OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

110.愛と野心

<OSHOの講話より> 

質問:昨日のお話では、野心家は愛することが出来ないとのことです。でも、光明を得たわずかな人達を除いて、私達はみな多かれ少なかれ野心を持っています。だとすると、父や母、息子や娘、夫や妻、恋人や愛する人、宗派や宗教への愛も、同じように穢れたもの、まがいものであり、偽りなのでしょうか? 

愛の中に野心があればあるほど、同じ割合で愛は偽りになる。野心が少なければ少ないほど、愛はよりいっそう本物になる。誰かを愛する時、あなたは愛そのものゆえに愛するだろうか?それとも、そこには別の動機があるだろうか?別の動機がたくさん見つかるほど、愛は少ない。 

「なぜこの人を愛しているの?」と訊かれたら、あなたは何の理由もつけられなくて口ごもるだろう。あなたは言う。「何の理由もないさ、それはただ起こった。探しても、まったく理由は見つけられない。自分でも理解出来ないんだ」覚えておきなさい、愛はまったく理由のない瞬間にのみ降りて来る。理由があるものは俗世に、理由のないものは神性に属している。 

神が存在する理由はあるだろうか?どうかね?少し考えてごらん・・・世界が存在する理由はあり得る・・・私達は「神が世界を創造し、彼はその源だ」と言うことが出来る。だが「誰が神を創造したのか」と訊いてごらん。すると、全ては不合理になってしまう。理由は全くない。世界には理由があるが、神には何の理由もない。 

あなたは商店を経営している。この行為には動機がある・・・それは生活に必要だ。あなたは餓えを満たさなければならない。働いてお金を稼ぐのには理由がある。というのも、お金なしでどうやって生きていくのかね?家を建てるのには理由がある。雨の中や灼熱の太陽のもとで、屋根なしに暮らすのは困難だからだ。 

だが、あなたは愛する・・・その理由は何だろう?愛がなくては生きていけないのだろうか?愛がなくては死んでしまうのだろうか?パンがなくては生きていけず死ぬだろう。では、愛なしで生きていく困難とは何だろうか?あなたは、何百万もの人々が愛もなく生きているのを目にするだろう。それが現実だ。おそらく、愛はいくらか困難をもたらすだろう。でも、愛なしに生きていくのはちっとも難しそうではない。人はお金がなくては生きていけないが、愛がなくても生きていけるものだ・・現に生きている・・・ 

人生で成功している人々は、愛もなく生きている人達だ。愛と成功は馬が合わない。なぜなら成功の為には非情でないといけないが、愛はあなたが非情であることを許さないからだ。愛とお金は同時に達成出来ない。なぜなら、お金を貯めるには暴力が必要だからだ。そして愛は、それほどの暴力には耐えられない。愛と権力の結びつきはあり得ない。なぜなら、権力には気違いじみた猛進や、熾烈な競争が必要だからだ。愛はそれを容認出来ない。 

ナナクが仕事をしないので、父親は心配していた。どこへ連れて行かれても、彼は問題を起こすのだった。ある日、彼はいくらかお金を持たされ、近くの村に買い物に行かされた。彼は儲けることを考えろと言われていた・・・商売とは、まさに利益を追求するものなのだから。ナナクは言った。「心配には及びません。儲けるようにしますよ」 

買い付けが終わりよその村から帰る道すがら、彼は賢者の集団に出会った・・・彼らは3日間、食事をしていなかった。彼は食べ物を差し出し、毛布を配った。彼は買ったものは何でもすべて配ってしまった。そして、とても嬉しそうに踊りながら家に戻った。父親は、彼が踊りながらやって来るのを見た・・・きっと何か間違いがあったに違いない。商売人が踊りながら家に帰るだろうか?それに、彼は品物を持っていなかった。彼は1人で喜びに溢れんばかりにやって来た・・・きっと何か間違いがあったに違いない。 

