OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

92.未知なるものへの冒険

<OSHOの講話より>  「未知への扉」 第5章: 未知なるものへの冒険 (1971年) 

質問:OSHO、瞑想は実際どのように作用するのですか?どうすれば瞑想的な状態を持続させることができるのでしょう?また、クンダリーニの実践は瞑想とどのような関係があるのですか? 

瞑想とは冒険、未知なるものへの冒険・・人間のマインドが為しうる最大の冒険だ。そして、冒険という言葉で私が言いたいのは、そのなかで人格を陶冶(とうや)することはできないということだ。まず第一に、前もってそれについて知ることは一切できない。実際に体験しない限り、それを知ることはできない。語ることができることはみな、しょせん取るに足らないことばかりだ。真理は語られずに残る。多くのことが語られてきた・・取るに足らないことについては多くのことが語られてきたが、真の言葉は、ただの一語も発せられてはいない。 

実際に体験しない限り、それを知ることはできない。だが、それに関する事柄を指し示すことはできる。それが要点をつくことは決してない、それはありえない。ものごとの本性からしてそれは不可能だ。これが瞑想だと言うことはできない。言えるのは、これは瞑想ではない、あれは瞑想ではないということだけだ。言われずに残るものがある・・が、それは指し示されないまま残される。 

それには多くの理由がある。瞑想とはマインドよりも大きな何かだ。それはマインドの内部で起こるものではない。それはマインドの内部ではなく、マインドそのものに起こる何かだ。さもなければ、マインドはそれを定義することができる。マインドはそれを知り、理解することができるだろう。それゆえに、それはマインドの内部ではなく、マインドそのものに起きる何かだ。その出来事は、生に起こる死に似ている。 

死は決して生の内部では起こらない。死は生そのものに起こる。瞑想とは、生に対して死が起こるように、マインドに対して起こる死に似ている。瞑想とは、肉体ではなく精神に起こるより深い死だと言ってもいい。そして、その死が深ければ深いほど、生まれ変わる可能性もより深くなる。肉体が死んでも、あなたの肉体は生まれ変わる。だが「あなた」に関する限り、まったく何も起こらない。変化はまったくない。あなたは同じままだ・・同じものが継続し、あなたは古いままだ。 

だが、死が深ければ深いほど、復活も深くなる。心理的に死ぬ場合、マインドが死ぬ場合には、「あなた」が生まれ変わる。だが、その再誕生は肉体の再誕生には似ていない。なぜなら、肉体は、死ぬと取り代えられる・・つまり、新しい肉体がそれに取って代わるからだ。だが、精神的な死、霊的な死が起こる場合は、マインドが取り代えられることはない。今や意識はマインドなしで存続する。 

瞑想とはマインドのない意識・・周囲に壁を持たない開け放たれた空だ。家の壁を壊すことはできても、部屋の空間は壊せない。なぜなら、部屋は空間にほかならないからだ。壁のない部屋は、空っぽの空間になる。それは広大な空の下にある。もちろん、境界を定めることができないので、もうそれを部屋として見ることはできない・・それは空とひとつになっている。だが、部屋の空間は、今まで以上にそこにある。ただ壁がなくなっただけだ。 

部屋を「空っぽの空間」、壁と壁のあいだの虚空として定義するなら、壁がなくても部屋は依然としてそこにある。それどころか、今までよりも大きく、無限になっている。だから、マインドが死ぬと・・つまり、マインドという壁が消えると・・壁のなかの虚空、この空間が残り、今までよりも大きくなる。それが意識だ。 

私はこう定義する。内なる虚空を「意識(コンシャスネス)」と呼び、そのまわりにある壁を「マインド」と呼ぶ。あるいは、このように言ってもいい。小さなマインドが死んで、大きなマインドが生きつづけると。そうなったら、それは「あなた」のマインドではない。あなたのものではありえない。この壁が取り除かれたら、この部屋はマインドではなくなる。部屋はそこにあるが、マインドではなくなる。マインドは壁でしかありえないからだ。マインドは限界でしかありえないからだ。 

この純粋な虚空はマインドではありえない。だから、小さなマインドが死んで、大きなマインドが生まれるとき、そこにはあなたの影も形もない。そして、あなたに取って代わるマインドは一切ない。あなたに取って代わるものは何もない。 

瞑想とは微細な死だが、深遠な死だ。それは「あなた」、あなたのマインド、あなたの自我(エゴ)、あなたの境界を定めるあらゆるものの死だ。だが、内側にあるものは後に残る。それは純粋な意識だ。だから、まず第一に、マインドという壁、精神的なプロセスは瞑想ではない。それらは瞑想の障害物だ。マインドという壁とは何だろう?マインドはどのようにして自らの境界を定めたのだろう?それはどのようにして制限されたものになったのだろう?マインドを大きなマインド・・意識・・から分離させた境界とは何か? 

