OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

93.精神霊的な爆発

<OSHOの講話より>  「未知への扉」 第6章: 精神霊的な爆発 (1971年) 

質問:OSHO、あなたは、究極の精神霊的な爆発がある人物に起こると、必ずその人のまわりには他の探究者に影響を与える連鎖反応に似た精神霊的な爆発のプロセスが起こりはじめるとおっしゃいました。精神霊的な爆発の連鎖反応はあなたのまわりで起こりはじめているのですか?高次の精神霊的な爆発を体験した人々はいるのですか?物理的にあなたの近くにいる人々のなかに近い将来爆発してゆく人はいますか? 

最初に、精神霊的な爆発という言葉が何を指すかを理解しなければならない。そこにはたくさんの含みがある。まず、爆発とは、あなたが直接手を下すことのできない何かだ。あなたの努力は無意味だ。それは意のままに引き起こせるものではない。爆発は、あなたにただ起こる。爆発を引き起こすために積極的なことは何もできない。あなたによって引き起こされる爆発など、まったく爆発ではないからだ。 

それでは「あなた」が残る。「あなた」が存続する。爆発の後でさえ、あなたがそこにいる。「あなた」が爆発を体験したのであれば、あなたは爆発に巻き込まれていない。だから、爆発に向かって積極的に努力をすることはできない。これが第一の事柄、「爆発」に関するもっとも基本的な含みだ。 

爆発とは、過去との断絶を意味する。古いものは完全に去って、新しいものが現れた。この二つのあいだには連続性がない。この新しいものは過去とつながりを持たない。因果の鎖は存在しない。それは古いものによって引き起こされたものではない。それが古いものによって引き起こされるなら、爆発は存在しない。そうなったら、連続性がある。古いものが新しい形で続いている。 

あなたは何かを得るかもしれないし、何かを自分につけ加えるかもしれないが、「あなた」は同じままだ。実存の中心は変わらない。周辺にのみ何かがつけ加えられ、集められている。あなたのエゴはさらに強化され、前よりも強くなる。あなたはさらに豊かになる。それゆえに、連続した状態での爆発はありえない。 

爆発とは、古いものが死に絶えて、新しいものが生まれたということだ。その二つのあいだには因果の鎖がない。ギャップ・・橋を架けることのできないギャップ、深淵がある。そのとき初めて、それを爆発と呼ぶことができる。これを理解するのはひじょうにむずかしい。私たちの生における事柄がどれも理解しやすいのは、あらゆるものに因果関係があるからだ。私たちの論理的な思考全体が因果律に基づいている。あらゆるものがつながっている。あらゆるものが関係し、他の何かと連続している。新しいものは何もない。すべてが古いものの修正にすぎない。だからそれは理解することができる。 

なぜなら、マインドは連続しているからだ。マインドは蓄積された知識、記憶で一杯になっている。古いものはいつでも理解することができるが、新しいものはマインドの理解を超えている。新しいものはマインドでは理解できない。マインドは新しいものを理解しようとしても、それを過去の言葉に変えてしまう。マインドは新しいものに形を与え、意味づけをし、分類する。ものごとが古いものとつながっていれば、理解することができるので、マインドはくつろぐことができる。 

爆発はマインドでは理解しえない何かだ。実際、爆発のなかでマインドは炸裂して、完全に投げ出される。だから、理解すべき二番目の事柄はこれ・・つまり、あなたが爆発を理解することはできないということだ。あなたに理解できるものはどれも爆発ではない。あなたはその現象を何か既知のもの、古いものに置き換えようとする。あなたは私の言おうとする「爆発」を他の爆発になぞらえるかもしれない。だが、精神霊的な爆発は、いかなる他の現象にも似ていない。 

爆発が炸裂すると、あらゆるものが破壊される。古い秩序は消え去り、混沌が生じる。だが、この混沌は古いものによって引き起こされる。それは連続している。新しいものは何ひとつ生まれていない。この混沌、この無秩序は、どこをとっても古い秩序の連続にすぎない。それは無秩序と化した古いものにすぎない。それゆえに、物質的な爆発は、精神霊的な爆発の象徴にすらなりえないし、隠喩として使うことすらできない。その言葉は物質的な出来事に由来するために、誤った印象を与えかねない。精神霊的な爆発とは、古いものが無秩序と化すか、古いものが混沌と化すとかいうことではない。精神霊的な爆発とは、新しいものがつくりだされ、新しいものが誕生することをいう。 

物質的な爆発は破壊的だが、精神霊的な爆発は創造的だ。それを何かになぞらえてとらえようとしても、それを知ることはできない。新しいもの、まったく新しいものが誕生する。あなたがそれに意味を与えることはできない。なぜなら、あなた自身が古いからだ。あなたがそれを創造することはできない。あなたはただ空っぽでいなければならない。あなたは、自らの不在、存在しないことを通して、消極的な形で手を貸すことしかできない。あなたがいなくなれば、爆発が起こる。あなたの消極的な形での協調のみが求められる。だが、何かを積極的に行うのはやさしいが、何かを消極的に行うのはひじょうにむずかしい。 

協調するのはやさしいし、協調しないのもやさしいが、消極的に協調するのは至難のわざだ。消極的に協調するとは、障害物をつくらないことをいう・・私たちはみな、新しいものが誕生するのを妨げる妨害物をつくりだしつづけている。私たちは古いものを強調してばかりいる。私たちはいつも古いものにしがみつき、古いものに同一化している。古いものとは「私たち」、「私」そのものだ。「私」と言うとき、私はそれが過去全体だと言おうとしている。そうだとしたら、どうして私が新しいものに手を貸すことができるだろう? 