父親は訊いた。「何があったんだ?儲けはどうした?」ナナクは言った。「言われた通りにやって、たくさん儲けましたよ。3日間、ものを食べていない賢者が何人かいました。私はまるで神その人に遣わされたかのように、その森を通りかかったのです・・・さもなければ、誰が彼らに食べ物を与えたでしょう?誰が毛布を与えたでしょう?それは素晴らしい利益です!私達は祝福されています!彼らの身体に毛布をかけた時、その顔は満足気でしたよ。そして、この奉仕がもたらした利益・・・それは究極の利益をもたらしてくれたのです」 

ナナクの父親は腹を立てた。ナナクの利益に関する考えに納得がいかなかったからだ。そういった種類の利益を「利益」と呼ぶのは不当だった。そこにどんな利益があるのか、父親には理解出来なかった。しかたなくナナクは軍隊長の商店で仕事を見つけた。ナナクは倉庫の管理を任された。1日中、物の重さを量って全員に配るのが彼の仕事だった。だが2,3日もしないうちに、とんでもないことになった。生に愛が訪れると、その人の生をひっくり返してしまう。足はよろめき・・・愛のワインを飲んだ酔っ払いのようになる。 

4日目か5日目、重さを量っていたところ、ナナクは13番目で止まってしまった。パンジャビ語で13はテラと言う・・・それは「あなたのもの」という意味だ。彼は数えた・・・11、12、13・・そして「あなたのもの」という13で止まってしまった。「テラ」と言うと、彼は神性を思い出した・・・「汝」と「汝のもの」。そして、それ以上数えられなくなった。14、15が出て来なかった。そして彼は与え、量り、そして言い続けた。「あなたのもの、さてテラ以外の数があるだろうか?最後の数が訪れた、神が訪れたのだ。その後に何がやって来れるだろう?その前を行くものはなく、それを越えるものもない」テラ・・・究極の可能性が訪れた。 

町中にナナクが狂ったという話が広がった。あいつは前から気違いだったと人々は言った。彼は量り続け、物を求めてやって来る人全てに「テラ・・あなたのもの」と言いながら渡した。彼は与え続け、お金も取らなかった。というのも、それがあなたのものであるなら、なぜ見返りを得るというのか?隊長が走って来た。彼は言った。「私を破産させるつもりか!そのテラというやつで何をしている?テラの後に数があるのを忘れたか?」 

ナナクは秤を置いて言った。「テラの後に数はありません。もうお暇(いとま)しなければ。彼が私を呼んだのです。彼が呼んでくれたので、今理解しました。そうでなければ毎日のように、テラまで来ると次は14、15でした。でも今日、彼の恩寵が起こったのです。もはや、全ては彼のものです・・・この穀物やお金、あなたと私、全てが彼のものなのです。もう量ることなど出来ません。私はもはや彼の手の中、量ることの出来ない手の中に落ちてしまいました。だからテラのところで止まったのです」 

この愛の世界は、どことも異なる世界だ・・・そこには計算がない。野心や利益という思いを持って愛するなら、達成願望や何らかの動機を持って愛するなら、あなたの愛はそれと同じ割合だけ毒されるだろう。だからあなたの愛は幸せをもたらさず、苦悩ばかりが生まれるのだ。あなたの愛のどこに幸福があるだろう? 

妻の愛から、夫はどんな幸福を得るだろう?彼は幸福があるだろうと思っている・・・いや、そう思っていたと言うべきだろう。今では思いもしないが、彼は幸福があるだろうと思っていた。妻もまた、幸福があるだろうと期待していた。彼らはその幻想に取り憑かれ、その期待に取り憑かれ、蜃気楼を追い始めた。 

あなたの関係性には、常に衝突がある。その衝突が洗練されたやり方で起ころうと、洗練されていないやり方で起ころうと、何の違いがあるだろう?それが洗練されていようと、野蛮だろうと、文明的であろうと・・・何の違いがあるかね?それでも衝突は存在し、愛が与える夢は決して満たされない。そして愛の関係性から逃げないとしても、そこで何かを見つけたことにはならない。逃げないとしても、それは同じ理由からだ。 

初日に、私はサミュエル・ベケットの話をした・・・「去るとしても、どこへ行くというのか?」それを捨てないとしても、何かを達成したことにはならない。行く当てもないから、あなたは逃げないのだ。どこへ行こうと同じことが起こるだろう。それなら新しい病ではなく、古い方がましだ・・・少なくとも馴染みがあるし、知っている。あなた方は、あまりにも些細なことで喧嘩をする・・・ 

