OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

114.愛は最大のセラピー

<OSHOの講話より> 

質問:OSHO、抱きしめることはなぜ、こんなにも信じられないほどに効果のある治療手段なのでしょうか? 追伸。私は明晰性とウィット(機知)と分析がその方法だと思っていました。けれどもそんなものは抱き締めることに比べれば、みんながらくたです。 

人は必要とされることが必要なのだ。それは人間のもっとも根本的な必要のひとつだ。他人に関心を持たれなければ、人は死に始める。自分が誰かに、少なくとも誰かにとっては大切なのだと感じるのでなければ、全生命は無意味なものになる。 

だからこそ、愛は存在する最大のセラピー(治療)なのだ。世界がセラピーを必要としているのは、世界が愛を見失っているからだ。本当に愛に満ちている世界には、どんなセラピーも必要ないだろう。愛で充分だ、充分以上だ。 

抱き締めるということは愛の、温かさの、心遣いの身振りに過ぎない。他人から流れて来る温かさの感じだけで、あなたの中にあるたくさんの病を溶かす。氷のような冷たいエゴを溶かす。あなたを再び子供にする。 

今では心理学者達は、子供は抱き締められキスされなければ何らかの栄養を欠くことになる、という事実によく気がついている。ちょうど肉体が食べ物を必要とするのと同じように、魂には愛が必要なのだ。 

あらゆる肉体的必要と肉体的快適さを子供に与えても、もし抱き締めることをしなければ子供は健全には育たない。彼はどこか内側の深いところで淋しく、世話をしてもらえず、見離されて、無視されたままでいることになる。 

彼は面倒は見てもらったが、母親としての世話を受けなかったのだ。子供はたとえ他のものは全て与えられても、抱き締められないでいると、この世から後退し始める・・・死ぬことさえあり得る・・・ということが観察されている。 

肉体に関する限りあらゆる配慮がなされているのだが、愛がその子を包んでいない。彼は孤立し、存在と切り離されたのだ。 

愛は私達をつなぐもの、愛こそが私達の根だ。ちょうどあなたが呼吸するのと同じように・・・肉体にとってそれは絶対的に不可欠だ、呼吸を止めれば生きてはいられない・・・それと全く同じ意味で、愛は内なる呼吸、魂は愛することによって生きている。

分析にその代わりは出来ない。機知も、明晰性も、知識も、学問もその代わりにはならない。セラピーについて知るべきことを全て知っても、熟練者になっても、愛のアートを知らなければ、あなたはセラピーという奇跡のほんのうわべに留まっている。 

あなたが患者を、苦しんでいる者をかわいそうだと感じ始めた瞬間・・・100人の患者の内90人は、基本的には愛されて来なかったがゆえに苦しんでいるのだ。 

もしあなたが患者は愛を求めているのだと感じ始め、そしてもしあなたがその必要を満たすことが出来れば、患者の状態にはほとんど魔術的な変化が起こる・・・。 

ジグムント・フロイトはひどく愛を恐れていた。彼は自分自身が抑圧して来た愛を恐れていたのだ。彼は自分が何らかの感情的もつれや、深い感情的関わりに巻き込まれるのが恐かった。 

彼は外側にいたかった、誰かと深く関わりたくはなかった、その人の内面の一部になりたくなかった。深みにはまることなく、科学的観察者として超然として、関わることなく、冷静に、遠く離れていたかった。 

それは科学ではない、また決して科学になることもない!それはアートだ。そして論理よりは、はるかに愛に近いものだ。そして本物の精神分析家は、深く患者の内面に立ち入ることを避けはしない・・・彼は危険を冒す。 

それは危険なものだ。荒海に乗り出して行くようなものだ。自分が溺れるかもしれない・・・結局、あなたも人間なのだから!あなたは何かの面倒に、もめ事に巻き込まれるかもしれない。自分自身に何か問題を作り出してしまうかもしれない。だがその危険は冒されなければならない。 

だから私はウィルヘルム・ライヒをとても愛しているのだ。彼こそは患者に巻き込まれるということによって、精神分析というものをすっかり変貌させた男だ。 

彼は診療台を捨てた。あのよそよそしく超然とした態度を捨てた。彼はジグムント・フロイトよりはるかに偉大な革命家だ。ジグムント・フロイトは伝統的なままだった。彼は本当に自分自身の抑圧を恐れていた。 