「私」が過去だとしたら、どうしてその私が未来に手を貸すことができるだろう?「私」と言うとき、私はいつもこの一語に集約された過去全体を指している。もはや死んでしまった一切のもの、埋葬しなければならない一切のものが、この「私」の背後に立っている。この「私」が障害物に・・新しいものが入ってくるのを妨げる唯一の障害物、唯一の邪魔物になる。 

この「私」に対して積極的には何もできないが、消極的には何かをすることができる。自分が古いものであることを理解して、この理解を沈潜させ、あなたの内奥の中核にまで浸透させなさい。新しいものの誕生に手を貸すことなどできないことを完全に自覚しなさい。新しいものが入ってこない限り、霊性は生まれない。新しいものが爆発しない限り、あなたは生まれ変わらない。あなたは聖なるものの次元に生まれない。 

それは、この私が解放されるべきだということではない。むしろ、「私」からの自由、私自身からの自由が起こる。それは私が何かをしなければならないということではない。むしろ、この現象が起こるためには、私は何もしてはならない。私たちは多くのことをやりつづけている。何かをしようとするこのこだわりは「私」から生まれる。それが「私」を先送りにし、継続させる。つまり、「私」を未来に投影する。そうなったら、爆発は起こりえない。 

塵のように堆積した死んだ過去が、あなたの鏡のような意識の上につもりつづける。そうなったら、鏡のような意識は失われ、見えるのは塵だけだ。私たちは塵に同一化する。あなたは過去を持たない自分を想像できるだろうか?過去全体が壊されてしまったら、あなたはどうやって生きてゆくのだろう?あなたは何をするだろう?あなたは誰になるだろう?もし過去のすべてが取り去られたら、やがてあなたは自分が崩れ落ち、消えてゆくのを感じるだろう。 

過去がなければ、あなたは誰だろう?あなたはどこにいるのだろう?そうなったら、自分を何と同一化させるだろう?過去がなくても、あなたは依然として存在するが、あり方が変わる。実際、あなたは過去のあなたと正反対になる。過去全体が取り去られると、あなたはただの意識になる。そうなったら、あなたは自我(エゴ)ではありえない。 

自我とは集積された出来事、過去だ。それがあなたから取り去られると、あなたは新しいアイデンティティ(自己確証)を得る。あなたは、まさにあらゆるものを映しだす鏡のようになる。ひとたび自分自身が障害物であることを自覚すれば、何をする必要もない。この自覚そのものがあなたの古いアイデンティティを壊してしまう。そして、古いアイデンティティが完全に壊されるとき・・あなたの真の実存とあなたの記憶のあいだにギャップがあり、あなたの自我とあなたのあいだに空間があるとき、その空間のなかで爆発が生じる。その空間のなかで爆発が起こる! 

この爆発はどうあがいても知的に解釈することはできない。理解しようとすればするほど、ますますわからなくなってゆく。だから、そのことで力まずに、ただくつろぎなさい。そして、私を理解しようとしないこと。それよりも、私が言っていることをあなた自身の内側で感じ取りなさい。あなたは過去だと私が言っても、その言葉を鵜呑みにしないで、それが本当かどうか考えてみるがいい。内側に入っていって、何であれ語られていることを感じ取りなさい。事実の観点でとらえなさい。それは事実だ。 

内側に入って、自分が過去であるかどうかを調べるがいい。私が言っていることが本当に事実であるかどうかを調べるがいい。あなたの内側に過去以外のものが何かあるだろうか?あなたは死んだ過去にすぎないのだろうか?それとも、あなたの内側にはほんのわずかでも過去とつながりを持たない生きた別の何かがあるだろうか?それは何だろう? 

それを自分自身のなかに閉じ込めることはできない。なぜなら、「私」は限られているからだ。過去は有限なので、限定することができる。過去は限定することができる。それは起こったことであり、有限だ。だが、あなたの内側にある何か、過去ではなく今ここに属しているものを自覚すれば、たとえ過去全体が破壊されても、その何かは依然として存続する。 

過去が破壊されても滅びずに存続するものがあなたの内側にあるとしたら、それはまさに純粋な意識、鏡のような意識だ。そのとき、「あなた」はそこには存在しない。あなたは、あらゆるものを映しだす鏡にすぎない。そうなったら、あなたは自分の自我と自分自身のあいだにある間隙を感じるだろう。あなたは空間を感じるだろう。この理解、この自覚のなかに留まることができたら、それは瞑想になる。この理解と自覚のなかに、あなたの真の実存・・あなたの意識・・と過去のあいだにあるこの空間のなかに留まることさえできたら、蓄積された存在、自我は外側の層にすぎなくなる。 

それは境界線にすぎなくなり、中心には純粋な意識がある。この純粋な意識、中心のなかに留まりなさい。それは容易なことではない。なかなか思うようにはいかないし、骨が折れる。というのも、私たちは一度もそこに留まったことがないからだ。私たちは常に表層に向かって走っている。私たちは常に表層に同一化している。私たちは表層で生き、決して中心で生きることがない。表層は自我だ。というのも、ものごとはすべて表層、周辺で起こるからだ。 

周辺は、あなたが他者と触れ合う点だ。私があなたを愛するとき、その愛の出来事は表層で起こる。あなたの表層に触れたり、接触したりできるのは私の表層だけだからだ。この世の出来事はすべて表層、境界線上で起こるため、私たちはいつも境界線上にいる。それは行為の領域だ。だが、実存は常に中心にある。このギャップ、この空間のなかに留まり、自分自身であることができたら・・表層ではなく、中心にあることができたら、表層を死んだ過去、表面、肉体にすぎないものとして自覚することができたら・・「あなた」は失われる。私はこの肉体のことを話しているのではない。「身体」と言うとき、私は自我を指している。 

この空間を知的に解釈したり、論理的に理解したりするのではなく、実存で感じ取るとあなたは居心地が悪くなり、あたかも死んでゆくような不安に襲われる。あなたはいつも表層に留まっていたからだ。それがあなたの生だった。それゆえに、中心に戻ってゆくと、死んでゆくような気分になる。今現在は表層があなたの生になっている。あなたはそれ以外の生を知らない。あなたはまるで自分が沈み、死んでゆくような、窒息するような気分になる。マインドは言うだろう。「表層に戻るんだ。生はそこにある」と。 

表層に生はない・・あるのは行為だけだ。あることではなく、することのみがある。何もしなくてよいときに、何もしないでいるのがひじょうにむずかしくなり、そのままでいることができなくなるのはそのためだ。あなたは何かをやりはじめる。新聞を読むかもしれない。ラジオをつけるかもしれない。あなたは何かをする。あるいは、何もすることがなければ、眠ってしまうかもしれない。だが、無為の状態に留まるのは、もっとも骨が折れることだ。ほんの片時もあなたは無為の状態に留まっていない。だが、存在は無為の状態に留まることができる者たち、中心に留まることができる者たちだけに開示される。