三つのものがある。第一は記憶だ。マインドの大半を占めるのは記憶だ。そして、この記憶には長い過去がある。それはあなたが生きてきた数限りない生にまで遡る。マインドはあらゆるものを蓄積する。あなたが意識的に集めてきたものだけではない。あなたが眠っているときも、マインドは蓄積している。あなたが昏睡状態になり、完全に無意識になっているときですら、マインドは蓄積している。マインドは蓄積を続け、それから逃れられるものは何もない。無意識のマインドは、記憶の万里の長城であり、ひじょうに古いものだ。 

この記憶は、あなたの脳の一部であるだけでなく、まさにあなたの生命細胞のひとつひとつ、あなたの肉体の細胞のひとつひとつに残らず宿っている。男性の24の細胞と女性の24の細胞があなたをつくりはじめるのはそのためだ。その細胞には内臓されたプログラム、内蔵された記憶がある。やがて私たちは、あなたが子宮に入った最初の日に、あなたがどんな型の鼻を持つかを予測することすらできるようになるだろう。新しい卵子を見れば、あなたがどんな型の眼を持ち、何才まで生き、どれほどの知性を備え、どれほどの自我を持つかがわかる。 

このひじょうに単純に見える細胞は、あなたと同じくらい複雑だ。そこには種族・民族全体の記憶のすべてが内蔵されている。その内部には、集合的なマインドのすべてが宿されている。そのなかにあなたの魂、あなたの自我、あなたのマインドが入り込む。それゆえに、肉体には独自の記憶があり、マインドには独自の記憶がある。あなたとは、膨大な記憶を持った個としてのマインドと、集合的な種族・民族全体、集合的なマインド全体の記憶を持った肉体が交差する十字路だ。 

肉体の記憶はマインドよりも強力だ。それゆえに、あなたはいつもそれらの犠牲になっている。どうあがいても、時がくれば、肉体が勝つ。あなたのマインドなど、肉体の前では無に等しい。肉体は、種族的・民族的なマインドの一部だからだ。このために、あらゆる宗教が肉体と闘いはじめる時点で罠に陥る。肉体と闘うことはできない。闘いはじめたら、生を無駄に費やすだけだ。 

肉体と闘うことはできない。なぜなら、あなたの肉体は、種族・民族そのものだからだ・・それは種族・民族だけでなく、生命そのものの全歴史でもある。あらゆるものがあなたのなかで生きつづけている。かつて存在した一切のものがあなたの肉体のなかで生きつづけている。あなたの自己にはあらゆるものが宿っている。胎児が人類の進化の過程で通るすべての段階を体験しなければならないのはそのためだ。 

この胎内での9ヶ月は、凝縮された進化の全プロセスだ。人は、まさに最初の原始的な細胞、アメーバのような状態から始まる。人はアメーバが始めなければならなかった同じ状況・・つまり海水のなかから始まる。胎内には海水と同じ化学的条件が含まれている。細胞が泳ぐ胎内の水には、海水と同じ成分、まったく同じものが含まれている。進化が再び胎内でくり返される。だが、それが進化の雛型であることは言うまでもない。ものごと全体が再びくり返される。細胞には記憶があるからだ。 

進化のプロセス全体を追体験しないかぎり、進化した人間の細胞として機能することができない。そのプロセスに要する時間は短縮される。アメーバは、海を離れ陸に上がるまで何百万年ものあいだ待たなければならなかった。だが、この細胞、胎内のこの卵細胞は、一週間でこの位相を通り抜ける。そこでは7日間で同じ進化、何百万年もが凝縮された同じ進化のプロセスがくり広げられる。胎内での9ヶ月は凝縮された進化であり、細胞に内蔵されたプログラムが備わっている。 

だから、ある意味で、あなたの肉体は進化の全体とも言える。肉体には、凝縮された、原子のような形で独自の記憶が備わっている。瞑想に入ってゆきたい者は、まず自分の肉体の記憶、生理的な記憶を理解しなければならない。肉体と闘ってはいけない。闘いはじめたら、進むべき道を誤り、ますますかき乱されてゆくだけだ。協調するがいい。それ以外に道はない。肉体を完全にくつろがせ、あなたと肉体の間にいかなる緊張もつくりださないこと。 

闘わなければならない真の相手は、肉体や肉体の記憶ではない。相手は別のもの、まったく別の自我の記憶・・あなたの魂、あなたのマインド・・だ。だから、肉体と闘ってはいけない。肉体と闘ったりしたら、マインドと闘う時間をまったく持てなくなる。肉体と闘いはじめたら、その闘いは果てしなく続いてゆき、身を滅ぼすはめになる。それは破壊的だ。それでは敗北の種子を蒔いているにすぎない。敗北は必至だ。たったひとつの細胞が全人類と、全存在と闘っている!勝ち目はない。 

だから、肉体の記憶を自分の記憶と取り違えないように。例えば、空腹は肉体の記憶だ。空腹と闘うことはできるが、勝利をおさめるのは至難の業であり、ひじょうに骨が折れ、まず不可能と言っていい。勝ったところで、あなたの全面的な敗北になるだけだ。空腹に打ち勝つことができたら、あなたは自殺に一歩近づいたことになる。90日以内に、あなたは死んでしまう。肉体さえもが今食事をとるべきだと告げなくなる。 

だから、決して肉体に打ち勝ったりしないほうがいい。さもなければ、身を滅ぼすことになる。あなたと肉体の記憶に架かる橋がなくなるからだ。それが打ち勝つ唯一の方法だ。だが、実際には勝っているのではない。あなたは自殺をすることになる。 

あなたと肉体に架かる橋を破壊できる技法がある。橋を破壊する技法、様々なハタ・ヨーガの技法がある。肉体が「腹が減った!腹が減った!腹が減った!」と叫びつづけているのに、あなたはまったく気づかない。橋が壊されている。肉体が注意を向けて欲しいと呼びかけつづけているのに、あなたはまったく気づかない。あなたは鈍感になってしまっている。あなたの肉体やあなたを鈍感にさせることは決して行わないように。瞑想とは全一なる感受性だ。

 

