートの扉と窓、全てを閉め切ったままだ。それは自然現象のゆえに起こる。その現象とは、子供が非常に小さく、極めて非力で、あまりにも依存していることだ。そして人がみな自分より大きく、力を持っている。そうして恐怖の中に常にいるという、まさに最初の恐怖の体験が、ハートを閉じるプロセスの始まりとなる。 

恐怖は、閉じゆくプロセスだ。愛はまさに反対に、開きゆくプロセスだ。不幸なことに、人類のこれまでの生き方、それは恐怖の中で生きることだった。たとえ愛したとしても、それは恐怖からだ。そして恐怖からの愛は、間違いなく偽りのものだ。あなたを慰め、欺き、あなたを閉じた存在のままに留めておく偽りの愛を持っているよりは、愛なしでいた方がましだ。なぜなら少なくともそれは、あなたが変えざるを得なくなる地点まで、あなたを傷つけ続けるからだ。 

子供は両親に言われる。親を愛するようにと。これは、ほとんど命令だ。愛は命じられるものではない。もし命令を通して、何かしら愛に似たものが起こったとしたら、それは偽りだ。そして内側深くには、嫌悪がある。なぜなら誰も命じられたくはないし、支配されたくはないからだ。だが親はみな、自分の子供達を支配している。「私はあなたの母親なのよ。私を愛しなさい!」 

母親であることの、何がそんなに偉大なのかね?父親であることの、何がそんなに偉大なのか?もし何か偉大なことがあるとしたら、子供はあなたを愛し始めていることだろう。そしてその時には、全く異なった世界が存在することになる。子供は、自ら愛することを学ぶ。命じられたからではなく、あなたの在り方ゆえに。 

愛は、深い敬意と感謝から湧き起こる。あなたの美と荘厳さを見て取ることで、何の見返りも、愛さえも求めない無条件な愛を見て取ることで。もし親が、何の見返りも要求することなしに子供に愛を降り注げば、応答はやって来る。そしてこの応答には真摯さがある。それは開いたハートから生まれる。子供は、怖れる理由などどこにもないことを知るだろう。これが、怖れていない人々だ。あなたは開くことが出来る。そして、これが全く異なった生の始まりだ。一度それを学んだら、開かれたハートは両親からの愛を受け取ることが出来るだけでなく、存在全体からの愛をも受け取ることが出来る。 

秘密の全ては簡単なことだ。ハートを開くこと。だが実際に起こって来ていることは、両親も互いに愛し合ってはいないということだ。夫は、夫であるがゆえに愛する。彼は愛していると思っている。妻は服従のもとに愛する。彼女は結婚したことで、奴隷となったからだ。彼女は愛さねばならない。何か強制的なものが存在する時、愛の美しさは消え去り、愛の真実は全く反対のものへと変わる。 

夫と妻は互いに愛し合う。そして同時に互いに憎み合ってもいる。彼らは憎み合う。なぜなら強制的に、社会の決めごと、慣習、法律のもと、愛さなければならないからだ。夫は愛を要求出来る。だが、それは多くを要求する愛だ。微妙なやり方で彼らは求める。あからさまではない。夫が家に帰って来る。妻は全く問題なかった。ラジオを聴き、テレビを見、鼻唄を歌い・・夫が帰って来るや、彼女は瞬く間に横たわり、そして突然の頭痛だ!

言い伝えでは、アダムは絶えず神を悩ませていた。最初、彼はひとりだった。人生において何か欠けているものがあるなどとは、思ってもみなかった。だがそのうち彼は、雄牛が雌牛に何かをしているところを見た。彼は神のもとまで走って行き、言った。「何が起こっているんです?あの雄牛は雌牛に何をしているんですか?」すると神は言った。「こう何度も私を悩ませないでくれ。私はお前に言ったはずだ。雄牛は雌牛を愛しているのだと」 

それにしても、あらゆる動物や鳥達が・・アダムは、繰り返し繰り返し訊ねていた。ついに神はうんざりして彼に言った。「お前にも妻をやろう」そして次の日の朝、アダムは神の後ろを追いかけて来て言った。「ちょっと失礼しますが、頭痛ってのは何ですか?」初夜、人類の始まりのまさに最初の夜に持ち上がった、最初の問題が頭痛だ。妻は頭痛がした。 

