OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

94.科学と宗教

<OSHOの講話より> 

質問:あなたは昨日、科学と宗教はまったく正反対だとおっしゃいました。西洋には科学的な神秘主義を説く多くのスクールがあります。そしてタントラやヨーガの道もひじょうに体系的です。あなたの本もまた、深くて芸術的な合理性があります。合理的な科学と非合理的な宗教のあいだには、橋が存在するように思われます。何か話していただけますか? 

橋は可能だ・・それらがまったく正反対であるからこそ、橋は可能になる。間隙(ギャップ)が存在する。だからその間隙に橋を渡すことができる。対極同士は出会うことができる。そして対極同士だからこそ、それらは出会うことができる。対極同士は引きつけ合う。 

生全体はそのように動いてゆく、そのようにしてダイナミズムを得ている。それは弁証法的だ。それは対極を通してのものだ。男女、陰陽、物心、天と地、これとあれ・・絶え間ない橋渡しがある。だが、それらが対極同士であって初めて橋渡しは可能だ。それらが対極同士でなかったら、橋の必要はどこにもない。 

だから最初に理解しなければならないことは、科学と宗教はたしかに正反対ではあるが、それらに橋を渡すことはできるということだ。その橋がそれらを同じものにすることはない。実際、その橋が対極性をさらに際立たせ、さらにはっきりさせる。宗教が科学的な趣を持つことはありうる。それは体系的になりうる。が、科学になることは絶対にない。それは神秘主義にとどまる。それは科学の装いを、科学の方法を、科学の用語を用いる。しかし神秘主義のままでいる。詩のままでいる。 

詩を散文に翻訳することはできる。散文は詩に翻訳されうる。散文を詩に翻訳するだけでは、それを詩にすることはできない。それは散文のままだ。そして、詩を散文に翻訳するだけでは、それはけっして散文にならない。それは詩のままだ。仏陀は散文で話す。だが、彼が話すことは詩的だ。私は詩人ではない。私は散文を話す。だが、私が話していることは詩的だ。詩的でありつづける。 

宗教が科学的な体系を用いることはありうる。タントラやヨーガのやってきたことがそれだ。科学が実在(リアリティ)を探求する方法として神秘主義を用いることもありうる。偉大な科学者たちはみな、たしかにそれを使ってきた。だが、依然それは科学でありつづける。その基本的信頼は理性のなかにある。宗教の基本的信頼は理性のなかにはない。宗教は表層では科学的になりえても、中核では非合理なままだ。そして科学は、表層ではごく詩的になりえても、中核では合理的なままだ。 

アルバート・アインシュタインや他の偉大な科学者たち、ひじょうに優れた探検家たちは神秘家に実によく似ている。実在へ向かう彼らの探求は、ウィリアム・ブレイクの実在への探求とほとんど同じだ。アインシュタインの目は神秘主義で満ちている。だが奥深くでは、彼の信頼は理性のなかにある。たとえ詩的な感性や直感を通して何かに出会ったとしても、彼は即座にそれを理性に翻訳する。彼はそれが合理的になって初めて信頼する。 

そして、これと正反対なのが神秘家の場合だ。たとえ実在に関してきわめて合理的なことを知るようになったとしても、彼はそれを非合理に変容させる。彼はそれを詩に変える。それらはまさに対極だ。が、それらは橋渡しされうる。そして、矛盾した人を見つけだせる場所ならどこでもそれらは橋渡しされている。だがそうなると、その人は矛盾する。彼は同時に二つの言語を話す。彼は矛盾のなかで、逆説(パラドクス)のなかで話す。偉大な科学者たちはみな逆説的だ。そしてすべての偉大な神秘家たちもまたそうだ。 

師(マスター)は、科学の師であれ宗教の師であれ、かならず逆説的になる。彼は一次元的ではありえない。彼は実在の両面に波長を合わせねばならない。だがそうなると、彼を理解することはとてもむずかしくなる。 

それが私とあなたがたの問題だ。私は非合理なものについて話す。だが、私は非合理なものについて合理的に話す。私は非合理なものにたしかに大賛成だ。ところが私のアプローチは? 私は、徐々に徐々に論理を通してあなたがたを説得し、あなたがたを非論理的なものに向かわせる。私はその賛成論をたしかに唱える。私の非論理的なるものへの賛成論は論理的にならざるをえない。なぜなら、論議は本質的に非論理的にはなりえないからだ。それは論理的にならざるをえない。 