つい昨日のこと、私はあるエピソードを読んでいた。ある人が友人を昼食に招いた。よくあることだが、人を食事に招くと家庭では諍(いさか)いが始まる。妻が怒り出すのだ。その為11時には用意されているはずの食事は、12時になっても出来ていなかった。そこに友人がいたから彼女は何も言えなかったが、内心では怒っていた。だから料理の時間を引き延ばしていたのだ。鍋は落ち、ドアはバタンと閉まり、彼女は子供達をほとんど全員叩いていた・・・ひどい混沌だった。 

夫もうんざりして、何も言うことが出来なかった。彼はお腹を空かせ、友人も座って待っていた。友人も起こっていることを察していた。ついに彼の妻がやって来て言った。「ねえ、甘いキールがほとんど出来ているんだけど、砂糖がないのよ」夫は思った。「さて新しい問題ときた。11時には砂糖がないなんて言わなかったのに、もう1時だ。俺が出かけて砂糖を買う列に並んだら1日かかるだろう。あいつは1日を台無しにしてしまった・・・友人はそこに座っているというのに」 

友人を見ながら夫は憤慨し、食ってかかった。「砂糖がないなら、俺の帽子でも入れるんだな!」友人は、さあ喧嘩が始まるぞと思った。「とんだところで足止めをくってしまった。そして、もう出て行くことすら出来ない。出て行ったら失礼になる。それにしても、ここは本当に険悪な状態になっている」しかし奇跡的にも、妻は何も言わず静かに立ち去った。だが15分か20分すると戻って来て言った。「砂糖がないわ、どうしてお茶を作れるでしょう?」今度は彼女の夫もさらに激怒した。彼は言った。「さっき俺の帽子を入れろと言っただろ!」妻は言った。「あなたの帽子ならもうキールに使ったわ。さて、お茶には何を使ったものかしら?」 

あなたの教養は全て表面的だ。内側には葛藤があり、内側には深い憎しみがある。憎しみ以上に「あなたは私を騙した。あなたのくれた愛の夢は満たされなかった。あなたは花に覆われた道を約束してくれたのに、せいぜい刺(とげ)しかなかった」という欲求不満がある。父親は息子のことで機嫌が悪く、息子は父親のことで機嫌が悪い。母親は子供のことで機嫌が悪く、子供は母親のことで機嫌が悪い。他人のことで機嫌がいい者は1人もいない。それは愛がないからだ。このいわゆる愛は、他の動機に結びついている。その動機こそが苦悩のもとだ。 
母親は思っている・・・息子が成長したら、自分の満たされなかった野心を成し遂げてくれると。息子は、彼自身の願望によって世に生まれた。あなたの野心を満足させる為ではない。父親は考える。「私は裕福な人間、タータやビルラになれなかった。息子が私の為にそうしてくれるだろう」だが息子は音楽家になりたい。息子はお金に興味がなく、自分は音楽家になりたいと言う。息子は自分の願望によって世に生まれた。 

父親は彼が生まれる前に「お前にこの世の生を授けたら、私の野心をかなえてくれるかい?」とは訊かなかった。そして息子も父親に「僕は自分の願望や野心を抱いて生まれるよ。僕を助けてくれる?生まれてもいい?そうでないなら、ここで関係を断とう」とは言わなかった。 

この関係性は無意識のうちに結ばれるが、両者とも期待に溢れている。彼らの野心は衝突する。なぜなら、他人の野心をかなえる為に世に生まれる者などいないからだ。誰もが自分の野心やカルマの束縛を持っている。誰もが自分自身になる為に生まれる。わずかでも他人に期待を抱いていたら、それは毒のように働くだろう。 

父親にしてみれば、息子は自分を騙しているように見える・・・「私は裕福な人間になりたかった。私はあいつに望みをかけて、一生を無駄にしてしまった。死ぬまでに、私の願いはかなえられるだろうと思っていた。彼はシタールを弾いている!彼は物乞いをするはめになるだろう。私達は裕福になる代わりに乞食になるだろう。歳を取ったら、餓えを満たすのに充分な食事を得られないかもしれない」 

