OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

85.選り好みをしない感謝のアート

<OSHOの講話より> 

探究者の道は、素晴らしいスペースに満ち、また索漠とした瞬間にも満ちている。朝、太陽が昇り、鳥達が歌い始め、大地いっぱいに花が微笑むように喜びに満ちている。だが常にそうではない。途轍もない闇の瞬間がある。人は途方にくれ、自分がどこにいるのか分からず、この夜は終わろうとしているのか、それとも始まろうとしているのかも分からない。 

これは、非常に深く理解されなければならないことだ。道は登ったり下ったりする。それは常にエクスタティックではない。そして、常にエクスタティックでないのはよいことだ。さもなければ、あなたはエクスタシーで疲れ切ってしまう。 

1日24時間笑ってはいられない。少しの休みも必要だ。暗く、途方にくれた感じがする瞬間は、リラックスする瞬間だ。そして喜びを、微笑みを感じる瞬間は、歓喜する瞬間だ。 

だが人は、選び始めてはならない。両方とも同じように受け容れられる。両方とも同じように避けられない。暗く否定的、明るく肯定的・・・この両方の瞬間が平等だ、ということを理解する必要がある。そうすればあなたは、喜びに満ちた瞬間だけを求めてはいない。あなたは全く何も求めていない。 

あなたは存在が自分に与えてくれる全てを、ただ歓喜している。どのような贈り物であろうと・・・暗夜、あるいは喜びに満ちた朝、涙、あるいは微笑みかもしれないが・・・それは問題ではない。あなたの感謝は、変わらず同じままだ。 

そのような探究者だけが、何が起こっても自分の感謝がぐらつかない探究者だけが、平等に歓喜する。平等に感謝する。それは少し難しい・・・物事が上手くいっていると、感謝を感じるのは簡単だ。だが本当の感謝は、物事が上手くいっていない瞬間にこそある・・・その瞬間が、あなたの感謝の試練の瞬間だ。 

そのような瞬間を経てのみ、あなたの感謝はますます確固としたものに、凝縮したものに、中心の定まったものになる。あなたは根を張り始める。あらゆることが良い時に、神に感謝を感じるのは、存在に感謝を感じるのは、とても簡単だ。 

あなたは「私があなたと共にいるから感謝しています」と私に言っている。あなたの感謝は、私があなたと共にいなくなる時も、変わらず同じままでなければならない。そうなってこそ、あなたの感謝は状況に左右されることなく、あなたの実存に中心が定まっている。外側に依存せず、あなたの内なる実存から湧き出ている。 

あなたの感謝が、外側の変化で変わり得ない時、それはあなたのものだ。そしてその為に、選り好みしないアートを、あなたは学ばなければならない。 

あなたは「私があなたの内側を静かな水のように流れ、自分を内なる微笑みにゆっくりと溶かし込んでいきます」と言っている。それは素晴らしい。が、このような瞬間は、あなたにその微笑みがもうそこにはないかもしれない瞬間を、自分を微笑ませてくれているその水音が聞こえないかもしれない瞬間を、思い起こさせる為にある。 

魂の暗夜があり、あなたは真正な探究者なのか、それともただ上辺だけの好奇心のかたまりに過ぎないのか、あなたの本当の試練は、素晴らしい瞬間ではない。本当の試練は、あらゆることがなくなったように思われる瞬間、あらゆることが、自分に対抗しているように思われる瞬間にこそある・・・ 

それでも微笑むことが出来、存在に感謝することが出来たら、物事が変わり始める。ゆっくりゆっくりと、闇の隙間は小さくなり、光のスペースが長くなって来る。選り好みしないことが深まると、闇が消える。もはや夜がない日がやって来る。常に夜明けで、鳥達が歌い、花が咲き、微笑みが作りものでない為に、飽きることのあり得ない微笑みが、あなたに浮かぶ日がやって来る。 

それはただそこにある。まさに花の芳香のように。花達はそれに飽きていない。あるいは、まさに呼吸のように・・・1日24時間、70年間絶えることなく・・・あなたはそれに飽きてはいない。選り好みしない意識の境地の後で、初めて人はあらゆる瞬間ごとに、オーガズミックに至福に満ちたままでいることの出来る瞬間に到達する。そしてそれが、私達のターゲットだ。 

私は、何千人もの人々と共にワークして来た。そして問題は、物事が上手くいっている時には、彼らは非常に感謝するということだ。だが物事が上手くいかず、私が彼らに、物事が上手くいかない時があることを、絶えず気づかせると・・・それこそまさに存在の働き方、存在があなたの成長の為に、両極の間に弁証法を創り出すやり方なのだが・・・彼らは私に怒るようになる。 

ちょうどあなたが微笑んで感謝しているように、彼らは復讐心に燃え、怒るようになる。そしてどの場合も、私は全く関わっていない。あなたが感謝している時、私は関わっていない。そしてあなたが怒り恨んでいる時も、私は関わっていない。どの場合も、あなただけだ。 

これは深く認識されなければならない。それは常にあなただ。あなたは私に責任を押し付けることは出来ない。だが、もし私があなたの感謝を受け容れたら、当然あなたは自分の恨みを私に押し付けがちにもなる。 

だから私は「ありがとう、OSHO」という言葉を聞くたびに、いつも少し躊躇する。そうなったら危ないことになるのが、私には分かっている。私は厄介なことに巻き込まれる。というのも、その微笑みが消え、悲しみの、鬱積した涙が目に浮かぶ時、あなたは一体どうするかね? 

谷があり、頂がある。道は長い。太陽に輝いた頂きにいると、あなたは喜びの叫びをあげ、感謝する。だが暗く深い谷間にいて、完全に途方にくれると、あなたは恨み始める。いいかね、それは常にあなたの体験だ。それを私に投影してはいけない。 

ひとり立ちして責任を取るがいい。それがあなたを成熟させる。そしてあなたの恨み、あなたの怒りという厄介なことから私を救ってくれる。私には何の問題もない。あなたは恨んでもいい、怒ってもいい。私にとっては全て同じだ。あなたが感謝していようといまいと、私にとっては全て同じだ。 

あなたにとっても同じになるように、私はあなたに選り好みしないアートを学んで欲しい。そして、感謝するものが何もない時の感謝の美しさは、まさに大いなる奇跡、マジック、変容の途方もない瞬間だ。 

それには大いなる知性が必要だ。サティヤデヴァ、あなたはその知性が自分にあることを証明してくれるものと、私は望んでいる。私は、生の最も深い神秘を理解する、正しい知性を誰もが持っている、と皆を信頼している。 

ある日、ポーランド野郎が店に入って来て「エッグスキー、ミルクスキー、ブレッドスキーをくれ」と言った。店主は彼を見て言った。「あんた、ポーランド野郎かい?」「そうだけど・・・」とポーランド野郎はどぎまぎして答えた。「どうして分かったんだ?」「簡単さ」と店主は言った。「あんたは言葉の最後に何でもスキーをつけちゃうもんなあ」 

ポーランド野郎は、絶対に英語をもっと上手くしゃべれるようになろうと決心した。5年間、夜間学校に通いこれでよしと思うと、商店街に戻って1軒の店に入った。そして完璧なアクセントで言った。「エッグを1ダース、ミルクを1ビン、それにブレッドをひと山頂けますか?」店主は彼を見て言った。「あんた、ポーランド野郎かい?」「何てこった!」ポーランド野郎は叫んだ。「何でそんなことが分かるんだ?」「簡単さ」と店主は言った。「うちは金物屋だもんなあ」 

OSHO、Sat Chit Anand、#18 より抜粋