OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

109.ガチョウは出ている

<OSHOの講話より> 

質問:人々が相変わらずの古いゲームを、何度も、繰り返しやっているのを見ると、私の目は、古臭くてうんざりしたものに感じ、私のハートは嫌気がさして、冷笑的になることがあります。それは私が、自分自身のゲームやトリックを、ますます目にするようになったからだと思います。 

そして頭の中で、狂わせるようなあなたの声が聞こえます。「それでオーケーだ。あなたはただ、自分自身を受け容れ、愛さなくてはならない。何も問題はない」 

「ただ」ですって? もしあなたが、この言葉をもう一度口にしたら、私は悲鳴を上げると思います。ゴールが存在する、と思っていた時の方が、私は、幸せではなかったのでしょうか? 


質問は、マ・デヴァ・アナンドからだ。これは意義深い。この質問は、ここにいるほとんど全ての人のものだと言える。耳を傾けなさい。それはまさに、全ての探求者が、通り抜けなくてはならない状況を示している。 

まず、アナンドーは言う。「人々が相変わらずの古いゲームを、何度も、繰り返しやっているのを見ると、私の目は、古臭くてうんざりしたものに感じ、私のハートは嫌気がさして、冷笑的になることがあります」 

どうか、他人を監視しようとしないで欲しい。それは、あなたの知ったことではない。彼らが、古いゲームをやると決めたのなら、古いゲームをやることを望むのなら、古いゲームをやることで幸せなら、それに口出しするあなたは、何様か?裁こうとさえするあなたは、何様か? 

絶え間なく、他人を裁こうとするこの渇望は、落とされなくてはならない。それが、他人の役に立つことはない。それは、あなたを害する。あなたを害するだけだ。何で、あなたが悩まされることがある?それは、あなたとは何の関係もない。 

他人が、古いままでいたいのなら、同じ轍(わだち)の中を、相変わらずのお決まりを動きたいのなら、それは、彼らの喜びだ。グッド! それは彼らの人生であり、彼らは自分達のやり方で、生きる権利を持っている。 

どういう訳か私達は、他人が独自のやり方を持っているのを、認めることが出来ない。どうにかして私達は、裁き続ける。ある時は、彼らを罪人と呼び、ある時は、地獄に行くしかないと言い、ある時は、あれやこれやだ、犯罪者だと言う。 

こういった全てが変わったとしても、今度は、彼らが古いゲームをやっていて、「私はうんざりしている」という、新しい評価になる。何であなたが、彼らのゲームにうんざりすることがある? 

彼らがそうしたいのなら、自分のゲームに、うんざりさせてあげればいい。そうしたくないのなら、それもまた彼らの選択だ。どうか他人を、監視しないで欲しい。 

あなたの全エネルギーは、自分自身に焦点を合わせるべきだ。あなたは、自分自身を非難したくないので、ただのごまかしの為に、他人を、その古いゲームで非難しているのかもしれない。それは、常に起こっている。それは、心理的なごまかしだ。私達は、他人に投影している。 

泥棒は、全ての人が泥棒だと思っている。それは彼にとっては、とても自然なことだ。それが、彼の自我(エゴ)を投影するやり方だ。世界全体が悪なのだと感じれば、比べることで、気分がよくなる。 

殺人者は、全世界が殺人者からなっていると考える。それは、彼の気分をよくし楽にさせる。世界全体が殺人者からなっている、と考えるのは、都合がいい。それなら、彼は殺すことが出来るし、罪悪感を持つ必要はない。良心の痛みを、感じる必要はない。 

こうして私達は、自分の中に見たくないものは何でも、他人に投影し続ける。どうか、それを止めて欲しい! 本当に、古いゲームにうんざりしているのなら、これこそが古いゲーム、最古のゲームだ。 

多くの生に渡ってあなたは、それをやって来た。自分の欠点を他人に投影し、気分をよくして来た。そしてもちろん、それは大げさにしなくてはならない。誇張しなくてはならない。 

あなたが泥棒だとしたら、人々は、あなたよりもすごい泥棒だと、他人のイメージを誇張しなければならない。するとあなたは、気分がよくなる。比べてみれば、あなたの方が、ずっとましな人間だ。 

人々が新聞を読み続けるのは、その為だ。新聞は、とても役に立つ。朝早く、お茶も飲まないうちから、あなたは新聞を待っている。そして新聞には、「ニュース」などない。「新しいもの」など、ないからだ。それは相変わらずの、古いくだらない物事だ。 

