OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

91.神性の海

<OSHOの講話より>  「未知への扉」 第4章: 神性の海 (1971年)  

質問:OSHO、愛や恩寵という特質は神の属性とされてきました。このような特質は存在するのでしょうか?神は存在するのでしょうか? 

神が存在すると言うのは正しくない。なぜなら、存在するものはすべて神聖だからだ。実のところ、ありとあらゆるものが存在すると言ってもよいが、神が存在するという言い方だけは成り立たない。存在そのものが神聖だ。神聖であることと存在することとは、言い方が違うだけで同じことだ。それゆえに、存在の特質を神に帰することはできない。 

他のものはすべて存在すると言ってもいい。なぜなら、それらは無のなかへ消え去るからだ。私は存在すると言ってもいい。私は無のなかへ消え去るからだ。あなたは存在すると言ってもいい。あなたが存在しないときもあったからだ。だが、神が存在するという言い方は成り立たない。神は常にそこにあるからだ。「神」が存在しなくなるなど想像もできない。したがって、存在は神の属性ではありえない。私はこう言う・・存在は神聖だ、あるいは、聖なるものとは存在を意味する、と。 

神聖でないものなど存在しない。あなたが気づいていようといまいと、あなたが神聖であることに変わりはない。それに気づけば、あなたは存在そのものと化す、至福と化す。気づかなければ苦しみ悶えつづけるが、それでもあなたは神聖だ。眠っていても、無知であっても、あなたが神聖であることに変わりはない。自覚はないが、石ですら神聖だ。存在は神聖だ。 

神が存在することを証明しようとする者たちはみな知らない。神が存在することを証明するのはまったく馬鹿げている。そして、神が存在しないことを証明しようとする者たちも同じ舟に乗っている。だが「存在」が存在することを証明しようとする者などいない。もしあなたがそのような言い方で、「存在」が存在するかどうかを私に尋ねたりしたら、質問そのものが馬鹿げたものになる。 

誰かが神は存在すると言う場合、私にとって、それは「存在」は存在するというのと同じ意味になる。神と存在は同義語であり、同じ意味だ。存在が何であるかをひとたび自覚すれば、あなたはそれを存在とは呼ばなくなる。そうなったら、あなたはそれを神と呼ぶだろう。全一なる存在を自覚する瞬間、あなたは「存在」という言葉を使えなくなる。前よりも存在と親密になるので、個人的な名前を使わざるをえない。あなたはそれを「神」と呼ぶ。 

存在を「神」と呼ぶのは、まさにこのこと・・存在と親密な関係を持つことができるということ、存在と個人的な関係を持つことができるということにほかならない。それは血の通わないものではない。関わりを持てないものではない、よそよそしいものではない。存在は神だと言うとき、私たちは、存在は私たちと親密な関係にある、と言おうとしている。私たちは、存在と関わりを持つ。存在はよそよそしいものではない。だから、人間の心にとって、存在を表すには神という言葉ほど適切な言葉はない。 

伝統的なユダヤ教徒に尋ねると、彼は「God」を完全な形では使わない。彼は「G-D」のみを使い、「O」を落としてしまう。「なぜG-Dを使い、Oを落とすのか」と尋ねたら、彼らはこう言う。「私たちが何を言っても『あるがままのもの』には及ばない。Oを落とすのは、たんに私たちが全体を伝えることのできない、完全に包含できない言葉を使っていることを象徴的に表すためだ」「O」はゼロの象徴、完全の象徴、全一性、全体の象徴だ。そこで、それは落とされて、「G-D」だけが残る。 

いつどんな言葉を使っても、言葉は決して重要ではないし、全体を包含しうるものでもない。それが指し示すのは、たんに人間のマインドにまつわる何かにすぎず、聖なるものに関わる何かではない。「存在」と言うとき、あなたは無色透明な言葉を使っている。そうすれば、あなたはそれに無関心でいられるし、それもあなたに無関心でいられる。「存在」という言葉を使うときには、あなたと存在のあいだに対話はありえない。そのときには橋がない。 

だが、存在を知った者たちは、森羅万象のすべてと対話が起こることを知っている。あなたは存在と親密な関係を持つことができる。存在に恋することができる。このような対話や関係や恋が起こりうることから、「神」という言葉の方が「存在」よりも重要になる。だが、どちらも意味は同じだ。 

だから、私は神は存在するとは言わない。私は、存在するものはすべて神聖だと言う。存在は神聖だ。存在するということは神聖であるということだ。神聖でないものなど何もない。神聖でないものなどありえない。私たちはそのことを知っているかもしれないし、知らないかもしれない。そのことに気づいているかもしれないし、気づいていないかもしれない。だが、いずれにしても違いはない。 

もうひとつあなたが尋ねているのは、愛や恩寵という特質は神の属性でありうるかということだ。同様に、いかなる質も神の属性ではありえない。特質というものは、対立物が存在しうるときにのみ、ある物やある人に付随しうるものだからだ。あの人は私を愛していると言えるのは、その人があなたを愛さないこともありうるからだ。相手があなたをいつも愛しているならば、あなたは「あの人は私を愛している」と言うはずがない。いつも愛されているならば、そんなことを言っても意味がない。 

私があなたを愛していないとしたら、私にできるのは、あなたを憎むことだけだ。そうなったら、私は「あなたを愛している」と言うことができる。だが、憎むことがありえない場合には、愛という特質を私の属性とはみなせない。そうなったら、愛は特質ではなく、私の本性そのものだ。特質と人の本性の違いはどこにあるのだろう? 

