OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

98.セックスに関する3つのこと

<OSHOの講話より> 

セックスはもっとも活発なエネルギーだ・・・つまり、あなた達が持っている唯一のエネルギーだ。それと闘ってはいけない。それは人生と時間の無駄になる・・・むしろそれを変容しなさい。 

セックスは、あなたがそれを全面的に受け容れて初めて消える。抑圧ではなく、それを受け容れた時だ。だが、どうやってそれをすればいいのか?如何にしてそれを変容するのか?どうすればそれが出来るのか?ある単純な手法を与えよう・・・。 

メイキング・ラブしている間、3つのことを覚えておかなくてはいけない。 

1つはメイク・ラブする前に、瞑想することだ。決して瞑想せずにメイク・ラブしてはいけない。さもなければ、愛は性的なものにとどまる。彼女と会う前に、あなたは意識においてより高く昇る必要がある。そうすればその出会いはより高い地平で起こる。 

少なくとも40分間、神秘的な雰囲気のぼんやりした明かりの中で壁に向かって坐りなさい。静かに坐って、体を動かさない。彫像のようにしていなさい。そうすればメイク・ラブする時に、肉体が動く。肉体が深い動きに入るような勢いを集める為、まずもう一方の動かないという極端に行くのだ。 

そうすれば衝動が高まり、全身が、身体のあらゆる隅々までが動きに入る準備が出来る。そうして初めて、タントラ的オーガズムが可能になる。何か音楽をかけてもいい・・・クラシック音楽でも構わない。肉体にごく微妙なリズムを与えるようなものがいい。 

なるべく呼吸を遅くしなさい。メイク・ラブすると呼吸は深く速くなるからだ。だからそれをスローダウンし続けなさい。ただし強制してはいけない。さもないと、それは速くなってしまう。ただスローダウンするようにと思うだけでいい。 

2人で一緒に瞑想して2人が瞑想的な感じになったら、それが愛し始める瞬間だ。その時には、決して緊張を感じずにエネルギーが流れている。瞑想的な感じになっていないなら、メイク・ラブしてはいけない。もしその日、瞑想が起こらないようなら愛のことは全て忘れなさい。 

人々はまったく逆のことをする。ほとんど常に、彼らはメイク・ラブする前に喧嘩をする。彼らは腹を立て、互いに小言を言い合い、あらゆる類のもめ事を持ち出す・・・そしてそれからメイク・ラブする。 

意識において非常に低いところまで落ちる為、もちろんその愛はあまり満足出来るものではあり得ない。それは失望に満ちたものになり、2人は緊張を感じる。 

2番目は、メイク・ラブする時は始める前に相手を礼拝し、また相手にも自分を礼拝させることだ。つまり、瞑想のあとは礼拝だ。互いに裸のまま向かい合って、相手を礼拝する。 

なぜならタントラは、男性と女性の間には起こり得ないからだ。それは神と女神の間にしか起こり得ない。それはジェスチャーだが、非常に意味が深い。あらゆる態度が、2人が消える為の崇高なものにならなければならない。互いに相手の両足に触れ、そこに花飾りを置きなさい。 

男性はシヴァに変容し、女性はシャクティに変容する。いまや自分が人間であることなどどうでもよくなる。自分の姿など無関係になり、名前など関係なくなる。あなたは純粋なエネルギーに他ならない。 

礼拝はそのエネルギーに焦点を合わせる。が、その振りをしてはいけない。その礼拝は真実のものでなければならない。それはたんなる儀式であってはならない。そうなったら失敗する。タントラは儀式ではない。そこにはたくさんの儀式があるが、タントラは儀式ではない。 

そして第3のステップとして、2人はメイク・ラブする。だがそのメイク・ラブは、それを行うのではなく、むしろ起こるようにしなさい。この「メイク・ラブ」という英語の表現は醜い。どうやって愛を作れるというのかね?それは行うことではない。それは行為ではない。それは状態だ。 

その中に在ることは出来るが、それを作ることは出来ない。その中に入っていくことは出来るが、それをすることは出来ない。愛に満ちることはあり得るが、それを操作することは出来ない。西洋のマインドはすべて、あらゆることを操作しようとする・・・。 

メイク・ラブする時は、それに乗っ取られなさい。ゆっくりと動き、互いの肉体に触れ、相手の肉体を演奏しなさい。肉体は楽器のようなものだ。急いではいけない。ものごとが成長してゆくのに任せなさい。 

ゆっくりと動けば、突然2人のエネルギーが一緒に高まる。あたかも何者かが2人に乗り移ったかのように。それは瞬時に、2人同時に起こる。その時初めてタントラが可能になる。今度は愛に入ってゆきなさい・・・。 

ただエネルギーが自分に降りてくるのを感じ、そしてそのエネルギーがひとりでに動くのに任せなさい。ときには叫び始めるかもしれない。叫んだらいい!ときには何か言い始めるかもしれない。言ったらいい!ときにはうめき声や何かのムドラー、身振りしか出て来ないかもしれない。そういうものを許しなさい。 

それは狂ったようになるだろうが、それを許さなくてはならない。そして恐れることはない。なぜならそれは、あなたの許しを得て起こっていることだからだ。あなたがそれを止めたいと思った瞬間、それは止まる。だから、あなたは決して支配されてしまうことはない。 

そして神々がメイク・ラブする時、それはほとんど野性的なものになる。そこにはどんな規則も、どんな決まりもない。人はその瞬間、ほとばしるものに基づいて動くだけだ。何ひとつタブーはなく、何ひとつ禁止されてはいない。 

