OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

112.自由と愛

<OSHOの講話より>   

質問:私はある人と付き合っていて、そのパートナーをとても愛してます。でも私はもっと自由が必要だと感じていて、彼女は自分にもっと愛を誓って欲しいと思っています。この関係を終わらせたくはありませんが、どうこの問題に対処していいか分かりません。 

愛の誓いを強要することは出来ない。これは男女関係に深く根ざす問題のひとつだ。男は愛よりも多くの自由を必要とし、女は自由よりも多くの愛を必要とする。これは世界各国の夫婦や恋人が抱える問題だ。 

女性は自由の心配など全くしていない。相手も奴隷に出来さえすれば女性は喜んで奴隷になるし、相手も愛を誓わざるを得なければ女性は喜んで愛を誓う。相手が暗い監房に住む用意があれば、女性は監獄にだって喜んで住む。 

男性は自分の自由がいよいよ危うくなると、愛でさえ犠牲にする用意がある。男性は広々とした空の中で生きたいと思っている。たとえ1人でもその方がいいと。男性は、愛ある温かい暮らしがしたいと思う。しかしその暮らしは暗いものに、女性を監禁するものとなる。これが男性の悩みの種だ。 

このことに両者の理解があれば、どこかで決着は付く。男性が自由への欲求を少々削り、女性が自分への関わりと所有への欲求を少々削れば、フィフティ・フィフティでバランスが取れる。女性側のニーズが50%の愛、50%の愛の誓いとなり、男性のニーズが50%の愛、50%の自由となれば、理解と成長が可能となる。 

あなたが相手に100%愛の誓いを要求し、相手が100%の自由を要求したら、喧嘩や口論、小言が絶えなくなるのは必至だ・・・これでは悲惨だ。そんなことをしても何の意味もない。それなら他の人を見つけなさい。愛を誓いたいと思う人に出会うこともあるかもしれないし、相手も自由を認めてくれる人に出会うかもしれない。 

過剰に関わりを求めるのも、自由、自由と言うのも、どちらも未熟なのだと気づくことだ。人はどこかで折り合いをつけなくてはならない。一度、男性にはもっと自由が必要なのだと理解したら、あなたは愛の誓いを要求するのを止める。一度、女性には深い関わりが必要なのだと理解した男性は、自由を求めるのを止める。それだけだ。 

愛する気持ちがある人は、多少の犠牲を覚悟している。愛する気持ちのない人は、別れた方が良い。自分の成長となる理解を得なさい。 

OSHO:Above All Don’t Wobble より 

質問:円滑な人間関係には、約束(コミットメント)は絶対不可欠でしょうか?人間関係を円滑にするものは何でしょうか? 

それは断然不必要だ!実際、約束があったら、愛の可能性はない。真実は、あなたが信じるよう育てられたものと全く反対、きっかり正反対のものだ。 

私が、約束は断然不必要だと言うのはなぜか?不必要なばかりでなく、はっきりと愛の障害物だと言うのはなぜか?約束が意味するものとは何か?約束とは「自分は今日と同じように明日振舞う」という約束だ。だが、どうやって将来の約束をするというのかね?あなたは生きてさえいないかもしれない。仮に生きていても一変しているかもしれない。たとえあなたが変わっていなくても、他の人が一変しているかもしれない。明日は予測不可能だ。 

約束は不可能だ・・・約束とは嘘をつくことだ!もし何か明日の約束をしたら可能性は2つしかない。あなたは約束を破らなくてはならないか、嘘をつかなくては、偽らなくてはならない。これが世界中の何百万という人々がしていることだ。そうした人達の結婚生活は、ハネムーンが終わった日に終わっている。なのに未だに彼らは一緒にいて、結婚して夫婦を装い「今も愛しているよ」と互いに言い合い、説得し合っている。 

無数の方法で彼らは、自分は約束に忠実だということを証明しようとしている。だが彼らの行動は・・・彼らの顔、実存は、一様に悲しみを示している。愛がもたらすその喜びやダンスは、祝祭はどこにある?彼らの愛はとっくに死んでいる。いつかあの愛が蘇るかもしれないと希望を抱いて、彼らは思い出の中だけで、記憶の中だけで生きている。 

世界中の人々が仮面をかぶり、偽りの顔をして生きている。自分とは違う誰かを装い、するつもりのないことをし、言うつもりのないことを言う。全く狂った世の中だ!こうした狂気に注意しなさい。こうした狂気が発生したのは、私達が約束は絶対不可欠だと・・・ただ必要なだけではなく、絶対必要だと固執しているからだ。 

円滑な関係というのを私は見たことがない。円滑なのは愛だ。しかし愛はしおれやすい。愛は当てにならない。円滑なのは束の間でしかない。だが愛の影響下でコミットすることは出来る。すると人は後悔する。だが後悔してもその約束からは逃れられない。人は約束を守らなくてはならない。一貫していなくてはならない。言ったことは実行しなくてはならない。こうした信念であなたは育てられて来た。あなたの努力は、全て無駄になった。愛に関する限り、円滑なのは束の間だ。当分の間はうまくいくが、どんな関係もうまくいかない。 

関係することに滞(とどこお)りはないが、関係には滞りがある。この違いは理解しなくてはならない。愛が関係になった瞬間、それは束縛になる。束縛されたら、陽気になることや楽しい気持ちになることは不可能だ。義務を果たすことは出来る。だが義務とは醜い言葉だ。義務とは「さあ、捕まえたぞ、やれ」という意味だ。愛はするものではない、それは起こるもの。義務は強制だ。 

OSHO:Zen:Zest,Zip,Zap and Zing より 

社会がもし知性のある人に運営されていたら、人を食い物にしたいと思う人々ではなく、素のあなたを最大限満たしてあげたいと思う人に運営されていたら、嫉妬はないだろう。夫もたまには他の女性が必要なのだと、妻は理解するだろう。「自分が他の男性を必要とするように」と・・・これは全く自然なことだ。私達は皆、人間だ。 

今日あるパートナーとテニスをし、別の日に違うパートナーとテニスをしてどこが悪い?何の嫉妬がある?嫉妬するような問題はない。ただのテニスだ・・・2つのエネルギーの出会いと融合だ。 

嫉妬がない時、怒りがない時、私が話している美質はみな自然に生じる。自由を与える女性、所有しようとしない男性・・・あなたを思い通りに好きなところに行かしてくれる、こうした2人の間に友情が生じないと思うかね?妻に自由を与える夫、夫に自由を与える妻・・・こうした2人の間には必ず、素晴らしい友情、心の通い合った親密な関係が生じる。 

OSHO:From Death to Deathlessness より    

(日本語版、OSHOタイムス、vol.33、市民出版社)