特質とは、顕れて目に見えることもあれば、顕れないこともあるものをいう。特質とは、あなたから奪うことができるものをいう。その特質があろうとなかろうと、あなたは生きてゆくことができる。それはあなたの本質的存在ではない。それはあなたに付随するもの、あなたにつけ足されたものであり、あなたの本性ではない。 

本性とは、それなしではあなたが決して存在しえないものだ。だから、誰かが「神は愛に満ちている」と言っても、その人はものごとの本質を正確についていない。「神は愛そのものだ」と言うイエスの方が正しい・・愛に満ちているのではない。愛は神の本性であって、神が持つ特質ではない。本性は取り替えることができない。神は愛でもあるし、愛は神でもある。なぜなら、愛は神にもとから備わる本性だからだ。 

愛は付属するものではない。付属物ではありえない。愛なき神など思い浮かべることもできない。愛なき神を思い描いているとすれば、そんなものは神でも何でもない。愛なき神を思い浮かべることは、神性なき神を思い描くことだ。なぜなら、愛がかき消されるやいなや、神性は跡形もなく消え失せてしまうからだ。もう一度くり返すが、愛は属性ではないし、恩寵も属性ではない。そういったものは本性だ。 

イソップの寓話に、川岸にいた亀にサソリが「どうか俺を君の背中に乗せて向こう岸まで連れてっておくれ」と頼む話がある。亀は言った。「もっと頭を使いたまえ。僕はそんなに馬鹿じゃないよ。川の真ん中で刺されてしまったら、僕が溺れて死んでしまう」サソリは言った。「俺は馬鹿じゃない。馬鹿なのは君の方だ。君は単純な論理もわからないんだな。俺はアリストテレス学派の論理家だ。君に単純な論理を教えてやろう。君を刺してしまったら、君が溺れて死ぬだけじゃなく、俺まで一緒に死んでしまうだろう。だから、頭を冷やして、論理的になれよ。君を刺したりしないよ。刺せっこないだろう」亀はちょっと考えてからこう言った。「いいだろう。それももっともだ。僕の背中に飛び乗れよ、出かけるぞ」 

川のど真ん中にくると、サソリが刺した。2匹は沈んでいった。死ぬ前に亀は尋ねた。「君の論理はどこへ行ったんだ?まるで筋の通らないことをしでかしてくれたね。君自身、単純な論理だ、絶対に刺したりしないって言ったじゃないか。それなのに、こんなことをしでかしちまって、どうなってんだ。死ぬ前に君の論理をもうひとつ教えてくれよ」サソリは言った。「これは論理とはまったく関係のないことだ。これはおれの性格、本性なんだ。刺さずにはいられないんだ。口では言えても、それから逃げることはできない。どうしても刺さずにはいられないんだ」 

あなたにできたり、できなかったりすることがあなたの本性を示している。神を愛に満ちていないもの、恩寵を持たないものとして思い描くことはできない。かならずそこには愛がある。かならずそこには恩寵がある。言葉に限界があるため、私たちは愛と恩寵という二つの言葉を使う。さもなければ、ひとつの言葉ですむ。それを「愛」と呼んでもいいし、「恩寵」と呼んでもいい。 

二つの言葉を使うのは、愛といえば私たちはかならず何らかの見返りを期待するからだ。が、恩寵はそうではない。誰かを愛するとき、私たちはかならず見返りを期待する。それはどんなに微妙であってもいつもかけひきだ。口にしてもしなくても、相手に告げても告げなくても、内なるかけひきであることに変わりはない。見返りに何かを期待している。私たちが愛と恩寵という二つの言葉を使うのはそのためだ。恩寵の場合は、何も見返りに期待されていない。そして、神は決して私たちに見返りを期待しない。 

だが、聖なる存在にとって、愛と恩寵はひとつであり同じものだ。神は愛に溢れている・・それは神の恩寵だ。神はいつも恩寵と共にある。つまり、神は愛に溢れている。だが、それらは神に属しうる特質ではない。それは神の本性だ。神はそれ以外のものではありえない。私たちが愛と恩寵を区別するのは、誰それが神の恩寵を受けた人として知られていたり、神の恋人になったりしているからだ。これもまた誤った言いまわしだ。神は常に恩寵であり、常に愛だ。だが、私たちの態度がいつも受容的だとは限らない。 

受容的にならない限り、私たちはそれを受け取ることができない。あなたがそれを受け取っていなくても、神の側には何ひとつ欠けてはいない。何か障壁のようなものを、あなたが持ち歩いているだけだ。あなたはそれに対して受容的ではない。それに対して開いていない。あなたはそれに対して繊細になっていない。神の本性は恩寵に満ちている。恩寵そのものだ。だが、私たちに関する限り、受容性は私たちの本性ではない。私たちは生まれながらにして攻撃的だ。そして、この二つは相い入れない。 

攻撃的な心は、受容的にはなれない。攻撃的でない心だけが受容的になれる。それゆえに、攻撃性を少しでも含んでいる特質はすべて落し、ただの扉となって、受け取らなければならない。人は、子宮のように、全一に受け容れなければならない。そうなったら、恩寵は流れてやまず、愛はいつも流れている。

 

恩寵は、至るところから流れている。恩寵は、刻一刻、至るところから流れている。それは存在の本性だ。だが、私たちは受容的ではない。それがマインドの本性だ。マインドは攻撃的だ。私が瞑想とはノーマインド(無心)のことだ、瞑想とは非攻撃的な受容性、開いた状態のことだと強調してやまないのはそのためだ。論理は決して受容的ではありえない。論理は攻撃的だ。何かをやっているなら、あなたは受容的ではありえない。あなたが受容的になれるのは、やっていないときだけだ。 

あなたが無為の境地にあり、まったく何もせず、ただ存在しているときは、全面的に開いているので、至るところから恩寵が流れてくる。恩寵はいつも訪れているのだが、私たちの扉が閉まっている。私たちはいつも恩寵から逃げている。恩寵が私たちの扉を叩いても、私たちは逃げる。私たちが逃げまわるのには理由がある。マインドは生まれると、いつもただちに自己防衛に走る。私たちのしつけ全体、私たちの教育全体、人間の文化全体は、常にそういうものだ。 

