OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

107.情欲や執着も愛の一部か?

<OSHOの講話より> 

質問:情欲や執着も愛の一部なのではありませんか? 


愛に情欲があったら、愛は地獄になるだろう。愛に執着があったら、愛は牢獄になるだろう。情欲なき愛は天国になる。執着なき愛は、それだけで神性そのものだ。 

愛にはふたつの可能性がある。あなたは、愛の中に情欲や執着を抱くことがある・・・それは愛という名の鳥の首に石を縛りつけ、飛べなくさせているようなものだ。 

もしくは愛という名の鳥を、黄金の籠の中に入れるようなものだ。その籠がどんなに高価でも・・・ダイヤモンドや宝石がちりばめられていようと・・・籠はやはり籠であり、鳥の飛ぶ力を奪うだろう。 

愛から情欲と執着を拭い去り、愛が純粋無垢で形を持たない時、 
愛を差し出し、そして求めず、ただひたすら愛を与える時、 
乞食でなく皇帝のような愛である時、 
愛が受け容れられたことを喜び、愛の取り引きをせず、何の見返りも求めない時・・・ 

その時あなたは、この愛という名の鳥を大空へ解き放つだろう。その翼に力を与えるだろう。その鳥は、永遠へと旅立つことが出来る。 

愛は人を転落させもするし、愛は人を高みへと引き上げもする。すべては、あなたが愛のもとに何をしたかによる。愛はとても神秘的な現象だ。 

それは扉だ・・・片側は苦しみで、もう片側は至福。片側は地獄で、もう片側は天国。片側はサンサーラ、つまり生死の車輪であり、もう片側は解脱だ。愛は扉だ。 

情欲と執着に満ちた愛しか知らなかったとしたら、あなたはイエスが「神は愛である」と言うのを理解出来ないだろう。サハジョが愛の歌を歌い始めると、居心地が悪くなるだろう・・・ 

「よく分からない!私だって愛したけれど、惨めになって戻るばかりだった。私は愛の名のもとに、ちっとも花を咲かせてくれない棘(いばら)の茂みを収穫しただけだった」 

他の愛は絵空事のように見える。献身となる愛、祈りとなる愛、解放となる愛は、単なる言葉遊びに見えてしまう。 

あなたも愛を知ったことがある・・・だが、そのたびに情欲と執着に満ちた愛しか知らなかった。あなたの愛は本当の愛ではない。あなたの愛は、情欲と執着とセックスを隠すカーテンにすぎなかった。 

外側ではそれを愛と呼ぶが、内側では何か別のものだ。異性と恋に落ちた時、あなたは何を望んだだろうか?・・・あなたの望みは性的で、愛は外側の飾りにすぎなかった。 

内側を深く探ると、あなたの愛はただの言葉にすぎず、その中で性的な欲望が燃えているのが分かるだろう。だが、そうした炎を直接表現しても受け容れられないから、外交手腕が必要だ。だからあなたは、手玉にとりたい女性に対して、君の魂を愛しているよと言う。 

自分の魂を知りもしないのに、どうして他人の魂が分かるのかね?だが、肉欲に満ちた人は魂について語る。彼らの欲望は人の身体を弄ぶことなのに、彼らは内側の美について語る。 

だとしたら、愛を通して神を体験したサハジョ、ダヤ、ラビアの言葉を聞いても、どうして信じられるだろう?あなたは愛の罠にかかっているだけだ。でも、愛そのものに責任はない。責任はあなたにある。 

腕のいい医者だったら、毒からでも薬を作れる。しかし彼が何も知らなかったら、甘露でさえも毒になる。毒は単に毒ではなく、甘露も単に甘露ではない・・・あなたがどう用いるか次第だ。ときには毒が命を救い、ときには甘露が命を奪うこともある。 

「愛」という言葉は、充分に意味を伝えていない。愛は甘露にもなり得るし、毒にもなり得る・・・それはあなた次第だ。愛の中に欲望や執着があれば毒になるだろう。 

愛を性的な欲望を満たす手段にするなら、愛の中に肉体の低次元な満足しか求めないなら、愛は葛藤と苦悩を呼ぶだろう。痛みや苦しみばかりを呼ぶだろう。それは鎖をもたらす。 

あなたは様々な夢を描いていたが、その夢は決して満たされなかった。あなたは様々な幻想や儚(はかな)い願望を思い描き、大きな虹を見ていたが、近づくたびにみな消えてしまった。 

