OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

99.セックスの4つの段階

<OSHOの講話より> 

質問:愛するOSHO、あなたのセックスについての見方と、それが超越に果たす役割について語っていただけないでしょうか。 

私が教えるのは、生肯定の道だ。私は全面的な生を教える。過去には、宗教は生否定的だった。それは生を否定し、生を破壊した。彼らは生に敵対し、彼らの神は生に対立していた。私にとって、生と神は同じものを意味する。この生より他に神はない。私は生を礼拝する。生が神なのだとしたら、愛がその神殿だ。これら3つのLが私の教えの基本だ・・・ 
神である生(Life)と、その神殿である愛(Love)と、その体験である光(Light)。これら3つを学んだなら、あなたはすべてを学んだことになる。 

が、これまでの宗教が生と愛に敵対的だったために、自然と私のまわりには論議が起こってくる。私はそれはいいことだと思う。それは自然なことだ。私はそういった論争にうろたえたりはしない。むしろ論争が起こって来ない方が心配するだろう。それは絶対にそうあってしかるべきだ。それは最初から私の仕事のプランの一部だ。 

どうして過去に宗教は生に否定的だったのだろうか?宗教の名のもとに人間は搾取されて来た・・聖職者と政治家に搾取されて来た。聖職者と政治家は人間に対して深い謀議を巡らして来た。人間を搾取する唯一のやり方は、彼を恐れさせることだ。恐れでいっぱいになった人間は服従するようになる。内側に震えが起こってきたら、彼は自分自身への信頼を失ってしまう。そうなったら、彼はどんなに馬鹿げたことでも信じるようになる。自らを信頼している人間にそういったナンセンスを信じさせることは出来ない。 

いいかな、人間はそのようにしてこれまで搾取されて来た。これはまさにいわゆる宗教の営業上の秘密だ・・人間を恐れさせ、自分には価値がないと思わせ、彼に罪悪感を抱かせ、自分は地獄の瀬戸際にいるのだと思わせること。どうやったら人間をそれほど恐れさせることが出来るのだろう?その唯一のやり方は、生を非難し、自然なものすべてを非難することだ。 

セックスは生の基本だから非難する。食べ物は生の第二の基本だから非難する。関係、家族、友情は生の第三の基本だから非難する・・そうやってどんどん非難してゆく。人間にとって自然なことはすべて非難し、それは間違っていると言う・・「それをやったらあなたは苦しむことになる。それをしなかったらあなたは報われる。自然な生き方をしていたら地獄の災禍が振りかかる」というのが、すべての過去のメッセージだった。そして「生に対立したら天国が与えられるだろう」というのが。 

つまり自殺的な人間になって初めて、あなたは神によって受け容れられるということだ。少しずつ徐々に感覚において、肉体において、心において、ハートにおいて自殺をしていったら、自分を破壊していったら、その自己破壊がうまくいけばいくほど、あなたはますます神に愛されるようになる。これが過去の宗教的な教えのすべてだ。それは人間存在を汚染し、人間に害を与えた。そういった害を振りまく人たちは、それによって人間を徹底的に搾取した。これらの過去の宗教は死を指向し、生を指向してはいなかった。 

私が伝えようとしているのは生を指向するヴィジョンだ。多次元的な生を愛するということだ。なぜなら、それが究極の真理に近づいてゆく唯一の道だからだ。究極の真理は遠くにあるのではない。それは身近なもののなかに隠れている。身近なものこそ究極のものであり、内在するもののなかに超越的なものが隠れている。神はあそこにあるのではなくて、ここにある。神はあれではなくこれだ。あなたは無価値ではないし、罪人ではない。

私はここで、あなた方がすべての罪の意識の重荷を降ろすのを手助けしている。自らの存在を信頼するようになれば、聖職者や政治家に搾取されることはなくなる。人間はつねに恐れによって搾取されて来た・・・人間のなかに恐れをつくりだす最大の手法は、自然なものに対して罪悪感を抱かせることだ。彼はそれを棄て去ることが出来ないし、また地獄への恐れゆえにそれらを楽しむことも出来ないので、その両者の板ばさみになってしまう。この板ばさみが人間の搾取の基本となるものだ。 

