OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

97.セックスは瞑想の障害になるか?

<OSHOの講話より> 

質問:愛するOSHO。どうしてタントラは、私の知るかぎりセックスを瞑想の障害と見ている仏教から起こったのでしょうか? 

仏陀の言ったことが誤解されて来たに違いない。確かに彼は、瞑想に入る為にはセックスを超えなければならないと言った。そこで彼の言うことを聞いた人達が、彼はセックスに反対しているのだと考えた・・・当然、そうなる。彼は、セックスを超えなければならないと言ったのだ。 

人々はこう考え始めた・・・セックスは障害なのに違いない。さもなければ、なぜセックスを超えなければならないのか?彼らはセックスを超えるのではなく、セックスと闘い始めた。重点がすべて変わってしまった。彼らはセックスと闘い始め、仏教は世界でもっとも禁欲を重んじる宗教のひとつになった。 

あなたは仏陀の途方もない優雅さを、彼の彫像や絵で観察したことはないかね?・・・それは禁欲主義から出て来るものだろうか?この美しい存在、この優雅な顔、この愛、この慈悲が禁欲主義から出て来ることがあり得るだろうか? 

禁欲主義とは自分を虐待している人達だ。そして人は自分を虐待すると、他人をもひどく虐待するようになる。人は自分が惨めであれば、他の誰かが幸せなのを見ていられない。他人の幸せをも壊し始める。 

それこそ、あなた方のいわゆるマハトマ達がやり続けていることだ。彼らは、あなた方が幸せなのを見ていられないのだ。だから、あなた方が幸せな時はいつでもすぐにやって来て「何かが間違っているに違いない。幸せな人というのは罪人なのだ」と言う。 

あなたはそれを、自分自身の中で観察することも出来る。何世紀にもわたって、あなた方のいわゆるマハトマや聖者達が、幸せな時はいつでも罪悪感を抱くようにあなた方を条件づけて来たからだ。 

あなた方が惨めでありさえすれば、すべてはオーケーだ。だが、大きな喜びを感じていたら、あなたはちょっと落ち着かなくなる・・・どういう訳か、正しくないように思える。

それを自分自身の中で見守ったことはないかね?これは一体どこからやって来るのだろう?幸せ・・・それなのに正しくないとは?ところが惨めさはオーケーだ。非常に生に敵対する何か・・・非常に生に消極的で、非常に生に否定的なもの・・・それが人間の血の流れのなかに入り込んでいる。 

そして、それはこうしたいわゆる禁欲主義者達からやって来たものだ。こうした禁欲主義者達はノイローゼにかかっている人たちだ。マゾヒストで、自分を虐待する。彼らの唯一の喜びは、もっともっと惨めさを生み出すことにある。 

仏陀はマゾヒストではない・・・あり得ない。仏陀はこの上なく美しく、喜びに満ち、幸せで、途方もなく至福に満ちて見える。彼の言うことを聞いていた人達が、どこかで誤解したのだ。 

確かに彼は、セックスを超えなさいと言う・・・セックスは梯子(はしご)の一段目にすぎないのだから、人はそれを超えていかなければならない、と。だが、彼はセックスに反対しろとは言っていない。 

超えることは、必ずしも反対することではない。実際には、その逆が真実だ。もしセックスに背を向けたら、あなたは決してそれを超えることは出来なくなる。超えることは、通り抜けることでのみ訪れる。あなたはセックスを理解しなければならない。セックスと友達にならなければならない。 

何かがどこかで誤って解釈されている。サラハは、仏陀の正しい解釈としてやって来る。そしてサラハは、仏陀に従っていた何千もの人達に起こった惨状を目の当たりにしていたに違いない。 
セックスを超えるどころか、彼らはセックスに取り憑かれていた。何かと絶えず闘っていると、あなたはそれに取り憑かれてしまう。あなたはそれを見守ることが出来る。 

