OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

100.男の人に明け渡せません

<OSHOの講話より> 

質問:なぜ私には男の人に明け渡すことが、こんなに難しいのでしょうか? 

それだったら明け渡しなさんな。何で不必要に自分にトラブルを作る?誰がそもそもあなたに男の人に明け渡せなどと言った?明け渡さなければいい。何で自分の頭に不必要な厄介ごとをしょい込みだすのか?もし明け渡す気が起こらないんだったら、明け渡さなければいい。 

つい先日、1人の女性が私に手紙を書いてこう聞いた。「私はここに来ました。けれどもこの場所が自分にふさわしいとは感じません。どうしたらいいでしょう?」 

立ち去りなさい!いなくなりなさい!何をぐずぐずしているのかね?そして彼女はこうも聞いていた。「私は私のハートに耳を傾けるべきでしょうか、それともあなたを信頼すべきでしょうか?」 

あなたのハートに耳を傾けなさい、レディ。ん?そして出来るだけ急いで立ち去るがいい。何で自分のハートに逆らって私を信頼することなんか出来る?誰が私を信頼すると思う?信頼するのはハートだ!もしそのハートが反対だとしたら、誰が私を信頼するのかね? 

そして、なぜあなたは自分自身の中にそんな区別を作るのか?分裂症になるよ。ある部分は明け渡そうとしてそれを押しつけている。そして、他のある部分は離れたい。ここにトータルにいるか、でなければ行くがいい。 

もし明け渡せないのだったら、明け渡さなければいい。誰もあなたの明け渡しなんかに興味はない。そして、明け渡しというものはやれるものでもない。それは強要出来るものじゃない。それは来るときに来る。 

もしあなたが男の人に明け渡せないとしたら、それはあなたが男の人を愛せないということだ。愛から明け渡しは自然に出て来る。もしそこに愛がないとしたら、明け渡しはやりくり出来るものじゃない。忘れてしまいなさい! 

もしかすると、この質問者はレズビアンかもしれない。完璧によろしい!女の人に明け渡すがいい。少なくとも誰かに明け渡すことは出来る。もしかしたら、その明け渡しを通じて、あなたは男の人に明け渡すことも学べるかもしれない。学ぶというのはそうしたものだ。 

生まれる時は、どの子供も「自性愛」(auto-sexual)だ。彼は自分自身しか愛さない。彼は他の誰も愛することなど出来ない。 

それから子供は「同性愛」(homo-sexual)になる。彼は誰か自分に似た者を愛する。彼は反対の者は愛せない。 

それからなおも成長して、彼は「異性愛」(hetero-sexual)になる。今度は彼は反対の者を愛することが出来る。イエスの言っているのはそれだ。汝の敵を愛せよ・・・ん?敵というのは女性のことだ。敵というのは反対の者を意味する。それが愛の最高形態だ。 

そうして、さらにセックスが消え失せる瞬間が来る。その人は「無性愛」(a-sexual)になる。だがそれは最高の地点であって、これらの段階を通って初めて達せられ得るものだ。 

もしかすると質問者は、どこかで同性愛に引っ掛かっているのかもしれない。何も間違ったことはない。どこにいても、自分がどの段階にいるとしても、愛をもってそれに明け渡していなさい。その段階から他の段階がやって来るだろう。ひとりでに育ってゆくだろう。それを強要しないこと。 

私がここにいるのは、あなたに罪悪感を抱かせるためじゃない。私がここにいるのは、あなたの実存の中にいかなる種類の裂け目を作るためでもない。 

私はリラックスすることに、もろ手を上げて賛成だ。なぜならば、ただリラックスをすることを通じてのみ、あなたは自分が誰かを知るに至るだろうからだ・・・。 

何でもいい、楽なこと、その中に入って行きなさい。マゾヒストにならないこと。そして自分自身にトラブルを作ろうとしないこと。リラックスして、ハッピーに動いてゆきなさい。 

そしてそれが何であれ、今の今、あなたにとって易しいこと、それをやり続けるがいい。それを通して、何かよりよいことが起こるに違いない。だが、それを通してだけだ。突如として、そこから飛び出すことは出来ない。 

OSHO:「般若心経」(日本語版、めるくまーる社)より抜粋