あなたが瞑想的になると、肉体は今のあなたには想像もつかないほど敏感になる。私たちは決して正確には聞いていないし、正確には見ていない・・中途半端だ。あなたは庭を通る。見ているようだが、ぼんやり眺めているだけで、見てはいない。眼が鈍感になっている。あなたが眼と闘ってきたからだ。肉体が鈍感になっている。あなたが肉体と闘ってきたからだ。 

文化全体が肉体を敵にまわしている。この文化のすべてがだ・・東洋の文化であろうが西洋の文化であろうが違いはない。この惑星の上で発展してきた文化は、ある意味で病んでいる。それは肉体を敵にまわしている。だが、肉体は大いなる神秘だ。肉体を敵にまわすことは、宇宙に敵対することだと言ってもよい。肉体は小宇宙だ。宇宙との絆、宇宙への橋、宇宙に到達するための道具は肉体を通してもたらされる。肉体は、まさに途上にある駅だ。 

だから、肉体と闘ってはいけない。どれが肉体の記憶で、どれがマインドの記憶であるかを常にはっきりと識別しなさい。空腹は肉体の記憶であり、知ることができる。だが、マインドにも独自の記憶がある。それは実存的なものではない。実のところ、それには生存に関わる価値がない。肉体の記憶には生存に関わる価値がある。そこが二つの記憶の基本的な違いだ。 

肉体の記憶を否定し、それと闘えば、生き延びることができない。だが、心理的な記憶には、実際には生死に関わる価値がない。それらはたんなる堆積物、廃棄物・・溜まってきたら捨てねばならないもの、持っていれば重荷になるだけだから、捨てる必要があるものだ。だが、こういったマインドの記憶もまた古く、歳を経ている。 

あなたが腹を立てるときには、常に二つの可能性がある。それは肉体の記憶かもしれないし、マインドの記憶かもしれない。肉体の記憶とマインドの記憶のあいだに一定の区別を設けなければならない。あなたの怒りに生存に関わる価値があり、それなしでは生き延びることができないとしたら、それは肉体の働きだ。だが、あなたの怒りに生死を決する価値がなければ、それはたんなるマインドの習性、マインドの機械的反復にすぎない。そういう場合はマインドの記憶だ。何度も何度も腹を立ててきたので、それがあなたの条件づけになってしまっている。誰かがあなたを、あなたのボタンを押すたびに、あなたはまた腹を立てる。ちょっと、それに気づいてごらん。 

心理的な怒りや習慣的な怒りを一度も起こしたことのない人・・そういう人の肉体的な怒りには独自の美しさがある。それは決して醜くない。それはその人が死んでいるのではなく生きているという証にすぎない。習慣的に腹を立てれば立てるほど、肉体的な怒りを起こせなくなる。そうなったら、あなたの怒りは醜いだけだ。それから得られるものは何もない。あなたと他人をかき乱してゆくだけだ。 

別の角度からそれを理解することもできる。例えば、セックス。セックスは肉体の記憶でもある。その場合には生存に関わる価値がある。だが、習慣から生まれた精神的、知的なセックスにすぎない場合もある。そのときには生存に関わる価値はない。たんなる習慣的なパターンに陥ってしまったら、セックスは醜いものになる。そこには愛もなければ、美しさもない。音楽もなければ、より深い感応もない。 

セックスが知的なものになればなるほど、肉体はいっそうそのなかに参与しにくくなる。セックスについて考えれば考えるほど、セックスの真の姿、その最も深い神秘はわからなくなる。マインドはセックスについて考えつづけ、肉体はそれに従わなければならなくなる。いつであれ肉体がマインドに従うとき、そこには生命がない。肉体は鈍重なおもりのようにただ引きずりまわされる。 

何に対しても・・セックス、怒り、貪欲、何であれ・・そこに生存に関わる価値があるかどうかを常に識別するがいい。そこに生存に関わる価値があるなら、戦わないことだ。それがたんなる精神的な習慣にすぎなければ、醒めているがいい。私たちの過去のあらゆる行為からなるこの知的な記憶は、条件づけられたものになっている。あなたは延々とそれをくり返し、まるで機械のように行為する。これを意識していなさい! 

怒りにマインドが介入しなければ・・その怒りがある状況に対する全一な感応、身体全体の感応にすぎず、そこに前からある知的な条件づけがなければ・・そのときには後悔がないことを知って驚くだろう。あなたはその状況の下で、状況が求めるままに全一に行為した。そのときには、後悔する必要はまったくない。 

さらにもうひとつ・・後悔がないときには、心理的な蓄積は起こらない。何ひとつあなたの習慣にはならない。何も蓄積する必要はない。マインドは、なぜ記憶を蓄積しなければならないのだろう?それは、ある状況のもとで全一に行為できるかどうか自信がないからだ。マインドは準備する。マインドは色々と下稽古をすませなければならない。これこれの状況下で、うまくやれるかどうか自信がない。マインドは、かつて起こったことがあるすべての状況を知っておかなければならない。 

マインドはものごとを判別しなければならない。特定の状況のもとでは何をやればいいのかプログラムを練っておかなければならない。マインドが記憶を蓄積するのはそのためだ。だが、蓄積すればするほど、あなたは全一に行為できなくなってゆく。そして、全一に行為できなくなればなるほど、ますますマインドが必要になってくる。 

だから、肉体で行為しなさい。マインドで行為してはいけない。私がこのことを・・宗教的な人間が口にするとは思いもよらないようなことを言うと、奇妙に見えるだろう。それでも私は言う。「肉体から行為しなさい!」と。そうすれば、その行為は測り知れないものとなり、その感応は全一になる。 

