OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

102.愛、見知らぬ者同士による出会いの試み

<OSHOの講話より> 

質問:愛するOSHO。最近、私は、自分の恋人でさえもが見知らぬ人であることが分かりかけてきました。それでもなお、2人の間にある隔たりを克服したいという、強烈なあこがれがあります。ですが、私達はまるで出会うことの出来ない平行線のようです。 
愛するOSHO、意識の世界も、幾何学の世界と同じなのでしょうか?それともこの平行線には、交わる可能性もあるのでしょうか? 

ディヤン・アミヨ、それはすべての恋人達が直面しなければならない、大きな悲しみのひとつだ。恋人達が感じる馴染みのなさ、違和感、隔たりを消し去る方法はない。 

実のところ、愛がどのように起こるかを全面的に見るならば、恋人同士は完全に反対の性格でなければいけないことが分かる。違っていればいるほど、引き寄せる力は大きくなる。違いこそが魅力となる。2人は非常に接近するが、一体になることはない。 

2人は非常に接近するため、もう一歩で一体になれるかのように感じられる。だが、その一歩は決して起こらない。それは差し迫った理由があって出来ないのであり、それは自然の法則だ。 

その逆に、非常に近づいたかと思うと、2人は互いから離れ始める。さらにさらにと離れ始める。密着によって魅力が失われたからだ。2人は互いにケンカを始め、不平を言い、意地悪くふるまったりするようになる。 

それらは、再び距離をもたらそうとする努力だ。そして距離が生まれると、2人は再び互いの魅力を感じるようになる。これは周期的に起こることだ。近づいたと思うと離れ、また近づいたかと思うと離れる。 

一体になることへのあこがれがある。だが生物としての、肉体としてのレベルにおいて、一体になることは不可能だ。セックスの中でさえ、あなた方は一体ではない。肉体のレベルにおける隔たりは、避けることが出来ない。 

あなたは言う、「最近、私は、自分の恋人でさえもが見知らぬ人であることが分かりかけてきました」それはいいことだ。それは理解が増したことによって生まれる認識のひとつだ。 

互いをよく知っていると思っているのは、子供じみた人々だけだ。あなたは、あなた自身さえも知らない。どうして恋人を知っているなどと考えられる? 

あなたの恋人も彼自身を知らず、あなたもまた自分自身を知らない。ふたつの知られざる存在、自分自身についてさえ何も知らない赤の他人同士が、お互いを知り合おうとしている。それは虚しい営みだ。それは必ず欲求不満になる。それは必ず失敗する。 

だからどんな恋人達も、相手への怒りを感じている。自分が相手のプライベートな世界へ入ることを、相手が許してくれていないと思っている。「彼は私と距離を置いている。少し離れていたがっている」そのように感じているのは2人ともだ。 

だが、そう言うのは正しくない。すべての不平は誤っている。2人はただ、自然の法則を理解していないのだ。 

肉体のレベルにおいて、2人は接近することは出来るが、一体になることは出来ない。ハートのレベルにおいてのみ、2人は一体になれる。だが、それも一瞬だ。永遠にではない。存在のレベルにおいて、2人はすでに一体だ。一体になろうと努力する必要はない。その事実を発見するだけでいい。 

アミヨ、あなたは言う、「それでもなお、2人の間にある隔たりを克服したいという、強烈なあこがれがあります」 

それを肉体のレベルで試みるならば、あなたは何度も失敗するだろう。そのあこがれが示すのはただ、愛は肉体を超えて行かなければならないこと、愛は肉体よりも高く、肉体よりも大きな、そして肉体よりも深いものを求めているということだ。 

ハートとハートの出会いでさえ、満足出来るものではない。それがどれほど甘く、どれほど莫大な喜びをもたらすものであろうともだ。それは一瞬の間起こるだけであり、見知らぬ者は、見知らぬ者に留まる。 

存在の世界を見い出さない限り、あなたは、あなたの一体性へのあこがれを満たすことは出来ない。そして不思議なのは、あなたがあなたの恋人と一体になった日には、あなたは存在の全体と一体になっていることだ。 

あなたは言う、「私達はまるで、出会うことの出来ない平行線のようです」 

おそらくアミヨ、あなたは非ユークリッド幾何学を知らないのだろう。まだ私達の教育機関では教えられていないのだから。私達の大学では、いまだに2000年前からのユークリッド幾何学を教えている。ユークリッド幾何学では、平行線は決して交わらない。 

だが2本の線を引き続けるならば、結局は交わる。最近の発見によれば、そもそも平行線を引くことなど出来ない。だからこそ2本の線は交わるのだ。2本の平行線を引くことは出来ない。 

新しい発見はとても奇妙だ。直線さえも引くことが出来ない。地球は丸いからだ。ここに直線を引いて、両端をどんどん伸ばしていくならば、それは最後には円になる。 

そして、無限大にまで伸ばされた直線が円になるなら、それは始めから直線などではなかった。それは巨大な円の一部、すなわち円弧にすぎなかった。それなら、平行線などは言うまでもない。平行線もまた存在しない。 

だから、かりに愛が平行線と同じだと言うならば、恋人同士がどこかで出会う可能性もある。おそらく年を取って、ケンカする気力もなくなった時。あるいはケンカにうんざりした時。 

同じことは何度も議論してきた、同じ問題に何度も苦しんで来た。同じ争いは何度も体験して来た。2人とも相手にうんざりしている。長い間には、恋人達は話もしなくなる。どうして話す必要がある?話を始めれば口論になる。昔ながらの口論だ。いつまでも変わらない。何度も同じことを口論して、その結末も同じだった。 