先日私は、どの寺院も入口に少なくとも一体のミトゥナ像を備えるべきだと古代の経典に記されていると言った。少なくとも一体。何体あってもかまわない。マスターは入口、扉、開口部だ、彼の足は大地に根をおろし、彼の手は大空に伸びている。マスターは、理性と非理性の架け橋だ。マスターは宗教と科学、愛と論理の架け橋だ。マスターは入口だ。だからこそ彼はあなたを納得させることができる。彼はあらゆる筋の通った論法を用いることができる。それでもなお、彼の終着点は非論理的でありつづける。ひとたびあなたが納得したら、彼はあなたを神秘的なもののなかに投げ入れる。それは量子的跳躍だ。

古代の伝統についてもう少し語っておきたい。中世の建築家たちのマニュアル、インドの手引書のすべてが、どの寺院もその戸口にミトゥナ像を設置しなければならないと規定している。「ミトゥナ」はサンスクリット語だ。非常に含みのある言葉だ。それはふつうの性交を意味するのではない。それは愛し合っているふつうの恋人たちを意味するものではない。それは「ユニオ・ミスティカ」を意味する。それは二人があまりに深く互いのなかに溶け合ったために、もう二ではないという意味だ。それは愛を交わしているただの恋人たちではない。それは「愛」だ。そして恋人たちはそのなかに消えている。それは互いのなかに失われた状態、ひとつである状態だ。 

建築家の別の手引書は、寺院は天地の出会いでなければならないと述べている。地は目に見え、論理的で、物質的だ。天は不鮮明で、曖昧で、定義されていない。寺院は定義されているものと定義されていないものが出会う場所でなければならない。寺院は既知なるものと未知なるものが出会う場所でなければならない。 

男は論理的だ。男は論理、数学、体系化、科学を表す。女は非論理的だ。直観、感性、感情、詩だ。不鮮明で、定義されず、定義されえない。ミトゥナ像はこの論理と非論理、マインドとハート、肉体と魂・・・陰陽両極のありとあらゆる組み合わせの出会いを表している。そして陰と陽とが出会い、没入して一体となるとき、寺院が創造される。 

愛がその寺院だ。オーガズム、自分が誰なのか・・男なのか女なのか・・わからない、どんな自己確認(アイデンティティ)もわからない、自己確認がすべて失われているオーガズミックなその流れの状態。そのときあなたは完全な忘却と想起のなかにある・・・ 
あなたが自分に関して知っていたあらゆるものの忘却と、あなたが実際にそれであるすべてのものの想起。自我(エゴ)としての忘却と全体としての想起。それがミトゥナの意味だ。 

ミトゥナとは、深い合一状態、内なる結婚の状態にある恋人たちを意味する。それはたんなる外側の結婚ではない。内なる結婚に至ることができるのは人間だけだと知って、あなたは驚くだろう。動物には不可能だ。動物が交尾しているのを見たことがあるだろうか?彼らの顔や目には、どんなエクスタシーをもけっして見ることがない。けっしてだ。交尾はひとつの事実として、ひとつの生物学的現象として行われる。彼らは退屈そうに交尾する。 

生物学者や生理学者たちは、人間以外の雌はオーガズムをまったく知らないという事実に同意している。動物の雌はオーガズムを知らない。オーガズムを知ることは人間の特権なのだ。オーガズムとは内なる結婚を言う。だが人間においてさえ・・・過去には90%の女性がオーガズムを知らなかった・・つまり、彼女たちは内なる結婚に関してまったく何も知らなかったということだ。彼女たちの愛は生物学的なものにとどまっていた。彼女たちは「自然」に利用されて子供を産んでいた。だが、そこには何の瞑想性もなかった。 

私の観察では、この現象ゆえに、古い宗教はすべてセックスに反対した。なぜならセックスは動物を思い浮かばせたからだ。だが彼らは、人間がセックスを超越できることに・・そして、その超越はセックスを通さなければけっして起こりえない・・人間は外側を通して内なる何かに至ることができるということに気づいていなかった。動物には不可能なことが、人間には可能だ。人間はオーガズミックな状態に、エクスタシーのなかに入ってゆける。そこではセックスは無関係になり、後に残される。肉体は無関係になる。心は無関係になる。人は、存在のまさに深みへと飛び込む。もちろん、ほんの一瞬だ。が、神は入手可能になる。 