母親は考える・・・息子が成長したら、夫のかなえてくれなかった満たされぬ夢をかなえてくれるだろうと。しかし、息子は別の女性と結婚する・・・すると彼は、彼女の期待をかなえるだろうか、それとも母親の期待をかなえるだろうか?他人の期待をかなえられる者などいるかね?自分の願望は決して満たされることがない。まして他人の願望などは満たせない。 

あなたの愛に野心がある時、これこそが問題なのだと理解しなさい。問題は後からやって来るのではない。その種子は、野望の中に存在しているのだ。このことを考えてごらん・・・父親が息子を愛していたら、何の期待も抱かずにただ「私は幸せだ。なりたいものが何であれ、やってごらん。お前がシタールを弾きたいなら、私は幸せだ。お金を稼ぎたいなら、私は幸せだ。乞食になっても物乞いをするのが幸せなら、私は幸せだ。お前が何になりたくても、私は幸せだ・・・お前を援助しよう」と言うなら、父親と息子の間には、純粋な愛の関係があるだろう。 

愛以上のものを求めるたびに、愛は消え失せる。愛はとても儚(はかな)い。人生において愛の体験が起こると、それはあまりにも至福に満ちた体験だから、あなたはもうこれ以上何かを求めようとはしないだろう。あなたは別のものを求めている。それは、あの愛の体験が起こっていないからだ。ひとたび愛の体験が起こると・・・もはや味わいを知ってしまうと・・・次は祈りへと向かうだろう。祈りは存在との欲望なき関係性だ。 

だが祈る時にすら、そこには期待がある。祈りの中ですら、あなたは何かを求める。あなたは神に言う。「これこれをしてください。こんな風にしてくれたら供物を差し上げます。これをしてくれたら巡礼をします」あなたは幼い子供に対してさえ「言うことを聞かないと神様が怒りますよ。言うことを聞けば神様は喜ぶでしょう」と言う。 

 

こんな話を聞いたことがある。母親が息子を叱っていた・・・幼い少年、多分5歳か6歳だろう。彼はチョコレートを食べ過ぎて、医者にもうこれ以上食べないようにと言われた。「チョコレートはいろんな病気を運んで来るよ」と。そこで母親は彼を叱って言った。「神様はとても怒りますよ。お前は罰を受けるでしょう」彼を脅かしてから、母親は少年をベッドに行かせた。 

彼が行ってしまうと雷が轟き、大きな雷鳴が響き渡った・・・雨季だったのだ。少年は起き上った。母親は、少年が怖がっていないかどうか見に行った。雷鳴はとても大きくて家は揺れていた・・・すさまじい雷鳴だった!彼女は部屋を覗き込んだ。少年は窓のそばに立って神に言っていた。「チョコレートみたいな些細なことで、そんなに騒がないでください。どうしてそれが、全世界を破壊しようとするほど大きな罪なの?」 

私達は幼い子供のマインドさえも、罰と褒美という毒でいっぱいにしている。あなたの天国と地獄とは何かね?・・・それは罰と褒美だろう。あなたが善良なら天国で、性悪なら地獄だ。だから天国へ行きたい者は、善行をしなくてはならない。これが聖者や僧侶達のしていることだ。罰せられ苦しみたくないから、地獄を避けたいから善行をする。 

それこそ、あなたの聖者や僧侶達のしていることだ・・・あなたの聖者や僧侶達は子供っぽい。よくよく観察した上で言うのだが、彼らの知性は物語に出て来る子供のようだ。哀れな弟子達は断食をし、瞑想し、礼拝している。だが彼らの内側では、それは子供っぽい欲望だ。そうすれば神が喜び、天国と解脱があるだろう。良い行ないをしないなら、地獄で焼かれるだろう。煮えたぎった油でいっぱいの巨大な鍋に投げ込まれるだろう。死ぬこともなく、生きることもない・・・永遠に苦しむことになる。 