どこかの愚かな聖職者がそれを非難しているとしても、あなたは自分のセクシュアリティを落とせない。正しいとか正しくないとか考えてみても意味のないことだ。それは自然なものであり、存在そのものの中にある。あなたはそれから生まれて来たし、細胞のひとつひとつが性細胞だ。口ではそう言っても、それは落とすことが出来るものではない。 

そう、抑圧し始めることは出来るかもしれない。抑圧によってあなたはそれを無意識の中にため込んでゆき、それは傷のようなものになってしまう。それに抑圧すればするほど、いっそうあなたはそれに捕らわれるようになる。捕らわれるようになればなるほど、いっそう罪悪感を感じる。それは悪循環だ。聖職者の罠に落ちてしまったということだ。 

聖職者自身はいっこうにそれを信じていないし、政治家も決してそれを信じてはいない。そういったものは人々のために、一般大衆のためにある。大衆はいいように騙されて来た。物語では王様には何百人もの妻がいるし、聖職者も似たり寄ったりだ。奇跡的なのは、人々がこういったぺてん師たちを信じて来たことだ・・聖職者は人間のハート、人間の意識にこの上もない害を与えた。彼らは、生は醜いものだという有害な考えを人間に植えつけた。 

彼らは、いかにして生から逃れるか、ということを人々に説いて来た。私は自分の人々にいかにしてその中に深く入ってゆくかを教える。彼らはいかにして生から解き放たれるかを説いて来た。私はいかにしてあなたの生を自在無碍なものにするかを教える。彼らはいかにしてこの生を終わらせるかを説いて来たが、私はあなたがたにいかにしてその中を通って永遠に近づいてゆくかを、いかに生を豊かに生きるかを教える。だから論争が起こるのも当然だ。それはそうならざるを得ない。私のヴィジョンは、宗教の名のもとに説かれて来たこととは正反対だ。 

私は宗教の新しいヴィジョンを世界にもたらそうとしている。これは、これまでかつてなされなかったもっとも大胆な試みだ・・多次元的な生を受け容れ、それを楽しみ、それを祝い、それを喜ぶということ。放棄ではなく、喜び祝うことが私の道だ。断食ではなく、祝宴が私の道だ。お祭り気分になることが宗教的になることだ。宗教は祭りの次元に属していると私は定義する。私はあなた方に祝祭を教える。祝祭が私の鍵となるものだ。私はあなた方にこう教える・・自らの性を祝いなさい。それは神からの贈りものだ。自らの肉体を祝いなさい、それは神の恵みだ。自分に与えられたあらゆる瞬間を、ひとつひとつの息、ひとつひとつの鼓動を祝いなさい。それは神の祝福だ、と。 

今ここで神を生きなさい!私はあなた方に目標としての神を与えてはいない。私はあなた方にたった今、この瞬間に神が手に入るようにする。喜び祝えば、あなたは神の中にある。古い宗教は悲しみに満ちていた。古い宗教は深刻だった。私の宗教には遊び心が満ちている。あらゆるものは遊び心をもって受け止められなければならない。生を深刻にとらえてはいけない。それは楽しいものだ。それを戯れと取ることが祈りの気持ちを持つことだ。そうしたら不平はなく、ただ感謝だけがある。 

この質問は重要だ。いくつかヒントになることがある。世の中には病理学的な人々がいるが、この病理学的なマインドが過去を支配して来た。これらの人たちは楽しむことが出来ない。彼らはどうやって楽しむかを知らない。楽しむことが出来ないために、彼らはそれを大層な美徳にしてしまう。楽しまないことが美徳になる。 

誰しもが楽しむ能力と共に生まれて来るが、その方法は知らない。ただ生きて息をし、存在しているだけで楽しみ方を知っているのだと人々は考えている。それはまったく愚かしい考え方だ。楽しむことは大いなるアートであり、長い鍛錬が必要なことだ。それは音楽や詩や絵画と同じように微妙なる鍛錬だ。それは大いなる創造性だ・・ 