虹はすべて泥に落ち、夢はすべて偽りになってしまった。太陽の中で燦然と輝く彼方の黄金の城は、近づくたびに牢獄へと変わってしまった。 

それは愛の落ち度ではない。愛の名のもとに、あなたは何か別なことを試みていた。それは贋金だ。 

だから、愛は執着から解放されるべきだ。愛が束縛となってはいけない、愛は自由であるべきものだ。 

あなたの愛する人を自由にさせなさい。愛する人を自由にすれば、自分が奴隷にならずにすむ。すると、誰もあなたを奴隷に出来ない。 

しかしあなたは愛する人を奴隷にし、そのまわりに壁を築きたがる。その手に鎖を繋ぎたがる。しかしその手に鎖を繋ぐなら、彼もあなたの手に鎖を繋ぐだろう。 

この真理を忘れてはならない・・・あなたが生から受け取るものは、すべて自分が生に与えたものだ。何であれ、あなたは自分が与えたものを受け取る・・・これが過去の行為、すなわちカルマの理論の全容だ。 

愛の束縛を受けたことがあるなら、それは誰かを愛によって奴隷にしたいと思った証拠だ。 

愛ゆえに人を自由にさせ、期待なき愛を注ぎ、愛を注いで見返りを求めず、条件や駆け引きのない愛を傾け、愛を差し出して受け容れられたことに感謝するなら、それで充分ではないかね? 

あなたの愛は拒絶されることもあり得た。すると、ゆっくりゆっくり愛が上昇し始めるのが分かるだろう・・・愛欲は遥か下の方に置き去りにされる。 

すると、愛欲の籠から解放された愛の鳥は、高く高く舞い上がることが出来る。そして、あなたはまったく新しい次元へと成長していける。あなたの意識は新しい世界に入る。 

あなたは「情欲や執着も愛の一部なのではありませんか?」と尋ねている。それはあり得る。だが、そうである必要はない。 

普通はそうだ。100のうち99はそうだ。だが、たいしたことはない。たとえ一回でもそうでないのなら、その一例が充分な証明となる・・・あなたが望めば、他の99回のせいで、1回がそうなる必要はない。 

もし一粒の種が割れて木になれるなら、すべての種が割れて木になれる。そうならないとしたら、それはまた別の問題だ・・・それらはふさわしい土壌にないのかもしれない。 

エスは言っていた、「一握りの種を蒔きなさい・・・ある種は歩道に落ちる。人々は行き交い、その種は芽を出さないだろう。ある種は道端に落ちる。そこで芽生え、少しは成長するかもしれないが、動物が食べたり、子供が引き抜いたりするかもしれない。 

ある種は石や岩の上に落ちる。それは決して芽を出さない。ある種は肥沃な土地に落ちる。その種は芽を出し、成長し、木になる・・・その木には花が咲き、果実が実るだろう」 

ときおり種子は芽生えて仏陀となり、ファリッドとなり、サハジョとなる。彼らは自らの開花に至る。それがあなたの種子に起こっていないなら、少し注意を払いなさい・・・ 

あなたは岩だらけの間違った場所か、岩がないとしたら常に人が行き交う場所に落ちてしまったのかもしれない。あるいは、人の往来しない場所にあるとしても、保護も囲いもないのかもしれない。 

正しい土壌を見つけなさい・・・そうすれば、仏陀やクリシュナの中に生まれたのと同じものが、あなたの中にも生まれるだろう。 

それはあなたの可能性だ。すべての人の可能性だ。存在はどの人にも、これに満たない可能性を授けてはいない。 

存在そのものが、あなたを創造した。存在は、存在以外の何ものも創造出来ない。 

神性はあなたを創造した。それはあなたの生の源泉として、可能性として、あなたの中に潜んでいる。

 

愛は解放になり得る。それはすべての愛の可能性であり、すべてのハートの可能性だ。 

でも気をつけなさい・・・執着を断ち切ることだ。なのに、あなたは執着の網を広げ続けている。 
あなたは、愛とは何かを忘れてしまい、情欲を愛と呼び始めている。 

スーフィーの古い話がある・・・ 

山並みの麓に、森に囲まれた村があった。そのため村人達は、もっぱらひとつの技術を磨いてきた・・・彼らは森から木を切り出し、それで像や家具や、さまざまな家財道具を作っていたのだ。 