もしあなたが自分自身の抑圧を恐れていなければ、あなたは途方もない助けになることが出来る。 

もしあなたが自分自身の無意識を恐れていなければ、もしあなたが多少なりとも自分の問題を解決していれば、あなたは患者の世界に巻き込まれ、ただの観察者ではなく、患者の関係者になることによって、非常な助けになることが出来る。 

だが実際は、精神分析家達は自分自身の問題を、それもときには患者自身よりも大きいような問題を抱えているのだから、ジグムント・フロイトの恐怖は理解出来る。 

私に関する限り、私はこれについてははっきりと断言しておきたい。人は本当に覚醒しない限り、光明を得ない限り、本当の真正のセラピストにはなれない、と。ブッダ(覚者)だけが本物のセラピストになれる。 

というのも彼はもう自分の問題を持っていないからだ。彼は患者に融合し、溶け込むことが出来る。実際には彼にとっては、患者はもはや患者などでは全くない。 

それこそが患者とそのセラピストの間にある関係と、弟子とそのマスターとの間にある関係の違いだ。弟子は患者ではない。弟子は愛する人、愛される人だ。 

マスターはたんなる観察者ではない。彼は関係者になっている。彼らはそれぞれの個別のアイデンティティ(自己同一性)をなくしている。彼らは一体になっている。そして、その一体性が助けになるのだ。 

抱き締めるということは、この一体性の身振りに過ぎない・・・身振りでするのだが助けになるのだ。 

プレム・アミダ、あなたの言う通りだよ。あなたはこう尋ねている・・・「抱き締めることはなぜ、こんなにも信じられないほどに効果のある治療手段なのでしょうか?」 

その通りだ、しかもそれは身振りに過ぎない。もしそれが本物なら・・・身振りだけでなく、あなたのハートもその中に込められているなら・・・それは魔術的手段になり得る。それは奇跡になり得るのだ。それは全状況を即座に変容させることが出来る。 

それについて2,3のことを理解しておかなければならない。1つは、子供が死んで人は思春期に至り、それからその思春期が死んで青年になり、それからその青年が死んで中年になり、以後同じようなことが続く、というような考えは誤りだということだ。 

子供は決して死なない・・・何ひとつ決して死なない。子供は他の経験に包まれてそこにいる、常にそこにいる・・・思春期に包まれてはいるが、それから青年に包まれ、それから中年に、それから老年に包まれてはいるが・・・子供は常にそこにいる。 

人はちょうど玉ねぎのようなものだ。皮の上にまた皮がかぶさっている。だがその皮を1枚むけば、その内側にもっと新鮮な皮が現れる。むき続ければもっともっと新鮮な皮が現れる。 

人についても同じことだ。その人の内側に深く入り込んで行けば、いつでも純真無垢な子供が現れる・・・そしてその純真無垢な子供と接触することは治療上のことなのだ。抱き締めることは、その子供との直接的な接触を可能にする。 

もしあなたが誰かを温かく、愛を込めて抱き締めれば、それがたんなる無力な身振りではなく、意味のある心のこもった真実のものなら、もしあなたのハートがそこに流れているなら、たちまちあなたはその子供と、その純真無垢な子供と接触することが出来る。 

そしてたとえ一瞬であっても、その純真無垢な子供が表面に顔を出せば、そこには大変な違いが生じる。なぜならその子供の純真さは、常に健康で完全無欠だからだ。それは決して壊され得ない。 

あなたはかつてどんな破壊も及んだことのない、その人の内奥の核に達したのだ、その処女の核に達したのだ。そしてその処女の核を再び生命に脈動させることが出来さえすれば、それで充分だ。あなたはセラピーの過程をスタートさせたのだ、その引き金を引いたのだ・・・ 

あなたがある人を愛しているなら、言葉で表現するだけでは足りない。言葉だけでは充分ではない。何かもっと実質的なものが必要だ。言葉は抽象に過ぎないからだ。 

あなたは何かをしなくてはならない!手を取りなさい、その人を抱き締めなさい、その人にキスしなさい、その人を抱擁しなさい。それは2人に役立つだろう。 

もし2人が抱き締め合って溶け合うことが出来れば、あなた方は2人とも再び若々しく、より溌剌と、より生き生きとなるだろう。そしてそれこそがセラピーの過程の全てだ。 

プレム・アミダ、分析はマインド(頭)のやり方だ。抱き締めることはハートのやり方だ。マインドこそ全ての病の原因、ハートこそ全てのヒーリングの源泉だ。 

OSHO:The Wild Geese And The Water  (1981,2,14) (日本語版、ラジニーシ・ニューズレター、84号)より