 

消極的な協調とはこのことを指している。あなたの消極的な形での協調が必要とされる。あなたは何もせずに、無為の状態に留まらなければならない。そうすれば、爆発が起こる。それはただあなたに起こる。それが起こるときには、あなたはかならず中心にいる。これはあなたにはもう何もできなくなるということではない。あなたは多くのことをすることができる。だが、行為の質がすっかり変わってしまう。 

今やその中心からは別の種類の愛が湧き起こる。その中心からは別の種類の行為が湧き起こる。もはや愛は行為ではなく、マインドの状態だ。愛するときもあれば、愛さないときもあるというのではない。今やそれはあなたの存在そのものになっている。あなたは愛に溢れるようになる。あらゆる行為、あらゆる関係が、違う質、違う意味、違う深みを帯びてくる。この爆発によって、マインド、自我、肉体、表層との同一化が完全に解かれ、同一化が完全に消える。 

自己同一化の破壊が爆発だ。あなたはもはや連続していない。なぜなら、連続するものはすべて表層にあるからだ。爆発は表層と連続するものではない。それはジャンプだ。周辺を走りつづけるなら、それは連続だ。あなたは周辺をぐるぐるまわり、一生走りつづけるかもしれない。だが、一歩踏みだすごとに前の一歩に拘束され、一歩踏みだすごとに次の一歩が待ちかまえている。それは鎖状に連なるプロセスだ。ところが、周辺から中心への跳躍は古いものとのつながりがない。それは断絶だ。次の一歩もなく、過去の一歩によって引き起こされるものではない。それはまったく新しく、原因を持たない。 

このことを理解するのがむずかしくなるのは、出来事や事件からなるこの世界では原因を持たないものなど何ひとつないからだ。だが、現代物理学はこの地点に近づいている。現代物理学はよく似た状況に到達した。電子の運動は非連続だ。物理学全体が、電子のこの運動の発見によって、新しい次元に入った。今世紀に入るまで、物理学は何よりも科学的方法に基礎をおく体系だった。ものにはすべて原因があった。あらゆるものが連続していた。あらゆるものが確実だった。因果の鎖があって初めてそれは確実だといえる。ものごとが原因なしで起こりうるなら、何ひとつ確実なものはない。そうだとしたら、適応できる法則などまったくない。 

今や物理学全体が揺らいでいる。電子の運動を決定することができないからだ。電子は原因もなしに運動する。何の連続性もなく、ある地点で消滅したかと思うと、別の地点に出現する。A地点で電子が消え、B地点に電子が現れる・・そして、AとBのあいだには連続性がない。つながりがない。電子は移動したわけではない。これは神秘のように見える。だが、私はこの電子の運動を譬(たと)えとして使う。 

思考には二つのタイプがある。ひとつは論理的な思考であり、もうひとつは類比的(アナロジカル)な思考だ。論理的な思考は順を追って進む。これがこうなっているから、それが起こる、と。原因が決まれば、結果も決まる。論理的なプロセスは、定義し、特定するプロセスだ。ある前提が与えられると、ある結果が自動的に従う。自由はない。論理的な思考には自由がない。原因は過去にあるので、すべてが過去に支配される。ある量の毒が死を引き起こす。死は避けられない。それは確実で、連続した、因果の鎖だ。 

類比的な思考はまったく違う、まったく別のものだ。類比的な思考は、ある意味で詩的だ。あなたはひとつのものから別のものへ、論理を追うことによってではなく、たんなる類比によってジャンプする。例えば、私が誰かに恋をして、「私の恋人は月のようだ」といった詩を書くとしよう。何のつながりもない。恋人の顔と月には何の因果関係もない。関係は何もない、あくまで譬えだ。私はある地点から別の地点へと順を追って移動するのではなく、一気にジャンプした。それは電子の運動とそっくりだ。 

詩人はいつもそのように振る舞ってきた。彼らはある地点から別の地点へ譬えを使って一気にジャンプする。どうみても何の類似性もないのに、どこか似ている、どこか共鳴するものがあると詩人に思えたらそれで充分だ。何かが響き合っている。そうなったら、ジャンプ、類比的なジャンプが起こる。 

神秘主義の文献はどこまでも譬えだ。神秘家は譬えを差し出すことしかできない。膨大な寓話があるのはそのためだ。それらはすべて譬えだ。イエスは譬えを使って話していた。仏陀や他の者たちもそうだった。彼らは論理的な理由づけや議論は一切しなかった。実際、イエスはいかなる点に関しても決して議論しなかった。議論はない。あるのは譬えだけだ。共感することで初めて、類比的な思考を理解することができる。共感しなければ、理解することはできない。譬えは論証ではなく、あなたの共感的な姿勢、それと同じプロセスを自分の内部で継承できるかどうかにかかっているからだ。 

精神霊的な爆発のなかで何が起こるかを表すために、私は電子の運動を譬えとして使う。古いものは周辺に留まり、周辺と中心を結ぶ鎖はない。移動は起こらない。周辺から中心へ動いてゆくわけではない。両者のあいだを移動するなら、周辺から伸びる鎖がある。その場合には、中心に向かう第一歩は周辺で印され、一歩一歩が前の一歩とつながってゆく。その場合には、因果の鎖がある。しかし、周辺にいたあなたが、ふと気付くと中心にいるとしたら・・そのあいだに動きがなければ・・それが爆発だ。 

物理学がわからない人のために、別の譬えを使おう。例えば、あなたがボンベイで眠りながら、ロンドンにいる夢を見ているとしよう。朝になって夢が終わり、眠りが去ると、あなたはロンドンからボンベイに旅をして戻らなければならないだろうか?あなたはボンベイで眠りながら、ロンドンにいるという夢を見ていた。ロンドンにいる夢を見ている途中に、誰かがやって来て起こしたら、あなたはロンドンで目を覚ますだろうか、それともボンベイだろうか? 

