OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

108.男性と女性の質問の違い

<OSHOの講話より> 

質問:男性の質問と女性の質問は違いますか?彼らの尋ね方に違いはありますか? 

もちろん、ある!質問というものは内側から生まれるものだから、必ずある。あなたの質問は、あなたについての情報を伝える。あなたの質問は、「あなたの」質問だ。それに形を与え、姿を与えるのはあなただ。女性は確かにある種の尋ね方をするし、男性はまた違う尋ね方をする。 

私の観察によると、第一に女性は質問しない・・・それが彼女達のやり方だ。彼女達はめったに質問をしない。より理解しようと努め、あまり質問することがない。男性はたくさん質問しようとし、あまり理解しない。たくさん質問すると、自分はより多く理解しているに違いないという幻想が生まれるからだ。女性はあまり質問しないから、自分は何も理解していないのだという幻想が生まれる。「なぜ彼女達は質問しないのか?」だが実のところ、それは正反対だ。 

男性は、質問で身を固めて私のもとにやって来る。よくあることだが、男性は私のところに来て言う・・・彼らに「何か質問はあるかね?」と聞くと、彼らは「質問はいっぱいあります。どこから始めていいか分かりません。お尋ねしますが、どうやって質問したらいいでしょう?どこから始めたらいいでしょう?私には分かりません」と言う。女性に「何か質問はあるかね?」と聞くと、彼女達は「いいえ、質問はありません。何の質問もありません。私達はただ、あなたのそばに座る為、ダルシャンの為に来たのです」と言う。 

男性は質問することが出来ない。それは、彼の中にとても多くの疑問があるからだ。そして、このひしめく疑問のせいで質問が出来ない。女性もまた質問をしない。でも、それは疑問がひしめいているからではなく、質問することがないからだ。 

男性がやって来てそばに座ると、私には彼の頭の混雑ぶりが見える・・・大変な思考のざわめきが。もし男性の頭を開いたら、気違い屋敷が飛び出し、狂人達がこぞって逃げ出すだろう。まるで幽霊達が牢屋から解放されたように、思考があちこちにばら撒かれることだろう。男性は、耳を傾けるとしても頭で聞く。彼らは、どんなやり取りも頭を通す。頭をちょん切らないかぎり、彼らのハートとの関係は生まれない。 

女性がやって来ると、彼女の頭にはあまり騒音がない。彼女のハートは、どきどき、わくわくしている・・・女性は感情に圧倒されている。彼女達は多くを聞かず、より多くを飲み干す。彼女達は瞳の方がよく動き、思考はあまり動かない。 

私はこんな体験をしたことがある・・・男性が私に恋をすると「あなたの考えが好きだから、あなたを愛するのです」と言う。女性が私に恋をすると「あなたを愛します。だからあなたの考えも好きです」と言う。これが違いだ。しかも大きな違いだ。男性は「あなたの考えが好きだから、あなたのことを愛します」と言う・・・考えが最初で、愛は二の次だ。女性は「あなたのことを愛してしまったから、あなたの考えも正しいと思います」と言う・・・愛が最初で、考えは二の次だ。 

彼らの性格はお互いに異なり、まったく別だ。だから女性は、偉大な経典も偉大な哲学も生み出さなかった。男性は偉大な経典や、大きな宗派や、偉大な哲学を生み出した。だが、男性より女性の方が楽しげに生きて来たように見える。今では心理学者さえ、この事実を認めている。 

知ったら驚くだろうが、精神病院にいるのはたいてい男性で、女性は少ない。刑務所にいるのはほとんどが男性で、女性の数はほとんどゼロに等しい。男性は精神病にかかりやすく、女性はかかりにくい。女性が自殺を企てる頻度は、男性ほど高くない。女性は何度も自殺すると言うが、自殺しない。 

女性はよく「死んでやるわ!」と言う。時には薬を飲んだりするかもしれないが、適量だけだ・・・朝にはケロッとしている。本当は死にたくなんかないのだ。たとえ死ぬと言っても、それは生きることへの深い願望ゆえだ・・・人生が自分の期待どおりでないから、死のうとしているのだ。だが、本当は死にたくない。女性はとても深く生に根ざしている。 

男性は、どんな些細なことでもすぐ死のうとする。そして、男性が何かを実行するときは、完璧に成功させる・・・彼はあっさり死んでしまう!彼は中途半端な努力をしない。彼の計算は完璧で科学的だ。彼は失敗しないよう手筈を整える。女性が死ぬと言ったら、あまり気にしなくていい。何の心配もいらない。男性が死ぬと言ったら、少し考えるべきだ。よくあることだが、男性は何も言わず、あっさり自殺してしまう。女性は死ぬと言い続けながら、生き続ける。 

女性は、男性より身体の病気にもかかりにくい。というのもマインドが少しやすらいでいて健康なら、身体も健康でやすらぐからだ。女性は男性よりも長生きをする。平均すると5年から7年は長生きだ。男性が70年生きるなら、女性は75年生きる。だから私は結婚制度を改革すべきだと唱えるのだ。私達はまだ、結婚する時は男性の方が3,4歳年上であるべきだと言っている。これは絶対に間違いだ。少女は少年より4,5歳年上の方がいい。そうすれば、2人ともほぼ同じ時期に死ぬだろう。さもないと、世の中は未亡人で溢れてしまう。 