それは学び取らなければならないものであり、アートだ。人はそれを身につけなければならない。それには何年もの準備期間が必要であり、何年にもわたる浄化が必要だ。クラシック音楽を一度聴いただけで、それは楽しくないと放り出してしまうのは愚かしいことだ。耳にも一定の鍛錬が必要であり、それで初めて微妙なものを聴き分けることが出来るようになる。粗雑なものならすぐにでも聴くことが出来る。粗雑なものは動物的だから、それに浸ることは容易だ。だが、生のより深い次元に入ってゆくためには、人には長い鍛錬が、深い瞑想が、大いなる遊び心が、限りない感謝の気持ちがなくてはならない。 

憶えておくべき基本的なことは、生が祝祭にならないのだとしたら、生ではなくて、あなたがどこかおかしいということだ。古い宗教は生がおかしいのだと言ってきた。私は生ではなくて、あなたに責任があると言いたい。生は神だ。そうなったらプロセスのすべてが変わってしまう。あなたの中の何かが浄化されなければならない。あなたにまとわりついているものが切り捨てられなければならない。条件付けの塊が落とされなければならない。あなたは外科手術を経なければならない。 

このコミューンはそのためにこそある。それは外科手術のための場所だ。それはインドに何千となくあるありきたりのコミューン(共同社会)ではない。それは大いなる実存的な実験だ。私たちはここで未来を、新たな責任をともなった新しい種類の人間を創り出そうとしている。私たちは新しい日の、新しい日の出の基礎石を据えつけようとしている。私たちは過去には閉ざされていた新しい可能性への扉を開こうとしている。そのためにこそ人類はこれまで苦しんで来た。大いに苦しみ、いたずらに苦しんで来た・・ 

ここはセックスへの耽溺がない唯一の場所だが、あなた方はそのことに驚くことだろう。耽溺には抑圧がなくてはならない。抑圧されている人ほど耽溺することを望む。それは何日間も断食してからそれが解けた時に食べ過ぎて、食べることに溺れるのと同じことだ。耽溺は抑圧の副産物だ。あなたは30日間断食をして、抑圧し、自分自身と闘い、ある種の地獄の中に生きていた。その30日間が終わると、あなたは反対の方向へ、もう一方の極端へと進んでゆく・・耽溺するようになる。耽溺は抑圧の反対の極だ。 

私は抑圧に反対しているのに、どうして私の場所で耽溺が起こり得るだろう?聖職者は抑圧を創り出すことで耽溺を創り出す。抑圧を創り出すと人々はたちまち耽溺するようになる。欲望が抑えられれば抑えられるほど、いっそうそれは強いものになる。それは狂ったものになり、攻撃的になる。それが自然に流れることを許されていたら、それが受け容れられていたら、それと闘わなかったら、バランスが訪れる。だから私は、ここは耽溺が起こり得ない唯一の場所であり、多分全世界でただひとつしかない場所だと言いたい。 

私があなた方に望むのは、頭から感覚に降りて来るということだ。また再び感覚の中に戻りなさい。私はあなた方に肉体を教える・・肉体は美しく、神聖なものだ。肉体へと戻りなさい。また再び肉体を生き生きとしたものにすれば、それは自分で自分の面倒を見るようになるだろう。あなたが心配しなくてもいい。肉体には自らを健康的に保ち、生き生きと保ち、みずみずしく保ち、若々しく、新鮮に保つための内蔵されたプログラムがある。肉体には内臓プログラムがある。書物や教えからそれについて何かを学ぶ必要はまったくない。 

だから人々が私のもとにやって来る時、彼らは最初のうちは何かに溺れているかもしれない・・が、その彼らの耽溺は私の責任ではない。聖職者、彼らを条件づけた人達、彼らにこそ責任がある。そういった人達でも、ここで私と共に何日間かいることが出来たら、遅かれ早かれバランスを取り戻す。そのバランスと共に、落ち着き、穏やかさ、微妙な喜びと微妙な自然さがやって来る。

 

セックスには4つの段階がある。これらのステージを理解しなければならない。第4の段階に至って初めてセックスは「黄金の華」になる。これら4つのステージを理解しないでいたら危険だが、すべての伝統はあなた方がこれら4つの段階に気づかないようにして来た。 