もちろん、あなたはボンベイで目を覚ます。だが、あなたはどうやって戻ってきたのだろう?少しでも旅をしただろうか?その距離を旅するなら、あなたはまだ夢を見ている。夢のなかでのみ、その距離を旅することができるからだ。その距離を旅するなら・・飛行機に乗るなら・・その飛行機も夢の一部だ。だが、ぱっと目が覚めるなら、夢はロンドンで途切れる。あなたは旅をせずに、ボンベイで目を覚ます。目覚めは新しい何かだ。それは夢の続きではない。 

周辺は夢だ。行為の夢、自我の夢。それゆえに、インドの神秘家たちは、世界は幻想だと言った。彼らは「それは夢にすぎない。世界全体が夢にすぎない」と言った。だが、シャンカラや他の者たちが「この世界は夢だ」と言ったとしても、それは譬えであり、誤解されてはならない。それは誤解されてきた。彼らはまったく馬鹿げたことを言っていると指摘することはできる。「どうしてこの世界が夢でありうるだろう?実にリアルだ!」と。インドの神秘家であり哲学者であるシャンカラも、世界が現実であることは知っていた。だが、彼は譬えを使って話していた。 

「世界は夢だ」・・こう言ったとしても、それは世界が本当に夢であるという意味ではない。覚醒すれば、従来の世界認識、従来の世界知覚が途絶えるということにすぎない。夢と覚醒のあいだにはいかなる関連もない。いかなるつながり、いかなる関係も見いだせない。ロンドンにいたのに、どうやって戻って来たのだろうと戸惑うだけだ。だが、実際には誰も戸惑いはしない。夢から醒めても、人は決して戸惑わない。目が醒めて、戸惑ったことがあるだろうか?「ああ、夢だったのか」と言うだけで、その章は終りだ。あなたは決してそれについて考えたりしない。 

爆発が起こるたびに、いつも同じことが起こる。あなたは知り、そして言う。「夢を見ている実体が溶けてしまった。あれは夢だった。今、私は中心にいる」と。どのようにとは決して尋ねない。どうやって周辺にいた私が再び中心に戻ってきたのか?どうやって私は旅をしたのか?とは決して尋ねない。 

人々は仏陀に尋ねたものだ。「あなたはどのようにして光明を得られたのですか?」と。こんな質問は馬鹿げている。誰かに「あなたはどうやって夢から覚めたのですか、どんな方法で?どんなテクニックで?どうすれば夢から覚める練習をすることができるのですか?」と訊くようなものだ。夢はただ破れる。夢には夢の破られ方がある。ときおり夢は悪夢になることがある。それは耐えがたくなる。そうなったら、まさにその耐えがたさ、その苦悶が引き金となって夢は破れる。 

だから、もし周辺の生が悪夢になったら、今あなたが生きている生が地獄になったら、そのすべてがあなたを夢から覚めさせる。だが、夢から覚めてしまえば、その目覚めには原因がなく、連続性がないことがわかる。私たちがそれを爆発と呼ぶのはそのためだ。そのなかでは新しい何かが起こる・・まったく新しい何かが。それを古いものと関連づけて理解することはできない。 

では、消極的な形であれ、あなたには何ができるだろう?少なくとも三つのことを消極的な形ですることができる。ひとつには、醒めていることだ・・ほんの一瞬でも醒めていられればいい。自分の実存ではない過去に同一化していることに醒めていなさい。実存は、現在、今ここにあるが、あなたは今ここにないものに同一化している。これに醒めていなさい。あなたがどこにいようと、この覚醒を不意にもたらすのだ。 

あなたは通りを歩いている。一瞬、立ち止まり、不意に気づきなさい。どこにいようと、どんな状況に置かれていようと、一瞬、立ち止まり、自分がどこにいるか・・周辺か、中心か・・不意に気づくのだ。あなたは記憶に同一化しているだろうか、それとも、記憶には同一化していないだろうか?この覚醒は、最初は一瞬しか現れないか、現れてもあっという間に消える。ごくわずかの断片的な一瞥があるだけだ。それを感じたときには、もうなくなっている。だが、その一瞥は深くなり、周辺から中心への新しい動き、電子の運動・・ある地点から別の地点へのジャンプ、跳躍・・に似た動きが起こる。この状況は深まる。 

最大限の覚醒を保って、あらゆる状況を使いなさい。例えば、息は出てゆき、まだ入ってきていない。間隙がある・・その二つのあいだにはひじょうに小さい、微細な間隙がある。息を吸ってもいないし、吐いてもいない。その間隙に気づきなさい!一瞬でもそのなかに留まれば、中心が感じられる。あなたは周辺から遠く離れている。あなたは夢から出ている。 

あなたは眠りにつこうとしている。眠りがやって来つつあることに、眠りがあなたの上に降りて来つつあることに醒めているがいい。あなたは眠りのなかに沈もうとしている。そのとき、目覚めているのでもなく、眠っているのでもない瞬間がある。マインドがその次元を変えつつある。ほんの一瞬、あなたは眠ってはいないし、目覚めてもいない。それに醒めていること。その間隙のなかに留まりなさい。そうすれば、あなたは中心に投げ込まれる。あなたは周辺から離れている。 

朝になると、あなたは眠りの状態から戻ってくる。眠りは去ったが、まだ目を覚ましてはいない瞬間を感じ取りなさい。かならずその瞬間がある。マインドがひとつの状態から別の状態に変わるときには、かならず間隙がある。至るところに間隙がある。間隙がなければ、変化は起こりえないからだ。そして、その間隙のなかで、あなたは決して周辺にはいない。その間隙は周辺と断絶している。 

あなたは私が言っていることを正確に理解しなければならない。間隙は周辺の上にはない。間隙はすべて中心にある。連続するものだけが周辺にある。ひとつのことが起こると、続いて別のことが起こる。そして、そのあいだにはかならず間隙があって、あなたはいつも中心にいる。あなたはいつも中心に戻り、次の瞬間には周辺に戻っている。だが、これがあまりに素早く、あっと言う間に起こるので、ふつうはそれに気づくことができない。だが、醒め、留意し、目を見張り、注意深くなってゆくと、やがて一瞥を得るようになる。 