断食を信じている人は、食べ物に取り憑かれる。マハトマ・ガンジーは食べ物に取り憑かれていた。絶えず食べ物のことばかり考えていた・・・何を食べるべきで、何を食べるべきではないか。まるでそれが生におけるたったひとつの重大事でもあるかのように・・・何を食べるべきで、何を食べるべきでないか・・・。 

普通、人々はそれほど取り憑かれてはいない。それほど考えすぎたりはしない。3日間断食して、自分の心の中で何が絶え間なく続くか考えてごらん。あなたは絶えず食べ物のことを考えるだろう。 

さて食べ物を超えることはいいのだが、断食はその方法ではあり得ない。断食は、食べ物への強迫観念を生み出すからだ。どうしてそれが食べ物を超える方法になり得るかね? 

もし本当に食べ物を超えたければ、正しく食べなければならない。正しい食べ物を食べなければならない。正しい時間に、正しい方法で食べなければならない。あなたは自分の体に合う物、滋養になる物を見つけなければならない。 

確かにそれは、食べ物を超えてあなたを連れて行ってくれるだろう。あなたは食べ物のことなど決して考えなくなる。体が滋養を得たら、あなたは食べ物のことは考えない。 

非常に多くの人々が食べ物のことを考えるのは、いずれにしろ彼らが断食をしているからだ。私がこんなことを言うと、あなたは驚くだろう。あなたはアイスクリームを食べ過ぎているのかもしれない・・・それは滋養にならないから、ある種の断食だ。 

あなたはただ自分の内側に腐ったものを放り込んでいるだけだ。それらは満足感を与えない。あなたを腹いっぱいにはするが満たしはしない。詰め込んだ感じはしても満足しない。 

間違った食べ物は、不満を生み出す。しかも飢えには食べ物ではなく、滋養が必要なのだから、あなたの飢えは満たされない。覚えておくがいい。飢えは滋養を求めているのであって、食べ物を求めているのではない。それに飢えは味などそれほど気にしない。 

基本的なことは、それがあなたの体に合っているかどうか、あなたの体に必要なエネルギーを与えるかどうかだ。もしそれが必要なエネルギーを与えるのであれば、それでオーケーだ。もし味が正しい滋養を伴っていたら、あなたはこの上なく満足する。 

そしていいかね、私は味に反対している訳ではない。私は味に大賛成だ。だが、ただ味だけでは滋養になり得ない。そして、ただ味のない食べ物だけでは知性がない、愚かだ。両方とも手に入る時に、なぜそうしない? 

知性ある人は滋養のある食べ物、味のある食べ物を見つける。それはそれほど大げさな問題ではない。人間は月にまで行けるというのに、自分に合った滋養のある食べ物を見つけられないとでも言うのかね? 

人間はいくつも奇跡を起こして来たのに、自分の飢えを満たすことが出来ないとでも?これは正しい情況とは思えない。いや、人間はそれをよく調べてみたことがないのだ。 

断食を信じている人達がいる・・・彼らは体を壊してしまう。そして、どんなゴミでも詰め込んでばかりいる人達がいる・・・彼らも体を壊す。両方とも同じ舟に乗っているのだ。両方とも断食しているし、両方とも絶えず取り憑かれている。一方は耽溺を通して取り憑かれ、片方は抑圧を通して取り憑かれている。そのまさに中間に超越がある。 

セックスについても実状は同じだし、生のあらゆることについても実状は同じだ。 

仏陀はセックスを超えろと言っている・・・そう言う人々自身が、セックスをまったく超えていないことにサラハは気づいたに違いない。それどころか、彼らはますますセックスに取り憑かれ、セックスの泥沼にさらに深く落ちていた。 

ある悩みを抱えた若い尼が、尼僧院長のところへ行った。さんざん突っ込まれたあげく、彼女は自分が妊娠していることを認めた。「一体相手は誰なのです?汚らわしい上にも汚らわしいその男は、一体誰なの?」と尼僧院長は言った。 

「ああ、院長様。私は男と肉欲の罪を犯した訳ではありません!」尼僧は激しく抗議した。「そうかい、だからといって父親は女だと言うんじゃないだろうね、どうなんだい?」尼僧院長は逆上せんばかりに言った。 