マインドを介入させてはならない。そうすれば、記憶はなくなる。心理的な蓄積はなくなる。後悔は起こらなくなる。行為は完結する。ものごとはこうなり、状況はこうなっていて、あなたは後に何も残さず、全一に行為した。したがって、後悔しうる者はいない。あなたはその行為になりきっていた。そうしなければ、行為に加わらなかった半身が後で後悔する。 

肉体は全一に行為することができる。マインドは決して全一に行為することができない。マインドはいつも分断されている。マインドは二分法のなかで働く。マインドの一部は腹を立てているが、別の部分は同時に後悔するか、後悔する準備を始めている。このこともマインドに留めておきなさい。あなたの一部が別の部分と絶えず闘っているときには、あなたはかならず肉体を通してではなくマインドを通して行為している。肉体はいつも全一だ。それはばらばらでは行為できない。 

肉体は、まさに流れであって、分割はない。あなたが恋をするとき、恋に落ちているのは全身だ。頭が恋をしているとか、手が恋を始めたといったようには分けられない。全身が恋をしている。だが、マインドは何をやっても決して全一ではありえない。マインドの一部がいつも批評を加え、判断を下し、咎めたり、賞賛したりしている。マインドの一部がいつも椅子に坐って、批評し、非難している。だから、いつであれ自分のマインドの一部が自分がしていることに逆らって働いていると感じたら、自分はそれを頭で、知的にやっているのだと知りなさい。 

ものごとを肉体でやることを始めなさい。食べているときは、肉体で食べなさい。肉体はいつ止めればよいかをよくわきまえているが、マインドにはまったく分別がない。一部は食べつづけ、別の部分は非難しつづける。一部は「止めろ!」と言いつづけ、別の部分は食べつづける。肉体は全一だ。だから、肉体に尋ねなさい。食べるべきかどうか、止めるべきかどうかをマインドに尋ねてはいけない。必要なものは肉体が知っている。肉体は長い時代を経た知恵を蓄積している。肉体はいつ止めたらよいかを知っている。 

マインドに尋ねないこと。肉体に尋ねなさい。肉体の英知を頼りにしなさい。肉体はあなたよりも賢い。動物が人間よりも賢く生きているのはそのためだ。彼らの方が賢く生きている。が、言うまでもなく、彼らは考えない。考え出したら、たちまち彼らは私たちとそっくりになる。そして、動物たちの方が人間よりも賢く生きることができるというのは奇跡だ!それは不条理に見える。彼らは何も知らないのに、人間よりも賢く生きつづけている。 

人間が腕を上げた能力といえば、あらゆるものに干渉することだけだ。あなたは自分の肉体に干渉しつづける。干渉してはいけない。肉体の働きを妨げないこと。その邪魔をしてはいけない。そうすれば、どれが知的な記憶でどれが肉体の記憶なのかをはっきり識別することができる。 

肉体の記憶は生存を助ける。知的な記憶は障害になる。この知的な記憶を壊さなければならない。私は壊さなければならないと言うが、それはあなたが何も思い出さなくなるという意味ではない。記憶を壊すということで私が言いたいのは、記憶と同一化してはならない、それとひとつになってはならないということだ。記憶を野放しにしてはならない。記憶を反復させてはならない。 

記憶は反復しつづける。ただ坐っていても、記憶は働いている。眠っていても、記憶は働いている。仕事をしていても、記憶は働いている。記憶は絶え間なく働きつづけている。記憶は何をしているのだろう?記憶には何ができるのだろう?記憶にできるのは、既知のものを未来に求めることだけであり、それ以外のことは何もできない。それは反復し、自らを未来に投影することができる。「かつてあったすべてのものが再びくり返されなければならない。あるいは、かつてあった何かがくり返されてはならない」と。 

記憶は、常に未来に備え、パターンをあなたのまわりに織りあげている。そして、記憶があなたの周囲にパターンを織りあげるのを許してしまったら、あなたは絶対に自由にはなれない。あなたはいつもパターンのなかに織り込まれてしまう。そのパターンは意識という虚空を取り囲む壁だ。あなたが未来に向けて歩み出すまでに、記憶は数歩先まで進んでいる。今や道は閉ざされ、監獄になる。記憶はいつもあなたの道を狭めているのだが、よりよい未来の暮らしに役立つと考えているために、ごまかされてしまう。記憶は役に立ってはいない。それはあなたの未来を過去と同じものにするのに役立っているだけだ。 

記憶は知らないものは何も投影できない。投影できるのは既知のものだけだ。記憶は既知なるものを投影しようとする。その罠にかからないこと。一瞬といえどもマインドを未来に投影させないこと。もちろん、この死んだ習慣なしであることを学ぶには時間がかかるが、それに気づきはじめることが瞑想だ。そして、ひとたびそれに気づけば・・完全に気づき、強烈に気づき、油断なく醒めていれば、記憶はあなたに未来を織りあげようとしなくなる。織りあげることができるのは、あなたが夢を見ているときだけだ。

 

夢を見ていることが、記憶が働くための基本的な条件だ。睡眠中の夢がひじょうに生々しく、現実よりもリアルなのはそのためだ。安楽椅子に坐っているだけで、白昼夢が始まり、夢想が始まる。少しでも眠たくなると、記憶が夢を織りあげ、投影を始める。油断なく醒め、意識しているがいい。そうすれば、記憶は未来に向かって働かなくなる。油断なく醒めていること・・内側でも外側でももっと油断なく醒めていること・・が瞑想の始まりだ。 