私たちのマインド、私たちの文化は、ことごとく攻撃、競争、闘争を基盤としている。私たちはまだ協調の秘訣を身につけるほどには成熟していない。世界は闘争状態あるのではなく、協調して存在している・・他人、隣人はたんなる競争相手ではなく、私をいっそう豊かにしてくれる相補的な存在だ。他人がいなければ、私はそれだけ貧しくなる。この世界から一人でも消えれば、私はそれだけ貧しくなる。彼によって生み出された豊かさ、彼によって周囲に持ち込まれた豊かさは、もはや存在しない。どこかで何かが空虚になっている。私たちは争いながら生きているのではなく、共存している。 

だが、マインド、集合的無意識は、いつも闘争という観点でものを考える。誰かがそこにいるということは、常に敵がそこにいるということだ。敵が基本的な前提だ。友情を育むことはできるが、それはあくまで育まれるものであり、他者は敵だという基本的な前提がある。友情を元からある感情につけ足すことはできるが、その根底に敵意が、他人は敵だという大前提があるために、あなたは決してくつろぐことができない。 

自分の友情をどうしても当てにできないのはそのためだ。友情の根底には敵意があるからだ。あなたは偽りの友情を育ててきただけだ。あなたはあるものを作為的につけ加えた。だが、どこか心の底では敵がそこにいることを、他人は敵だということを片時も忘れない。だから、友達といても、安心できない。恋人といても、安心できない。他人がそこにいると、あなたは緊張する。敵がそこにいるからだ。もちろん、見せかけの友情をつくり上げれば、緊張は減る。減りはするが、それはそこにある。 

こういう姿勢が発達したのには理由がある。進化上の理由がある。人間はジャングルから現れた。人間の進化は多くの段階、様々な動物の段階を経てきた。肉体は知っている。というのも、肉体は人間の所有物ではないからだ。「私」の肉体と言うとき、私は自分の持ち物とは言えないものを自分のものだと主張している。肉体は、長い時代にわたる発達を通して私のものになった。私の基本的な細胞は受け継がれてきたものだ。基本的な細胞のなかに、私はかつて存在した一切のものを受け継いでいる。あらゆる動物、あらゆる樹々・・かつて存在した一切のものが私の基本的な細胞に寄与している。 

私の基本的な細胞のなかには、かつての闘争、苦闘、暴力、攻撃の体験がそっくり蓄積されている。細胞のひとつひとつがかつての進化の苦闘を余さず伝えている。これは肉体面だけでなく、精神面でもそうだ。あなたのマインドは今世で進化しただけではない。それは長い旅を経てあなたのものとなった。おそらくその旅は肉体自体の旅よりもまだ長い。なぜなら、肉体はこの地球で進化してきたものであり、40億年以上を経ていることはありえないからだ。それが地球そのものよりも歳を経ていることはありえない。だが、最初のマインドは別の惑星からきた。それゆえに、マインドは肉体よりもずっと進化の経験を積んでいる。そして、こういった経験のすべてがあなたを暴力的に、攻撃的にさせる。 

あなたはこの現象全体に醒めていなければならない。醒めていない限り、人は自らの過去から自由になることができない。そもそも問題は、自らの過去から自由にならねばならないのに、この過去が絶大で、とらえどころがないという点にある。かつて生を受けた一切のものが今もあなたの内にある。かつて存在したすべてのものが今もあなたの内に種子の形で胚胎している。あなたは過去からやってきた。あなたは過去だ。そして、この過去に方向づけられたマインドが攻撃性を引き起こしつづけ、攻撃という観点でものを考えつづける。 

だから、宗教が受容的であれと語っても、その助言は聞き入れられない。マインドはどうすれば受容的になれるのか考えることができない。マインドは自らが受容的になった体験をひとつしか知らない。それは死だ。マインドは死のなかでは為すすべがなく、手も足も出なかった。マインドが知っている受容的にならざるをえなかった唯一の体験は死だ。だから、誰かが受容的になりなさいと言うと、あなたはどこかで死の影を感じる。私が受容的になりなさいと言うと、マインドは「おまえは死んでしまうぞ。生存したければ、生き残りたければ、攻撃的になれ!適者生存だ。もっとも攻撃的な者が生き残る。ただ受容的でいたら、死んでしまうぞ」と言う。 

このために、受容性は決して理解されることがない・・聞き入れられず、理解されない。受容性は様々な形で語られてきた。誰かが「明け渡しなさい!」と言ったら、それは受容的であれということだ。明け渡しとは、攻撃的になってはいけないという意味だ。誰かが「忠実でありなさい!」と言ったら、それは受容的でありなさいという意味だ。論理を使って攻撃的になってはいけない。存在をあるがままに受け容れ、それを招き入れなさい。

マインドは愛することができない。なぜなら、愛とは誰かに対して受容的になることだからだ。愛のなかでも、私たちは攻撃的だ。友人に尋ねたら、愛は一種の暴力、二人が巻き込まれることに同意した相互暴力に他ならないと言うだろう。そして、こう言うとき、友人はたんなるたわごとを言っているのではない。彼は本気でそう言っている。彼はあることを知っている。 

性行為を行うとき、親密に愛し合うとき、あなたがたの振る舞いはいつも喧嘩とそっくりになる。あなたがたは闘っている。いわゆる愛の顕れである行為に深く入ってゆけば、そのなかに深く入ってゆけば、動物の先祖が見つかる。キスはいつ何どき噛むことに変わるかもしれない。キスを続けてゆくと、キスが深まってゆくと、それは噛むことに変わる。それは優しい噛み方にすぎない。恋人たちは「あなたを食べてしまいたい」と言うことさえある。彼らは深い愛情の表現のつもりでそう言っているのだが、ある意味では、本当に食べようとする。ときにはセックスがとても深く、とても強烈になって、喧嘩とそっくりになることがある。 

二人のパートナー、二人のセックス・パートナーがいつも愛と喧嘩のあいだを行き来するのはこのためだ。夕暮れ時には喧嘩をしていても、夜になると愛し合っている。朝、喧嘩をしていても、夕暮れになると愛し合い、また夜になると喧嘩をする。喧嘩と愛、愛と喧嘩の輪は回り続ける。D・H・ロレンスに尋ねたら、彼はこう言うだろう。「恋人と喧嘩できなければ、あなたは愛することができない」喧嘩は愛を強烈にする。それはたんに強烈な状況をつくりだしているだけだ。 