だが、あなたは気分がいい。どこかで誰かが、人を殺している。どこかでウォーターゲート事件があり、どこかでまた別のことがある。どこかで誰かが盗みを働き、誰かの奥さんが、他の誰かと逃げてしまった・・・こんなことばかりだ。 

その全てを見ることで、あなたは気が楽になる。あなたはこう感じる。「それじゃあ、私はそんなに悪くはない。世界全体が、堕落している。私の方が、ずっとましな人間だ。 

今のところ、隣の奥さんと逃げたりしていない。今のところ、誰も殺してはいない。それを考えることはあっても、人々が、実際にそれをやっているような世界では、考えることなど罪ではないさ」 

あなたは気分がいい。そして気分がいい時には、あなたは同じままでいる。どうか、他人を見ないで欲しい。それが、あなたの役に立つことはない。あなたのエネルギーを、観察を、自分自身に向けることだ。 

そして観察には、何か途方もなく、変容をもたらすものがある。自分自身を観察するようになると、ものごとは変わり始める。 

怒りを観察するようになると、ある日突然、怒りが、以前ほどのエネルギーを持っていないのに気がつく。それはもう、それほど激しくはない。その中の何かが、死んでしまった。 

自分自身を見守るようになると、やがては、否定的なものが死んでゆき、肯定的なものが、ますます生き生きとしてゆくのを、目にすることになる。 

不幸は、消え去りつつある。至福が、生の中に入って来つつある。あなたは、もっと微笑むようになる。ときには何の理由もなく・・・ユーモアのセンスが生まれる。 

見守れば、あなたは、生をもっと陽気に受け取るようになる。深刻さは、ますますそぐわなくなってゆく。あなたは、いっそう無邪気になる。もっと信頼するようになり、疑うことは、ますます少なくなってゆく。 

私は信頼が、常に尊重されるだろう、とは言っていない。いいや、それは要点ではない。あなたは、もっと騙(だま)されるかもしれない。信頼すると、人はもっと騙され易くなるからだ。 

だが、たとえ騙されたとしても、それによって、信頼が破壊されることはない。実際それは、強められることさえあるかもしれない。たとえ騙されたとしても・・・ 

誰かがいくらかのお金を奪い、あなたを騙したとしても・・・こんな風に思うだろう。あなたは自分が、はるかに価値のあるものを守ったのだ、ということが分かる。それは信頼だ。 

そして、ほとんど価値のないもの、お金がなくなった。お金を守って、信頼を失くすことも出来た。その方が、はるかに大きな損失だ。なぜならお金だけで、幸せを見出した者はいないからだ。 

だが信頼のお陰で、人々は、この世の神々のように生きて来た。信頼のお陰で、あまりにも全面的に生を楽しんだ為、人々は、神に感謝を感じることが出来た。 

信頼は祝福だ。お金はせいぜい、多少の安楽をもたらしはするが、祝祭をもたらすことはない。信頼は、それほど安楽をもたらさないかもしれない。だがそれは、あなたに、大いなる祝祭をもたらす。 

さあ、祝祭に対して、安楽を選ぶのはまったく愚かだ。その安楽な生は、安楽な死に他ならないからだ。あなたは楽に生き、楽に死ぬことも出来る。 

だが、生の本当の味わいは、あなたが最上限、最大限に祝っている時、あなたの松明(たいまつ)が、両端からいっせいに燃やされている時、初めて可能になる。 

もしかしたら、ほんの一瞬かもしれない。だがその強烈さ、その全面性、その全体性! そしてこれは、観察によって初めて起こる。 

観察は、変容のための最大の力のひとつだ。自分自身を、観察するようになりなさい。他人を観察することで、エネルギーを無駄にしてはならない。それは全くの浪費だ! 

そしてそのことで、誰もあなたに感謝することはない。それは、報いられることのない仕事だ。そして、あなたに観察される人は、誰であれ不快に感じるだろう。誰も、観察されたくはないからだ。 
誰もが、プライベートな生活を持ちたいと望んでいる。いい人であれ、悪い人であれ、愚かな人であれ、賢い人であれ、誰もが、プライベートな生活を持つことを望んでいる。 

干渉するあなたは、何様だろう? だから、のぞき屋になってはならない。人の鍵穴のところに行って、のぞいたりしてはならない。それは、彼らの人生だ。彼らが古いゲームをすることを望み、それを好むのなら、そうさせてあげなさい!  