今だって、男寡(やもめ)より未亡人の方が大勢見つかる。インドでは、いたるところで未亡人を見かけるだろう。寺院に座っていたり・・・それは、彼女達が男性より5年から7年長生きするからだ。少女が5歳から7歳年上だったら具合がいい。そうすれば2人ともほぼ同じ時期・・・数か月の違いで死ぬだろう。人生はより良くなる。 

しかし、これは男性の虚栄心だが、男性は自分の方が勝(まさ)っていると思いたい。だから、結婚するときは年長者でありたいと願う。彼はすべてにおいて勝りたい。年齢ですら勝りたい・・・歳がいくつだろうと、勝れる訳ではないのに。 

女性と恋に落ちると、男性はいつも自分の母親をその女性に求め始める。彼は成長していない。少女は幼くても成長している。なぜなら、幼い少女が初めてする遊びは、お母さんごっこだからだ。彼女はなかなか気がきく。小さな人形に服を着せて、お母さんごっこをする。幼くても少女は母親であり、年老いていても男性は子供だ。男というのは子供だ。

それにしても、エゴやプライド!・・・彼はすべてにおいて勝っていなければならない。花嫁の背が花婿より高いと、彼はがっかりするだろう。彼はとても気まずい思いをする・・・男性は女性より背が高くないといけない。何事においても立派でないといけない。男性の内側のどこかで、劣等感が働いている。 

その劣等感は心理学者によると、女性は生を授けられるのに、男性は同じことが出来ないからだそうだ。これが劣等感だ・・・女性は子供を産めるし、生を授けることが出来る。存在は彼女を直接使う。彼女は直接的な乗り物だ。男性は偶然の産物のように見える。 

男性の代わりはあり得る・・・注射を1回打つだけでも、同じ仕事は出来る。彼は必ずしも必要ではない。でも母親は欠かせない。なぜなら、母親はその身体から子供を産むからだ。彼女の血と髄と骨が新しい生命をつくり出し、新しい生命を誕生させる。女性はとても満ち足りて見える。そして母親になると、さらに大きな充足感が彼女のまわりを取り巻く。なぜなら彼女は、ある意味で神性の乗り物となったからだ。 

科学的に考える人達が言うには、男性はひとえに内側のこの欠落を埋め合わせるために、懸命に走り回っている。女性は、絵画を創造したり、彫刻を創造したり、詩をつくったりする必要がない。物語や、小説や、戯曲や、映画を書く必要がない。ロケットで月へ急ぐ必要もない。彼女達は何もしなくていい。それは、存在が素晴らしい創造性を授けていて、彼女たちは深く満ち足りているからだ・・・何かを創造する必要性は満たされている。 

だが、男性は数限りなく創造しなければならない。男性はこんなことを言う、「悩む必要はない・・・子供が産めないなら、彫像をつくろう。物をつくり、詩を書こう」だが、どれほど美しい詩でも、子供の瞳の中にある詩より美しいものはあり得ない。また、どれほど素晴らしい大理石の像でも、決して生き生きした子供には及ばない。男性は月や火星に到達するだろう。しかし、決して母性を体験できない。 

男性の生に充足感が訪れるのは、自分の中から自分自身を産んだときだけだ・・・仏陀や、クリシュナや、マハヴィーラのように。だから私達は、悟った者のことをドゥイジャ、「二度生まれた者」と呼ぶ。彼らは自分自身を誕生させた。それは再誕生だ。ひとつの誕生は父母を通して起こる。二度目の誕生は、瞑想や光明を通して自分自身を誕生させた時だ。その時、彼らは再び生まれる。 

女性と同じくらいやすらげるのは、覚者(ブッダ)しかいないことが分かるだろう。あなたは仏陀の像に女性らしさを感じるだろう。仏陀の生には、女性の生と同じ丸みがあった。同じ充足感が、同じ感謝の気持ちが、満足感があった。確かに、女性の道と男性の道は異なる。これらの道を正しく理解できれば、事はとても簡単で、旅も容易になる。不要にさまよったり、引っ掛かったりすることも避けられる。

 

そもそも女性は質問をしない・・・たまに質問をするとしたら、彼女の質問は実際的なもので、形而上的なものではない。これと同じような内容の質問がもうひとつある。 

質問:昨日の講話のあと、私は大勢の女性サニヤシンに、サハジョについての質問を書いてくれと頼みました。でも、誰もが微笑むだけでした。彼女たちは「いいわ」とも言わないのです!なぜ女性は、光明を得た女性についてすら、質問することに興味がないのでしょう? 