ミトゥナとは、神の一瞥が入手可能になるほど深く、この上もなく深く愛しなさいという意味だ。ミトゥナとはもう2人ではない2人を意味する。外からは2人の状態だが、内側ではただ「一」のみが存在する。完全な「一」として存在する。一瞬、二元性が超越される。一瞬、ハーモニーが達成され、秩序が生まれた。だからこそ、オーガズムはとてもくつろぐ。ウィリアム・ライヒは正しい。もし人間がオーガズミックな歓びを手にすることができるようになったら、狂気やあらゆる種類の神経症、精神病はこの世から姿を消してしまう。 

それは、タントラが体験によって知りえたことでもある。だが寺院の入口にミトゥナ像を置くためには、たいへんな勇気が必要だった。その一歩自体が深い革命だった。人々は勇気を持っていたに違いない。彼らはそうすることで、あることを宣言した。彼らは、愛を通してのみ対極同士に橋を渡すことができることを伝えた。

 

マスターは愛だ。マスターは絶えずオーガズムの状態にある。彼はひとつだ。彼の二元性は去った。彼はただ「一」のみが存在することを知っている。その状態のなかで、対極同士が橋渡しされうる。深い愛のなかで抱擁し合う恋人たちは、ひとつであることの大いなるエクスタシーのなかで寺院の入口に立っている。我を失い、溶け合っている。2人よりもさらに深く、さらに高次の何かと一体になっている。 

あなたはマスターと恋に落ちねばならない。マスターは神への入口だ。あなたはいかにマスターと溶け合うかを、いかにマスターと一体になるかを学ばなければならない。それを通して初めてあなたは橋渡しを知る。彼らは愛という名の神に乗っ取られ、そこにたたずんでいる。それこそまさに弟子とマスターの関係だ。深く、測り知れない愛の虜になっている。それは性的なものではない。それは肉体的なものではない。だがそれは2人の恋人たちによって成し遂げられるものと変わらない。それは同じものなのだ! 

その頂(ピーク)に変わりはない。2人の恋人は生理的なもの、生物学的なものを通って進む。彼らは長い道のりを経て頂上にたどり着く。弟子とマスターはただちにその頂上に至る。彼らは回り道をしない。彼らは身体や心を通過しない。それが明け渡し、「シュラッダー」、信頼の意味だ。彼らの愛が新しい知覚の扉を、実在の新しい見方を開く。実在(リアリティ)のその新しい見方が対極同士に橋を架ける。彼らはありふれたものからただならぬものへ、散文から詩へ、論理から愛へ、分離から統一へ、自我から無自我の境地へと渡ってゆく。 

それが起こるのを見たことがないかね?深い愛のなかで、自我(エゴ)は消滅する。あなたはそれを見出せない。だから、愛を交わしているあいだはいつも忘れずに、少なくとも一度は自分が絶頂に達しつつある瞬間を見つめなさい、のぞき込みなさい、と私はしきりに言う。少しでも自我があるだろうか?その体験はひとつのサトリになりうる。 

ふだんあなたは内側を見ない。あなたは愛の戯れ、愛の歓喜に夢中になって、瞑想を忘れてしまう。溶けてゆくその瞬間を想起できたら、忘れずに内側を見つめることができたら、あなたは二度と同じ人間ではない。愛から出てくると、あなたはまったく新しい人間になる。新しい存在が生まれる。あなたは新しい知覚の道を、実在の新しい見方を獲得する。自我は存在しないことがひとたび見抜かれたら、あなたはもうその自我を集めることができない。たとえそれを集めたとしても、それが虚偽であり、偽物であることを知る。今や、その理解はあなたのなかに深く浸透している。 

恋人たちは時間から無時間へと移る。観察してごらん、絶頂(ピーク)が起こると、時間が消える。一瞬、時が止まる。全世界が止まる、あらゆる活動が停止する。そのあらゆる活動と時間の停止こそ、私たちが絶頂とかクライマックスとかオーガズムという言葉で言おうとしているものだ。 

時間はマスターと共にあるときにも停止することがある。それは停止する!ここでは、その停止は毎日たくさんの人に起こる。しばらくの間、あなたと私は完全に波長が合っている。あなたはもうそこにいない。私はもうここにいない。私たちは共に消え失せた。両者を超えた何かが存在する。あなたは寺院に入った。あなたは対極に橋を架けた。 