最初のステージは「自性愛的(オートセクシュアル)」だ。 
生まれたばかりの子供はナルシストだ。彼は自分の体をこの上もなく愛しており、それは素晴らしいことだ。彼は自分の体しか知らない。自分の親指を吸っているだけで、すっかりいい気持ちになってしまう。子供が親指を吸っているのを見たことがあるだろうか・・

彼の顔にはたとえようもない恍惚感が浮かび、ただただ自分の肉体と遊ぶことを楽しみ、足の指を口に入れて、エネルギーの輪を創ろうとしている。子供が足の指を口に入れるとエネルギーの輪が創られ、エネルギーがぐるぐると循環し始める。光が子供のなかで自然に循環して、彼はそれを楽しんでいる。なぜなら、光が循環する時には内側に大きな喜びが感じられるからだ。 

子供は性器と、それが性器とは知らずに戯れている。彼はまだ条件付けられていない。自分の肉体をひとつの全体として認識している。そして確かに、性器は彼の肉体のいちばん敏感な部分だ。彼はそれに触り、それと戯れることを大いに楽しんでいる。 

まさにここで社会が、有害な社会が子供の精神(サイキ)に割って入る・・・「触っちゃだめ!」この「だめ」が最初の卑猥語になる。このひとつの卑猥語から、さらに多くのものが、「いけない」「べきでない」が生まれて来る・・そういったものは卑猥語だ。子供は一度でも「だめ!」と言われると・・両親の顔、母親か父親の怖い顔、その眼があって・・彼の手は自然な状態でとても心地よいはずの性器から離させられる。彼はそれを本当に楽しんでいたし、それは性的なことでもなんでもない。それは肉体のなかで一番敏感な場所であり、一番活き活きしている場所であるにすぎない。 

だが、私たちの条件付けされた心からすると・・彼は性器に触っているのであり、それはいけないことであり、その手を離させなければならない。私たちは子供のなかに罪悪感を作り出している。こうして彼の自然なセクシュアリティを破壊することが始められる。こうして彼の喜びの、彼の存在の本来の源泉を汚染することが開始される。いまや私たちは彼のなかに偽善を作り出している。彼は外交家になってしまう。彼は両親がそこにいる時には自分の性器では遊ばない。こうして最初の嘘が入り込む。 

彼は正直になることが出来ない。いまや彼は自分に正直にしていたら、自分自身を尊重していたら、自分の本当の喜びを尊重していたら、自分の本能を尊重していたら、両親が怒るだろうということを知っている。彼は彼らに対しては無力であり、彼らに依存しているし、自分の生存は彼らにかかっている。もしも彼らに棄てられてしまったら、彼は死んでしまう。だからそれは生きるか死ぬかという問題だ。生きていたかったら、自分に反しなければならないというのが条件であり、子供はそれに従うしかない。 

世界で一番搾取されているのは子供達だ。子供ほど搾取されている階級は他にはない。彼は何も出来ない。両親と闘うために組合を組織することが出来ないし、裁判に訴えるわけにもいかないし、政府に陳情することも出来ない。両親の攻撃から自分を護るすべは何もない。両親は彼を止めるが、彼を止めるのは彼ら自身の条件付けから来ている。彼らの両親も彼らに同じことをやって来た。彼らは子供が自らの性器に触ってそれと遊んでいることに、それも何の恥じらいもなくそうしていることに、ひどく当惑してしまう。 

しかし、子供は恥などというものは知らないし、まったく無邪気なものだ。そこに「だめ」が入った。エネルギーは委縮してしまう。最初の精神的トラウマが起こる。もはや子供は自らのセクシュアリティを自然に、喜びに満ちて受け容れることが決して出来ない。抑圧が起こって子供はふたつに分けられてしまう。彼の肉体はもはや全一なものではない。体のある部分は好ましいものではなく、ある部分は醜く、ある部分は体の一部であって欲しくはない場所だ。彼はそれを拒絶する。彼は自らの心理の深いところで自分自身を去勢するようになり、エネルギーは畏縮してしまう。エネルギーはこの「だめ」が起こる前のように自然に流れなくなる。 