この油断のない注意深さは、様々な方法で引き起こすことができる。油断なく醒めていなさいと言ったところで、あなたが注意深くならないことは知っている。あなたはこの言葉を夢見の状態で聞き、記憶がそれを投影する。「はい、私は明日から注意深くなります」と。記憶は私の言葉を拾い上げ、それを投影する。「油断なく醒めていなさい」という私の言葉を聞くと、あなたはそれを投影してしまう。あなたは言う。「はい、私はいつか注意深くなります」と。 

油断なく醒めていれば幸福が訪れてくる、油断なく醒めていればかならず至福が訪れてくると私が言うと、あなたの夢見はいっそうひどくなる・・記憶が私の言葉を未来に投影してしまう。油断なく醒めていなさいと私が言ったところで、あなたは瞑想的にはならない。そんなことを言っても変わりはない。そこで、私は方便をつくりだす。あなたが注意深くならざるをえないような状況・・夢を見てなどいられない状況をつくりだす。 

あることを話そう。周囲に二酸化炭素が増えるほど、夢見の状態は起こりやすくなる。普段より夢を見やすくなる。昼間の方が夜間ほど夢を見がちでないのはそのためだ。化学的な成分が変化する。夜間は、大気中の二酸化炭素が増え、酸素が減る。だから、その逆の状態をつくりだすことができれば・・体内や周囲の酸素が増え、二酸化炭素が放出される状況をつくりだすことができれば、あなたはそれほど夢を見なくなる。 

ダイナミック・メディテーションの技法において、私が激しい呼吸を強調するのはそのためだ。それは体内の化学的環境を変化させるための化学的な方便にほかならない。酸素の量をもっと増やさなければならない。体内の酸素が増えれば増えるほど、夢見の犠牲になる可能性は少なくなる。そして、夢見の状況を促進させるものがなければ、記憶は働くことができない。 
朝になると爽やかな気分になる。朝、太陽が昇るとき、何が起こるのだろう?大気中の二酸化炭素の量が減り、酸素が増える。この同じ化学的変化があなたの内部で起こらなければならない。私が今瞑想キャンプで用いている技法・・ダイナミック・メディテーション・・は、体内に余剰の酸素を生み出す最も強力な手法だ。この技法の最初の3つの激しいステージを終え、第4ステージに入ると、あなたは人を油断なく醒めさせる途方もない生命エネルギーによって満たされる。 

あなたを油断なく醒めさせるもうひとつの方便は、クンダリーニ・メディテーションだ。それは性エネルギーを瞑想と覚醒に変容させるシステムだ。だが、この手法は、性エネルギーを無理なく自然に瞑想に誘導できる人々に最も効果がある。古代インドのヴェーダウパニシャッドの時代の人々は、素朴で自然であり、性エネルギーをたやすく瞑想に変成させることができた。彼らにとって、セックスは精神的な問題ではなかった、まったく問題にならなかった。セックスが精神的なものになってしまうと、問題が起こる。 

現代の世界では、性倒錯や性の乱用がひどく進んだために、クンダリーニ・エネルギーに働きかけることはむずかしくなった。だが、この手法を用いて働きかけると、クンダリーニが昇ってくるのを感じることがある。それはまた別の話だ。クンダリーニが昇ってくるのを感じる者がいれば、私はその人のクンダリーニに働きかけはじめる。だが、内発的なクンダリーニの感覚が生じない限り、私はそのポイントに触れることさえしない。それについては語らない。 

クンダリーニは迂回することができる。現代人はクンダリーニを迂回しなければならないかもしれない。自然なセックス、肉体的なセックス・・思考の働きではないセックス・・を前提としてはじめて、クンダリーニは効力を持つ。無垢なマインドがあって初めてそれは働くことができる。 

だが、道を辿り、あなたが瞑想にもっと深く入ってゆくと、どこかでマインドはその手を緩める。前にも言ったように、あなたが瞑想にもっと深く入ってゆくと、肉体の記憶と心理的な記憶を識別するこつがつかめるようになる。この二つの記憶を識別し、分けることができたら、しだいに肉体を頭で捉えなくなり、肉体が自らの英知を通してひとりでに働くのを許すことができるようになる。 

そうなったら、クンダリーニが目覚めることがある。クンダリーニが自然に働きはじめるなら、結構だ。だが、私はクンダリーニに直接働きかけることは勧めない。クンダリーニには、間接的に、ひとりでに働きはじめる。そういうことはよくある。この手法を用いて働きかけている人々の3割から4割がクンダリーニを感じている。彼らが感じれば、私には準備ができている。そうなったら、彼らは先に進むことができる。そうなったら、彼らはこの手法を使い、クンダリーニの扉を通って先に進むことができる。だが、この手法は、直接ではなく、間接的にクンダリーニと結びついているにすぎない。 

私に言わせれば、全世界がセックスを自然な現象としてとらえるようにならない限り、この先も、直接的なクンダリーニの手法は用いることができないだろう。性的な成熟を迎える前に使われるクンダリーニ技法はない。だが、性的な成熟を迎える前にあなたのなかをクンダリーニが進む道をつくっておかないと、たとえセックスが自然なものと見なされて、あなたが倒錯していないことがわかっても、結局、獣と変わらぬ振る舞いしかできないおそれが大いにある。 