男性の関心事は質問すること、知ることだ。在ること、生きることが女性の関心事だ。幼い子供たちにも、違いが見て取れるだろう。女の子が遊んでいると、そのゲームは創造的だ。彼女達は何かをつくり出す。男の子のやり方は破壊的だ・・・彼らのゲームでは物を壊す。おもちゃの車を渡すと、男の子はすぐ壊して中に何があるか見ようとする・・・それがどのように出来ているかを知り、疑問を持ち、見ようとする好奇心を持つ。時計をもらうと分解してしまう。何でも壊してしまうんだから・・・とあなたは言うだろう。 

でも、そのいたいけのない子供は、ただ科学的な究明をしているだけなのだ!彼はその動き方を理解しようとしている。蟻が動いている・・・彼は親指でそれを潰してしまう。暴力的なのではない。彼は暴力的になることに興味はない。蟻は彼に何も悪いことをしていない。彼はただ、中に何があるのか、何が蟻を動かしているかを見ようとしていただけなのだ。 

男性は知りたがり屋だ。彼は知りたい。いたるところを探したい。何かカーテンで隠されているところがあると、引き上げて、そこにあるものを見たがる。女性の好奇心は違う。彼女の興味は知ることではなく、生活することだ。それはとても実際的な興味だ。女性は、自分の生活にとって絶対に不可欠なことしか質問しない。 

女性は私のところに来て、神は存在するか否か、天国と地獄は存在するか否か、誰が宇宙を創造したか、といった質問はしない。これらはみな男性の質問だ。ときどき女性は何か質問があると、「マインドが不満な時は、どのように満足をもたらすのですか?」とか、「怒りがやって来る時に、どうしたら穏やかさを見出せますか?」とか「私の人生は無益に過ぎていきます。どうやって意味をもたらしたらいいのでしょう?」とか「どのように祈りや礼拝を生活の中に取り入れたらいいですか?」などと質問する。 

彼女の質問は現実的だ・・・そして長い目で見ると、現実的なのは賢明で、より知性的だということに私は同意する。いつ誰が世界を創ったか、創られた日付はいつか、なぜ創られたかなどを知って、何を得ようというのかね?こういったことをすべて知って、何を得るというのかね? 

昨日の晩、私はユダヤ教のラビの伝記を読んでいた。彼が口を開こうとするたびに、1人の男が立ち上がって質問をした。ラビはその男にうんざりして、愛想も尽き果ててしまった!彼は手におえない男で、ありとあらゆる奇妙な質問をするのだった。ある日ラビは言った、「神は世界を創造された」その男は立ち上がって尋ねた、「いつ世界を創造されたんですか?なぜ、それより前に創造しなかったんですかね?」その質問は、まったくもっともだ。しかしラビが口を開く前に、質問者は再び尋ねた。 

「それから、なぜそれ以前に創造しなかったのか分からないなら、世界を創造してから彼が何をしていたか教えてくださいよ。質問はどれも関連しているんです。というのも、もしあなたがキリスト教徒たちの言うことを認めるなら・・・つまり4004年前の月曜日、神は創造を始め、土曜日にその仕事を完成させ、日曜日は休んだとね。だとしたら、4004年より前は何をしていたんでしょうね?ただ座って何もしてなかったんでしょうか?疲れてしまったわけではないんでしょうね?頭が変になったわけではないでしょうね?何かしらやっていたに違いありませんよ。たとえ座ってくつろいでいても、人は何かしらやっていますからね・・・新聞を読んだり、ラジオをつけたり、でも神にはラジオすらなかったでしょう。じゃあ、何をしていたんですか?」 

「それに」と男は言った。「あなたは知らないかもしれませんな。みんな遠い昔に起こったことですから。でも、それから彼は何をやっていたんでしょうね?世界は6日間で創造され、彼は7日目に休息し、そしてそれから・・?」ラビは言った。「いま彼は、君のように馬鹿げた質問をする人たちの始末書をつけていて、どの罰を与えたらいいかを決めるのに忙しいのだ」 

意味のない質問というものがある。だが、どんなに意味がなかろうと、男性にはそれが意味あるものに見える。そして意味ある質問というものがある。どんなに世俗的に見えても、男性にはどんなに平凡に見えても、そこには素晴らしい輝きがある。つまるところ、好奇心では不充分だ。探求心が必要だ。それについて知るだけでは何も起こらない。それになることによって、はじめて何かが起こる。 

生は変容されるべきだ。必要なのは、新しくなり、光に満ちることだ。灯されていないロウソクに、火を灯すことだ。だから、この質問はあまり重要ではない。重要な質問はただひとつ・・・内側の灯されていないロウソクを、どうしたら灯すことが出来るか?私の目は閉じているが、どうしたら開けることが出来るか?私の眠りは深いが、どうしたら破れるか?どうしたら、自らの灯明となることが出来るのか? 

男性の質問と女性の質問には違いがある。だが、男性が自分の生を変容することに完全に没頭したら、彼の質問も女性の質問と同じように現実的になると私は言おう。また、ときには男性の病に影響されて、男性のような質問を始める女性もいる。私が強調したいのは、現実的であることだ。それによって、あなたの生が変容されるようなことだけを尋ねなさい・・・自分の生を意味深く変えられることだけを。 

OSHO:「シャワリング・ウィズアウト・クラウズ」(日本語版)第2章より(市民出版社)