この人類に対して綿々となされて来た愚行の自然な結果として、子供はもはや自然な存在ではなくなり、そこに偽善が入り込む。彼は両親から何かを隠さなければならないか、または罪悪感を感じなければならない。これが自性愛的(オートセクシャル)な状態だ。多くの人々がそこで行き詰ったままになっている。世界中で実に多くの自慰行為が続いているのはそのためだ。それは自然な状態だ。それはひとりでに過ぎ去ってしかるべきものであり、ひとつの成長段階にすぎなかったのだが、両親がそのエネルギーの成長段階を妨げてしまった。 

子供は行き詰ってしまう。自分の性器と遊びたいのだが、そうすることが出来ない。抑えに抑えていても、ある日それは限界を越えてしまい、彼は性的なエネルギーに取り憑かれてしまう。いったんマスターベーションを始めると、それは習慣に、機械的な習慣になり、そうなると彼は決して第2の段階に進んでゆくことが出来ない。このことに責任があるのは両親、聖職者、政治家達だ・・これまでに存在してきたすべての社会的なマインド(権威者)達だ。 

さて、この人はこの段階で、ごく幼稚なステージで行き詰ったままかもしれない。彼は決して完全に成熟したセクシュアリティに達することが出来ない。彼は決して成熟した性的な存在にしか訪れない至福を知るようにならない。皮肉なのは、マスターベーションを非難しそれを大げさに言い立てるのは、まさにこういった人たちだということだ。彼らはきわめて危険な発言をする・・彼らは自慰をしたら盲目になってしまう、自慰をしたら生きる屍になってしまう、自慰をしたら知性的になることが出来ず、知性は発達しない、ということを人々に告げ知らせて来た。 

だが、科学的な諸発見はみなある一点で一致している・・マスターベーションは誰にとっても有害なものではない。しかし、まさにこういった発言は害になる。ひとつだけ絶対に確かなことがある。これらふたつの意見の両方が正しいことはないということだ。すべての心理学の研究者たちは、マスターベーションは誰にとっても害にはならないし、それは自然なエネルギーのはけ口なのだという点で一致している。だが、こういった考え方は・・あなたは盲目になるとかいった・・それを実際に危険なものにしてしまうかもしれない。なぜなら、あなたは自分は盲目になる、自分は盲目になる・・自分は盲目になる・・と繰り返し繰り返し考えているからだ。 

眼鏡をかけている人の数は多いけれど、その実際の理由は眼にはないのかもしれない。理由はもっと別のところにあるのかもしれない。数えきれないほどの愚かな人達がいるけれど、その実際の理由は彼らが愚かであるからではないのかもしれない・・なぜなら、生まれながらに愚かな子供はいないし、子供はみな生まれた時には知性的だからだ。理由はもっと別のところにあるのかもしれない・・こういったテクニックに。あなた方は病的な状態にとどまり、自信を失っている。実に多くの人達が恐れ、四六時中恐れおののき、信頼を失い、自信を失い、恐怖に震えているが、それは彼らが自分が何をやって来たのか分かっているからだ。 

私はたくさんの手紙を受け取っている・・・「私はこの罠に陥っています。どうやってそれから出たらいいでしょう?」私は繰り返したい、マスターベーションは誰の害になったこともない、と。だが、マスターベーションをする瞬間は、その人にとってはとても敏感な、デリケートな瞬間だ。彼の全存在がオープンになって流れ出す。その瞬間にある暗示が彼の心の中に入ったら・・・彼自らが「頭がおかしくなったらどうしよう?盲目になったらどうしよう?知性が発達しなかったらどうしよう?」と自分に言い聞かせている・・こういった常日頃の自己暗示がありとあらゆる病気、ありとあらゆる心理学的な諸問題、倒錯の原因になるのかもしれない。 

その責任は誰にあるのだろうか?そういったありとあらゆる倒錯を抱え込んだ人達が私のもとにやって来た時、私は彼らを助けようとするし、また多くの人が助けられて、それを超えることが出来る。だが社会は、私が人々にある種の倒錯を教えているのだと考えている。これはまったく信じられないことだ。私はあなた方が倒錯を超えられるように助けているし、あなた方に倒錯を教えたのは社会だ。あなた方が暮らしているのは倒錯した社会だ! 