ウパニシャッドの物語を話そう・・ひとりのリシ(賢者)が妻子と坐っている。ある男が通りかかる。彼はリシの妻に恋をして、一緒に自分の家までついてきてくれと言う。妻はその男についてゆく。リシは、批判も反対も一切しない。だが、息子は腹を立てる。彼は父親に向かって言う。「これじゃ獣と変わらないじゃないですか。獣の振る舞いとまったく同じだ。こんなことは許せません。僕には倫理観があります。こんなことは許せません。これじゃ獣と少しも変わりません!」 

父親は言う。「これは獣じみたことではない。むしろ、お前の激怒、おまえの怒りこそまさに獣じみている。それは道徳的な暴力の投影であり、獣とそっくりだ。獣は起こることを黙って見過ごしてはいない。獣なら闘うだろう」この態度、父親の態度の方が実際には高潔だ。父親は言う。「おまえの態度は獣とそっくりだ」と。動物は仲間と戦う。縄張りが侵されると、彼らは戦う。 
だが、父親は言う。「私は人間だ。誰かがおまえの母親を見て、恋に落ちても、誰も過ちを犯したわけではない。それに、彼女が進んでそうするなら、私に口をはさむ理由はない。私もそのようにして彼女と恋に落ちた。何の違いもない。私もそれと同じようにして彼女と恋に落ちたのだ。彼女は私と結婚することに同意した。彼女は私の妻になることに同意したが、私の所有物になることに同意したわけではない。 

今度は別の男が彼女に恋をした。私は自分を知るゆえに、人間の弱さを知っている。私自身も彼女に恋をしたことがある。何も悪いことは起こっていない。それに、私は動物ではないから、そのことで争うこともできない。私は、あの男が私と少しも変わらない人間であることを知っている。なにしろ、おまえの母親は美しい。私も彼女に恋をしたことがある」 

だが、これはひじょうに高い道徳だ。それは性的な成熟を迎える前に訓練を受けることによって初めて身につけることができる。その訓練なしでは為しえない。性的な成熟を迎えてしまうと、エネルギーを経路にそって誘導することはできなくなる。エネルギーの経路を変えることはひじょうにむずかしい。だが、もし経路がそのときまでに準備されていたら、エネルギーは、その経路のなかを愛を交わすときのように自然に流れてゆく。 

この男、この父親、このリシは、クンダリーニを知っていたにちがいない。さもなければ、彼は平静ではいられなかっただろう。それは不可能だ。このリシは自らのクンダリーニを開発していた。彼のエネルギーは上に向かって動いていた。さもなければ、このような態度を取ることは絶対にできなかっただろう。下降するエネルギーは、常に暴力に向かう。上昇するエネルギーは常に愛、理解、慈悲に向かう。 

それゆえに、この手法は間接的な手法だ。それは多くの扉を通って働きかける。あなたのクンダリーニが使えるなら、その手法はクンダリーニを使う。それはクンダリーニの経路を取る。その手法は柔軟だ、完全に柔軟だ。もしあなたのクンダリーニに用意がなく、それを使うことができなければ、それを使うことが危険であれば、それはこの技法では使われない。その場合には、別の通路、別の経路がある。その手法は、別の経路を使うことができる。 

こういった別の経路には名前がない。なぜなら、古代の教えはそれらを使わなかったからだ。だが、別の経路はある。マハヴィーラは、クンダリーニのことにはひと言も触れていない、ただの一度もだ。仏陀は、クンダリーニのことにはひと言も触れていない、ただの一度もだ。キリストはクンダリーニのことは何も知らなかったし、老子はクンダリーニのことなど耳にしたことがなかった。彼らは別の経路を通って進んだ。 

 

仏陀の道は、クンダリーニを通って行くことができなかった。セックスは彼にとってまったく退屈なものになっていた。彼はセックスにまったく関心を抱いていなかった。そうなって当然だ。というのも、彼の父親が王国の美しい女性たちを大勢彼のまわりにはべらせていたからだ。美しい少女たちが、彼の宮殿には勢ぞろいしていた。彼はただただうんざりしてしまった。そうなって当然だ。そんな暮らしをしていれば、誰だってうんざりする。 

彼はセックスにひどく辟易していたので、この同じエネルギーが変換されうるとは思いもしなかった。彼はそれを一度も試さなかった。誰かが性エネルギーは聖なるエネルギーに変わりうると言っても、彼は耳を貸さなかっただろう。性体験の豊富な彼にとって、セックスには何ひとつ神聖なものがなかった。それは肉欲にすぎなかった。それゆえに、仏陀は別の経路を使った。彼はクンダリーニについては何も語っていない。だが、彼は中枢、チャクラについて語っている。彼はチャクラに働きかけた。 

クンダリーニに働きかけるなら、それは漸進的なプロセスになる。クンダリーニは連続体だ。それは温度計によく似た連続体だ。それは温度計のようにゆっくりゆっくり昇ってゆく。その通路は切れ目のない連続体だ。仏陀はその通路を一度も使わなかった。だが、仏陀はチャクラについて、不意に跳躍して働くチャクラについて語っている。人はひとつのチャクラから別のチャクラへと跳躍する。連続性はない。人はただ跳躍する。この跳躍のプロセスゆえに、仏陀は世界全体をきわめて斬新な見方でとらえた。彼は、世界には連続性がなく、跳躍のみがあると言った。 

連続するものは何もない。花は蕾の続きではない。花は跳躍だ。青年期は幼年期の続きではない。それは跳躍だ。それゆえに、仏教学者たちは、現代の科学もまた連続するものはない、あらゆるものがジャンプする、跳躍のみがあると言っているのを聞いて、今や大いに満足している。物が連続して見えるのは、たんに二つのあいだにあるギャップが私たちには見えないからだ。 