これが支配の方法だ。妻が頭が痛い時、当然あなたは優しくならざるを得ない。口論したり議論したり、彼女が間違ってしたことを言ったりする時ではない。いつか別の時に・・今はその時ではない。彼女はすでに苦しんでいる。頭痛は、同情を請うひとつの手段だ。だが、それは愛ではない。男は思いやりを示すだろう。同情は愛と比較すると醜悪だ。常に覚えておきなさい。こうした質は、みな相対的だ。同情は、反感と比べればましだ。が、同情は、愛との比較においては非常に貧しく醜悪だ。 

あなたはアルバート・アインシュタイン相対性理論について、聞いたことがあるだろう。誰かが、それを簡単な格言に言い換えてみた。相対性理論とは、全てはあなたがトイレのドアのどちら側にいるかにかかっている、ということだ。もしあなたが内側にいれば、時間は早く過ぎて行く。そしてもし外側にいれば、時間はゆっくりと過ぎて行く。同じ時間だ。ただドアが問題の全てを作っている。 

愛は、それが求められていない時、要求されていない時にのみ、その美しさの中で花開くことが出来る。それが自ずとやって来る時、たとえ無意識であっても、そこには途方もない美しさがある。あなたが要求するや否や、それはやって来るかもしれないが・・というのも、妻はあなたに依存していて、あるやり方で夫も妻に依存しているからだ。愛は、ふたりの、独り立ちしている人間の間に起こる。互いに奴隷となっているふたりの間には起こらない。そして、哀れな子供達は、ハートを開く秘密を知らない、こうしたふたりの人間に育てられるのだ。 

当然、彼らはまさに最初から始める。母親は言い続ける。「彼があなたのパパよ。笑って!」まるでこうしたことが命令出来るかのようだ。「笑いなさい」・・哀れな子供は、微笑まなければならない。だが、この父親と呼ばれる間抜けなドードー鳥に、可哀想な子供が微笑まなければならない何があると言うのかね?可哀想な子供には、この男が、自分が微笑まなければならないような何をしたのか理解出来ない。だが、彼は微笑まなければならない。 

その微笑みは、自然にジミー・カーター・スマイルになる。全くの偽りだ。子供は政治家になり始める。自分がいい子だと思われる、認められる方法を知っているがゆえに、彼は微笑むのだ。微笑まなければ、出来が悪いと思われる。そして、誰も出来が悪いと見定められたくはない。そのようにして、子供は偽りを学び始める。偽りの微笑み、偽りの愛、偽りの尊敬を。 

より意識的で真正な世界では、夫と妻はまず、いかにして独立を保ち、それでもなお愛が通い合うのを許すかを学ばなければならない。彼らは、あまり近づき過ぎるべきではない。カリール・ジブランが恋人達にこう語る時、彼は正しい。「あなた方は、寺院の柱のように立つべきだ。遠くに離れてはいるものの、同じ屋根を支えている」あなたの愛は、あなたの手で支えられるべきだ。だがあなた方は、互いに自分自身の個人の領域、自分自身の個人のスペース、自分自身の個で在ることの為の、充分な隙間を残しておくべきだ。

あなた方は、互いに侵害すべきではない。だが、侵害するどころか・・夫と妻は、互いの探偵に、FBI局員になってしまっている。彼らは絶えず目を光らせている。「何が起こっているのかしら?」と。これは愛ではない。これは支配だ。これは完全に動物的な性欲だ。子供はこの状況から生まれる。しかも不幸なことに、こうした人々に育てられなければならない。彼ら自身、愛の何たるかを知らない。彼らは列車に乗り遅れたのだ。そして、彼らは子供が列車を乗り過ごすように訓練する。これが代々続いてゆく。 

先日、ヴィーナからの質問があった。「どうしたらハートを開くことが出来ますか?」というのだ。これはまるで、目の開け方を訊ねるようなものだ。もしあなたが、まさに最初から目を開けることを強いられ、命令されたら、おそらく目を閉じることで報復するだろう。それがあなたの主張であり、個人で在ることとなるだろう。そして、目の開け方を完全に忘れ去るかもしれない。ハートを開く為のトレーニング、訓練やテクニックがあり得ると思うかね?それはもうひとつの間違いだ。 

あなたは自分のハートが開いている、という振りをすることも出来るだろう。それこそが、訓練やトレーニングやテクニックによって起こることの全てだ。必要なのは、なぜハートが閉じているのかということへの、深い理解だ。ハートを開くことに関して、心配する必要はない。なぜそれが閉じるのかを知ることで、あなたはそれを閉じさせていた、全ての恐怖と出会うことになる。そうした恐怖は、そこには存在しないのだが、ひとたびあなたが扉や窓を閉めれば、それらは閉じ込められたままとなる。 

