OSHO said

20世紀の覚者、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の講話

115.セラピーグループの目的

<OSHOの講話より> 

質問:セラピーグループの目的は、参加者を自然な自己へと連れてゆくことでしょうか?もしそうだとしたら、自然であろうとする努力は不自然ではありませんか?もしそうでないとしたら、自然と不自然の本質的な違いは何ですか? 

セラピーグループの目的は、参加者を自然な自己に連れてゆくことではない・・・。まったく違う。セラピーグループの目的は、自分の不自然さを見ることができる地点まであなたを連れてゆくことだ。あなたを自然な自己へ連れてゆける人は誰もいない。あなたを自然な自己へ連れてゆける技法やテクニックや仕掛けは何ひとつない。なぜなら、あなたのやることすべてが、あなたをもっともっと不自然にしてしまうからだ。 

では、セラピーグループの目的は何か?それはたんに、あなたが自分の実存のなかにくり広げてきた不自然な様式を、あなたに気づかせるだけのものだ。それはたんに、あなたが自分の生の不自然さを見る手助けをするにすぎない。それだけのことだ。それを見ることで、それは消えはじめる。それを見ることが、それを解消させることだ。というのも、ひとたび自らの実存のなかにある何かが不自然であることを見抜いたら、あなたはもうそれに固執できないからだ。 

そして、何かが不自然だと理解することによって、あなたはほんとうに自然なものを感じ取ってもいる・・・。が、それは遠回しだ、曖昧だ、それははっきりしていない。はっきりしているのはこれ、つまりあなたは自分の内側で何かが不自然だということを見たということだ。不自然なものを見ると、もはやあなたはそれを支持することはできない。それはあなたの支持ゆえに存在していた・・・。あなたの支持なくしては、何も存在できない。あなたの協力が必要だ。 

あなたが協力すれば、何かが存在する。不自然なものは、たしかにあなたの協力なしでは存在できない。それがどこからエネルギーを得るというのだね?自然なものはあなたの協力がなくても存在できるが、不自然なものは存在できない。不自然なものには不断の支えが必要だ。それは絶え間ない世話を必要とする。それは絶え間ない管理を必要とする。一度これは不自然だと見抜いてしまったら、それを握りしめていたあなたの手はゆるむ。あなたの拳(こぶし)はひとりでに開く。 

グループはあなたの拳を開くための仕掛けではない。それはたんに、自分がやっていることが不自然であることを見るための手助けにすぎない。見ること自体のなかに、変容がある。 
あなたは尋ねている。 

「セラピーグループの目的は、参加者を自然な自己へと連れてゆくことでしょうか?」 

いや、それが目的ではない。目的はたんに、あなたがどこにいるかを、あなたが自分自身に対して何をやってきたかを・・・、どんな害を絶えず及ぼしてきたか、そしていまだに及ぼしつづけているかを、あなたに気づかせることにある。自分の存在にあなたがどんな傷をつけているかを。 

傷のひとつひとつにあなたの署名が入っている・・・。自分の署名にあなたを注意深くさせること、それがグループの目的だ。それにはあなたの署名がほどこされている、他の誰がそうしたのでもない。あなたの周囲にある枷(かせ)はすべてあなたの手で創られた。あなたの住む監獄はあなた自身の作品だ。誰もあなたにそれをしてはいない。 

「私が自分の監獄を創りあげているのだ」と気づいたら、あなたはいつまでそれを創りつづけることができるかね?あなたが監獄に住みたいというのであれば、話は別だ・・・。が、誰ひとり、監獄には住みたくない。人々がそこに住んでいるのは、「他人が監獄を創りだしているのだから、仕方がない」と考えるからだ。彼らはつねに責任を他人に転嫁してばかりいる。いつの時代にも、彼らは新しい別の方策を見出してきた。が、その目的は、他人に責任を転嫁することは、変わっていない。 

人間がどんな口実を見出そうとしてきたことか、あなたは驚くだろう。古代には、人はこう考えたものだ。「神が私たちをこのように創られたのだ。だから責任は神にある・・・。私たちに何ができる?私たちはただの被造物にすぎない。私たちは神が創造されたとおりの姿だ。私たちはこの惨めさを生きねばならない。これは運命なのだ」 