あなたはこの光を絶え間なく見ているが、それは連続してはいない。電子はジャンプしているのだが、その間隙があまりに小さいために、眼でとらえることができない。それは連続せずに、ジャンプしている。だが、そのジャンプがあまりに素早いために、ひとつの電子が死に、ひとつの電子が生まれても、その間隙は認知されない。不意にジャンプが起こる。夜に火をともし、朝、消すとき、あなたは同じ火を消していると思うだろう。だが、炎は数限りなくジャンプしている。炎が去り、かき消えると、新しい炎が現れる。だが、炎は連続しているように見える。 

ヘラクレイトスは、同じ河に二度と足を踏み入れることはできないと言った。河は流れているから、二度とそこに足を踏み入れることはできない。仏陀はこう言うだろう・・一度でも河に足を踏み入れることはできない。河は流れているから、水面に足が触れた瞬間に、流れ去っている。足を深く踏み入れないうちに、河は流れ去っている。たった一歩踏み入れるあいだにも、大量の河が流れ去っている!それは常に跳躍しているプロセスだ。

この跳躍という概念を仏陀が思いついたのは、彼が一度もクンダリーニを経由したことがなかったからだ。彼はひとつのチャクラから別のチャクラへと跳躍して動いた。それゆえに、彼は7つのチャクラについて語る。それもまた起こりうる。私はあなたの家までジャンプしながら行くこともできる。その場合には、ある地点に触れるだけだ。間隙があり、連続性はない。 

マハヴィーラは、チャクラあるいは跳躍のことは一度も語っていない。彼は爆発について語る。あなたは「これ」であり、突然「それ」になっている。ジャンプするための踏み石が数多くあるわけでもない。これはまったく異なる経路・・爆発だ。あなたは、ただ爆発する。連続性もなければ、跳躍もない。あるのは爆発だ。通過する中継点などはない。 

禅には二つの流派がある。ひとつは「頓悟(とんご)」として知られる禅の流派だ。もうひとつは「漸悟(ぜんご)」として知られる禅の流派だ。だが、「漸悟」の禅でさえクンダリーニについては語らない。禅は別の経路を使ってきた。それゆえに、禅にはクンダリーニに関する言及はない。「漸悟」の流派においてすら、別の経路が使われてきた。 

肉体にはたくさんの経路がある。肉体のなかには広大な世界がある。呼吸を通して働きかけ、呼吸を通して跳躍することもできる。セックスを通して働きかけ、セックスを通して跳躍することもできる。「気づき」を通して働きかけ・・それは意識を通した直接的な方法だ・・跳躍することもできる。意識に直接働きかけるこの方法は、もっとも深い経路のひとつだ。だが、ひとつの経路も様々な形で使うことができる。あなたはこの複雑さを理解しなければならない。 

例えば、ひとつの道路も色々な方法で使うことができる。自動車を使ってもいいし、牛車を使ってもいい。ただ歩いて行ってもいい。道は同じだが、その方法はまったく違う。歩いて行くのと、自動車に乗って行くのとでは大きな違いがある。共通点は何もない。自動車の場合は、何もせずに坐っているだけだ。あなたは何もしていない。「私はこの道を坐ったままでやって来た」と言う者がいても、その人は嘘をついているわけではない。しかし、ただひたすら歩いて来て、坐ったままで道を移動できることをまったく知らない人は、そんなことができるはずはないと言う。だが、彼もまた正しい。 

ひとつの経路でさえ様々な形で使うことができる。「気づき」を例に挙げよう・・グルジェフは「気づき」を用いたが、彼はそれを「想起」と呼んでいた。手法は違うが、経路は同じだ。意識が直接使われることになるが、「想起」としてであって、「気づき」としてではない。この二つの違いは何か?「想起」とは、通りを歩いているとき、自分が「いる」ということをひたすら想起することだ。しばらく立ち止まり、自分が「いる」ということを想起する。自分が「いる」ということを完全に想起しながら、まわりを見る。一瞬といえども、自分がいるということを忘れてはいけない。 

だが、私たちは忘れてしまう。私たちは決して想起しない。あなたを見る場合、私は自分のことを忘れてあなたを見ている。「気づき」の矢は1本になり、別の矢はそこにない。グルジェフは、「気づき」を両方に向かう2本の矢にしろと言う。あなたは講話を聴いている。話し手の言葉に耳を傾けるのが最初の矢だ。もしあなたの「気づき」が自分自身にも向けられたら・・つまり、聴き手に気づいていたら・・そのときには、それが第2の矢になる。耳を傾けているとき、自分自身を忘れてはいけない。自分が聴いていることを想起するがいい。誰かが話し、あなたは聴いている。その両者を超え、そして、想起するのだ。自分自身を2本の矢にすること。経路は同じだが、手法が違う。 

クリシュナムルティは言う。「そのようなやり方で想起してはならない。それは緊張を伴う努力になってしまう。その全一なるものにただ気づいていればいい。自分はここにいて、他者はあそこにいる、と考えることで選択してはならない。選んではならない・・ただ無選択の気づきをそこにあらしめなさい。焦点を合わせてはならない。焦点を持たない気づきだ」私は話している。あなたがたは坐っている。外では車の警笛が鳴っている。車が通り過ぎてゆく・・ものごとはあるがままにあり、気づきの焦点は合わされていない。焦点を矢のように向けてはいけない。焦点を合わせないこと。経路は同じだが、手法は全く違う。 