今や、誰もあなたを強いてはいない。あなたは大人だ。あなたは自己を主張することが出来る。個人であり得るのだ。父親に言うことも出来る。「もしあなたが愛するに値すれば、私はあなたを愛します。でも、あなたが私の父親だからというのではありません」母親に言うことも出来る。「愛するに値するような質を創り出してください。私はあなたを愛するでしょう。私だけではなく他の人達もまた、あなたを愛するでしょう。あなたが私の母親だからではありません」 

愛は、合理的ではない。それは三段論法ではない。彼女はあなたの母親だ。従って、あなたは彼女を愛するべきだといったような。何であれ、強制が入って来るところ全てで・・愛は、非常にデリケートだ。消え去ってしまう。 

全ての人は、自分が思い描いているよりも遥かに、愛情を受け取り、分かち合い、愛を生そのものにすることに歓喜するに値する。誕生は、あなたの手の内にはない。死もあなたの手の内にはない。誕生と死の間で、ただひとつのことだけが、あなたの手の内にある。それが愛だ。残念なことに、あなたのこの唯一の自由は、全ての人に対して開かれていない。 

プレム・ニーラ、あなたはこう言っている。「私は、それほどの愛を受け取るに値しますか?」あなたはさらに多くのものに値する。ただ、受容的であることを学ぶこと。ただ謙虚さを学ぶこと、簡素であることを学ぶこと、ただ信頼して在ることを学ぶこと。たとえ全世界があなたを裏切ろうとも、それでも信頼しなさい。なぜなら、彼らが人を欺いているかどうかは、彼らの問題だからだ。それはあなたの問題ではない。 

何が起こるというのかね?ひとりの人があなたを裏切る。するとあなたは、全人類に不信を抱き始める。この愚かしさが分かるかね?たとえ全人類があなたを裏切ったとしても、私はあなたに言おう。「それでもなお信頼しなさい」なぜなら信頼は、遥かに価値のあるものだからだ。それには本質的な価値がある。それは、相手が信頼に値するか否かによるものではない。そして、たとえ相手が信頼に値しなくても、あなたがその人を信頼することが出来れば、あなたはその人のハートの中にもまた、革命を創り出すことが出来る。なぜならあなたがそうであるように、彼らもまた人間だからだ。 

彼らもまた、あなたがそうであるように、同じ社会、同じパターンの犠牲者だ。窓をひとつ開けることが出来たあなたは、幸運だ。偶然にも扉を勢いよく開け放ったあなたは、幸運だ。あなたが閉ざされた人類の一部でないことは、幸運だ。今や、このほんの少し開いていることが、さらに大きくならねばならない。事実、愛の生においては、全ての窓や扉が消え去る瞬間が来なければならない。それだけではなく、壁もまた全て消滅するような瞬間が・・ 

あなたはただ、開かれた空の下にいる。星の下に。するとあらゆる方向から、あらゆる次元から、なぜそれが自分に起こっているのか信じられないほどの、あまりにも多くの途方もない愛と至福が、あなたに降り注がれる。これが世界における唯一の奇跡だ。水の上を歩くことは、奇跡ではない。それは愚かしさに過ぎない。水をワインに変えることは、奇跡ではない。それは犯罪だ。私が気づいているただひとつの奇跡は、完璧にあますところなくハートを開くことだ。どんな状況も、どんな条件も、それを閉じることは出来ない。

瞑想があなたを助ける。瞑想は、さながら黄金の鍵のようだ。多くの扉を開くマスター・キーだ。それは、愛の扉を開くことも出来る。あなたが静かになる時、平穏になる時、自分の生命力に気づく時、そこに死が存在しないことに気づく時、恐怖は消え去る。そしてまさに、恐怖が根こそぎに消滅するに伴って、自らのハートを閉じ続けている意味も消え去る。あなたは、あなたのハートを友人に、そして敵に開くことが出来る。親しい人に、そして見知らぬ人に。するとあなたは、想像だにしなかった贈り物を受け取ることになる。

 