それはトリックだ。あなたはすべての責任から自分を解放しようとしている。が、あるトリックが長いあいだ働くと、それは使い古された手法になる。それにはもう効き目がない、人々はそれに飽きてしまう。彼らは新しい概念を探しはじめる。しかし、その目的は変わらない。 

マルクスは言う。それは社会だ、社会の経済機構だ・・・搾取、搾取者たち、帝国主義者たち、資本主義者たち、彼らが害をなしている、彼らが原因だ、と。ふたたびあなたは責任から解放される。だとしたら、どうしようもない。あなたには奴隷状態が課せられている。あなたは惨めにさせられてきた。革命が起こらないかぎり、何も起こらない。だからあなたは延期することができる。 

だが、革命はけっしてやって来ない。それはまだ起こっていない。ロシアにも、中国にも・・・、どこにもだ。革命はけっしてやって来ない。それはたんなる延期だ。人間はロシアでも、他のどの場所にも劣らず惨めだ。他のどの場所にも劣らず精神的苦境のなかにある。嫉妬はロシアにも他の場所と同じくらいある。怒りも同じくらいに、暴力も同じくらいに・・・。何ひとつ変わっていない。 

フロイトは、それは養育のせいだと言う。幼児期にあなたは間違った育てられ方をした・・・。どうしようもない。それはすでに起こってしまった。今となってはやり直す道はない。せいぜいそれを受け容れ、それを生きることしかできない。あるいは不必要に闘いつづけることもできる・・・。が、希望はない。 

フロイトは最大の悲観論者のひとりだ。彼は人間に希望はないと言う。なぜなら、幼児期にパターンが定着してしまうからだ・・・、永久に定着する。その後、あなたはそのパターンをくり返しつづける。ふたたび責任は転嫁される。そうなったら、責任はあなたの母親にある。そして母親は「私だってどうにもならないのよ」と考える・・・。責任は彼女自身の母親にある・・・、そしてこれがどこまでも続く。 

これらはすべて策略だ。が、目的は同じだ・・・。同じ目的のための異なる策略。目的は何か?それはあなたの肩から責任を取り去ることだ。 

グループセラピーは、神に責任があるのでも、社会に責任があるのでも、両親に責任があるのでもないことをあなたに気づかせる。もし、誰かそれに対して責任を負う者があるとしたら、それは「あなた」だ。グループのプロセスはこの単純な事実を・・・、責任を負うのは「あなた」であることを叩き込むことだ。 

そして、この叩き込み(ハンマリング)には大いなる意義がある。なぜなら、ひとたびあなたが、「まさに自分だ、自分が自分を損なっているのだ」と理解したら、そのときには扉が開くからだ。そうなったら希望がある。そのときにはたしかに何かが可能だ。 

革命は責任を、個的な責任を経てこそ可能だ。あなたは変換しうる。あなたはこれらの古いパターンを落とすことができる。それらはあなたの宿命ではない。が、もしそれらを自分の宿命だと認めてしまったら、それらは実際にあなたの宿命になる。それはひとえに、それらに力を貸すか否かの問題だ。 

そしていいかね、私は両親があなたに何もしなかったと言っているのではない。私は、社会があなたに何もしなかったと言っているのではない・・・私はそうとも言ってはいない。社会は多くのことをした。両親は多くのことをした。教育者や僧侶たち、彼らは多くのことをした。だが、依然として究極の鍵はあなたの手のなかにある。 

あなたはそれを現に落とすことができる。あなたはいっさいの条件づけを落とすことができる。彼らが何をやったとしても、あなたはそれを消すことができる。なぜなら内奥の中核において、あなたの意識はつねに自由なままだからだ。責任はあなたにあるというこの真理をはっきり自覚させること、それがセラピーグループの目的だ。

 

「責任」というのは、グループセラピーの過程(プロセス)においてこの上もなく大切な言葉だ。それは痛むがゆえに、誰も責任を取りたがらない。「私の惨めさの原因は私だ」と、その要点を見抜くだけでもとても痛む。誰か他人が原因であれば、人はそれを受け容れることができる。仕方のないことだ。が、もし私の惨めさの原因が「私」だとしたら、それは痛む。それはエゴに背く、それはプライドに背く。 

グループセラピーが困難なプロセスであり、つらいのはそのためだ。あなたは逃れたい・・・。「エンカウンター」から、「タオ」から、「原初療法」から逃げだしたい。なぜあなたは逃げだしたいのだろう?それは、あなたがつねに自分は完璧に正しい、自分は完璧に善い・・・、私に害を与えてきたのは他者だと信じてきたからだ。 