今ある人間のマインド・・過去から進化してきた現在のマインドは、愛することができない。なぜなら、それは受容的になれないからだ。それは攻撃的であることしかできない。つまり、あなたは愛情深くないということだ。あなたの愛とは他人からの愛を求めることでしかない。愛するふりをしていても、それは要求の押しつけにすぎない。そこには狡猾な論理が働いている。あなたはいつも愛を要求してばかりいる。愛を与えるときですら、いっそう押しつけがましく要求しているだけだ。人間のマインドは愛することができない。 

愛を本当に知っている人々に尋ねたら・・仏陀に尋ねたら、彼はこう言うだろう。「マインドが死なないかぎり、愛は生まれようがない」と。そして、愛がなければ、恩寵を感じ取ることはできない。愛のなかでのみ、あなたは自分を開くからだ。特定のひとりの人だけを愛することなどできない。特定のひとりにだけ開き、他のすべての人に閉じることなどできないからだ。それは行うのがもっともむずかしいことのひとつだ。 

「あなただけを愛している」と言うのは、「私はあなたがそばにいるときだけ息をする、あなたがいなければ息などしない」と言うようなものだ。そんなことをすれば、次にあなたが私のもとへ来るまでに、私は死んでしまっている。呼吸は私の意のままになるものではない。恋もそうだ。だが、私たちが知っている恋とはそういう代物だ。このために、遅かれ早かれ、恋人は相手の恋が冷めてしまったことに気づく。そして、2人は共にそれを知っている。2人は共に、もう愛情がないことを知っている。 

恋人が互いを知れば知るほど、状況はさらに悪くなってゆく。互いを詳しく知るにつれ、希望が失われ、幻滅がつのってゆく。彼らは恋が冷めてしまったことを知っている。恋はあまりに狭量なので、狭量であるべく強いられているので、冷めずに続くことはありえない。 

人は恋人になるのではなく、愛に溢れていなければならない。この愛に溢れる状態は、属性や特製としてつけ足されるものではなく、あなたの実存の強烈かつ自然な顕現としてやって来なければならない。それは外からくる香りではなく、内なる開花であるべきだ。この愛は起こりうる。人は自らの過去に余さず気づいていなければならない。自らの過去を余さず自覚するやいなや、まさにその瞬間、あなたはそれを超越している。あなたはそれを超えている。なぜなら、気づいているものはマインドではないからだ。 

マインドに気づくものは意識(コンシャスネス)だ。意識は過去を持ち歩かない。それは永遠だ。それはいつも今にある。それはいつも新しく、いつも今ここにある。意識は、あなたが自分のマインドに気づくときに初めて知られる。そのとき、あなたは自分の想念に同一化していない。あなたと想念のあいだにはギャップがある。あなたは、これが想念であることを、この攻撃性、この憎しみ、この地獄のすべてが想念であることを知っている。 

想念は切れ目なく続いてゆく。それはあなたが気づくまで、切れ目なく続いてゆく。そして、これは奇跡だが、あなたが気づくと、即座にその連続は破られる。あなたは存在するが、もはや過去の一部としてではない。今やあなたは瞬間に属している・・新鮮で、若々しく、新しい。そうなったら、あなたは一瞬一瞬死んで、生まれ変わる。 

聖アウグスチヌスは言う・・「私は一瞬一瞬死んでいる」と。自らの想念、マインドのプロセス、未来に割り込もうとする過去の連続、継続を余さず自覚した者、このことを自覚した者は、一瞬一瞬死んでゆく。一瞬一瞬、過去は投げ出される。人は新鮮で、新しく、若々しくなり、やって来る新しい瞬間に進んで飛び込もうとする。この新鮮な意識、この永遠に若い意識のみが受容的で、開いている。それには壁もなく、境界もない。それは開け放たれた空間のように、完全に開いている。 

ウパニシャッドはそれを「内なるハートの空間」と呼ぶ。空間が、ただ空間のみがある。これが意識、サクシ・・覚醒の顕現だ。こうしてマインド、過去を超越することで、あなたは開き、どの方角にも感じやすくなり、あらゆる次元に向かって繊細になる。そうなったら、恩寵が至るところからあなたに降り注ぐ・・樹々から、空から、人間たちから、動物たちから、至るところから。生命を持たない石でさえもが恩寵で満たされている。あなたは恩寵が、あなたに向かって降り注いでいるのを感じる。 

そうなったら、あなたはそれをただ存在とは呼ばず、神と呼ぶだろう。この変身、あなた自身のマインドのこの変容、死んだマインドから永遠に生きている意識への・・マインドのがらくたから開け放たれた意識の空への・・この変容。この変容が存在に対するあなたの態度を変える。そうなったら、全存在は愛の流れに他ならない・・友好的で、慈悲深く、愛に満ち、恩寵に満ちている。そうなったら、あなたは数知れぬ手を通して愛されている。 

ヒンドゥー教は千本の手を持つ神をつくりだした。それは神の手がいたるところから差し延べられていることを意味している。神の手が差し延べられていない場所に行くことはできない。どこへ行っても、神の手はあなたを抱擁している。あなたはどこに行ってもいい。今や神が存在しない場所はない。

 

ナーナクカーバへ行った。彼は疲れていた。モスクに辿り着くと、彼は荷物を放り出して、眠りについた。僧侶は激怒した。というのも、ナーナクの足が聖石に向けられていたからだ。僧侶はナーナクを引きずり出して言った。「ここをどこだと思ってるんだ。聖石に足を向けてはならないことぐらいわかりそうなものだ。おまえは無神論者なのか?」ナーナクは眠りを破られた。彼は坐って言った。「では、私の足を神のいない方角に向けて、私の邪魔をしないでくれ」 