タントラは、同じ手法、同じ経路を、別の形で使った。それは思いもよらないやり方だった。彼らは麻薬・・バング、チャラス、ガンジャ・・やワインを使った。その手法というのは、麻薬を飲みながら、醒めているというものだった。気づきを失ってはいけない。麻薬を飲みつづけながら、自分が醒めていることに気づいていること。意識を失ってはいけない。そして、どんな麻薬も効かなくなるような手法がある。蛇の毒さえもが使われた。蛇に舌を噛ませる。蛇が舌を噛んでも、醒めていられるようになって初めて、あなたは跳躍している。それまではだめだ。経路は同じだが、手法はまったく違う。 

この種のタントラの行法において、麻薬に左右されず、意識を保ったまま、意識的に振る舞うときには、何かがあなたの内側で結晶化している。何かが肉体の化学作用を超越している。さもなければ、化学作用はあなたに影響を及ぼす。今やあなたは肉体の化学作用を超越している。化学作用が肉体のどこかで起こっているが、あなたは超然としている。それはあなたに触れることができない。 

経路はたくさんある。経路のひとつひとつに様々な手法を適用することができる。私の手法は、どの経路とも直接には関係していない。それは飛んだり、漕いだり、道の上を進んだりすることのできる乗り物に似ている。何であれあなたの人格が必要とするものに従って、手法や経路は変化する。だから、それをマルティメソッド(多元的な手法)と呼んでもよい。それは間接的なものであり、直接的なものではありえない。 

私はあなたに手法を授ける。あなたの肉体、あなたの実存がその経路を決める。この手法によって喚起されたエネルギーは、タントラ、仏教、ジャイナ教グルジェフ、スーフィなど、どの経路にも使える。そして、私がこう言うとき、それはたんなる仮説ではない。私がこう言うのは、私がそのように働きかけてきたからだ。 

別の経路に働きかけていた人々が私のもとにやって来た。この手法を使うことで、彼らは自分自身の道を進む助けを得はじめる。クンダリーニに働きかけている人が私のもとにやって来て、この手法で働きかけはじめると、その人は自分自身の道を進む助けを得る。その人は言う。「この手法はすばらしい。私がこれまでやっていたクンダリーニの手法は、こんなに強烈には効きませんでした」ところが、これはクンダリーニの手法ではまったくない!だが、この手法は柔軟だ。それはあなたにふさわしい経路を見つけだす。あなたはそれを実践するだけでいい。そうすれば、他のことはすべて手法そのものがやってくれる。 

来るべき世界では、そして、現代の世界でも、このような柔軟な手法しか使うことができない。今や人々のタイプは千差万別だからだ。古い世界では状況が違った。特定の地域に、特定のタイプが存在していた。ヒンドゥー教徒がいる場所には、ヒンドゥー教徒のみがいて、イスラム教徒はいなかった。実際、両者は互いに相手のことを耳にしたこともなかった。互いに相手の修行方法を知らなかったので、決して混乱することはなかった。彼らは単一のタイプに属していた。チベット仏教徒は、チベット仏教徒だった。彼らは他の宗教のことは耳にしたこともなかった。条件づけは誰の場合も同じだった。全ての人が同じ環境で育てられた。それゆえに、効果のある手法がひとつあればよかった。 

今や、きわめて困難な事態になっている。マインドは混乱している。タイプがひとつにとどまらないだけでなく、各人のなかにも多面性があるからだ。様々な影響、矛盾し合う影響がある。宗教が口をそろえて「他の宗教を学ばないように。他の教師のもとへ行かないように」と言うのはそのためだ。それはたんなる教条主義ではない。教条主義に見えはするが、それは基本的には自らのタイプを守るための言辞にすぎなかった。そうしなければ、混乱が生じてしまう。違う手法に手をつけすぎたら、どの手法も十全に活かしきれない。人を混乱させないために、ひとつの手法が選ばれたのだ。 

だが、もはやそれは不可能だ。今では誰もが混乱している。そして、それを防ぐ手立ては何もない。今や単一のタイプなどありえない。混乱から守られているタイプなどありえない。だから、今私たちは、どんなタイプにも属さず、どんなタイプの人にも使える新しい手法を必要としている。そういうわけで、この手法は柔軟だ。私はクンダリーニに特別関心があるわけではないし、何かに特別関心があるわけでもないが、あらゆるものに深い関心を寄せている。 

この手法を使いなさい。そうすれば、手法そのものがあなたに使える経路を発見するだろう。私はこれを手法そのものにまかせる。手法がそれを発見する。あなたが自力で見いだすよりもずっと正確に発見する。だが、この発見は無意識のうちに起こる。この手法によって、あなたは火が燃え移った家にいるような状況に置かれる。あなたは危機一髪の状況にある。走れるなら、あなたは走るだろう。ジャンプできるなら、あなたはジャンプするだろう。状況がそこにあり、それがあなたを押しやって、あなたに出来ることなら何でもやらせる。 

無意識のマインドは、いつも抵抗がもっとも少ない経路を選ぶ。それがマインドの数学、内なる経済学だ。あなたが無意識のうちに長い経路を選ぶことは決してない。あなたは必ず最短の経路を選ぶ。意識的なマインドが働くときにのみ、あなたはどこにも行き着かなかったり、行き着くまでに死んでしまうような長い経路を選びはじめる。だが、無意識は、かならず最短の経路を選ぶ。だから、この手法が状況をつくりだすと、あなたの無意識は自分に潜在するタイプに見合った経路を取る。 

OSHO、「未知への扉」(瞑想社)第5章:未知なるものへの冒険 より (1971年)