あなたはこう言っている、ニーラ。「ここ数ヶ月に渡って、私は自分の執着を解き放つ驚くべきプロセスを通り抜けていました」それは驚くべきプロセスだ。だがそれは、私が生涯に渡って全ての人に語って来ているプロセスだ。それは、あなたの執着は障害であり、橋ではないということだ。あなたの執着は、あなたを自分自身の大いなる可能性に気づかせない。物事や人に執着すればするほど、あなたはさらに奴隷になる。執着は、精神的な隷属のもうひとつの美名だ。金銭に執着する人は奴隷だ。 

私はかつてひとりの男を知っていた・・私は、これと同じ執着を持った人と出会ったことがない。彼は、もしあなたが100ルピー札を持っていれば、こう言うくらいの金の亡者だった。「ちょっとそれに触らせてくれないか」彼は、まるで愛する者に触れているかのように、想いを込めて触ったことだろう。彼にお金をあげて、それを取り戻すのは不可能だった。私は彼を知る人全てに、彼について訊ねた。彼らは言った。「彼は誰の金も返したことがありません。みんな哀れに思っているんです。誰も頭には来ていませんね。彼は気違いで、金に取り憑かれていると思っているんです」 

満月の夜、通りを歩きながら、彼は突然何かを拾い、そしてそれを遠くへ投げ捨てた。そして言った。「もしこいつに会ったら、俺は殺してやる。こん畜生は、まるでルピーに見えるような唾を吐きやがった。月光の中で光って見えたんだ」そんなにも彼は狂気じみていた。彼は小さな衣料店を営んでいた。そして数ヶ月間、私はちょうど彼の店の隣の、小さな家に住んでいた。私は、彼の店で繰り広げられ続けていたショー全体を見て、困惑した。 

つけの払いを取り立てに来る何人かの人を、彼は知っていた。彼はすばやく私に合図を送ると、店の裏のトイレの中に隠れた。いつでも彼は、ある老女を特に避けていた。私は彼女に言わなければならなかった。「彼はここにはいませんよ」だがある日、私は彼女に言った。「どういうことなんですか?あなたがいつ来ても、彼がここにいないなんて?」彼女は言った。「どうもこうもないよ。あの男は私を恐れているんだ。私に金を借りているからね。だから当然だろう?私は物を買ったら、あの男に言うのさ。お前さんが借りてる金から差し引いてくれってね」 

私は言った。「そういうことなら、彼はトイレに隠れていますよ」彼女は言った。「本当かね!」私は言った。「入ってごらんなさい」彼女は「でも、そんなことしてもいいのかね?」と言った。私は「中に入って、ドアを開けてごらんなさい」と言った。そこで彼女は入ってドアを開けた。彼は走り出た。彼は私にとても腹を立てた。私は言った。「もしこんなことだと知っていたら、あなたが店にいないなどと言ってあの女の人を欺くことは、決してしなかった。あなたは彼女に借金があるんでしょう?」 

彼は言った。「私はみんなから金を借りているんだ。この辺一帯では、私が金を借りていることはみんな知っている。だが、あなたは私のことを知ってるだろう。私は一度手に入れた金を返すことは出来ない。金を返すなんてことは、心臓発作ものなんだよ」 

これはほとんど狂気の沙汰だ。執着はみな程度の違いこそあれ、あなた自身をおとしめ、お金の為に死ぬ用意があるほど、権力の為に死ぬ用意があるほど、自分の欲望を叶える為には何であろうとする用意があるほど、何かをあまりにも重要にしてしまうようだ。こうした執着全てが、あなたの価値を破壊する。あなたの中の美しさ、価値あるもの全てを取り去って行く。あなたは自分が執着し、夢中になっている物より小さくなる。執着を持たない人は、途方もない自由を手にしている。失うものなど何もない。そしてもし、全てが失われたとしても、彼は一瞬たりとも振り返ることはないだろう。 

私はあなた方に、ディオゲネスの逸話を語ったことがある。彼は裸で暮らしていた。彼は西洋世界において、インドのマハヴィーラと比較することの出来る、ただひとりの男だ。彼らは同じ時代を生き、両者とも裸で暮らしていた。ふたりとも、途方もなく美しい肉体を持ち、非常に強い人間だった。ディオゲネスは川に行こうとしていた。彼は托鉢の為の椀のみを持ち歩いていた。マハヴィーラは、托鉢椀を使うことはなかった。なぜなら、持ち慣れた物というのは全て、微妙な精神的隷属を作り出すからだ。 

マハヴィーラは飲んだり、食べ物を取るのに、自らの手をコップの形にした。だがディオゲネスは、いにしえの世捨て人がみなそうしたように、托鉢椀を持ち歩いた。彼は川に向かって走っていた。彼は非常に喉が渇いていた。暑い日だった。ちょうどその時、犬が横を走って行くのが見えた。犬は彼よりも先に川に飛び込み、飲み始めた。ディオゲネスは非常に腹を立てたが、また、その犬に深い感謝も感じた。犬は彼に、托鉢椀など必要ないことを見せてくれたのだ!それがなくても水を飲むことは出来るのに、なぜ不必要に持ち歩いているのか? 