そのような苦しみを避ける為、神が自分達に気づいてくれるよう、彼らはここで自らを傷つけている。「私達はすでに自らを痛めつけています。地獄へ送らないでください。どれほど断食しているかご覧ください。私達は餓えで死にかけ、眠らず棘(いばら)のベッドに横たわり、水中に立っています。ご覧ください、私達は自らを痛めつけています。自らの罪ゆえに自らを罰しています・・・もう私達を地獄へ送る必要はありません」 

これは彼らの期待だ。宗教とは関係ない。宗教とは欲望なき関係性だ。そこに天国に対する欲望や、地獄に対する恐れはない。天国と地獄は、愚か者の信じることだ。 

祈りは何も求めない。求めることはその中に含まれていない。祈りは純粋な感謝だ。祈る人は言う。「あなたの下さったものは充分すぎるほどです。あなたが豊富に授けてくれたものを享受するのは不可能に思えます。あなたが私に注いでくれたものはあまりにも多く、どうしてこんな小さな身に抱えていられるでしょう?全地球のあらゆる海と湖は、私にふんだんに注がれた甘露(ネクター)で満たされるでしょう」 

祈る人は感謝に満ちている。しかし感謝というものは、現実を見ることが出来て初めて湧き起こる。もし期待を抱き、いかにあるかではなく、いかにあるべきかに目を向け続けるなら、あなたはさらに多くを求めてやまないだろう。 

だからあなたに言うが、あらゆる関係性は有毒だ。その関係性が母親としてだろうと、父親としてであろうと、兄弟としてであろうと、姉妹としてであろうと、夫や妻としてであろうと、友人としてであろうと、民族としてであろうと・・・すべて有毒だ。あなたの愛が、最後は必ず諍(いさか)いで終わるのはこのためだ。国家への愛は戦争で終わる。兄弟の愛は裁判所で終わる。 
知ってのとおり、兄弟ほど争う者はいない。たとえ2人の敵同士だって、兄弟ほど激しく争うことはない。夫婦ほど常に衝突し続ける者もいない・・・敵同士でさえ、それほどの問題はない!1日24時間、問題を起こし続けている妻を上回る者は1人もいない。 

その愛ゆえに地球が地獄となるような愛とは、いったいどんな愛だろう?寺院を愛せばモスクは焼かれ、他には何も生まれない。モスクを愛せば寺院は崩され、他には何も生まれない。インドを愛するなら、あなたはパキスタンを滅ぼすだろう。パキスタンを愛するなら、インドを滅ぼすだろう。あなたの愛によっては何も生み出されないようだ。あなたの愛は、生を豊かにすることを助けるのではなく破壊を助けている。 

このことを正しく理解しなさい。あなたが家族愛と呼ぶものはよくよく観察すると、よその家族に対する憎しみだ・・・あなたは間違った言葉を使っている。「私は家族を愛している」と言う時、それは隣人への憎しみに他ならない。それが全てだ。この憎しみという点で、あなた方はみな合意する・・・それを観察したことはないだろうか? 

町にある私の家の前に、しょっちゅう喧嘩をしている家族が住んでいた。私は子供の頃、ずっと彼らを観察していた。私はひとつ面白いことに気づいた。そしてあらゆる家族にそれがあることを発見したのだが、その手掛かりはまさにその家族から得た。彼らはいつも喧嘩し合う、喧嘩っ早い家族だった。父親は息子を殴り始め、息子は父親を殴り始めたものだ。それは大家族だった。兄弟、叔父と甥、全員が一堂に集まり、通りはごった返していた。狭い通りだったから、何度もふさがれて牛車が通れなかった。すさまじい混沌! 

でも人だかりの中から誰かが仲裁に入り「止めなさい、いったい何を争っているんだ?」と言うたびに、彼らは全員でその人に飛びかかった。彼らは自分達の間の喧嘩を止め、全員が一緒になって部外者を殴るのだった。「なぜわしらの問題に首を突っ込む?これはわしらの諍いだ。兄弟間の諍いなんだ。父親と息子の諍いなんだ」そして私は、家族全員が愛からではなく、他の家族への憎しみから一緒に居ることに気づいた。全員に共通の敵がいるからあなた方は一緒にいる。この敵から身を守りたければ、一緒にいなければならない。 