その瞬間に起こることはどんなことも美しく、また神聖だ。何であれ、と私は言う。無条件にだ・・・誰にも何が起こるのかは知らない。2人はただ聖なる旋風の中に取り残される。それはあなた達を連れ去る。 

そしてそれは望むがままに、どこにでもあなた達を連れ去る。あなた達はただ任せて、それと共に動くだけだ。あなた達はそれに指図しない。あなた達はたんなる乗り物になってしまう。 

エネルギーが自分なりのやり方で出会うのに任せなさい。人間をそこから投げ出す必要がある・・・たんなる純粋なエネルギーになりなさい。2人は性器を通じてだけメイク・ラブしているのではない。2人は全身でメイク・ラブすることになる・・・。 

まず瞑想し、それから互いに礼拝すれば危険はない。あらゆることは正しく動く。2人はいまだかつて知らなかったようなオーガズムの絶頂に達するだろう。ときとして、そこに達する場合がある。その中で全身が鼓動し脈動するような、実に素晴らしいオーガズムだ。徐々に2人は絶頂に到達する。 

そして再び下に降りる。それはあなたの全存在を、全システムを掃除するだろう。射精が起こらない場合もあるが、オーガズムはある。 

2種類のオーガズムがある。峰(ピーク)のオーガズムと谷のオーガズムだ。峰のオーガズムではあなたは射精し、女性もある微妙なエネルギーを射精する。 

谷のオーガズムでは、2人は何も射精しない。それは受動的なオーガズム・・・非常に静かで非常に微妙なオーガズムだ。興奮はあるが、ほとんど感じられないほどだ。 

峰のオーガズムでは、非常な、非常な至福を感じる。谷のオーガズムでは、非常な、非常な平安を感じる。そしてその両方が必要だ。両方がタントラの2つの側面だ。峰にはすべてその谷があり、谷にはすべてその峰がある。峰は谷なしには存在しないし、逆もまたその通りだ。 

そしてそれが起こり2人が深いオーガズムを達成したら、彼女の中から自分を引き出してはいけない。そのオーガズムの後、彼女の中にとどまり、しばらくそこで休みなさい。 

その休息は非常に、非常に深い。オーガズムの後で、休息は谷のようなものだ。一番の峰に達して、今度は谷間に戻って来たのだ。それは非常に涼しく、薄暗く、そして休まる。

そしてそのオーガズムの後では、本当に多くのことが起こる・・・その融合、その融解の後で。肉体はくたびれ、消耗し、疲れ切っている。マインドは衝撃を受けている。それはほとんど電気ショックのようなものだ。 

2人が愛の状態から出て来たら、また2人して祈りなさい。祈りをもって終わりなさい。

その違いは、瞑想する時はあなたはあなたで瞑想し、彼女は彼女で瞑想する。瞑想は一緒にすることは出来ないからだ。瞑想は独りの努力だ。それは関係ではない。だから2人一緒に瞑想するかもしれないが、それでもあなた達は独りで瞑想する。あなたも独りであり、彼女も独りだ。 

それから2人は互いに礼拝する。これもまた別のことだ。相手が礼拝の対象となる。 

それからあなた達はメイク・ラブし、2人は完全に我を失う。あなたはあなた自身ではなく、彼女は彼女自身ではない。誰が誰かを知る者はいない。すべてがエネルギーの渦巻きの中に失われる。男性と女性という対極は、もはや対極ではない。境界は溶け合い、混ざり合う。 

ときにはあなたが女性のように感じ、彼女が男性のように感じる。ときには彼女があなたの上になる。ときにはあなたが受け身になり、彼女が行動的になり、役割を変更する。それはエネルギーの大いなるドラマだ。すべてが失われ、投げ出される。 

それからあなた達はもっとも内なる体験から出て来て、一緒に祈る。それが4番目だ。 

ただ神に感謝しなさい。そして決して不平を言ってはいけない。何が起ころうとも正しい。「これが起こらなかった。これが起こるべきだったのに」と言ってはいけない。私達は一体何者だろう?神の方がよく知っている。 

だから何が起ころうとも、ただ神に感謝しなさい。深い感謝と共に、神に礼を言いなさい。頭が床につくまで深くおじぎをして、深い感謝の中でしばらくそのままの姿勢でいなさい。 

瞑想は独りだ。礼拝では相手が重要だ。そして祈りでは、2人が共に神に祈る。だからこの3つのことを組み込む必要がある。それが、タントラが起こるような環境を創り出すだろう。そして1週間に一度でいいだろう。 

タントラに入ったら、もう他の愛を許すべきではない。さもないとエネルギーを消耗してしまう。ただメイク・ラブしたい時はつねに、必ず時間を充分取るようにしなさい。それは急いですべきことではない。それは仕事のようであってはならない。 

これはゲーム、遊びであり、そのエネルギーはあまりにも微妙だから、急いでいたのでは何も起こらない。タントラは断片ではない。その状況を創らないかぎり、それを実行することは出来ない。それは花のようなものだ・・・。 

だからこれら3つのことが、種をまき、植物の世話をし、水をやり、絶えずそれを気にかけ、注意し、それを守ることになる。すると、ある日突然・・・タントラの花がそこに咲く。それは必ず起こる。 

OSHO:Beloved of My Heart、#17より抜粋 (OSHOタイムス、日本語版、No.76より)