「犬が托鉢椀なしに、何とか生きてゆくことが出来るのなら、私は人間だ。何とか出来る」まず彼は、托鉢椀を放り投げて言った。「あれは私の唯一の持ち物だった。私は自分が、全ての執着を乗り越えたと思っていた。が、あの椀を投げ捨てたことで、今自分が本当に自由になったのが分かった。そうではなかったから、私は誰かが托鉢椀を盗むかもしれないと、目を光らせていたのだ」それは王から贈られた美しい椀だった。美しく彫られた物だった。それがそこにあるかどうかを確かめる為に夜、時折托鉢椀に触れたものだった。彼は言った。「あの犬が教えてくれて以来、私は大いなる自由を感じている。そして私のハートから、そうした重荷が解き放たれた」 

これが托鉢椀における状況ならば、物が自分達の生となってしまうほどに所有欲が強く、あまりにも多くの物を所有している人々の状況はどうだろう?そして覚えておきなさい。あなたがひとりの人に執着する時、その人はもはや人ではなくなる。あなたはその人を、日用品、物に変えてしまった。物質のみが、所有可能だからだ。 

もし夫が妻を所有するとしたら、彼は彼女を物へとおとしめたことになる。そして、妻は決して彼を許すことは出来ない。もし妻が夫を所有するとしたら、彼女は人間を日用品へとおとしめることで、最大の罪を犯したことになる。物のみが所有可能だ。意識的な人間を所有することは出来ない。 

だがあなたは、自分の子供ですら所有する。あなたは言う。「これが私の子供です」と。あなたは、もっと醒めていなければならない。あなたはこう言うべきだ。「この子供は、私を通ってやって来たのです。私は通路でした。でも、彼は私のものではありません。彼は、存在のものです」もしこの洞察が、あなたの中でしっかりと腰を据えたら、あなたは子供を、自分のカーボン・コピーにしようとはしなくなるだろう。 

あなたは子供に何を教えられるのかね?あなたが知る全ては、過去のものだ。それは死んでいる、それは去ったものだ。決して戻っては来ない。子供は、あなたがそれについて何の理解も持っていない未来の中で、生きなければならない。あなたは未来を知る由もない。未知なるものへと、子供の用意を整えなさい。冒険に満ちているように、子供の準備を整えてあげなさい。子供が、危険に満ちて生きることを学べるように、準備してあげなさい。なぜなら、安全や保証を求めれば求めるほど、あなたは自分自身が作り出している牢獄の中に、閉じ込められることになるからだ。 

囚人は、愛する者になり得ない。自由のみが、愛の芳香を知っている。自由のみが、あなたの途方もない価値を知っている。そしてそれがあなたに、エゴや傲慢さを与えることはない。それはあなたを、かつてなかったほど真に謙虚にする。あなたはそれに値しない、だがそれでもなお、存在はその有り余るものから、あなたに非常に多くを与える。あなたは初めて感謝の感覚、謝意を学ぶ。私にとって、感謝が唯一の祈りだ。何も語られるべきではなく、ただ感謝を感じることが・・ だが、人々は不平でいっぱいだ、感謝ではなく。

 

ヴィーナは、いかにしてハートを開くか訊ねて来た。なぜなら、彼女は醜い手紙を書いたからだ。そして今度は別の手紙を書いて来た。彼女は、自分が最初の手紙より良くなったと考えている。が、彼女の基本的なポイントは依然としてそこにある。彼女はこの家に住んでいた。そしてさらに大きな図書館を作る為に、この家から17人の人々がキャンパス内の他の家に移された。キャンパス全体はひとつだ。彼女は、この家にいたことに決して感謝していなかった。が、自分がこの家から移されたことには、非常に深刻に文句を言っている。彼女は他にも16人の人々が出て行ったことは、気にかけていない。 