あなたは誰かを愛している。愛は去ったが、憎しみはまだやってきていない。愛も憎しみも存在しない瞬間がある。愛は周辺で起こる。憎しみも周辺で起こる。だが、その二つの間隙はかならず中心で起こる。だから、あなたは愛しているときにも周辺にいるし、憎んでいるときにも周辺にいる。だが、愛が憎しみに変わったり、憎しみが愛に変わるときは、あなたは周辺にいない。その間隙は常に中心にあり、あなたは中心に投げ戻されている。あなたは周辺からは変われない。周辺には行為しかないからだ。実存は中心にある。変わるためには、中心に戻らなければならない。だが、この行き来はあまりに素早く、迅速なので、ふつうはそれに気づくほど鋭敏にはなれない。 

だから、変化が起こるたびに、油断なく醒めていなさい。あなたは病気をしていた。もう病は癒えたが、まだ健康は回復していない。醒めているがいい!あなたは中心にいる。周辺そのものにはいかなる変化も起こりえない。誰もが眠りを必要とするのはそのためだ。なぜなら、眠りのなかでは、大きな変化が起こるからだ。ぐっすりと眠れなければ、あなたは生きてゆけなくなる。生は毎日一定の変化を必要とするからだ。

 

肉体、想念、感情には、毎日、多くの変化が起こらなければならない。毎日、多くのものが変化してゆく。そこで、自然はあなたを無意識にさせるというやり方をとる。意識を保ったままでは中心に長く留まっていられないからだ。周辺にいないように、周辺に向かって走ってゆかないように、あなたは無意識のなかに投げ込まれる。眠りにつき、無意識になっているので、あなたは中心にいて、実存に落ち着いている。 

だが、目覚めていても、あなたは様々な変化を通り抜ける。言うなれば、自動車のギアを変えるようなものだ。ごくわずかのあいだ、あなたはギアをニュートラルに入れる。ギアを変えるときには、かならずニュートラルを通る。ニュートラルとは「ノー・ギア」という意味だ。ローからセカンドに入れる場合、ギアを直接変えることはできない。変えるにはノー・ギアの状態を通過しなければならない。そうして初めてギアを変えることができる。熟練すればするほど、時間がかからなくなる。 

実際、熟練したドライバーは、ギアを変えるたびにニュートラルを通過していることに気づかなくなる。それは素早く変わるので、いちいちそれに気づいていなくてもよい。運転の練習をしている者しか気づかない。初心者以外は誰も気づかない。運転の練習をしているとき、いつも厄介なのはニュートラル・ギアだ。ひとつの行為から別の行為に移るとき、あなたはかならずニュートラルの状態、中心に戻ってくる。それに醒めているがいい。 

誰かがあなたを侮辱した・・さあ、あなたは変化する。同じままではいられない。周辺は変わらざるをえない。同じ顔をしてはいられない。あなたは顔をそっくり変えなければならない。さあ、内側で何が起こっているか醒めていなさい。あなたはまず中心に行き、そしてまた周辺に戻って来なければならない。そうして初めてあなたは顔を変えることができる。だから、もし誰かに侮辱されたら、内側で瞑想し、なかに入ってゆきなさい。相手は変化のきっかけを与えてくれたのだ。 

タントラは、この意識が変化してゆく状態を探求者に気づかせるために麻薬を使った。彼らは、あなたにある種の麻薬を与えつづける。そして師は「間隙に醒めていなさい」と言う。あなたはその瞬間までは気づいていたが、今や意識を失いつつある。その瞬間・・意識が無意識に変わる瞬間に醒めていなければならない。人はいつも変化している。こういった変化の瞬間に気づくと、人は中心を自覚するようになる。 

禅師はあなたを窓から放り出し、背後から叫ぶ。「醒めていろ!」あなたは窓から放り出され、中間にいる。あなたは窓を飛び越して、地面にぶつかる寸前だ。師は「醒めていろ!」と叫ぶ。地面に落ちる頃には、あなたの顔つきはすっかり変わっているだろう。今や状況がまったく変わってしまっている。あなたは何か形而上学的なことを尋ねるためにやって来たのだが、師はまったく非形而上学的な行動をとった。あなたは、神は存在するかどうかと尋ねていたのに、師はあなたを窓から放り出した。 

人を窓から放り出すとは、見当違いもいいところだ。だが、あなたがひとつの状態から別の状態へ、ひとつの顔から別の顔へと変わるまさにその瞬間を見定めて、師は叫ぶ。「醒めていろ!」あなたが窓を飛び越してゆくとき、変化しつつあるのは肉体だけではない。あなたの意識状態も変化を起こしつつある。そして、師は意識が変化する瞬間を正確に知っている。その瞬間を逃さずに師は叫ぶ。「醒めていろ!」その瞬間に師を聴くことができたら、あなたは周辺から投げ出され、中心にいる。 

変化する状況が少しでもあれば、かならず内側をのぞき込むよう心がけなさい。旅をすべき距離はない。周辺から中心へ、中心から周辺へのジャンプがあるだけだ。その振る舞いは、電子の運動、あるいは夢とそっくりだ。この覚醒を深めなさい。あなたにできるのはそれだけだ。それは消極的なプロセスだ。覚醒はすることではないし、覚醒は行為ではないからだ。 

自分の状態が変化しつつあるときは、いつも醒めているがいい。そうすれば、行為は消える。行為は、あなたが醒めているとかならず止まる。あなたが醒めると、呼吸すらもが止まる。私が短刀をあなたの喉元に突きつければ、呼吸さえもが止まる。あなたの覚醒が高まるあまり、一切のものが止まる。あなたは中心に投げ出されている。覚醒は行為ではない。実際、行為への耽溺は、覚醒から逃げることに他ならない。そして、私たちはみな、耽溺してしまっている。人はとにかく何かをせずにはいられない。この耽溺があなたが周辺に留まるのを助けている。 

油断なく醒めているために、あらゆる機会を使いなさい・・あらゆる機会をだ。そして、機会は毎日数限りなくある。油断なく醒めていなさい。そうすれば、あなたは周辺から中心へとジャンプするのを感じるだろう。中心にいることはあなたにとってやさしいものになる。あなたは家の外にいる。外は暑くなっている。ちょっと家のなかに入ってみるがいい!家のなかに入りたくなったら、入ればいい。外に出たくなったら、出ればいい。何もむずかしくない。周辺から中心への動きがまさにこのようになれば、やがて、あなたは爆発する。 