だからまず、他人を見るのを止めて欲しい。全エネルギーを、自分自身へと転じなさい。

 

次に、あなたは言う。「それは私が、自分自身のゲームやトリックを、ますます目にするようになったからだと思います。そして頭の中で、狂わせるようなあなたの声が聞こえます。『それでオーケーだ。あなたはただ、自分自身を受け容れ、愛さなくてはならない。何も問題はない』」 

私は、それを繰り返さなければならない。「何も問題はない」、私はこれまで、本当の問題に出会ったことがない。 

そして、私は何万もの人々と、その何万もの問題に、耳を傾けて来たに違いない。私はまだ、本当の問題に出会ったことがない。そして、それがいつか起こるとは思わない。本当の問題など、存在しないからだ。 

「問題」とは、作り出されたものだ。状況は存在するが、問題は存在しない。問題とは、あなたによる状況の解釈だ。同じ状況が、ある人には問題とならず、別の人には問題となるかもしれない。 

だから、問題を作り出すかどうかは、あなた次第だ。だが、問題は存在しない。問題は、「存在」の中にはない。それは、人間の心理の中にある。 

今度あなたが、トリップ(妄想)して問題が起こっている時、ただ見つめてごらん。ただ見守るのだ。脇に立って、ただ問題を見つめなさい。それは、本当に存在しているのだろうか?それとも、あなたが作り出したのだろうか? 

深く見つめると、突然、それが強まっていないのを、それが衰えているのを目にする。それは、ますます小さくなってゆく。エネルギーを観察へと向けるほど、それは小さくなってゆく。そして突然、それが存在しない瞬間が訪れる。あなたは、大笑いするだろう。 

いつでも問題を抱えている時、ただそれを見つめてごらん。問題は、架空のものであり、実在していない。問題のまわりを巡り、あらゆる角度から見つめなさい。 

どうして、そんなものが存在出来るだろう?それは亡霊だ! あなたがそれを望むから、それは存在する。あなたがそれを求めるから、それは存在する。あなたがそれを招くから、それは存在する。 

だが人々は、自分の問題が問題などではない、と言われるのを好まない。人々は、それを好まない。彼らは気を悪くする。あなたが問題に耳を傾けると、彼らはとても気分がよくなる。そして、「そう、これは大変な問題だ」と言えば、彼らはとても幸せになる。 

それゆえ精神分析は、今世紀における、もっとも重要なもののひとつになった。精神分析家は、誰の役に立つ訳でもない。多分、自分の役には立つだろうが、他の誰の役にも立ちはしない。それは無理だ。 

それでも人々は、通って金を払う。それが楽しいのだ。精神分析家は、問題を認めてくれるからだ。あなたが持ってゆくどんな馬鹿げた問題でも、精神分析家は、まるでそれが実在するかのように、とても誠実に、真面目に聞いてくれる。 

あなたが大いに悩んでいるのを、彼は当然のこととして受け止め、それに取り組み、分析し始める。そして、それには数年が費やされる! 数年間にわたる精神分析の後でさえ、問題は解決されはしない。そもそも問題は存在しないのだから、どうして解決など出来るだろう? 

だが、数年にわたる精神分析の後では、あなたは飽きてしまう。そうして、古い問題はやめにする。あなたはいまや、何か新しい問題を望んでいる。それである日突然、「そう、それはもう存在しない。それは消えてしまった」と言う。そして、精神分析家に感謝する。 

だが助けになったのは、癒してくれたのは、たんに時間なのだ。精神分析ではない。だが、ただ待って見守ることを、望まない人々がいるということだ。 

狂った人を禅の僧院に連れて行くと、彼らはただ、その人を僧院から遠く離れた隠れ家に、小さな庵に入れる。そして、その人に食事を与え、「ただそこにいて、静かにしていなさい」と告げる。誰も、その人に話しかけに行ったりしない。 

食事は与えられるし、快適であるよう世話は受ける。だが、誰も彼の相手をしたりしない。そして、精神分析家が3年かかってやることを、彼らは3週間でやる。3週間以内に、その人は、ただ出て来て言う。「そうです、問題は終わりました」 