子供が自然な自性愛の段階を許されたなら、彼はひとりでに第2の段階、同性愛(ホモセクシャル)へと進んでゆく・・が、この第2の段階へと進むのはごく少数の人達だ。大多数は第1の段階にとどまっている。女性や男性と愛を交わしている時でさえ、あなた方は相互のマスターベーションをやっているにすぎない。オーガズムの状態に達するのはごくわずかの人達なので、セクシュアリティが成熟していたら必ず得られるような一瞥に至る人達もごく少数しかいない。 

自然な現象である性交を通して神を知るに至るのは、ごく少数の人達だ。性交では、瞑想は自然に起こる。だが、それが実際に起こっていないのは、何百万の人達、大多数の人達が最初のステージで行き詰っているからだ。たとえ結婚して子供を作っているとしても、彼らの性交は相互のマスターベーション以上のものではない。それは本当に愛を交わすことではない。愛を交わすことはアートであり、大いなるアートだ。それには大いなる感受性が、大いなる気づき、瞑想性が、成熟がなくてはならない。 

第2の段階は「同性愛」だ。少数の人たちが第2の段階に入る。それは自然なステージだ。子供は自分の肉体を愛する。その子が男の子なら、彼は男の子の体を、彼の体を愛する。女性の肉体に、女の子の体に飛び移るにはギャップが大きすぎる。自然と、彼はまず他の男の子を愛するようになる。あるいはその子が女の子なら、まず自然な本能として同じような体を持っている、同じような存在の他の女の子を愛するようになる。彼女は男の子よりも女の子の方をよく理解することが出来る。男の子は別種の世界の存在だ。 

同性愛の段階もまた自然なステージだ。が、そこでもまた社会は人々がそこで行き詰まるように仕向ける。社会は男性と女性、男の子と女の子の間に障壁を設ける。それらの障壁さえなかったら、じきに同性愛の段階は終わってしまう。別種の性、異なった性への関心が起こって来る。だが、社会はそのための機会を与えない・・男の子と女の子の間には万里の長城が立ちはだかっている。学校では彼らは離れて座るか、別々に教育を受けねばならない。大学では別々の寮に暮さねばならない。彼らが出会うこと、彼らが一緒になることは許されていない・・ 

同性愛は社会によって存続させられて、その同じ社会によって非難される。これらの戦略が理解されなければならない。同じ社会が同性愛者を非難して、彼を倒錯者、犯罪者とののしる。同性愛が罰せられて、10年間も監獄に送られるような国々がいまだにある。かつては同性愛者が死刑にされてしまう国さえあった!だが、その同性愛を作り出しているのは同じ社会だ。 

男性と女性は完全に分けられてしまい、彼らは互いから隔離させられてしまう。男性は愛したくなっても女性を見つけることが出来ないし、女性は愛したくなっても男性を見つけることが出来ない。そうなったら、何であれ手に入るものでもいいということになり・・女性は女性と恋に落ちるようになり、男性は男性と恋に落ちるようになる。それでは本当に満足出来ないのだが、何もないよりはましということになる。自然は自らの道を見つけ出そうとする。自然な道筋を許さなかったら、それは遠回りな道筋を見つけ出す。そうでない限り、同性愛は自然な移行期であり、ひとりでに終わってしまうものだ。 

第3の段階は「異性愛ヘテロセクシャル)」だ。男性は本当に自性愛、同性愛から抜け出て初めて、女性と恋に落ちうるだけの成熟に達する・・それは全面的に異なった世界、異なった化学、異なった心理、異なった精神霊性スピリチュアリティ)の世界だ。そこまで来たら彼はこの異なった世界、この異なった有機生命体(オーガニズム)と共に遊ぶことが出来る。彼らは対極に離れているが、近くに寄った時には・・彼らが本当に近くに寄って重なり合う瞬間・・最初の一瞥が、閃光のようなサマーディの一瞥が達せられる。