私は「やがて」という言葉を使う。私は「ゆっくり」という言葉を使う。私は「徐々に」と言う。私は「次第に」と言う。こういった言葉はどれも適切ではないが、他に方法がないので、使わざるをえない。爆発に関する限り、それらの言葉は適切ではない。爆発は決して漸進的なものではない、決して緩慢なものではない、決して段階を経るものではない。それは不意に起こる!だが、あなたはそれを理解できない。そこで、あなたが理解できるように・・あるいは、誤解できるようにと言ってもいい・・こういった言葉が使われる。 

そもそも言語という様式は周辺を表すためにつくられている。だから、どうしようもない。言語は、周辺にあるマインドによってつくられ、周辺にあるマインドが必要とするものだ。言語は周辺が必要とするものであって、中心が必要とするものではない。中心は完全に沈黙している。言語はそこでは不要だ。中心で起こっていることを周辺の言語を用いて説明せざるをえないため、どうしても混乱が生じる。 

だから、私が「徐々に」と言っても、誤解しないように。私は決して「徐々に」と言おうとしているわけではない。爆発は決してゆるやかには起こらない。これらの言語はあなたの自信を深めるためにのみある。あなたが希望を抱けるように、あなたがそれを想像できるように・・何かが周辺で理解されうるように。それはまるで夢の中にいる人に、目覚めた意識の世界について語るようなものだ。人は不条理な夢の言語を使わざるをえない。どんな言語も不条理だ。どんな表現もある意味で不条理だ。が、どうしようもない。人は完全な無力さを感じる。だが、その無力さはすばらしい。 

人は何かを知っている。例えば、私は「爆発」という言葉が何を指すか知っている。私は「中心にいる」という言葉が何を指すか知っている。だが、私はそれを伝えることができない。あなたが尋ねれば、私は何かを話すが、話しながらも伝えることができないことを知っている。私は「爆発」という言葉が何を指すか、「中心にいる」という言葉が何を指すか体験として知っている。だが、話し出したとたんに、私は周辺の言語を使いはじめる。周辺の言語が使われると、たちまちあらゆるものが歪められる。だから、これらの言外の意味を理解するがいい。 

あなたは爆発の連鎖について尋ねている。爆発が起こると、かならず多くのことが起こりはじめる。その現象があまりにも大きいために、個人がそれを通り抜けると、その人がどこにいようと、その人は感化を与えやすくなるからだ。その人は望まないかもしれないが、この連鎖反応が起こりはじめる。その人が「中心にいる」と、近くにいる人もまた、みな中心へと押しやられる。このために、人々がその人に反感を抱き始めることがよくある。 

例えば、グルジェフに反感を抱く人が大勢いた。彼らはグルジェフから逃げたくてたまらなかった。彼の近くにいると、気づかぬうちに押しやられてしまうからだ。多くの女性の探究者がグルジェフから逃げ出したのは、彼の近くにいるだけでセックス・センターを打たれるような気がしたからだ。彼女たちは彼に何かをされているように感じていた。彼は何もしてはいなかった。だが、私たちの中枢はセックス・センターしか働いていないので、最初の衝撃はかならずそこで感じられる。 

グルジェフのもとにやって来た男性の探究者たちはそれほど感じなかったが、女性の探究者たちはそれを感じた。これは男性の肉体が正の生電気を帯び、女性の肉体が負の生電気を帯びているからだ。それゆえに、異性は互いに惹かれ合う。光明を得た男性は、女性の探究者たちにとてつもないエネルギーを放射する。そして、二つのことが同時に起こる。女性の探究者はグルジェフのような人物に惹かれると同時に反発する。この内なる打撃、内なる接触は、色々な形で感じられる。誰もがその人特有の感じ方をする。 

西洋では、様々な理由があって、それはセックス・センターでひじょうに深く感じられる。ひとつにはこれが起こらないようにする予防策が欠けていることだ。インドでは、探究者はグルの足に触れなければならない。それは不要なことのように思われる。それは形式的な儀礼に見える。だが、それには秘められた理由がある。師に頭を垂れ、師の足に触れるだけで、あなたのセックス・センターは師の臨在によって打たれなくなる。あなたが明け渡すやいなや、師のエネルギーが全身で感じられる。明け渡した身体は全一になる。あなたはこれを感じたことがなかったかもしれないが、今私が話したからには、それを感じ、知ることができる。 

グルの足に触れるインド流の作法では、地面に完全に身を横たえる。身体のあらゆる部分が大地に触れなければならない。私たちはそれをサシュタングと呼ぶが、それは地面に横たわるとき、身体のすみずみが大地に触れるという意味だ。そうすると、たくさんの科学的な現象が起こりはじめる。あなたの身体は一つにまとまり、グルの臨在の衝撃が、身体の一中枢でなく全身を振動させる。特定のセンターを貫くのではなく、全身を貫く。あなたは水平になっているから、衝撃はあなたの頭から足に向かって通り抜ける。 

垂直に立っていても、同じ衝撃があなたを貫くが、全身を貫くことはできない。それは足を貫くことができない。あなたの唯一敏感な部分はセックス・センターだ。それゆえに震動はセックス・センターを取り抜ける。自らの中心に生きている師の側にいて、立っていると、師の衝撃、師の振動は、あなたのセックス・センターを通り抜ける。あなたはそれに反発を感じるかもしれないし、魅せられるかもしれない。だが、身を横たえていれば、流れはあなたを通り抜け、あなたに触れ、あなたの端から端まで流れる・・それには鎮静効果がある。 

インドでこの内なる科学が発達するには何世紀もかかった。何度も何度も体験を重ねて初めてそのからくりがわかった。モルモットのように人間を実験するわけにはゆかないからだ。こういった事柄を知るには、体験や出来事を何世紀もかけて観察しなければならなかった。その観察の結果、信頼すること、信じることから始めなければならないということが基本条件になった。 