実在(リアリティ)を分けることは実際不可能だ。それを論理と愛、時と永遠、肉体と魂、神と物質に分けることはできない。それは分割不可能だ。対極は実在する。が、それらは敵同士ではない。それらは補足し合う。それらは互いを支え合う。一方なしでは、もう一方もありえない。論理抜きに、詩のことを考えられるだろうか?あるいは愛抜きに、論理のことを考えられるだろうか?それらは対極同士に見える。それでも、それらはどこか深いところで支え合っている。互いを養い合っている、互いを強化し合っている。 

だから、橋渡しはたしかに可能だ。が、それは常に愛を通して起こる。それはつねに入口を通して起こる。私はマスターを「入口」と呼ぶ。愛もしくは信頼の瞬間、あなたはまさに「今ここ」にいる!永遠の今、絶対のここに。あなたは戸口にいる。 

いいかね、戸口は開口部だ。ポルフィラスは、「入口は聖なるものだ」と書いている。入口は対極同士を結びつけるものだ。寺院とは実際何なのか?ひとつの入口だ。それは世間を彼方のものに結びつける。それは市場を瞑想に結びつける。寺院が市場のなかにあるのはこのためだ。それはそこになくてはならない。世間を放棄してはいけない・・そこにいなさい!と私がしきりに言うのはそのためだ。そこにとどまりながら、もう一方のものを探し求めなさい。そうすればそれは見つかる。それは市場のどこかに隠されている。 

市場のざわめきに注意深く耳を澄ますことができたら、あなたは驚くだろう・・そのなかには隠された音楽がある!そのなかにはすばらしい音楽がある。ただ好き嫌いを落とすだけでいい。注意深く聴きなさい。それと和合してごらん。そうすれば、既知なるものの至るところに未知なるものを見出すだろう。可視なるもののなかに不可視なるものを。 

ポルフィラスが、入口は聖なるものだと言うとき、彼は正しい。入口はこれとあれ、二つの世界、ありふれた世俗の空間と彼方なる聖世界のあいだにある境界線だ。入口は、私たちが存在のある様式から別の様式へ、意識の一レベルから別のレベルへ、ひとつの現実から別の種類の現実へ、ひとつの生から別の種類の生へと移ってゆく地点だ。寺院のなかに入ることは、自らの深み、あるいは高みへと入ってゆくことを象徴する。実存的な意味は変わらない。深みと呼んでもいいし、高みと呼んでもいい・・それらは同じ意味だ。それは垂直の次元だ。 

二つの次元がある。水平と垂直だ。入口はこれら二つの次元を結びつける。ふつうの世俗の生活は水平だ。宗教的な生は垂直だ。キリスト教徒の十字架を思い起こしてごらん。それはまさにこれらふたつの次元を、水平と垂直を表現している。十字架はすばらしいシンボルだ。十字架は入口だ。十字架は水平と垂直とが出会う、ありふれたものとただならぬものとが出会う橋だ。 

そして言うまでもなく、開口部や開放者のもっとも自然な隠喩(メタファー)は、愛を交わしている状態以外にありえない。古代の別の教本(テキスト)にはこう記されている。「雌牛たちが若い牛をひきつれて、牡牛と戯れた場所。もしくは美しい女たちが恋人と戯れた場所。そんな場所こそ寺院にふさわしい」  

不思議な声明だ。もう一度聴くがいい。あなたがたはショックを受けるだろう。特にヒンドゥ教徒やキリスト教徒や仏教徒たちはひとり残らずショックを受けるだろう。だがこれは古い東洋の教本からきている。それはこう言っている。「雌牛たちが若い牛をひきつれて、牡牛と戯れた場所。もしくは美しい女たちが恋人と戯れた場所。そんな場所こそ寺院にふさわしい」 不思議だ。が、この上もなく意味深い。そうあって当然だ。寺院とは出会い、架け橋でなければならない。 

あなたは尋ねている。「あなたは昨日、科学と宗教はまったく正反対だとおっしゃいました」 
そのとおりだ。それらはまったく正反対だ。だから、それらは男と女のように互いに惹きつけられる。それらは恋に落ちることができる。それらは補い合うことができる。対極同士はすべて補い合うものでもある。 