今やことの全体を変えなければならない。あなたはあらゆるものを逆さにしなければならない。誰もあなたに害を及ぼしてはいない。それに、たとえ彼らが何か害を及ぼしているとしても、それはあなたの協力を通してのことだ。だから、最終的には、責任は「あなた」にある。あなたがそれを選んだのだ。 

あなたは言う。「夫が私につらくあたるのです」・・・。が、この夫を選んだのはあなただ。実際、そうであるからこそ、彼はあなたに害を及ぼすことができるのだ。あなたは傷つけられたかった。あなたがこの夫、この妻を選んだのはそのためだ。 

ちょっと、妻を次から次へと取り替える人たちを観察してごらん。あなたは驚くだろう・・・。何回も何回も彼らは同じタイプの女性を見つけだす。同じタイプの女性を見つけだすのはむずかしい。が、彼らは見つけだす。そして6ヶ月も経たないうちに、彼らはまた愚痴をこぼす。そして、その愚痴はまったく同じだ。 

私は8回結婚して、そのたびにどのようにか同じタイプの女性を見つけだした、ある男のことを聞いたことがある。ちょっと要点を見てごらん。その要点とは、彼にはある種のマインド(心理的傾向)、ある種の条件づけがあるということだ。その条件づけのなかでは、決まったタイプの女性だけが彼の心を惹きつける。金髪、あるいはブルーネット・・・、ある種の女性が彼の心を惹きつける。高い鼻、黒い眼、あるいは何かが。かならず彼はある種の女性に引き寄せられる。すると、その女性は同じことをやりはじめる。そうなると彼は当惑する・・・。が、彼は相手を替えたつもりになっていた。 

あなたは女性を次から次へと替えているが、自分のマインドを変えたことはない!だからあなたの選択は昔のままだ。選択する本人が古い人だからだ。それではどうしようもない。あなたは同じ罠(わな)にはまる。そして同じ惨めさが生まれる。 

グループセラピーは理解の大いなるプロセスだ。「私は自分自身に対して何をしてきたのか!」そしてもし、あなたがさらに深く入ってゆけば・・・。そこまでは、まだいかなるグループセラピーも入ったことがない。原初療法でさえもだ。が、仏陀はさらに深く入っていった。彼は言う。もしあなたがある種の両親を選んだのであれば、それもまたあなたの選択だ、と。 

要点を見るがいい。あなたが生まれようとしてさまよっていたとき、何百万もの愚かな人々が愛を交わしていた。だが、それでもあなたはあるカップルを選んだ・・・。なぜか?あなたには特定の観念があるにちがいない。それはあなたの選択だ。それなのにあなたは、「両親が私に悪影響を及ぼした」と言う。 

そもそも、あなたはなぜ彼らを選んだのか?そしてあなたの妻、あなたの夫・・・。あなたは彼らが害を及ぼしたと思うのかね?そして社会・・・、誰がこの社会を創りあげたのか?この社会を創りあげたのは「あなた」だ!それはだしぬけに現われるものではない。

路上の乞食は突然降ってわいたわけではない。「私たち」が彼を生みだしたのだ。あなたが裕福になりたければ、誰かが乞食にならねばならない。それなのに、乞食を見ると、あなたはとても気の毒に思う。あなたは誰を騙そうとしているのか?依然としてあなたは裕福になるという考えを抱いている。あなたが裕福になりたければ、誰かが乞食になる。あなたがひとかどの人物になりたければ、そのときには誰かがその評判、名声を得られないことになる。それは競争の世界だ。あなたは戦争を望んではいない。が、あなたは暴力的だ・・・すべての面で、あなたは暴力的だ。それなのにあなたは戦争を非難する。 

平和主義者たちと彼らの行進を見たことがあるかね?彼らはなんと暴力的に見えることか!彼らの戦争反対のスローガン、彼らの戦争反対の叫び・・・、遅かれ早かれ、行進は暴動と化す。彼らは車を焼き、オフィスを破壊し、バスや電車に火を放ち、警察を襲撃する・・・。彼らは戦争に抗議しに来ていたのだ! 