このことを注意深く研究すると、国家の間にもそれが見られるだろう。インドとパキスタンが戦争すると、全インドは団結する。するとグジャラート人はマラート人と争わなくなり、ヒンドゥ教徒と非ヒンドゥ教徒は争わなくなる。そして突然、諍いは終わる。というのも、今近隣との戦争が起こっているからだ。今や私達は団結し完全に一丸となる。 

インドはパキスタンとの紛争があるたびに団結する。するとタミル・ナドゥとパンジャブ、マイソールとグジャラート、マハラーシュトラとグジャラートの間には何の問題もない・・全ての紛争が止む。そして全インドが兄弟として団結する。パキスタンとの紛争が終結すると、たちまち内紛が再開する。しかも些細なことで争いをする・・・ナラマダ川の水について、あるいは区域や境界線について。あなたは忘れてしまう。するとグジャラート人はグジャラート人であり、マラート人はマラート人であり、彼らは敵同士だ。 

あなたの愛もまた、憎しみの覆(おお)いだ。あなたは自分の憎しみを「愛」と呼ぶ。美しい言葉を使い、その下に醜い事実を隠すのが習慣になっている。人が死ぬと、あなたは彼が天国へ行ったと言う。こうした言葉を使うことが習慣になっている。彼は死んだと言うだけではふさわしくないようだ。「彼は天国へ行った」・・・まるで誰もが天国へ行くかのようだ! 

政治家達も死んだら天国へ行く!やがて全員が死に、彼らはみんな天国へ行く・・・では、誰が地獄へ行くのだろう?死んだ者はみな天国へ行く。人が死んだ途端、あなたはその人の悪口を言わなくなる。死ぬと突然、彼は聖者になる。もはや彼に代わる人は誰もおらず、あなたは彼に敬意を表する。 

あなたは美しい言葉で死を隠している。あなたは死に遭遇したくない。この人は死んだと直接言いたくない。なぜならそう言うと「私も死ぬんだ」という恐れを抱くからだ。あなたは「彼は天国へ行った」と言う。これでいつの日か自分が死ぬ時、自分も天国へ行くのだという深い満足を得る。 

ある人が通りでムラ・ナスルディンに会って言った。「ナスルディン、生きていたのかい?」ナスルディンは言った。「俺が死んだなんて誰が言ったんだ?」彼は言った。「誰も言わなかったさ。でも昨日、町で君が誉められているのを聞いたもんだから、君は死んでしまったに違いないと思ったんだよ。だって、生きている人間を誉める者なんていないからね。きっと君は死んで天国へ行ったんだと思ったのさ」あなたはこのことを知っている、よく知っている。 

町である男が死んだ。その町の習慣として人が死ぬと、火葬の前に町の人が彼を讃える賛辞を述べることになっていた。だがその男は実に性悪で町中を困らせて来た。彼が死ぬと町の人々が火葬の為に集まった。だが彼を讃える言葉を誰が言ったものか?彼らはいろいろ考え、何かひねり出そうと懸命に試みた。演説で人々を退屈させる、たいそうな雄弁家達もいた・・・彼らも懸命に試みたが、この男について語る長所はひとつも見つけられなかった。何もなかった。時刻も遅くなりつつあったが、まだ彼を火葬にすることは出来なかった・・・その習慣は、どうしても行なわないといけなかった。 

人が死ぬと、必ずその人の長所を語る・・・これは死という事実を隠すことにすぎない。ついにひとりの男が立ち上がった。彼がどんな良い言葉を見つけたのか、人々は不思議に思った。彼は言った。「この亡くなって天国へ行かれた紳士には、5人の兄弟がいます。そして彼らに比べたら彼は天使です。まだ生きているその5人の兄弟に比べたら彼は天使です」誰かが良い言葉を言ってくれたので、彼は火葬にされた。 

あなたは死を隠す。憎しみを愛で隠す。あなたは全てを調子のいい言葉で覆い隠すことに長(た)けて来た。さあ、こうした言葉を露わにして物事の現実を見なさい。なぜなら現実を見ることで、生における変容は始まるからだ。憎しみを愛で覆い隠さないなら、あなたは憎めなくなる。なぜなら、憎しみは苦しみしかもたらさないからだ。それは確実に他人を苦しめるが、あなたにも苦しみをもたらす。他人を苦しめる前に、自分自身に苦しみを与えずにはいない。他人の人生を破壊し始める前に、自分自身を破壊せずにはいない。誰かの道に刺を敷けば、それらはあなたの手に刺さるのだ。 