3週間の間、あなたは問題と共に取り残される。どうやって、それを見つめることを避けられるだろう? そして、どんな分析も与えられない為、寄り道は存在しない。注意をそらされたりしない。 

精神分析家は、あなたの注意をそらせてしまう! 問題は、3週間以内に、ひとりでに死んでしまっていたかもしれない。だが、いまやそれは死ぬことはない。精神分析家の援助のおかげで、それは3年か、それ以上も生き続けるからだ。 

それは、あなたがどれくらい裕福かによる。もし充分に裕福なら、その問題を一生の間、継続することも可能になる。それは、あなたがいくら払えるかによる、という意味だ。 

貧しい人達は、多くの問題で悩むことはない。裕福な人達は、悩む。彼らには、その余裕がある。彼らは、大きな問題を持っている、というゲームを楽しむことが出来る。貧しい人には余裕がないし、そんなゲームを楽しむことは出来ない。 

今度、問題を抱えている時、それを見つめてごらん。懸命に見つめるのだ。分析の必要は、一切ない。分析してはならない。分析は、寄り道の方法だからだ。分析し始めると、人は問題を見つめはしない。 

なぜ、どこから、どのようにして、それはやって来たのだろう?と問い始める。幼年期における母親との関係、父親との関係を、問い始める。あなたは、道に迷ってしまう。もはや、問題そのものを見つめてはいない。フロイト派の精神分析は、全くのマインド・ゲーム、壮大な専門的知識との戯れだ。 

原因を調べてはならない! 原因などないのだから、そんな必要はない。過去を調べてはならない。そんな必要はない。それは現在の問題から、離れてゆくことになる。 

今、ここにあるものとして、それを見つめ、ただその中に入ってゆきなさい。そして、原因や理由について考えないことだ。ありのままの問題を、ただ見つめなさい。 

すると、あなたは驚くだろう。懸命に見つめると、それは消え始める。見つめ続けると、それが消えてしまったのを見る。 

問題は存在しない。それを作り出しているのは、私達だ。私達は、問題なしでは生きられないからだ。それこそ私達が、問題を作り出す唯一の理由だ。 

問題を抱えることは、やることを持つことだ。人は、何かやることがあると気が楽だ。問題が存在しなければ、あなたは、ひとりで取り残される。空っぽになる。次に、何をしたらいいのだろう?全ての問題が終わってしまった。 

ちょっと考えてごらん。ある日、神がやって来て、「もはやどんな問題もない。終わりだ! 全ての問題は消え去った」と言う。あなたはどうする?その日のことを、ちょっと考えてごらん。 

人々は途方にくれ、神に腹を立てるだろう。人々は、「これは祝福などではありません! 私達はいったい、何をしたらいいんですか?問題がないですって?」と言うだろう。 

そんなことになったら、突然、エネルギーはどこにも動いていない。すると、あなたは停滞していると感じる。 

問題は、あなたにとって、活動する為の方法だ。前進する為の、継続する為の、希望する為の、願望する為の、夢見る為の方法だ。問題は、何かに従事したままでいる為の、数多くの可能性を与えてくれる。 

そして何もしていないことが、あるいは何事にも従事していないでいられることが、私が「瞑想」と呼んでいるものだ。 

何事にも従事していない瞬間を楽しんでいる、何もしていない心こそ、瞑想的な心だ。何もしていない瞬間を、楽しむようになりなさい。たとえ問題が存在するとしても・・・ 

あなたはそう感じているし、私は、そんなものはないと言っている。それでもあなたは、それが存在している、と感じているようだから・・・問題を脇へやって、こう言いなさい。 

「待ってくれ! 人生は逃げはしない。人生の全てがそこにある。私は、おまえを解決するつもりだ。だが今この時は、どんな問題にも従事していない、わずかなスペースを持たせてくれ」・・・ 

何事にも従事していない、いくらかの時間を、持つようになりなさい。そして、ひとたびそれを楽しんでしまえば、問題は、自分で作り出しているのだという事実が、分かるだろう。 

それはあなたが、何もしていない瞬間を、楽しむことが出来なかったからなのだ。それで問題が、隙間を埋めていたのだ。自分自身を、見守ったことがあるだろうか? 