「西洋には科学的な神秘主義を説く多くのスクールがあります。そしてタントラやヨーガの道もひじょうに体系的です」 

たしかに科学的神秘主義を説く道はある。だが、神秘主義はつねに科学を超えてゆく。それこそ私がここで行っていることだ!私はあなたがたに論理的な非合理性を、科学的神秘主義を、この世的な宗教性を教えている。このことを憶えておきなさい。いつでもほんとうに何かが起こっているときには、かならずパラドクスがある。なぜなら橋が必要とされるからだ。が、それでもなお神秘主義神秘主義だ。科学を方策として用いることはできるが、神秘主義が科学になることはけっしてない。究極の飛翔は非科学的、超越的でありつづける。 

そして、タントラやヨーガはたしかにひじょうに体系(システム)化されてはいるが、途上においてのみ体系的であるにすぎない。ひとたび十分な期間それに従ったら、あなたは混沌(カオス)のなかへ押しやられる。あらゆる体系を捨てなければならない存在のカオスのなかへ押しやられる。なぜなら体系はすべてちっぽけだからだ。体系はすべてマインドが創った狭い監獄だからだ。 

監獄はひじょうに組織(システム)化されている。見たことはあるかね?監獄へ行ったことはあるかね?ちょっと見てくるがいい・・あれはこの世でもっとも組織化されたものだ。あなたの家は監獄ほど整然としていない。あらゆるものが組織化され、すべてが一定のレールに従っている。しかも完璧にだ。人々は、朝早く定刻どおりに起床する。彼らは朝食をとり、風呂に入る。彼らはほとんどロボットのように動く・・何から何までが組織化されている。実際、あらゆるものごとが組織化されすぎると、あなたは監獄に閉じ込められ、自由は圧殺される。自由には混沌(カオス)が必要だ。 

奇妙なことが心理学者たちによって観察されてきた。その奇妙なことというのは、軍隊で人々はひじょうに組織的であるように教育されるが、彼らの目標は戦争をひき起こすことにあるということだ。彼らの目標は混乱をひき起こすことだ。彼らの目標は死だ、殺し、殺されることだ。彼らの最終目的は、破壊だ。彼らの目標はヒロシマナガサキだ。だが軍人たちは完璧に組織化されている。軍隊は無秩序をひき起こすために存在する。ちょっとその補い合う様を見るがいい。軍隊は無秩序をひき起こすために存在する。 

そして、もう一方の極を見たことがあるかね?芸術家たちは無秩序のなかから秩序を創りだす。だが、彼らは実にいいかげんで怠惰な生活を送っている。ひどくでたらめな生活を送っている。芸術家の生活ぶりを目にしたら、あなたは自殺したくなる。まったく汚らしい!まるで無茶苦茶だ。チャイタニア・ハリに会いにゆくといい・・寝るときも起きるときも、秩序などあったものじゃない。ところが彼はすばらしい音楽を創る。彼は秩序を創りだす。 

芸術家たちは秩序を創造する。それゆえ彼らは生活のなかの無秩序によってそれを補わなければならない。一方、軍人たちは無秩序を生みだす。それゆえ、彼らは生活のなかの秩序によってそれを補わなければならない。ものごとはバランスを保って動く。 

ブッダたちはひじょうに論理的に話す。それは彼らの目標が非論理的なものだからだ。そして、現代の物理学者たちはとても非論理的に話している。相対性理論は非論理的だ。不確定性原理は非論理的だ。非ユークリッド幾何学は非論理的だ。高等数学は非論理的だ。彼らはひじょうに非論理的に語り、論理を創りだす。彼らの目標は論理だ。彼らは秩序に向かって進んでいる。 

このバランスはいつでも起こっている。生は片面ではありえない。さもなければ消えてしまう。それには昼と夜、夏と冬、誕生と死が必要だ。それには愛と憎しみが必要だ。だから私は、科学と宗教はまったく正反対だと言う。だが私は橋渡しは不可能だと言っているのではない。 

橋渡しはいつでも起こる。絶え間なく起こっている。それは科学の側からも起こるし、宗教の側からも起こる。そしてそれが起こるとき、あなたは偉大なマスターを、仏陀、あるいはアインシュタインのような人を得ている。それが起こるときはいつでも並はずれた現象を得ている。 

OSHO:「一休道歌」(日本語版)(上巻)第2話より (めるくまーる社)