その村人はみな大工になった。木材しか手に入らないし、それしか材料はなかったからだ。 
そして村人の唯一の商売は、その谷を通り過ぎる旅人に木工品を売ることだった。 

一度、旅人の一行が通りかかったことがあった。彼らは、人々が住んでいるこの谷の真上、山の頂に別の村があると話した。 

「あんたがたの品物を売りに行ったことがあるかね?」と彼らは尋ねた。「あの人達はとても裕福だから、あそこなら品物が売れるだろうよ」 

そんなことは聞いたことがなかった。というのも、谷に住む人は山頂のことなど考えないからだ。彼らは谷にいて幸せだったし、貧しさに満足していた。 

そして山に登るのは・・・山登りは骨折りだ!山の頂に住む人が、ときおり間違って谷に下りて来ることはあり得る。でも谷に住む人は、間違って山に登りはしない。下るのは簡単だが、昇るのは困難だ。 

旅人達から何回も同じ知らせを受け取るうちに、村の若者達の何人かが、木工品を持ってそこまで行こうと決心した・・・「もし彼らが裕福なら、僕らの品物が売れるだろう」 

若者達は登り始めた。山登りは困難だった。以前に登山の経験がなかったから、なおさら大変だった。彼らは谷で楽な生活をしていたのだ。こうして、彼らはとても苦労しながら山を登った。 

彼らは、本当に信じていた訳ではなかった・・・ただの噂だろう・・・「どうして高いところに人が住めるものか?山登りってものはこんなに大変なのに、どうやって高いところに住めるというのさ?」 

彼らは疲れてへとへとになって、何とか頂に辿り着いた。何日も旅をして、彼らはやっと山の頂に辿り着いた。人々の言っていたことは正しかった・・・ 

町は壮大だった!その町の寺院には、黄金の尖塔がたくさんあった。寺院は陽の光で実に美しく輝き、その美しさは若者達が夢にも想像したことのないものだった。 

彼らは市場で店を開き、人々を呼び込んだ。彼らは工芸品を見せたが、人々は笑った。誰も買おうとはしなかった。とうとう彼らはどうしたことかと質問した。 

人々は言った、「この木工品をどうするっていうのさ?ここには金鉱や銀鉱があって、私たちは黄金の像を作る。木像なんて何になるのさ?」 

木より高価なものがこの世にあること、自分達の木像より高価な像があることが、若者達には信じられなかった。彼らはひどく気分を害した。すでに惨めになっていたが、今度は怒り出した。彼らは人々の振る舞いに狼狽していた。 

その町の人々はさらに言った。「寺院においで、私たちの像を見せよう」だが彼らはひどく狼狽し、また怒っていたので、寺院の中に入りたいとは思わなかった。彼らは品物を持って谷に帰って行った。 

谷の人々が彼らに「どうだったかい?」と尋ねると、彼らは言った。 

「人は確かに住んでいたよ。でも、やつらは実に性悪だ。それから、ひとつ気をつけろ、ひとつ避けることだ・・・そいつは黄金と呼ばれている。黄金は僕らの最大の敵だ。まだ、それがどんなものか見ていないがね。そいつらは僕らにひどい仕打ちをして、ひとつも像を売れなかったんだから!」 

谷の人々は、もう山には近づかないそうだ。そして谷では、山の頂に住む人達は友達ではなく敵だと言っている・・・「やつらは友達じゃない」そして「黄金と呼ばれるものには気をつけろ。それはわれらの文化を脅かすものだ」と。 

多少の違いはあれ、それが愛の谷に住み、まだ愛の頂を知らない人々すべてに共通する状況だ。愛の頂には黄金がある。愛の谷には欲望が広がり、ありふれた木工品しかない。 

だが、欲望と情欲の中で生きている人は、この黄金について耳にすることすら恐れる。彼は言う・・・ 

「それは敵のものだ。僕らは愛欲の中にいて幸せだ・・・より気高いものについてなんか話さないでくれ。僕らの眠りを邪魔してくれるな。僕らの夢を破らないでくれ」 

でも、私はあなたに言おう。あなたの生き方はまるで、誰かに宮殿をプレゼントされながら、内側に入ることなく生涯をそのポーチで過ごし、ポーチしか存在しないと思っているかのようだ。 