さあ、どうなっているのだろう?これらの人々は暴力的な人々だ。戦争は口実にすぎない。彼らの抗議は彼らの暴力の表現以外の何ものでもない。彼らは戦争のことなどどうでもいい。彼らはそれを口実として利用している。 

社会はあなたによって創られる。そうしておいてあなたは、責任は社会にあると言う。あなた以外の誰にも責任はない。これは認めるのがもっともつらい真実のひとつだ。だが、ひとたびそれを受け容れたら、それは大いなる自由をもたらす。それは広大なスペースを創りだす。なぜならそれと共に、もうひとつの可能性がただちに開くからだ。 

「もし責任が私にあるなら、私は変えることができる。もし私に責任がなかったら、変えることはできない。私が自分自身にそれを為しているとしたら、それは痛みはするが、新しい可能性をもたらしてくれる・・・。私は自分自身を傷つけるのをやめることができる。私は惨めであることをやめることができる」 

グループのプロセスはあなたを自然にすることではない。それは自分の不自然さ、自分のまやかしをあなたに気づかせることだ。 

「セラピーグループの目的は、参加者を自然な自己へと連れてゆくことでしょうか?」 

いや、まったく違う。その目的はたんに、その不自然な自己を彼らに気づかせることだ。そうすれば、自然な自己はおのずとやって来る。誰もそれをもたらすことはできない・・・。不自然なものが消え失せると、自然なものが見出される。自然なものはつねにそこにあった、がらくたの下に隠されていた。不自然なものが去れば、あなたは自然だ。あなたは自然になるのではない。あなたはいつも自然だった。どうして人が自然になりえよう?「なること」はすべてあなたを不自然へと導く。 

「・・・もしそうだとしたら、自然であろうとする努力は不自然ではありませんか?」 

そのとおりだ、自然であろうとする「努力」はつねに不自然だ。しかし、その不自然さを理解することは、自然であろうと努力することではない。それは単純な理解だ。自分が砂から油を絞り取ろうとしてきたことに気づき、その無益さを見抜いたとき、あなたはその企てそのものを落とす。壁を通り抜けようとして頭を傷つけてきたことに気づき、それを見抜いたとき、あなたは壁を通り抜けようとすることをやめる。あなたは扉を探しはじめる。そう、まさにそれに似ている。 

「・・・もしそうでないとしたら、自然と不自然の本質的な違いは何ですか?」 

自然なものとは、贈り物として・・・全体からの贈り物としてあなたに与えられたものだ。不自然なものとは、さまざまな教え、経典、性格、道徳によってあなたが築きあげたものだ。不自然なものとは、あなたが自然なもの、与えられたものの上に押しつけてきたものだ。自然なものは神から来ている。不自然なものは自分自身から来ている。あなたが自分の上に押しつけたいっさいのものを取り去るがいい。そうすれば、神はあなたの実存のなかで数限りない花をいっせいに咲かせる。 

ある人がイエスに尋ねる。「あなたの基本的なメッセージは何ですか?」すると彼は言う。「鶏、魚、花に訊くがいい」「鶏、魚、花に訊くがいい」と言うことで、彼は何を言おうとしているのだろう?彼は、「自然に訊きなさい!」と言っている。 

私のメッセージはこうだ。自然があなたを乗っ取ることを許すがいい。どんな性格も創ろうとしてはならない。性格はどれも間違っている。性格をいっさい持たずにいるがいい。いかなる種類の人格も創りだしてはならない。人格はすべて偽りだ。人格であってはならない。 

そうすれば、ゆっくりゆっくり、あなたは自己の実存の内奥の中核から何かが生まれてくるのを見るだろう。それが自然だ。その香りはすばらしい。それは善い、けっして悪くない。それは養成されたものではない。まったく違う。それゆえに、そのなかに緊張はない、不安はない。あなたがそれを維持する必要はない。 

真理は維持する必要がない。嘘のみが操作され、維持されねばならない。多くの世話と維持が必要だ。が、依然それらは真理ではなく、真理になることは絶対にない。そして真理のみが解放する。 

ここで参加できるセラピーは、あなたを自然にするものではない。誰もあなたを自然にはできない。神がすでにそれをやっている。問題は、自然になる方法を学ぶことではない。問題は、身につけた不自然さをいかに捨てるかだ。 

OSHO:TAKE IT EASY (日本語版「一休道歌」上巻、めるくまーる社)より