信じているときには、あなたは開いてゆく。疑っていれば、あなたは閉じている。そして、閉じていると、爆発に向かうのを助けてくれただろう同じエネルギーが堂々めぐりをする。だから、閉じていれば、あなたは助けを受けることができないが、開き、信頼していれば、師の振動があなたの内部に深く進入する。そうなったら、爆発は連鎖反応を起こす。これは起こりうる。これはいつも起こる。それゆえに、信頼する姿勢が爆発の連鎖を引き起こす。 

 

時として、開祖の死後ですら、爆発の連鎖が途切れなく続くことがある。例えば、シーク教の伝統では、グルは10代で途絶えた。そのときまで、ひとりのグルの後を別のグルが継いだ。だが、10代で伝統は止まり、途絶えた。なぜそうなったのだろう?ゴーヴィンド・シンはなぜ連鎖を断ったのか?それはナーナクからゴーヴィンド・シンまで続く、生きた勢力だった。だが、それはゴーヴィンド・シンと共に断たれた。それを手渡し、伝えることができなかったのは、力量のある者がいなかったからだ。開いていて、それを少しももらさず受け取る者がいなかったからだ。そして、それを部分的に与えることはできない。あなたは開ききっているか、まったく開いていないか、そのどちらかだ。 

部分的な信頼は信頼ではない。それは欺瞞にすぎない。99パーセントでは信じることができない・・99.9パーセントでも役に立たない。0.1パーセントでも疑いがあれば、それだけでことの全体は台無しになる。その0.1パーセントの疑いがあなたを閉じさせるからだ。だが、全一に信頼すれば、そのときには連鎖反応が起こる。そういう状態で師と触れ合えば、その触れ合いはただの触れ合いではない。それはあなたの実存の一部になる。 

私に開いていても、私から何かを受け取っているわけではない。「私」というもの自体が存在しない。あなたは他の誰かから何かを受け取っているわけではない。あなたは私に映る自分の影を見るだけだ。私たちは、ただ自我ゆえに、互いに分離しているように見える。あなたが開いていれば、精神霊的な爆発の連鎖は何世紀にもわたって継続しうる。例えば、仏陀の連鎖は今なお続いている。もちろん、現代ではその影響は広い範囲に及ばず、細々とした流れになってしまったが、それでも続いている。 

ボーディダルマがインドから中国へ行ったのは、誰かに教えを説くためでも、仏陀のメッセージを中国人や他の人々に伝えるためでもなかった。それはひとえに連鎖を継承しうる人物、ボーディダルマが逝くまでにすべてを伝授することのできる人物を探し求めてのことだった。中国では、彼は9年間、絶えず壁を向いて坐っていた。人が訪ねていっても、相手を見ることさえしなかった。誰が訪れても、背を向けたままだった。多くの人々が尋ねた。「これはどういうことですか?なぜこんなふうに坐っているのです?」 

ボーディダルマは言ったものだ。「私は何年ものあいだ、人々と向かい合ってきたが、彼らの顔は壁以外の何ものでもないことがわかった。誰も受容的ではない。みな壁とそっくりだ。だから、もう何も違いはない。私のもとに来る相手が壁でなかったら、私はその人の顔を見よう。そのとき初めて、あなたがたと向き合おう」 

9年間、力量のある者は絶えて来なかった。ボーディダルマが向かい合うことのできる者は絶えて来なかった。そのとき慧可(えか)がやって来た。彼はボーディダルマの背後に立つと、手を切り落とし、それをボーディダルマに差し出しながら、こう言った。「さあ、振り向いてください。さもなければ、私は首を切り落とします!」 

ボーディダルマは振り向いて、慧可と顔を合わせた。彼は言った。「私は待ちかねていた。おまえのために、私は遥々ヒマラヤを越え、旅をしてきたのだ」経典を用いない伝授が行われた。ボーディダルマは経典を携えていなかった。それゆえ、伝授は経典を用いずに行われたと言われる。じっと慧可の目を見つめるだけで、伝授が行われた・・一点から別の一点へ、あいだに何も介在させずに。 

これもまた理解しなければならない。爆発の連鎖もまたジャンプだ。何かが私の意識からあなたの意識に向かうなら、それは跳躍だ。それはここにあったが、今はそこにある・・決してそのはざまにはない。プロセスはない。あなたが受容的であれば、あなたが開いていれば、ここにある炎は、即座にあなたの内部で見いだされる。時間の隔たりはない。連鎖は永遠に続きうるが、決してそうはならない。それはきわめてむずかしい。というのは、生きた師のもとにいるときですら、開いていることはむずかしいからだ。 

マインドは、ありとあらゆる手を尽くして閉じようとする。開いたら、死んでしまうからだ。マインドにとって、それは死だ。そこで、マインドは閉じようとする。マインドは論議する。閉じているために様々な理由を見つけだす。閉じているために実に馬鹿馬鹿しい理由を見つけだす。後になれば、こんなことで疑いを抱き、こんなにつまらないことで懐疑的になったなどとは想像もつかない。まったく無意味なことが障害をつくりだす。だが、あなたが開いていなければ、連鎖・・伝授・・は起こりえない。瞑想は、そして私が瞑想に重点を置き、瞑想を強調するのは、ひとえにあなたを開かせるためだ。あなたはいつでも開きうる・・そうして伝授は起こる。 

小さな爆発は毎日起こる。それらは中心の一瞥にすぎない。その一瞥では充分ではない。それは助けにはなるが、それで満足してはいけない。ふつう私たちは満足してしまう。一瞥が起こると、私たちは満足してしまう。私たちはそれを宝物のように抱え込み、いつまでも思い出す。一瞥が中心から周辺に移ってしまうと、それは記憶になる。そうなったら、あなたはそれを大切に抱え込み、思い出しては、高揚した気分にひたる。あなたは今度はいつそれが起こるだろうと考えてばかりいる。もはやそれは周辺の一部、記憶の一部になってしまっている。そんなものは役に立たない。 

こういった小さな爆発は、記憶として大切に抱え込むと害にもなりかねない。そんなものは投げ捨てるがいい。そんなものは忘れてしまうがいい・・それがくり返されるのを求めてはいけない。そうして初めて大きな爆発が起こりうる。そうして初めて全面的な爆発が起こりうる。だから、小さな爆発がいくつかあるが、私はそういうものには一切注意を払わない。そして、あなたもそういうものには一切注意を払うべきではない。なぜなら、小さな爆発は記憶の一部になってしまうだけだからだ。 