それが起こらないために多くの人々が、私はたんに詩的なことを語っているのだと考えている。それは詩的な表現ではない!私は架空のことを言っている訳ではなく、現実に起こり得ることを語っている。私が語っているのは実在する現象だが、それが起こるためには男性と女性は成熟していなければならない。彼らは最初の2つのステージを超えていなければならない。そうして初めてそれが起こり得る。だが、成熟した男性と女性はごくまれ、ごくまれにしかいない。だから何ひとつ起こりはしない。愛を交わしても、その愛は表面的なものにすぎない。彼らは深いところでは自性愛的であり、あるいはせいぜいよくて同性愛的だ。 

女性または男性を愛するためには、対極を受け容れることが出来る、まったく新しい存在が必要だ。そこに対極がある時には・・プラスとマイナスの電気が出会って電流が生まれる、ちょうどその時のように・・生の電気が出会う時には、男性と女性、陰と陽、シヴァとシャクティ、その出会いが起こる時には、あの溶け合い、あの忘却、あの酩酊が生まれて、別々の存在、別々の自我としての彼らは消えてなくなる。彼らはもはや分かれてはいないがゆえに、ひとつのものとして、ふたつの肉体を持つひとつの魂として脈動している。これこそ無心、無我、無時間の最初の体験であり、サマーディの最初の体験となるものだ。 

一度でもこれが体験されたなら、ある欲求が起こってくる・・女性に依存しなくてもいいように、男性に依存しなくてもいいように、それを日常的な自然な状態にもたらすために、どうやったらサマーディを達成し得るだろうか?というのも、依存は隷属をもたらすからだ。異性愛のオーガズムの体験を得て初めて、人は自分だけでその状態に達することが出来る方法、手段、手法・・ヨーガ、タントラ、タオ・・を探し求めるようになる。 

そして確かにそれを達成することは出来る。なぜなら、どんな男性の奥深くにも男と女の両方が存在しているし・・・半分は父親から来ており、半分は母親から来ている・・・どんな女性でも半分は女性であるし、半分は男性であるからだ。だから一度でもそれが外側の女性を通じて起こるのを知ったなら、あなたはそれが内側でも起こり得るという最初の一瞥を得たことになる。外側の女性はその引き金を引いただけで、外側の男性は触媒として働いただけだ。あなたは瞑想を始めるだろう。 

それから第4の段階、究極の境地が訪れるが、それは「ブラフマチャリア」本当の独身生活だ。僧侶達の禁欲ではなくて・・それは本当の独身生活ではない・・覚者(ブッダ)達の独身生活だ。それはブラフマチャリアだ。セックスは消え失せている。あなたは外側の女性を必要としないし、外側の男性がいなくてもいい。いまや自らの内なる男と女は一体となり、この結びつきは一時的なものではない。これこそ真の結婚だ、あなたは溶け合っている。いまや歓びに満ちることが自然な状態だ。ブッダは常にオーガズムを生きている。彼はオーガズムを呼吸している。 

これがセックスの4つの段階だ。私はあなた方を第4まで連れてゆこうとしているが、私のもとにやって来る人達は社会によって片輪にされ、駄目にされ、社会によって汚染されている。私は彼らから多くの毒を抜き取らねばならない。私は彼らの存在から多くの膿を出させなければならない。そして彼らが、充分に長く私と共にいる危険を冒すだけの勇気を持っているなら、そこで初めてこの変容が起こることが出来る・・ 

いいかな、セックスは泥のように見えるが、そのなかに蓮の花を秘めている。これは私の基本原則のひとつだ・・最低のものは最高のものを含んでいるし、最高のものは最低のものの顕在化に他ならない。種子には花が含まれているし、花はまさに種子の表現に他ならない。セックスはサマーディを含んでいる。なぜなら、生はその内に神をはらんでいるからだ。セックスから超意識へと進んでゆきなさい。これこそ唯一の自然な、そして正しい道だ。 

OSHO:The Secret of Secrets Vol.2.#15 より抜粋 (OSHOタイムス日本語版、No76より)