ポーチは入り口にすぎない。内側へ深く進めば進むほど、内側へ入っていけばいくほど、至福や黄金の極みが、さらに用意されているだろう。愛欲は愛のポーチでしかない・・・

そこを動くことだ。そこで生きてはいけない。いいかね、ポーチを通り過ぎるのは、何も悪いことではない。私はポーチを非難するつもりはない。宮殿に入りたければ、このポーチを通ることだ・・・ 
でも、そこで立ち止まってはいけない。そこに家を作ってはいけない。そこに引っ掛かってはいけない。それが人生の全てだと思ってはいけない。 

セックスを通ること・・・あなたはそうする必要があるし、それは人生の避けられない部分であることは確かだ。それを越えていく為に、それを通りなさい。階段を使ったり、橋を渡ったりして、向こうへ行くのと同じように。 

あなたの内側には、驚くべき可能性が隠されている。あなたは愛を、セックスや情欲や執着としてとらえていた。あなたは地獄のような人生しか知らなかった。 

でも、ちょっと考えてごらん。このような地獄にありながら、あなたはときどき至福の一瞥を得ているだろう。だとしたら、天国については何と表現しよう? 

セックスの中にさえ、あなたは至福の一瞥を得る。ポーチにいても、宮殿の何かは明らかにされる。宮殿で香が焚かれていたら、香りは外へ運ばれ、ポーチにも届く。 

宮殿の中にやすらぎが行き渡っていたら、ポーチにも清涼感は伝わって来る。宮殿の中に音楽があれば、メロディーは確かにポーチでも聞くことが出来る。 

セックスの中にも、光明のこだまはいくらかある。セックスの中にも、神性の影はいくらかある。だがその影は、せいぜい湖に映る月影のようなものでしかない。 

それはただの影だ・・・湖面が少しでも乱れたら、影は壊れてしまう。それは決して本物ではないが、それでも本物の影ではある。セックスの中には、湖面に浮かぶ愛の影がある。 

それは、身体とマインドという湖面に浮かぶ影だ。見上げてごらん・・・湖面の影がとても美しいのを発見したら、月を見上げてごらん。それが影の正体だ。 

性神秘家、ラビアが家の中で座っていた。ハッサンという名の神秘家が、彼女の家に客として訪れていた。朝、太陽が昇った。ハッサンは家を出て大声で叫んだ。 

「ラビア、中で何をしている?出て来てごらん、素晴らしい日の出だ。この神の創造物を見てごらん!」 

ラビアは言った、「ハッサン、あなたこそ内側にお入りなさいな。あなたは外で神の創造物を見ています。私はここ内側で、神その人を見ているのです」 

創造物は美しいが、それを創造主と比較できるだろうか?歌は美しい。そこには歌い手の実存の香りが込められている。この、いたるところに見られる彫像は実に美しい。だが、それは芸術家の創造のほんの一部でしかない。 

芸術家は彼の絵よりも優(まさ)っている。創造主は創造をやめることがない。創造主からは果てしなく創造が生まれ、それでも彼は同じままだ。 

イシャヴァーシャ・ウパニシャッド曰く・・・「全体が全体より取り去られるとき、残るものは全体なり」 

神性に関しては、果てしなく創造を行っても、それはずっと同じままであり、同じ全体だ。その永遠性は不変であり、減ることがない。 

そして、この創造物は本当に美しい。ちょっと考えてごらん!宮殿の外にそれほどの喜び見つかるのなら、内側はどれほどさらに素晴らしいことだろう。 

情欲と執着に満ちた愛の中にいても、偶然メロディーが聞こえたら・・・想像してごらん・・・ 

あなたの愛が完全に純粋で、情欲と執着という不純さが消え失せる時、ゴミや汚れや不純物が炎の中で焼かれて純金ができる時、それはどのようであるか。 

まさにその考えが、あなたをわくわくさせ、あなたは喜びに溢れるだろう。 

それは、あなたを新たな誘(いざな)いに満たす。新たな探求が、あなたに芽生えるだろう。 

その探求の名が宗教だ。何よりも純粋な愛を知る探求こそが宗教だ。 

そして、何よりも純粋な愛こそ神性だ。 

OSHO:「シャワリング・ウィズアウト・クラウズ・・・女性の覚者・サハジョの詩」(市民出版社)より