その16人は、感謝の手紙を書いて来た。私と共にその家に住んだことに感謝していると。そして図書館の為の場所を作る為に、自分が選ばれたことに感謝していると。彼らは途方もなく幸せで、感謝に満ちている。ただひとり、彼女だけが不平を言っている。なぜ自分が他の家に移されたのか訊ねている。彼女はボーイフレンドと同じ部屋に住んでいる。人々の為の充分なスペースがないことを、彼女は知っている・・ 

私達は、さらに多くの場所を見つけようとしている。そして数ヶ月以内には、あなた方はみなコミューンの中に場所を得るようになるだろう。だが、ただ私の名前ゆえに、どの家の値段も3倍に値上がりしている。その為に少し難しくなっている。だがあなた方が困難な中、外で暮らしているのを私は知っている。私達がプーナに帰って来る前には、1ヶ月1700ルピーで借りられた部屋が、今では1ヶ月8000ルピーでサニヤシンに貸し出されている。価格は7,8倍に値上がりした。 

だがヴィーナは、自分がコミューンにいることに感謝を感じることはないだろう。彼女は、何千ものサニヤシンが外に住み、市場価格の8倍、あるいは10倍もの、あまりにも高い金を払っていることなど考えもしないだろう。2000人のサニヤシンが外に住んでいる。そして彼女は、自分自身の為の独立した部屋が欲しいと要求している。それは自分の恋人の為の独立した部屋と、彼女自身の為の独立した部屋という意味だ。私達にはスペースがないことに、完璧に気づいていながら。 

要求する時、この瞬間に満たされることが不可能なことを要求する時、あなたは閉じてしまう。あなたは腹を立てる。彼女は腹を立てている。私が困惑するほど怒っている。私がやって来るといつでも、彼女は両手を合掌して座ってはいた。が、決して目を開けようとはしなかった。彼女は完璧に知っている。私が彼女の目を見たら、何が彼女に起こっているかを、私がすぐに見て取ることを。それを避ける為に、彼女は目を閉じ続けていた。そして、彼女が内側では煮えくり返っていたのを、私は知っていた。 

誰もが自分を愛し、誰もが互いに尊敬し合い、階級制度が存在せず、より高い誰かや、より低い誰かといったことが存在しないコミューンの一部であることに、感謝を感じるよりむしろ・・自分が小規模な実験、全く新しい世界に生きている、ということに感謝を感じるよりむしろ、彼女は愚かしいことに関心を寄せている。これがマインドの機能の仕方だ。そしてそうなると、それは閉ざされる。閉ざされると彼女は、私が彼女を愛していないことに腹を立てる。 

私の愛は開かれている。ちょうど、太陽の光が手に入るのと同じように。あなたが、自分の目を開かなければならない。私の愛は、特定の人々に向けることは出来ない。なぜなら私にとって愛は、関係性になり得ないからだ。私は愛だ。私は、あなた方と分かち合うことが出来る。私は、瞬間ごとに分かち合っている。受け取る能力のある者が、それを受け取る。彼らに可能な限りの多くを。そしてその許容量は、彼らがハートを開いていることにかかっている。だが怒っているハートや、恐れているハートは、開き得ない。 

それは単に、理解の問題だ。あなたは、自分のハートが開くのを強いるべきではない。それは助けにならない。あなたはただ、理解しなければならない。あなたは2足す2が5だと言ってるようなものだ。トレーニングは必要ない。ただ自分が計算を誤っていたという単純な理解、それで終わりだ。2足す2は4だという計算を始めなさい。5をどうしたらよいか、いかにして5を取り除くか、などと訊ねてはいけない。 

生の多くは、理解の問題だ。そう何であれ、生があなたに与えているものを理解し、注意を払いなさい。あなたはそれに値するだろうか?私達は何にも値しない。知性、愛、生それ自身。私達は値しない。もしあなたに生が与えられていなかったら、苦情係のオフィスで、苦情を申告することも出来なかっただろう。「なぜ自分には、生が与えられなかったんだ?トム、ディック、ハリー、私以外はみな、生を与えられたというのに」いや、そんなことはあり得なかったはずだ。 

生が、あなたに与えられた。成長する為の能力が、あなたに与えられた。意識の究極の頂きに行く為の、あらゆる機会があなたに与えられた。愛の中で開花し得るハートが、あなたに与えられた。ちょっと、生への感謝を感じてごらん。あなたが感謝を感じるにつれて、あなたはさらに値するようになる、さらに謙虚になる、恨みもなく、不平もない。これがまさに、宗教的な人の在り方だ。 