部屋に坐っている時、何もすることがないと、あなたはそわそわし始める。不安になり、落ち着かなくなる。ラジオをつけるか、テレビをつけるか、朝から3回も読んだ同じ新聞を読み始める。 

そして他に方法がなければ、再び従事していられるように夢を作り出し、眠ってしまう。あるいは、煙草を吸い始める。それを見守ったことがあるかな?いつであれ何もやることがない時、在ることが、ただ在ることが、とても難しくなる。 

もう一度言おう。アナンド、「何も問題はない」。生の中には、いかなる問題もないという事実を、のぞき込みなさい。 

問題を抱えていたいのなら、それは、あなたの楽しみだ。私の全ての祝福と共に、楽しみなさい。だが真実は、いかなる問題も存在しない。生はまったく、問題などではない。 

それは生きられ、楽しまれるべき神秘だ。問題は、あなたによって作り出される。あなたは生を楽しむことを、生を生きることを、恐れているからだ。

 

問題は、あなたに防護を与える。生に対する、喜びに対する、愛に対する防護を・・・あなたは、自分にこう言える。 

「どうして、楽しむことが出来るだろう?こんなに多くの問題を抱えて、どうして楽しめる?こんなに多くの問題を抱えて、どうして男性、あるいは女性を愛することが出来る?こんなに多くの問題を抱えて、どうして踊ったり歌ったり出来る? 不可能だ!」 

あなたは、歌わない理由を、踊らない理由を、何か見つけることが出来る。問題は、避ける為の、大きな機会を与える。問題をのぞき込むと、あなたは、それが架空のものであるのを見い出す。 

そして、たとえ問題を抱えているとしても、それが本物だと感じているとしても、私は、オーケーだと言う。なぜ私は、オーケーだと言うのか? なぜなら、あなたがオーケーだと感じるようになると、それは消え去るからだ。 

問題に対してオーケーだと言う時、あなたは、それにエネルギーを与えることを、止めている。あなたは、受け容れた! 問題を受け容れた瞬間、それはもはや問題ではなくなる。 

問題が問題であり得るのは、あなたがそれを、拒絶し続けている時だけだ。それはそうであるべきではない、と言う時だけだ。だが、それはそうなのだ。それで、問題は強化されてしまう。 

だから私は、そのように言う。人々が、大きな問題を抱えてやって来ると、私は、「それでオーケーだ。ベリー・グッド、受け容れなさい」と言う。そして、「あなたはただ、自分自身を受け容れ、愛さなくてはならない」と言う。 

そして私には、アナンドがこう言うのが分かる。「それはまったく狂わせます。『それでオーケーだ。何も問題ない』と言うあなたの声が、絶えず聞こえるのです」「『ただ』ですって!?」アナンドは言う。「もしあなたが、この言葉をもう一度口にしたら、私は悲鳴を上げると思います」 

あなたは生涯にわたって、悲鳴を上げている。悲鳴を上げようが上げまいが、それは問題ではない。あなたは生涯にわたって、悲鳴を上げて来た。今に至るまで、他には何もしていない。ある時は大声で、ある時は静かに、だが、いつも悲鳴を上げている。 

私は人々を、そのように見ている。悲鳴を上げている人達・・・そのハートは、悲鳴を上げている。その存在は、悲鳴を上げている。だが、それでは助けにならない。悲鳴を上げることは出来るが、それでは助けにならない。 

悲鳴を上げるよりも、理解しようとしなさい。私が話していることを、見つめようとしなさい。そして、私が話していることは、理論ではない。それは事実だ。私がそう言うのは、私がそうだと、知っているからだ。 

問題なしでいることが、私に起こり得るなら、なぜそれが、あなたに起こり得ないことがある? その挑戦を受けなさい! 私はちょうど、あなたと同じように、当たり前の人間だ。私は特別な奇跡の力など、一切主張してはいない。 

私はちょうど、あなたと同じように、まったく当たり前の人間だ。私とあなたの唯一の違いは、あなたは、自分自身にオーケーと言ってはいないが、私は、自分自身に絶対的にオーケーと言ってしまった、ということだ。それが唯一の違いだ。 

あなたは絶えず、自分を改善しようとしているが、私は、改善しようとしていない。私は、未完成こそ生の有り様だ、と宣言してしまった。あなたは、完全になろうとしているが、私は、自分の不完全さを受け容れている。それが唯一の違いだ。 

だから私には、どんな問題もない。人が、自分の不完全さを受け容れる時、どこから問題が出て来れるだろう?何が起ころうと「それでオーケーだ」と言う時、どこから問題が出て来れるだろう?限界を受け容れる時、一体、どこから問題が出て来れる? 