それは記憶そのものを壊すどころか、むしろ記憶を強めてしまいかねない。それゆえに、小さな体験、些細な体験は役に立たない。そんなものは投げ捨ててしまいなさい!全一性が達成されるまで、満足してはならない。究極の爆発が起こるまで、満足せず、不満足のままでいるがいい。起こったことは何であれ決して思い出さないことだ。どんな体験も蓄積したり抱え込んだりすべきではない。それが起こるたびに、投げ捨て、忘れ、先に進みなさい。全面的な爆発に到らないものは何ひとつ役に立たない。だから、小さな爆発に注意を向けてはならない。 
ものごとは起こったことがある。ものごとは起こっている。だが、私は小さな爆発については決して話さない。私のところに来て、小さな爆発を体験したと言う人があれば、私はその人がその体験を投げ捨てるようにはからう。記憶にそれを留めるべきではない。さもなければ、それは障壁になる。後戻りできない地点に到達するまで、あなたは中心に向かって進みつづけなければならない。その地点に行き着けば、それは二度と記憶の一部にはならない。あなたが思い出すのは、失われたものだけだ。常にあなたと共にあるものは、思い出す必要がない。 

実際、あなたは体験が失われて初めてそれに気づく。「とても愛している」と口に出したら、おそらく恋が終わりつつあるのだと心するがいい。恋はもう冷めてしまっているかもしれない。それは過去のこだまにすぎない。「とても愛している」とあなたがしきりに言うのはそのためだ。その「とても」は、ギャップを埋めようとする努力だ。そして、ギャップがあれば、恋は冷めている。 

愛があれば、あなたはそれを感じ、それを生きる。沈黙で充分だ。愛が去ると、あなたは愛について多弁になる。もう沈黙では間に合わない。それどころか、黙っていたら、愛が冷めたことがばれてしまう。黙っていたら、愛が冷めたことを隠し通せない。そうなると、あなたは愛についてしゃべりはじめる。ふつうはものごとを明らかにするためには話さない。むしろ私たちが話すのは、ものごとを隠すためだ。黙っていたら、何ひとつ隠せない。 

だから、小さな爆発に気づいても、そのつどその記憶を大切に抱え込んだり、それを再現したいと思わないこと。それは去った。それは死んだ過去の一部になった。そんなものは投げ捨てなさい!死者は埋葬して、先に進みなさい。本当の爆発、大きな爆発、究極の爆発が起こるときには、あなたはそれを憶えていない。それを憶えておく必要はない。それはあなたと共にある。それはあなたの中心になる。それはあなたの実存になる。あなたはそれを忘れることができない。憶えていたり、忘れたりするものには何の意味もない。大きな爆発が起こらない限り、小さな爆発に意味はない。 

あなたはまた、私のまわりにいる人々は爆発に向かって進んでいるかどうかと尋ねている。その通りだ、彼らはそれに向かって進んでいる。それに向かって進んでいなければ、私のもとに長く留まることはできない。私のもとに居つづけることはできない。だから、力量のない者が私のもとに来ると、自分から去ってゆくか、あるいは、彼らが去らざるをえない状況をかならず私がつくりだす。そういう相手と共には何ごとも為しえない。 

爆発に向かって進み、理解を深め、もっと油断なく目を見張り、もっと醒めてゆかない限り、私は彼らが私のもとに留まり、私のもとに居続けることを許さない。もちろん、その道は困難をきわめ、落とし穴も多い。人は一歩進んでは、二歩後退する。それは毎日起こる。道はまっすぐではなく、交錯している。それは平らではなく、けわしい丘の道に似ている。だから、あなたは何度も同じ地点にやって来る・・わずかに高い位置に。 

私がそばにいることを許すのは、私が可能性、潜在能力を備えていると見た者たちだけだ。さもなければ、私は彼らが自分から去ってゆくような状況をつくりだす。そして、誰かを去ってゆかせる状況をつくりだすのはごく簡単だ。誰かを留まらせる状況をつくりだすのはむずかしい。誰にも去る用意ができている。なぜなら、中心に到ることほど骨が折れる冒険はないからだ。そして、私と共にいることで、彼らはいつも苦闘するだろう。彼らは周辺にはいられない。周辺に留まるために、彼らのマインドはあらゆる手を尽くそうとする。だが、中心に向かって進んでいるときにのみ、彼らは私と共にいることができる。 

私と共にいるとき、あなたは周辺に居つづけ、私は中心に居つづける。そのプロセス全体は、あなたがたひとりひとりの内面で起こる内なる苦闘と同じだ。あなたの実存は中心に留まっているが、あなたのエゴが周辺に居つづけるために、苦闘や緊張がある。私のもとに来るとき、あなたは周辺になり、私は中心になる・・そして、同じ苦闘が始まる。だが、私と共にいることは様々な形で助けになる。しばらく私のもとに居つづけることができれば、あなたはもっと楽に自分の実存の中心に留まることができるようになる。この現象は、ひとりひとりの内部で起こるものと同じだ。何も違いはない。 

あなたに語るとき、私はあなたがあなた自身の中心であるかのように語る。そして、私と共にいるときは、あなたはあなた自身の中心と共にいるかのようだ。あなたがいつか自らの中心のなかへ爆発すれば、その通りだとわかるだろう。だが、それまであなたはそれを知ることができない。それまでは私を信頼するほかにない。 

自ら中心に到れば、あなたは私と共に生きてきたのではなかったことがわかる。自分自身の中心の反映のなかで生きてきたことが。だが、これはそれを通り抜けた後に初めてわかることだ。それは起こるだろう。誰もが潜在能力を宿している。あなたが自分の邪魔をするなら、話は別だ。だが、そうでなければ・・あなたが自分の邪魔をせず、自分の敵にならなければ・・あなたにはどのブッダにも劣らない能力がある。そして、爆発が起こるだろう・・ 

OSHO、「未知への扉」第6章:精神霊的な爆発 より (1971年)