OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

106.慈善と分かち合い

<OSHOの講話より> 

質問:サニヤシンの生において、慈善はどのような役割を演じるべきでしょうか? 

この質問はサニヤシンからではない。フィリップ・マーティンからだ。まず第1に、フィリップ・マーティン、サニヤシンになりなさい。他人に関する質問をするべきではない。それは紳士的ではない。自分自身に関する質問をするべきだ。サニヤシンになり、それから尋ねなさい。だがこの質問は意味深い。だからいずれにせよ、私はそれに答えるつもりだ。そして私には、フィリップ・マーティンは遅かれ早かれサニヤシンになるだろうという感触がある。この質問さえもある傾向を表している。 

まず第1に、世界のあらゆる宗教は慈善・・ダーナ・・をあまりにも強調して来た。そしてその理由とは、人はつねにお金にやましさを感じているということだ。慈善がこれほどまでに説かれて来たのは、少しでもやましさを感じないですむように助ける為だ。 

あなたは驚くだろう。古い英語には「ギルト」(gilt)という言葉があり、それはお金を意味する。ドイツ語には「ゲルト」(geld)という言葉があり、お金を意味する。そして金(ゴールド)もよく似ている!「お金」(gilt)「やましさ」(guilt)「お金」(Geld)「金」(gold)・・どういう訳か奥底では、お金は大きなやましさがまとわりついている。 

お金を持っている時はつねに、あなたはやましさを感じる。そしてそれは自然なことだ。多くの人達がお金を持っていないからだ。どうしてやましさを避けられるだろう?いつであれお金を持っている時、あなたは、誰かが自分の為に貧しくなっていることを知っている。いつであれお金を持っている時、あなたは、どこかで誰かが飢えに苦しんでいることを知っている。それなのにあなたの銀行預金はどんどん膨らみ続ける。 

命をつなぐ為に必要な薬が手に入らない子供もいる。薬が手に入らない女性もいる。食物が手に入らない為に死んでゆく貧しい男もいる。どうしてこれらのことを避けて通れるだろう?それらは存在することだろう。より多くのお金を手に入れるほど、これらの物事はいっそう意識の中に噴出して来る。あなたはやましさを感じることだろう。 

慈善とは、やましさからあなたを楽にする為のものだ。それであなたはこのように言う。「私は価値あることをやっている。病院を開くつもりだし、学校を始めるつもりだ。この慈善基金にも、あのトラストにもお金を出している」あなたはいくらか楽になる。 

世界は貧困の中で生きて来た。欠乏の中で生きて来た。99%の人達は、ほとんど飢えたり死んだりしながら貧しい生活を送って来た。そしてたった1%の人達が豊かさと共に、お金と共に生活して来た。彼らはつねにやましさを感じていた。その人達を助ける為に、宗教は慈善の思想を発展させた。それは彼らをやましさから解放する為だ。 

だから、まず第1に私が言いたいのは、慈善は徳ではないということだ。それはあなたの正気を保つのに役立っているに過ぎない。さもないとあなたは狂ってしまう。慈善は徳ではない。プンニャではない。慈善を行う時、あなたは何か善いことをしている訳ではない。それは、あなたがお金を貯め込む為にして来た悪行のすべてを、悔い改めているだけだ。私にとって、慈善とは偉大な特質ではない。それは良心の呵責だ。あなたは自責の念にかられているのだ。 
あなたは100ルピーを稼ぎ、10ルピーを慈善事業に差し出す。それは良心の呵責だ。あなたは少しは気分がよくなる。その悪を感じないですむ。あなたの自我(エゴ)は、いくらか余計に保護されていると感じる。あなたは神に「私は搾取していただけではありません。貧しい人々を援助してもいました」と言うことが出来る。だがこれは、何というたぐいの援助だろう?一方の手で100ルピーをひったくり、もう一方の手で10ルピーを与える。これでは利子にもならない! 

これは、いわゆる宗教的な人達によって考案されたごまかしであり、貧しい人ではなく裕福な人を助ける為のものだ。それを絶対的に明確にしておきなさい。これが私の姿勢だ。それは貧しい人ではなく、裕福な人を救う為のごまかしになっている。貧しい人達が助けられるとしたら、それは成り行きに過ぎない。副産物に過ぎない。だがそれは、慈善の目指しているところではない。 

私がサニヤシン達に説いているものは何か?私は慈善については語らない。私にとってその言葉は醜く見える。私が語るのは「分かち合い」だ。そしてその分かち合いには、全面的に異なった質がある。あなたが持っているなら、分かち合いなさい。分かち合うことで、他人を助けることになるからではない。だが分かち合うことで、あなたは成長する。分かち合えば分かち合うほど、あなたは成長する。 

そして分かち合えば分かち合うほど、あなたは多くを得る。それが何であろうとも・・・それはお金だけの問題ではない。知識を持っているのなら、それを分かち合いなさい。瞑想があるのなら、それを分かち合いなさい!愛があるなら、それを分かち合いなさい。あなたの持っているものが何であれ、それを分かち合い、周り中に広めなさい。風に乗る花の香りのように、それを広げなさい。それは特に貧しい人達と関係がある訳ではない。手の届く誰とでも分かち合うのだ。そして、様々な種類の貧しい人達が存在する。 

裕福な人は、愛をまったく知らない為に貧しいかもしれない。その人と愛を分かち合いなさい。貧しい人は、愛は知っているかもしれないが、よい食物は知らない。その人と食物を分かち合いなさい。裕福な人は何でも持っているかもしれないが、理解は持っていない。その人と理解を分かち合いなさい。彼もまた貧しい。千とひとつの種類の貧しさが存在する。あなたが持っているものが何であれ、それを分かち合いなさい。 