神のいない方角などない。あらゆる方角が神聖だからだ。存在そのものが神聖だ。だが、あなたは存在に開いていなければならない。人間のマインドのこの悲劇、このジレンマは、それが閉じているということにつきる。マインドは閉じているのに、自由を捜しつづけている。マインドは監獄であるのに、その監獄が自由を探求しつづけている。ここに人間という存在の悲劇のすべてがある。 

マインドは監獄だ。マインドはどこにも自由を見つけることができない。自由が訪れる前に、マインドは死ななければならない。だが、私たちはマインドを自分だとみなしている。私たちはマインドに同一化している。このマインドが死ぬことは決してない。それは私たちには決して起こらない。マインドと私たちは別のものだが、私たちはマインドに同一化しつづけている。 

過去と同一化していながら、どうしてその過去から抜け出すことができるだろう。自分が囚人であることを忘れている囚人が、もっとも深く閉じ込められている。そうなったら自由の可能性はないからだ。だが、その囚人ですら気づくことができる・・もっと偉大な囚人さえも拘禁された状態、監獄とひとつになり、同一化していることに。監獄の壁は肉体であり、監獄に入る手筈を整えるのはマインドだ。 

醒めているがいい。自分のマインドを意識するがいい。あなたは実際にそれを意識することができる。というのも、あなたとマインドは別のものだからだ。夢を破ることができるのは、あなたが夢ではないからだ。夢はあなたに起こるが、あなたは夢ではない。あなたはこの監獄を打ち壊して、そこから出てくることができる。あなたは監獄ではないからだ。だが、あなたは、肉体とマインドにあまりに長いあいだ結びついてきた。 

これをよく理解することだ。肉体は新しい・・どの誕生も新しく、どの始まりも新しい・・だが、マインドは古い。それはあなたの過去世からの続きだ。誰かが「あなたの身体は病気だ」と言っても、あなたは決して腹を立てず、相手が同情してくれていると思う。だが、誰かが「君のマインドは狂っている。君のマインドは病気だ。君の頭は錯乱している」と言えば、あなたは怒り出す。そうなったら、相手が同情してくれているとは思えない。相手が好意を抱いているとは思えない。 

肉体との結びつきは新しく、今世だけのものだ。あなたはかつては別の肉体と結びついていた。肉体との結合は、死のたびに壊される。あまりに何度も壊されるので、自分を肉体だと見なしている者でさえ、肉体との同一化はマインドとの同一化ほど強くない。肉体が病気になっても、肉体がどこか変調をきたしても、「自分」のどこかがおかしいとは感じない。 

私はあるアルコール中毒の男の記録を読んでいた。彼は何度も判決を言い渡され、同じ判事から10回も監獄に送られたことがある。判事は言った。「君の問題の根っこは、酒、酒、ただ酒だ」その男は言った。「ありがとうございます、判事さん。私に責任をおっかぶせなかったのはあなただけです。みんな私が悪いと言うんです。私を理解してくださるのはあなただけです。酒が悪いんです。私には一切責任がありません」 

肉体がどこか変調をきたしても、あなたは責任を感じない。だが、マインドがどこかおかしくなると、あなたは自分に責任があると思う。マインドとの同一化の方が深い。そうであって当然だ。というのも、肉体はあなたの実存の外層だが、マインドは内層だからだ。それは内なるあなただ。あなたはマインドの方にいっそう同一化しうる。それは何世にもわたってあなたと共にいたからだ。マインドは古い、常に古い・・それはあなたの連続体だ。だが、あなたはマインドではない。このことを知ることはできる。それを知るのはむずかしいことではない。 

たんなる目撃者でいればいい。マインドが働いているときは、そのつど脇に坐って、それがどのように働いているかを見守りなさい。干渉してはいけない。割り込んではいけない。割り込めば、マインドは強まり、再びマインドに同一化してしまう。だから、割り込まないこと。何も言ってはいけない。判断を下してはいけない。脇に坐りなさい・・車のゆきかう道端に坐って、車の往来をただ眺めるように。何の判断も下してはいけない。一瞬でも脇に坐って、マインドの往来、その切れ目のない往来を見ることができたら、ギャップが、あなたとマインドのあいだにある隙間が見えてくる。そうなったら、その隙間をもっと大きく、もっと広げ、橋が架からないようにすることができる。 

最終的に、あなたとマインドのギャップが大きくなって、二つのあいだに橋がかからなくなる。どの地点から見ても、マインドの輪はこちらにあるが、あなたはどこか別のところに、いつも内側に、いつもどこか別のところにいることをあらゆる地点から見抜いたとき・・これが理論ではなく、体得された事実、了解(りょうげ)になるとき、あなたは開いている。そうなったら、あなたは内なる空間、内なる空、内なるハートの空間に飛び込んでいる。あなたはジャンプしている。今やあなたはそこにいて、開いている。 

そうなったら、自分がいつも開いていたのがわかるだろう。あなたは広々とした空のなかで眠りながら、監獄にいるという夢を見ていた。思考は夢をつくりあげる素材にすぎない。それらは同じものでできている。昼間はそれを思考と呼び、夜になると夢と呼ぶ。だが、思考の方が夢よりも透明なので、思考の方にいっそう同一化しやすい。透明なものは、何でも見逃されやすい。 

完全に透明なガラスが私とあなたのあいだにあれば、私はガラスがそこにあることを忘れてしまう。私は、じかにあなたを見ていると思い込む。これは、私がガラスがそこにあることに気づかないほどガラスに同一化しきっているということだ。私の眼とガラスはひとつになっている。 

思考は透明だ。どんな透明なガラスよりも透明だ。思考はまったく邪魔にならない。思考との同一化がより深くなるのはそのためだ。思考が透明で、あまりに近くにあるため、常にあなたの周囲に、常にあなたと世界のあいだにマインドがあることを、あなたは完全に忘れている。あなたと恋人のあいだに、あなたと友人のあいだに、あなたと神のあいだに・・あなたがどこにいようと、それはいつもそこにある。どこに行っても、マインドは常にあなたの一歩先にいる。影のように後からついてくるだけでなく、常にあなたの一歩先にいて、あなたより先に到達する。だが、それがあまりに透明なので、あなたは決してそれに気づかない。 