問題は、あなたが受け容れないことから生じる。あなたは、自分の有り様を受け容れられない。それゆえの問題だ。あなたは自分の有り様を、決して受け容れるつもりがない為、問題は、いつでも存在するだろう。 

自分が、いつの日か受け容れることを、全面的に、自分の有り様を受け容れることを、想像出来るだろうか?もし想像出来るのなら、なぜ今、この時にそうしない?何で待つことがある?誰の為に?何の為に? 

私は、自分の有り様を受け容れた。そして、まさにその瞬間、すべての問題は消え失せた。まさにその瞬間、あらゆる心配が消え去った。それは私が、完全になったということではなく、自分の不完全さを楽しむようになった、ということだ。 

誰ひとり、完全になった者などいない。なぜなら、完全になるということは、絶対的に死んでしまう、ということだからだ。完全など可能ではない。生は、果てしないからだ。完全など可能ではない。生は、どこまでも続いてゆくからだ。それには終わりがない。 

だから、こういったいわゆる問題から脱け出す、唯一の道は、今、この瞬間に直面している生を、受け容れることだ。そして、それを生き、その中で楽しみ、喜びに満ちていることだ。 

次の瞬間は、この瞬間から出て来るのだから、さらなる喜びとなるだろう。そしてその次は、さらにいっそうの喜びとなる。あなたはやがて、ますます喜びに満ちてゆくからだ。それは、改善によるものではなく、瞬間を生きることによるものだ。 

だが、あなたは不完全なままだ。常に限界はある。そして問題を作り出したいのなら、すぐに作り出せるような状況を、常に抱えている。 

問題を作り出したくないのなら、その必要はない。悲鳴を上げてもいいが、それでは助けにならない。それこそ、あなたのやって来たことだ。それは役に立ってはいない。 

原初療法(プライマル・セラピー)でさえ、それほど役には立たない。それは、人々が絶叫するのを許す。そう、それはいくらか気分をよくする。それは、癇癪(かんしゃく)療法だ。あなたは、吐き出すことを許す。それは、いくらか気分をよくする。少しばかり、荷を降ろしたように、軽くなったように感じるからだ。  

だが2,3日のうちに、その多幸症は消え失せる。あなたは、再び同じになる。再び、かき集める。もう一度プライマル・セラピーに出かけてゆき、2,3日の間は、気分がよくなる。そして、また同じことが・・・ 

問題を作るのを止めなければならない、と理解しない限り、あなたは、問題を生み続けるだろう。エンカウンター・グループに入ってもいいし、プライマル・セラピーをやってもいい。何千という、別のグループ・セラピーをすることも出来る。 

そして、どのグループの後でも、途方もなく素晴らしいと感じるだろう。自分の頭の上にのしかかっていた何かを、落としたからだ。だが、それを作り出すメカニズムを、落とした訳ではない。 

あなたは、自分の抱えていたものを落としたが、それを作り続ける製造所、そのものを落とした訳ではない。あなたは、再び作り出すことになる。それは、大して役に立たない。休息期間、休養を与えるにすぎない。 

だが、ものごとを真に理解するなら、それは、問題を作り出すことを止めなくてはならない、ということだ。 

さもなければ、あなたは、あるグループから別のグループへ、ある精神分析家から別の精神分析家へ、ある精神科医から別の精神科医へ、あるセラピーから別のセラピーへと、行くことも出来る。そして、その全てが少々の休息、少々の休養をもたらす。あなたは、また同じことをやっている。 

ここでの私の努力の全ては、問題を、その根元から断つことだ。どうか、問題を作り出さないで欲しい。そんなものはない。実在しない。 

そして最後に、アナンドは言う。「ゴールが存在すると思っていた時の方が、私は幸せではなかったのでしょうか?」 

そう、あなたはより幸せだったし、より不幸でもあった。なぜなら、その幸せは、希望の中に存在していたからだ。それは、本物の幸せではなかった。それで私は、あなたはより幸せだったし、より不幸でもあったと言っているのだ。 