だが、そんなにまでなっても・・・幾何学の世界だったら、2人は出会っているところだが、愛に関して言うならば、それは絶望的だ。2人が出会うことはない。 

そして2人が出会えないことは、いいことだ。なぜなら、もしも恋人同士が肉体のレベルで、一体性へのあこがれを満足させられるならば、2人は決して上を見ないだろうからだ。 

2人は肉体の中にはより多くのものが、すなわち意識、魂、神といったものが隠されていることを見い出そうとはしないだろうからだ。 

愛が失敗するのはいいことだ。愛における失敗は、あなたを新たな巡礼に連れ出すのだから。そのあこがれはあなたを悩まし続け、出会いが起こる寺院へとあなたを連れて行くまで、あなたを去らないだろう。 

だがその出会いはつねに、全体との間に起こる。その中にはあなたの恋人も含まれるだろうが、木々や川、山々や星もまた含まれている。その出会いにおいては、ふたつのものだけが欠けている。 

あなたのエゴはそこにいない。あなたの恋人のエゴもまたそこにいない。そのふたつを除いた、存在のすべてがそこにあるだろう。そして、そのふたつのエゴこそが問題だった。それが2人を平行線にしていた。 

問題を作り出したのは愛ではなく、エゴだ。だが、あこがれは満たされない。肉体を超えて、寺院へと入る正しいドアを見つけない限り、どれだけ生まれ変わっても、そのあこがれは消えないだろう。 

93歳と95歳の老夫婦が、弁護士に離婚の相談を持ちかけた。「離婚だって!」と弁護士は驚く。「どうしてこんな歳になって離婚したいのだね。今はこれまで以上にお互いが必要な時だし、それにもう長く一緒にいるじゃないか。一体どうしてだね」 

「それはじゃな」と夫が答える。「わしらは前から離婚したかったが、子供が死ぬのを待っていたのじゃ」2人は本当に待っていた!子供達はみんな死に、今では何も問題がない。やっと離婚できる。それだけ待っても出会いは起こらなかった。起こったのは離婚だけだ。 

あなたのあこがれの火を燃やし続けなさい。ハートをくじかれてはいけない。あなたのあこがれは、あなたの精神性の種子だ。あなたのあこがれは、存在との最終的な合一に向けての出発点だ。あなたの恋人はその口実にすぎない。 

ディヤン・アミヨ、悲しまないで、幸せを感じなさい。肉体のレベルでは出会いの可能性はないことを喜びなさい。もしもそんなことが可能だったとしたら、恋人達には変容の可能性がなくなってしまう。 

2人は互いの泥沼にはまり、互いを破壊しただろう。そして、見知らぬ人を愛するのは悪いことではない。実際、見知らぬ人を愛した方がエキサイティングだ。 

2人が一緒にいない時には、互いを魅力的なものとする大きな力がある。一緒にいればいるほど、魅力は色褪せる。表面的なレベルで互いを知れば知るほど、興奮は失せて来る。まもなく生きることは、同じことの繰り返しになる。人は何度も何度も、同じことを繰り返す。 

世間の人達の顔を見るがいい。驚くだろう。どうしてこれらの人々は、こんなに悲しげなのか?どうしてこれらの人々の目は、すべての希望を失ったかのように見えるのか? 

その理由は簡単だ。それは同じことの繰り返しだ。人には英知がある。だから同じ繰り返しは、退屈をもよおす。退屈は悲しみを呼ぶ。明日に起こることはすでに分かっている。明後日に起こることも分かっている。墓に入るまでのことはすべて分かっている。すべては同じように続いていく。同じことの繰り返しだ。 

ユダヤ人とポーランド人が、バーでテレビのニュースを見ていた。ニュースでは若い女が断崖の上に立って、飛び降りようとしていた。ユダヤ人はポーランド人に言った。「賭けをしようじゃないか。彼女が飛び降りたら俺が20ドルもらう。飛び降りなかったら、おまえに20ドル払う。いいかい?」「いいだろう」とポーランド人は答えた。2,3分後、女は崖から飛び降りて自殺した。ポーランド人は財布から20ドル出して、ユダヤ人に渡した。 

2,3分後、ユダヤ人はポーランド人に言った。「さっき20ドルおまえからもらったけれど、正直言うと、俺は昼間にも、あの女が飛び降りるのをテレビで見てたんだ」「いやいや」とポーランド人は言った。「金は返さなくていい。実は俺も、あの女が飛び降りるのを見るのは2回目だったんだ」「なんだって!それならどうして飛び降りない方に賭けた?」とユダヤ人は尋ねた。「まさか俺は、2回も飛び降りるような馬鹿な女じゃないと思ったんだ」 

だが、人生というものは・・・世界におけるこの悲しみ、この退屈、この惨めさは、自分は不可能なことを求めていると人々が気づくならば、変えることが出来る。不可能なことを求めてはならない。存在の法則を見い出し、それに従いなさい。 

一体になりたいという、あなたのあこがれ、あなたの精神的な欲求は、あなたの本質から生まれた宗教的性格のものだ。ただ、あなたはそれの誤った箇所に焦点を合わせている。

あなたの恋人は口実にすぎない。あなたの恋人を、より大きな愛を想起させるひとつの体験にすぎないものとしなさい。それは存在全体への愛だ。 

あなたのあこがれを、あなたの内的な存在の探索に向けなさい。そこではすでに、出会いが起こっている。そこではすでに、私達は一体だ。そこでは、かつて分離した者など誰もいない。 

そのあこがれは、まったく正当なものだ。ただ、あこがれの対象だけが誤っている。その過ちが、苦しみと地獄をもたらしている。ただ、対象を変えなさい。そうすれば、あなたの生は天国のようになる。 

OSHO:The Hidden Splendor より      (OSHOタイムス、日本語版No.31)