あなたが寺院に入る前に、かならずマインドの方が先に入っている。あなたが友人を訪ね、その友人を抱きしめる前に、マインドの方がすでに友人を抱きしめている。あなたは自分のマインドがいつも下稽古をしていることに気づくことができる。こうして一歩先を行くことは下稽古だ。話す前に、かならずマインドは何を言おうかと下稽古する。行動する前に、かならずマインドはどのように行動しようかと下稽古する。何かをしたり、やめたりする前に、かならず下稽古がある。 

下稽古とは、マインドが用意を整えて、あなたの一歩先にいるということだ。あなたが出会い、遭遇する他のあらゆるものとあなたとのあいだには、絶えず目に見えない障壁がつきまとう。このために、どの出会いも現実感のある、真正なものとなりえない。別の何かがいつもあいだに立ちはだかるからだ。あなたは愛することもできないし、祈ることもできない。この障壁を取り除くことを求めることは何ひとつできない。 

あなたが恩寵を感じ取れないのは、障壁が常にそこにあり、透明な貝殻のようにあなたを取り囲んでいるからだ。恩寵、愛、存在は神の属性ではない・・それらは神の本性だ。だが、私たちはそれに対して開いていない。開いていれば、その人は受け手になる。その場合ですら、私たちは、彼は受け手になったとは言わない。自我は競い合う。私たちは、彼は恩寵を受け取ったと言い、彼の一切を否定する。私たちは「神は彼に恵みを与えられた」と言う。 

神以外のものは存在しないのだから、神は恩寵に満ちていると言った方がよい。ひとたび障壁がなくなれば、自我の拠り所は残されていない。「私」と言えなくなるので、「私は恩寵を受け取ることができるようになった」と言うことはできない。「恩寵を受け取ったのは、私がそこにいなかったからだ」としか言えない。「私」が障壁だった。「私」がなくなれば、「ひとえに神の恩寵のおかげだ。私に何ができるだろう?私はもういないのだ」としか言えない。 

ある人が「私は恩寵を受け取った」と言うのは正しいが、「あの人は恩寵を受け取った」と私たちが言うのは間違っている。私たちは、またしても自分をごまかしている。私たちが自分をごまかすのは、その人に起こった大いなる変容を認めていないからだ。自我のせいで、私たちはそれを認めることができない。自我は言う。「神はあの人に恩寵を与えておられるのに、私には下さらない」と。そうなったら、私たちは、神は特定の誰かに恩寵を下さるというひじょうに誤った考えを抱くことになる。神は恩寵そのものだ。 

神は恩寵を受け取る用意が整った人にはいつも与えている。神には与える用意があるということですらない。神は常に与えている。あなたに受け取る用意ができていないときでさえ、神は与えている。あなたが閉じているときでさえ、神は雨のように降り注いでいる。神の祝福は雨のように降り注いでいる。開きなさい、そうすれば、あなたにもわかるだろう。意識して、開いているがいい。そうして初めて、愛とは何か、恩寵とは何か、慈愛とは何かを知ることができる。 

それらはひとつであり、同じものだ。それらは別のものではない。それらは基本的にひとつであり、同じものだ。そうして初めて、祈りが何であるかを知ることができる。障壁がそこになければ、祈りとは何かを求めることではなくなる。それは物乞いではなく、感謝だ。何かを乞い求めて祈るとき、そこにはかならず障壁がある。物乞いは障壁だ。マインドは障壁だ。 

祈りが感謝であれば・・何かを求めるのではなく、森羅万象のすべてに対する感謝であれば・・恩寵を受け取るたびに、あなたは感謝を覚える。神の側からは恩寵が注がれ、あなたの側から感謝が起こる。私たちは感謝というものをまったく知らない。恩寵を知るまで、私たちは感謝を知ることができない。神の恩寵を感じ取るまで、私たちは感謝を覚えることができない。だが、それを知り、感じ取ることは可能だ。 

探究を始めてはいけない。神に関する詮索を始めてはいけない。このような探究は何世紀にもわたって続けられてきた。哲学者たちは神の属性とは何かと考えつづけてきた。「これは神の属性だが、あれは違う」と言う形而上学者たちがいた。「神には属性がない・・ニルグナ」と言う者もいれば、「神には様々な属性がある・・サグナ」と言う者もいる。だが、自ら体験したことのないものをどうして知ることができるだろう?神に属性があるか否か、神は愛に満ちているか否かをどうして私たちが判断できるだろう?そんなことをいくら考えても、決着はつかない。判断を下すことなど不可能だ。 

形而上学は私たちを不条理へと導いてゆく。人間の想像力が論理的になると、私たちは何かを達成したと思い込むが、実際には何も達成していない。想像力は私たちのものであり、論理は私たちのものだ。私たちは何ひとつ知らない。形而上学を避けるつもりなら、常に自分自身から始めることだ。形而上学を避けることができなければ、宗教的にはなれない。形而上学と宗教は対極だ。決して神から始めてはいけない。常に自分のマインドから始めなさい。自分がいるところ・・常にそこから始めなさい。

 

自分のマインドから始めるなら、何かを為すことができる。そうすれば何かを知ることができる。そうすれば何かを変容させることができる。そうすれば、あなたにできる範囲で何かをすることができる。自分自身に何かを為す能力を最大限に働かせることで、あなたは成長し、羽を広げる。障壁は消え、あなたの意識は裸になる。そのとき初めて、あなたは神と接触しはじめる。 

そして、聖なるものと接触しはじめたら、恩寵が何であり、感謝が何であるかがわかる。恩寵とは、あなたが至るところから浴びていると感じるものであり、感謝とは、あなたがハートのなか・・全体がその愛、慈悲、恩寵を降り注いでいる内なるスペースの中心で感じ取るものだ。そこで初めて「ああ、神よ」とか「ハリ・ラーマ」という言葉を口にする意義がある。そうでない限り、私たちの言葉は、存在から学んだものでなく、言語や教典から習い覚えたたんなる言葉にすぎない。 