だが心にとめておきなさい。私が言っているのは、これが徳であるとか、神が天国で特別な場所をあなたに与えるとかいうことではない。あなたが特別扱いされ、VIPとみなされるということではない。そうではない。分かち合うことで、あなたは今ここで幸せになる。貯め込む人は決して幸せな人ではない。貯め込む人は基本的に便秘している。 

彼は貯め込み続け、くつろぐことが出来ない。与えることが出来ない。彼は貯め込み続ける。何を手に入れようが、ただそれを貯め込む。決してそれを楽しんだりしない。それを楽しむことにおいてさえ、分かち合わなければならないからだ。なぜなら、あらゆる楽しみは一種の分かち合いだからだ。 

もし本当に食事を楽しみたいとしたら、あなたは友達を呼ばなくてはならない。本当に食事を楽しみたいのなら、客人を招待しなければならない。さもなければ楽しむことは出来ない。本当に酒を楽しみたいのなら、どうして自分の部屋でひとりで楽しめる?あなたは友達を、他の飲んだくれを見つけなければならない。分かち合わなければならない! 

喜びはつねに分かち合いだ。喜びはひとりでは存在しない。どうしてひとりで、完全にひとりきりで幸せでいられるだろう?想像してごらん!完全にひとりきりで、どうして幸せでいられるだろう?それは無理だ。喜びとは関わり合いだ。共にあることだ。実際、山に籠ってひとりの生活を送っている人達でさえ、ひとりではなく「存在」と分かち合っている。星や山や鳥や木々と分かち合っている。彼らはひとりではない。 

ちょっと考えてごらん!マハヴィーラは12年間ひとりで密林の中にいた。だが彼はひとりではなかった。私は断固として言うが、彼はひとりではなかった。鳥たちがやって来て、周りで遊んでいた。動物たちがやって来て、周りに坐っていた。木々は彼に花を降り注いでいた。星は巡り、太陽は昇っていた。昼も夜も、夏も冬も、すべての年月が喜びだった! 
そう、彼は人間からは離れていた。そうしなければならなかったのだ。なぜなら、人間はあまりに多くの害を彼になしていたからだ。 

それで彼は、癒されることが出来るように離れている必要があった。それはただ、人間が彼を害し続けないよう、一定の期間彼らを避ける為だった。それゆえサニヤシン達は、時にひとりの状態へと入ってゆくことがある。ただ傷を癒す為に・・・そうでもしないと、人々はあなたの傷口をナイフで突っつき続ける。そしてその傷が生々しいままにしておこうとする。彼らはあなたが癒されるのを許さない。自分達がしたことを元通りにする機会を与えようとはしない。 

12年の間、マハヴィーラは沈黙していた。立ち、坐り、岩や木と共にあった。だが彼はひとりではなかった。彼は森羅万象に取り巻かれていた。森羅万象が彼に融合していた。そうして彼の癒される時が来た。その傷の癒える時が来た。そして彼は、もう誰も自分を害することは出来ないことを知った。彼は超えていった。どんな人間も、もはや彼を傷つけることは出来ない。人間と関わる為に、彼がそこで達成した喜びを分かち合う為に、彼は帰って来た。 

ジャイナ教の教典は、彼が世間を離れて行ったという事実だけを語り、彼が世間に帰って来たという事実を語ろうとしない。それは物語の半分であって、そのすべてではない。仏陀は森へ入って行った。だが彼は帰って来た。それを得た時、どうしてそこに居続けることが出来るだろう?あなたは帰って来て、それを分かち合わなければならない。 

そう、木々と分かち合うのは素晴らしい。だが木々は大して理解は出来ない。彼らはまったく口がきけない。動物たちと分かち合うのは素晴らしい。彼らは美しい。だが人間の対話の美しさは、他のどこでも見つけることは出来ない。その応答、人間の応答!彼らは帰って来なければならなかった!世間に、人間達のもとに。その喜びを、至福を、歓喜を分かち合う為に・・・ 

「慈善」とはよい言葉ではない。それは非常に重たい言葉だ。私が語るのは「分かち合い」だ。私のサニヤシン達に、私は分かち合うようにと言う。「慈善」と言う言葉には、何か醜いところもある。あなたは優越した位置にあり、相手はあなたより低い位置にあるように見える。相手は物乞いのように見える。あなたが相手を助けているように見える。相手は困窮しているように見える。それはよくない。まるで相手が自分よりも下位にあるかのように見えることは・・・あなたは持っていて相手は持っていないと見ることは・・・よいことではない。それは人間的ではない。 

分かち合いは全面的に異なる展望をもたらす。それは相手が持っているかどうかの問題ではない。あなたが溢れんばかりに持っているということだ。分かち合わずにはいられないのだ。慈善を行う時、あなたは相手が感謝することを期待する。分かち合う時、あなたは相手に感謝する。あなたのエネルギーを注ぐことを彼が許してくれたことに対して・・・それは溢れんばかりにあなたに与えられ、いっぱいになっていた。あなたは感謝を感じる。 

分かち合いは、あなたの充溢(じゅういつ)からのものだ。慈善は他者の貧困の為のものだ。分かち合いはあなたの豊かさからのものだ。そこには質的な違いがある。いいや、私は慈善ではなく、分かち合いを説く。分かち合いなさい!あなたが持っているものが何であれ、分かち合いなさい。するとそれは成長してゆく。それは根本的な法則だ。与えれば与えるほど、あなたはさらに多くを手にする。決して与えることにケチにならないように・・・ 

OSHO:The Tantra Vision Vol.1(1977)(日本語版「タントラ・ヴィジョン1」(星雲社)より) 
(*原書は現在、上下巻がそれぞれ The Tantra Experience と Tantric Transformationとして出されている)