あなたは、この現在においては不幸だったが、未来においては幸せだった。だが、どうやって、未来にいることなど出来る?ゴールは、未来にある。 

あなたは、「ここ」では不幸せ、「そこ」では幸せだった。「そこ」など、実在しない。あるのは全て、「ここ」だ。それは常に、「ここ」だ。あらゆるところが、「ここ」だ! 「そこ」が存在するのは、辞書の中だけだ。 

同じことが、「その時」にも言える。あるのは常に「今」だ。「その時」など、存在しない。そう、あなたはゴールを思い、素晴らしい未来を思う夢の中では、より幸せだった。だがなぜ、人は素晴らしい未来について、考えるのだろう?それは人が現在において、不幸だからだ。 

私は、素晴らしい未来について考えたりしない。私には、それがどのようにして、より素晴らしいものになり得るのか、思いもよらない!どうして今、この瞬間より、素晴らしくなどなれる?どうして「存在」が、この瞬間より、幸せで楽しいものになるというのだろう? 

見つめてごらん。どのようにして、もっと幸せで、喜びに満ちたものになれるだろう?だが、それはトリックだ。またしても、心のトリックだ。現在を避ける為に、私達は、未来を思い続ける。すると、現在を見る必要がなくなる。だが現在こそ、存在する全てだ。 

だから、あなたは正しい。あなたは、より幸せだった。夢の中で、もっと幸せだった。それなのに私は、あなたの全ての夢を破壊してしまった。あなたは、希望の中でもっと幸せだった。それなのに私は、あらゆる方法で、絶望の状態を生み出そうとしている。 

だから、どんな希望も残されていない。私はあなたを、現在へと導こうとしている。あなたは、未来をさまよっていたが、私はあなたを、今、ここに、引き戻そうとしている。 

それは厳しい仕事だ。そして、ゴールを奪い取ることは・・・ 人は、とても腹を立てる。あなた達は私に対して、非常に腹を立てることがある。私は、あなたの希望を、夢を奪ってしまった。あるいは、そうしようとしている。 

だがあなたは、それにしがみついている。自分の希望に、全く夢中になっている。それで私を通して、希望するようにさえなる。あなたは私を通して、希望し始める。「OSHOが、これをやってくれるだろう」・・・ この男は、何もするつもりはない。 

あなたは、このように希望するようになる。「いまや私は、OSHOと共にある。だから、心配する必要はない。遅かれ早かれ、私は光明を得るだろう」 

こんなことは、全て忘れなさい! 光明は、希望ではない! それは願望ではない。未来にあるものではない。 

今、この瞬間に、生きるようになれば、あなたは、光明を得ている。私は毎日、あなたに光明を得させようとしているのだが、あなたは、「明日にして」と言う。「その時」になら、あなたは望むだろうが・・・ 

だが明日は、決して起こらない。今、しかない! 今、この時、光明を得なさい! そして、それは可能だ。現にそうなのだから・・・。ただ惑わされ、自分はそうでないと、思っているにすぎない。 

だから、「どうやって」を尋ねてはならない。「どうやって」と尋ねる瞬間、あなたは、希望するようになる。だから、方法を尋ねてはならない。 

そして、「そうだ、私達はそうなるだろう」と言ってはならない。私は、そんなことは言っていない。あなたは現にそうなのだ、と言っているのだ。 

ソメンドラ! 「ガチョウは出ている」・・・ガチョウは、入ってなどいなかった。人はただ、瞬間において、目を見張っていなければならない。ただ一瞬の油断なさ、ショックにより、あなたは自由になる。 

毎日のように、私は、あなたに光明を得させている。私はあなたが、光明を得ているのを知っているからだ。だが、輪廻(サンサーラ)のゲームをやり続けたいのなら、続けることも出来る。 

確かに、あなたはより幸福だったし、不幸でもあった。私は、あなたの幸福を奪った。あなたはもはや、希望することが出来ないからだ。もう少し私を許すなら、私は、あなたの不幸も奪うだろう。 

だがまず、幸福が去らなければならない。不幸は、幸福を希望することの影として、存在しているからだ。だからまず、幸福への希望が、去らなければならない。そうして初めて、その影も去る。 

悲鳴を上げたければ、そうしてもいい。だが私は、千と一回くり返す。アナンド、何も問題はない。あなたはただ、自分自身を受け容れ、愛さなくてはならない。そう、「ただ」・・・。 

OSHO:「タントラ・ヴィジョン」日本語版、上巻より(星雲社刊)