「いいえ、とんでもありません、院長様。父親は聖なる天使様のおひとりなんです!」薄笑いを浮かべながら尼僧は言った。「聖なる天使様!でたらめをおっしゃい!」 

「本当なんです、院長様。彼は真夜中に私が眠っているところに降りて来て、私が誰なのと尋ねると『聖ミカエルだ』って言ったんです。そしてそれを証明するために、下着に付いている名前を見せてくれたのです」 

いったん何かに反対するようになったら、あなたはそこから抜け出す道を見つける。何か裏口を見つける。人間はずる賢い。もしあなたが何かを抑圧したら、ずる賢い心が何か他の道を見つける。 

あなたがセックスの夢を見るのはそのためだ・・・あなた方の聖者達はセックスの夢を見すぎる。そうせざるを得ないのだ。昼間は否定することが出来る、が、夜には・・・意識がある時は彼らも抑圧することは出来るが、眠っているとなると夢の中でセックスは、素晴らしいファンタスティックな色彩を帯びサイケデリックになる。 

そして朝になって、彼らは罪悪感を感じる。そして罪悪感を感じる為に、彼らはさらに抑圧する。が、さらに抑圧すると、次の夜にはさらにもっと美しいセックスの夢を見る・・・あるいは恐ろしい夢を。それは彼ら次第だ。それはあなたが美しいと解釈するか、恐ろしいと解釈するかによる。 

15歳の扱いにくい女子生徒が精神分析医のもとへ送られて来た。そこで分析医は、彼女に一連の個人的な質問をした。彼は問題の根底にはセックスがあると確信して彼女に尋ねた。 

「セクシーな、あるいはエロチックな夢で悩んではいませんか?」「そんなことありませんよお!」「絶対に?」「絶対よお」女の子は言った。「だって私、楽しんでるのよ」 

それを美しいと呼ぶか恐ろしいと呼ぶかは、あなた次第だ。夜にはそれは美しく、朝には恐ろしいものになる。夜にはそれを楽しみ、朝には苦しむ。悪循環が生み出されていて、あなたのいわゆる聖者はこの悪循環の中を巡り続ける。昼は苦しみ夜は楽しみ、昼は苦しみ夜は楽しみ・・・そして彼は、このふたつの間で引き裂かれている。 

が、自分自身を深く見入れば、それが簡単に分かるだろう。あなたが抑圧したものは全てそこに残っている。それを追い払うことなどあなたには出来ない。 

抑圧されたものは残り、表現されたものだけが消える。表現されたものは蒸発し、抑圧されたものは残る・・・残るだけでなくもっともっと強力になる。時が経つにつれ、それはもっともっと強力になる。 

サラハは、仏陀以後200年間で何が起こったのか見ていたに違いない。誤った解釈で、人々はほとんどセックスに取り憑かれてしまっていた。仏教の僧や尼のその強迫観念から、ひとつの反逆としてタントラが生まれた・・・仏陀への反逆ではなく、仏教への反逆。 

その反逆を通して、サラハは仏陀のスピリットを取り戻した。その通りだ、人はセックスを超越しなければならない。が、その超越は理解を通して起こる。 

タントラは理解を信じる。ひとつのことを完全に理解したら、あなたはその支配から解放されている。正しく理解されていないものは、すべて残存物として残る。 

だから、あなたは正しい。あなたは尋ねている。「どうしてタントラは、私の知るかぎりセックスを瞑想の障害と見ている仏教から起こったのでしょうか?」 

まさしくそれゆえにだ。それは仏教に対する反逆であり、仏陀には賛成している。信者達とは対立するが、師とは対立しない。信者は文字面を抱えているが、サラハはスピリットを取り戻す。 

サラハは仏陀がそうであったのと同じ「光明」の化身だ。サラハはブッダだ。 

OSHO:Tantric Transformation、#10 より抜粋    (日本語版OSHOタイムスNo.76より)