だから、私は神の属性が何であるかについては語らない。私にとって、私の知る限りでは、神に属性はない。しかしこれは、神と接触しても、私たちは神の愛、神の恩寵を感じないという意味ではない。そういうものは神の属性ではなく、神の本性だと言っているだけだ。神はまさにそのようにあり、そして、神にはそれ以外のありようはない。あなたが神に親しみを感じていようが、神に背を向けていようが、神に変わりはない。 

それは光に似ている。あなたの眼が閉じていても、光はそこにある。あなたの眼が閉じているだけで、光が存在しなくなるわけではない。眼を開けなさい!光はそこにある、光はいつもそこにあった。自分の眼から始めなさい。光については何も考えることができない。どうして考えることができるだろう?どう考え、どう熟考しても誤りを犯してしまう。ことの始めから誤りを犯してしまう。自分がまだ知りもしないことを考えることなどできない。 

既知の事柄にまつわる思考はどうどうめぐりを続けるが、決して未知なるものには触れられない。決して未知なるものは想像できない。未知なるものについては考えることができない。思索家が神を否定しつづけるのは、彼らが神を知らないからだ。誰かが「神は存在しない」と言っても、その人は神に背いているわけではない。その人は思索家にすぎないというただそれだけのことだ。その人は神に背いているわけではない。 

神に背くなら、その前に神を知っていなければならないからだ。その人は神に背いているわけではない。神を知っている者は、神に背けない。神を知っている者がどうして神に背けるだろう?「神は存在しない」と言うことで、その人は、神について考えつづけていることを示しているだけだ。そして、思考を使って未知なるものを思い描くことはできないので、思索家はそれを否定する。 

神から始めてはいけない。それは偽りの始まりだ。それはかならず無意味なものに行き着く。形而上学はすべてたわごとだ。それは考えることのできないものごとについて延々と考えつづける。それはいかなる言明もしえない存在についての言明を行いつづける。存在について語りうるのは沈黙だけだ。だが、自分自身から始めたら、実質のある多くのことを語ることができる。自分自身から始めたら、科学的な何かを為すことができる。自分自身から始めたら、正しい糸口をつかんだことになる。 

宗教とは、自分自身から始めることであり、形而上学とは、神から始めることだ。だから、形而上学は狂っている・・もちろん、方法論を伴った狂気ではあるが。狂人たちはみな、方法論を伴わない形而上学者であり、形而上学者たちはみな、狂っているが、方法論を持っている。方法論を持っているために、彼らは辻褄の合うことを話しているように見えはするが、たわごとを話しつづけているだけだ! 

自分自身から始めなさい。神は存在するかどうかと尋ねるのではなく、自分は存在しているかどうかと尋ねなさい。愛は神の属性であるかどうかと尋ねるのではなく、愛は自分の属性であるか、いままで愛したことがあるかどうかを尋ねなさい。恩寵について尋ねるのではなく、いままで感謝を覚えたことがあるかどうかを尋ねなさい。その方が私たちに近く、ほんの一歩離れているだけだから、私たちはそれを知ることができる。 

常に始めから着手すること。決して終わりから始めてはいけない。そんなことをすれば、糸口すらつかめない。始めから着手する者はかならず終着点に辿り着く。だが、終わりから始める者は、出発点に辿り着くことさえない。終点から始めることは不可能だ。あなたはどうどうめぐりを続けるだけだ。神を形而上学的な観念にするのではなく、宗教的な体験にさせるがいい。内側に入ってゆきなさい。神はいつもそこであなたを待っている。だが、そうなると、あなたは自分自身に働きかけなければならない。その行為が瞑想だ。その行為がヨーガだ。 

自分自身に働きかけなさい。今のあなたは閉じている。今のあなたは死んでいる。今のあなたは神、存在と語り合うことができない。だから、自分自身を変容させるがいい。扉をいくつか開けなさい。空間を少しこじ開けなさい。窓をいくつか開けなさい。自らのマインド、自らの過去から飛び出しなさい。そうすれば、聖なるものを知るだけでなく、それを生きることになる。神の恩寵を受けて生きることになる。あなたはその一部に、そのなかで起こるさざ波にすぎなくなる。そのなかで起こるさざ波、聖なるものの波になってしまえば、そのとき初めて真正な神性がある。 

そういうわけで、私は形而上学者ではまったくない。私を反―形而上学者と呼んでもいい。宗教は実存的なものだ。自分自身から始めなさい。自分の攻撃的なマインドを変容させることから始めなさい。 

仏陀が聖なるものが何であるかを知るために6年間、たゆまず努力したことを話したい。彼に何かやり残したことがあるとは言えない。彼は人間にできることはすべてやりつくした・・人間には不可能と思えることもいくつか。彼はあらゆることをやった。当時知られていた修行をやりつくし、教えられた技法はすべてマスターした。当時生きていたグルをすべて訪ね、あらゆる人のところへ行った。彼らから学べることは学びつくして、実践した。やがて彼は言ったものだ。「先生、もっと他にありますか?」 

するとグルたちは言った。「もう行くがよい。私が授けられることはすべておまえに授けた。他の者たちには、修行が足らないと言えても、おまえには言えない。おまえはよく修行した。私が授けられるのはこれだけだ。」仏陀は言った。「ですが、私はまだ聖なるものを体験していません」どのグルのもとでもこうなった。とうとう彼はすべてのグルを後にした。彼は自分の技法を編み出した。6年間、彼は生死をかけて苦闘しつづけた。彼はなしうることはすべてやった。 

彼は最後には為すことに疲れ果て、くたくたになり、ある日の夕暮れ、ブッダガヤの近くの二ランジャナ河で沐浴をしていたが、ひどく衰弱し、疲れ切っていたので、河から上がることができなかった。彼はただ樹の根にしがみついていた。こんな思いが彼の頭をよぎった。「衰弱がひどくて、こんなに小さな河を渡ることさえできない。こんな状態で、どうして存在の大洋全体を渡ることができるだろう?あらゆることをやったが、聖なるものは見つからなかった。いたずらに肉体を消耗させただけだ」 