あなたは宗教的になる為に、組織宗教に属する必要はない。宗教性とは、存在に対するあなたの感謝だ。こんなにも美しい木々、こんなにも無限な空、有り余るほど多くの星々、そして、あなたはそれに何も払ってはいない。この途方もない宇宙が、その美しさ全て、昇る朝日、沈む夕日、あらゆる花々、そして美しい人々と共に与えられている。見てごらん、するとあなたは、あまりにも多くのことが与えられていることに気づくだろう。だがあなたは、それを当り前のこととしている。 

あなたはそれを求めることなしに、要求することなしに、存在からの贈り物として見ることは決してしなかった。ひとたび、既に与えられている全てを見始めたら、あなたのハートは感謝でいっぱいになる。そしてその感謝が、全ての扉を、全ての窓を開く。存在は、ただひとつのことによって橋を架けられている。それは感謝だ。その時、奇跡があなたに起こり始める。その時、神秘がその扉をあなたに開き続けてゆく。謙虚であればあるほど、シンプルであればあるほど、感謝すればするほど、あなたはさらに値するようになる。そして、あなたの価値には限りがない。 

アイザック・アシモフは、美しい格言を生んだ。「神は、全ての人を愛する。だが、誰にも魅せられてはいない」存在は、全ての人を愛する。そして自我として、人格として消え去った人は、存在の乗り物以外の何ものでもない。彼は、愛するのではない。彼は愛だ。私はあなた方に、オスカー・ワイルドのことを思い出して欲しい。彼は言う。「自身を愛することは、終生のロマンスの始まりだ」 

あなたがあなたの周りで、あなたの内側で起こっている、奇跡の何たるかを見て取れば、あなたは自分自身にも敬意を払うようになる。自分自身を愛するようにもなる。存在全体があなたを愛しているなら、あなたは自分自身を愛する。そして、これこそが離婚を知らない、ただひとつのロマンスだ。が、それは傲慢ではない。それはエゴイスティックではない。これは理解されねばならない。なぜなら、エゴは閉じている要因だからだ。傲慢さは、あなたを存在から切り離す。 

誰でもない人でいることが、世界で最も偉大な達成だ。だが、私達はあまりにも狂った世界に生きている。私が狂気の世界と言う時、私は狂った人類のことだけを言っている。それは要求し続け、何の感謝もない。誰もが、自分は非常に価値があると思っている。ただ生が、正しい機会を与えてくれていないだけだと。人は、異なった方法で理解するべきだ。何が与えられていようと、あなたはそれに値しない。要求する権利はどこにもない。全ては、有り余るものから与えられている。あなたの権利ゆえではない。 

ひとりの女性が精神科の主治医のもとへ行き、こう言った。「先生、夫のことでお話ししたいんですが・・彼は自分を冷蔵庫だと思っているんです」「大したことはありません」と医者は言った。「比較的、害のないコンプレックスですな」「ええ、多分」その婦人は答えた。「でも彼ったら、口を開けっ放しで寝るもんですから、私はその光で、目が覚めっぱなしなんですの」 

私達は、こうした世界に生きている。そこでは自分が狂っていることには、決して目を向けない。誰もが自分達のゴミをみな、他者に投げつけている。この女性は、夫が狂っていると思っている。が、実際のところは、彼女こそ狂人なのだ。彼女は、彼が冷蔵庫だと信じている。問題は、彼が冷蔵庫だということではなく・・彼は地獄に行くことも出来よう・・問題は、彼が口を開けて寝、光で彼女は一晩中眠れないことだ! 

常に思い出しなさい。いつであれ、あなたが何かを非難し始める時・・いつでも思い出しなさい。あなたが存在に対して不平を言おうとしている時、存在からあなたにもたらされたもののリストを、あなたは作ったことがあるかね?いや!与えられているという考えすら、誰も持っていない。だが何か小さなことが欠けても、あなたはそのことで騒ぎ立てる。それがあなたの狂気を示す。 

正気の人間は、あますところなく至福に満ちている。ただ、あまりにも多くのことが手に入るからだ。しかも、求めることなしに。彼は、この美しい世界を決して要求したことがなかったのに、それを与えられている。そして彼は宇宙に、感謝したことすらなかった。

OSHO、THE INVITATION. より抜粋 (1987年8月26日)