人々はあなたに違うことを言って来た。あなたは、他人の道に刺を敷けば将来あなたは刺だらけの道を歩むはめになると言われて来た。私は違うことを言う・・・他人の道に刺を敷けば、あなたはすでに刺に突き刺されている。私は未来のことを言ってはいない。なぜなら、将来あなたは誰かに賄賂を贈ったり、神に礼拝したり、祈ったりして、逃げ道を見つけるかもしれないからだ。 

誰かを憎むならその結果を得るのは将来ではない、と私は言う。この憎しみは、あなた自身の苦悩の産物だ。あなたはすでに苦しんでいる。あなたは誰かに対して怒り、すでに自分の怒りで自分を焼いている。あなたは怒りによって、すでにハートに傷をつくってしまった。未来など必要ない。古い諺(ことわざ)がある・・・撒いた種は刈り取らねばならない。こう言わせて欲しい、あなたは植えているものを、すでに刈り取ってしまっている。 

生の真理の実態に気づけば分かるだろう・・・誰かを苦しめたいなら、まず自分が苦しまねばならない。毒を与える前に、まず自分がそれを飲まなければならない。誰かを殺す前に、殺人者はまず自殺しなければならない。彼はすでに死んでいる。だからあなたの愛は偽りに違いない。さもなければ、この世は天国になっているだろう。 

木は、その果実によって見分けられる。世のいたるところで誰もが愛している。地球上には何人の人がいるだろう?およそ60億の人々がいる。その愛の絆(きずな)を全て数えたら、愛の関係はその何倍にもなるだろう。ある人は誰かの父親であり、その同じ人は誰かの息子であり、誰かの夫であり、誰かの兄弟であり、誰かの叔父であり、誰かの母方の叔父だ。1人の人が少なくとも20から25の関係性の中にある。 

地球上には60億の人々がいる。この数に25を掛けたら、地球上には1500億の愛の関係がある・・・地球は天国だろう!愛の植物が1500億あるなら、いたるところに花が咲き、あたり一面に香りが広がるばかりだろう。だが現状はその正反対らしい・・・この世は地獄だ。 

こんな話を聞いたことがある。ある男が死んで地獄に連れて行かれた。だが彼の状態を見ると、あまりの悲惨さに悪魔はこれ以上彼を傷つけるのは難しいと思った。彼はすでに充分傷ついていた。悪魔は彼に尋ねた。「兄弟、どこから来たのかね?」男は言った。「地球から来ました」そこで悪魔は命令を下した。「彼を天国へ連れて行け。彼はすでに地獄の苦しみを味わった。どうして今、彼を地獄へ投げ込む意味があるだろう?すでに死んだ者をなぜ殺す?彼を天国へ連れて行くがいい。安らぎと休息をいくらかくれてやれ」 

古い経典には、地球で罪を犯した者は地獄へ行くと書かれている。今や新しい経典が書かれる必要がある。そこには地獄で罪を犯した者は、地球に送られると記されるべきだ。今、全世界は大きな苦しみに満ちている。でもあなたは大きな色眼鏡をかけているから、それが見えない。あなたは愛の眼鏡を通して憎しみを見て、愛国心の眼鏡を通して妬(ねた)ましさを見る。あなたは肯定的な言葉の背後に、否定的なものを隠している。 

野心を捨てなさい。そしてたとえ小さな欠片(かけら)でも、野心にとらわれない愛が残っていたら、それはあなたを救うだろう。野心はあなたを引きずり落とす。この野心の舟がどれほど大きかろうと、それは穴だらけだ。愛はあなたを救う。それが小さなカヌーだとしてもまだ安全だ。愛こそ唯一の安息だ。なぜならいつの日か、愛はあなたを神性へと連れて行くからだ・・・それはあらゆる安息の源だ。 

OSHO:「シャワリング・ウィズアウト・クラウズ」(日本語版)第4章より  (市民出版社)