彼は死の淵に立っていると感じていた。彼は、すべてをやり尽くし、もう為すべきことは何も残されていないと感じていた。彼はくつろいだ。すると、彼が力を抜いたまさにその瞬間、新しいエネルギーが彼の中に入ってきた。6年のあいだ抑圧されていたものが一挙に花を開いた。彼は河から上がった。彼は、羽、重さのない鳥のような軽やかさを覚えた。彼は菩提樹の下でくつろいだ。 

明るい満月の夜のことだった。誰かがやって来た・・一人の娘、スジャータという名のスードラの娘だった。名前から察するに、彼女はスードラだったにちがいない。スジャータとは「善き生まれ」という意味であり、低いカーストの出の者のみに「善き生まれ」という意味の名前が授けられる。スジャータ菩提樹に毎日供物を備える約束をしていたので、甘いものを少し持ってきていた。 

そこにいた仏陀は、疲れ、青ざめ、精気をなくしていたが、くつろいで、すっかり重荷を降ろしていた。あたりには人影もない満月の夜だった。仏陀を見たスジャータは、樹の精が供物を受け取るために顕れたと思った。その日でなければ、仏陀は拒んでいただろう。彼は夜のあいだ一睡もせず、決して何も口にしなかっただろう。だが、その夜は、完全にくつろいでいた。彼は食べ物をとり、眠った。彼は6年ぶりでぐっすり眠った。 

彼は、何もせずに、くつろいでいた。もう何の心配もなかった。彼にとって明日すらなかった・・何かすることがあるときだけ明日は存在するからだ。何もすることがなければ、明日はない。そうなったら、現在の瞬間でことは足りる。仏陀は眠った。そして朝の5時、最後の星が消えようとしていた頃に眠りから覚めた。空っぽの心、無心(ノーマインド)の状態で、彼は最後の星が消えてゆくのを見た。 

何もすることがないときには、マインドは存在しない。マインドとは何かをするための機能、技術的な機能にすぎない。無心の境地で・・何もすることがなく、自分では何の努力もせずに、自分が生きているか死んでいるかも無関心の状態で・・彼は眼を開けた。そして彼は踊り出した!彼は、多大な努力を払っても到ることのできなかったその「知」に到達した。 

どうやって成就したのかと聞かれるたびに、彼はこう言ったものだ。「成就しようとすればするほど、私はますます途方に暮れてしまった。私は成就することができなかった。だから、私が成就したなどとどうして言えるだろう。試みれば試みるほど、ますます「私」は巻き込まれていった・・私は成就できなかった。マインドがマインドを超えようとしていたが、それは不可能なことだった。それは自分が自分の父親になろうとして、自分を生もうとするようなものだ」 

だから、仏陀は言った。「私は自分が成就したとは言えない。言えるのは、私が無に帰するほど膨大な努力をしたということだけだ。私はどんな努力も馬鹿らしくなるほど多くのことを試みた。そして、私が努力をしていない瞬間が・・マインドが存在せず、思考を巡らせていない瞬間がやって来た。そのときには、過去が存在しないから、未来も存在しなかった。その二つは常に共にあった。過去は後ろに、未来は前に。その二つはいつも互いにつながっている。片方が落ちれば、もう片方も同時に落ちる。そのときには未来も過去もなく、無心だった。私にはマインドがなかった。私は無我だった。 

そのとき何かが起こった。私は、それがその瞬間に起こったとも言えない。言えるのは、それは常に起こっているのに、それまでそれに気づかなかったということだけだ。それはいつも起こっていた。私が閉じていただけだ。だから、私は自分が何かを成就したとは言えない」 

仏陀は言った。「言えるのは、私があるもの・・自我、マインドを失ったということだけだ。私は何ひとつ成就していない。今、私は、自分が得たものはいつもそこにあったことを知っている。それは至るところにあった。すべての石、すべての花のなかにあった。今、私はいつもそうだったことに気づいている。今まで私は盲目だった。私はたんに自分の盲目性を失っただけだ。私は何も成就していない。私はあるものを失った」 

神から着手するなら、達成しようとする態度でのぞむことになる。自分自身から始めれば、失う態度でのぞむことになる。事物が消えはじめ、究極的には「あなた」が消える。そして、あなたが消え去ると、神が顕現する・・恩寵のすべて、愛のすべて、慈悲のすべてを伴って。だが、あなたがいないときだけだ。あなたの非在が明確な条件だ。自分がいては誰もくつろげないからだ。この条件は明確で、絶対的だ。「あなた」が障壁だ。崩れ落ちなさい・・そうすればわかる。 

知って初めて、あなたは納得する。あなたがそれを理解することはできない。私はそれをあなたに説き明かすことも、あなたに理解させることもできない。私は何を語っていても、形而上学的な事柄を述べているのではない。あなた自身から始めなければならないことを示そうとしているだけだ。自分自身から始めたら、神で終わる。それはあなたの別の部分、もう一方の極だからだ。だが、この岸辺から始めなさい。まだ見ぬ向こうの岸辺から始めてはいけない。そこから始めることはできない。自分がいるところから始めなさい。深く進むにつれて、あなたはいなくなるだろう。 

自己を知れば知るほど、あなたは自己ではなくなってゆく。そして、ひとたび自己の全一な理解に至れば、あなたは根絶される。あなたは無と化す。あなたは全面的に否定される・・止滅する。その止滅、その全一な否定のなかで、あなたは恩寵を知る。それはいつも降り注いでいる、永遠なるものからいつも雨のように降り注いでいる。あなたはいつも自分を取り巻いている愛を知る。それはいつもそこにあったが、あなたはそれに何の注意も払っていなかった。無になりなさい。そうすれば、それに気づくだろう。 

OSHO、「未知への扉」(瞑想社)第4章:神性の海 より (1971年)